みちる草紙

2001年10月29日(月) 哲郎の思い出

たまに驚かれるが、昔から、何故か他人の誕生日をよく覚えている方である。

小学校に上がると、黒板の上方にトリノコ用紙が横長い帯状に貼ってあった。
それは月毎に区切られ、全員の自画像がそれぞれの誕生月に貼り付けてある。
3月生まれで一番誕生日の遅いアタシの顔は、いつも右のはじっこだった。
毎日のようにそれを見ていたせいか、当時のクラスメートの名前と誕生日は
未だに頭に叩き込まれている。誰かと知り合い、たまたま誕生日を聞くことがあると
あのタイムテーブルが自然と浮かび「あ、あの子と同じ日だ」とか、一々条件反射的に
関連付けがなされ、一度教わると忘れない。他のことはタチドコロに抜けるのに(-_-;)

という訳で、今日は15歳年下のいとこ、哲郎(※本名)の生まれた日である。
叔母は、アタシの母とは5つしか離れていないが、長く子供が授からなかったため
40の声を聞いての初産だった。彼が生まれたその日、高校一年生だったアタシは
授業が終わるなり帰って鞄を玄関に放り込み、病院にすっとんで行った。
菩薩のように穏やかな表情でスピスピ眠る、生まれたての哲郎…(*´ー`*)
指先で顔に触れてみると、熱くてしっとりした皮膚から湯気が立ちそうな感じがした。
これが女の腹の中にまるまる入っていたのかと、驚嘆しながら矯めつ眇めつ。

その後、叔母はうちに哲郎を見せに来ては「おむつを替えさせてあげよう」と言い
アタシは冗談じゃないと辞退したが、子供好きの妹は喜んでやりたがった。
それでも好奇心から抱いてみると、もみじ手をいっちょまえにむすんだり開いたり
短い足をバタつかせてむずかる。妹が抱くとしゅるしゅると静まるのに。
999の鉄郎はメーテルに母の面影をだぶらせていたが、この哲郎ときたら(`◇´)

あれから何年経ったのか… 哲郎もアタシの通っていた高校に入学したという。
もう早10年以上会っておらず、従姉にせくしーなお姉さまがいるという事実を
知っているのかどうかも怪しい。何故なら、母と叔母は年甲斐もない大喧嘩をして
以来10数年、絶縁状態だからだ。互いの気性からして和解の見込みはない。

男で良かったと思うほど不細工な少年だったが、もう色気づいてる年頃だなぁ…。



2001年10月28日(日) 見果てぬポンペイ

今日は“ポンペイ展”の最終日だった。ところが結局出かけずじまい…ρ(。_。)
まだ日数があるうちは「明日こそ行こう」「来週こそ行こう」「今度にしよう」
実際、昨日行こうかと思ったが、たまった家事を片付け、ほんのちょっとだけ♪と
転寝したら午後になってしまい「明日でいいや〜」と、またいつもの悪い癖。
そしたらこの冷雨!最寄駅は歩けば遠いし、そもそも会場のある両国も遠過ぎた。
やっぱり、土曜日のうちに行っておくべきだったなぁ…(-_-;)

宣伝用ポスターで見たのは、パン屋の夫婦を描いたフレスコ画(下図)である。

勝手に失敬した画像(~_~;)σ

黒々繋がった眉に秀でた鼻梁とその明眸。異人種間の混血を覗わせる彫りの深い
風貌は、現代のイタリア人にも受け継がれているのが、容易に認められる。
ローマ統治時代のエジプトでも、ミイラを納めた棺には、顔料を用いた同じ手法で
生前の故人の肖像が、達者な筆で生き生きと描かれていたのを思い出した。
それは中世の画一的な聖人像などと比較しても、遥かに写実的なものであった。

不謹慎だが、ポンペイと聞いてまず浮かぶのは何故か『○門○交図』…|_ー*)
売春が世界最古の職業とは周知の通りで、例えば、古代ギリシアには
さしずめ日本の芸者に相当する“へタイラ”と呼ばれる女性たちがいた。
(“ポルノ”の語源は、ギリシア語の“ポルネ(娼婦)”であるという)
春をひさぐ彼女らの身分は自由市民でこそなかったが、高官たちの酒席に侍り
知的に鍛錬された女も多く、数奇な一生を送ったヘタイラの逸話には事欠かない。
ポンペイの出土品の中に、娼家で繰り広げられる営みを描いた壺があった筈だが
それもこのポンペイ展で展示公開されたのかしら。ちょっと気になる(ー_ー*)

返す返すも今回は残念だったけれど… まぁいいや、いつか現地に行って見れば。



2001年10月27日(土) 南泉斬猫

三島由紀夫 著 《金閣寺》より 以下抜粋

“「あの公案はね、あれは人の一生に、いろんな風に形を変えて、
 何度もあらわれるものなんだ。あれは気味のわるい公案だよ。
 人生の曲り角で会うたびに、同じ公案の、姿も意味も変わっているのさ。
 (中略) 
 何故って、美は誰にでも身を委せるが、誰のものでもないからだ。
 美というものは、そうだ、何と云ったらいいか、虫歯のようなものなんだ。
 それは舌にさわり、引っかかり、痛み、自分の存在を主張する。
 とうとう痛みにたえられなくなって、歯医者に抜いてもらう。
 血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、
 人はこう言わないだろうか。
 『これか?こんなものだったのか?俺に痛みを与え、
 俺にたえずその存在を思いわずらわせ、そうして俺の内部に
 頑固に根を張っていたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。
 しかしあれとこれとは本当に同じものだろうか?
 もしこれがもともと俺の外部存在であったのなら、どうして、
 いかなる因縁によって、俺の内部に結びつき、
 俺の痛みの根源となりえたのか?こいつの存在の根拠は何か?
 その根拠は俺の内部にあったのか?それともそれ自体にあったのか?
 それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、
 これは絶対に別物だ。断じてあれじゃあない』”

何もこのくだりが、先日親不知を抜いたから心に残った訳ではない。
引っこ抜かれてゴロンと転がる歯を「畜生、こいつだったのか〜!!」
と憎々しく見たのは確かだから、それもちょっとはあるけど…(~ヘ~;)

ここで「美」を論った一つの解釈は、確かに置き換えの利く教訓である。
そう、身内を灼き焦がす煩悩という名の憑き物も、咽喉元を過ぎてしまえば
炭化し縮んだ石ころ同然に、ただの無意味になり下がってしまうのだ。
けれど、観念にがんじがらめとなり、実体との境界をわざと定めないまま
虚空を掴む足掻きを、分かっていながら延々止めずにいる自分。

秋風に身震いしながら、アタシも今、お肌の…いや人生の
曲り角にあることを、いやでも意識してしまう所為だろうか。



2001年10月25日(木) 黄昏

サンフランシスコからの客人を出迎えるため、上司に同行し成田空港へ。

ラッシュアワーだったせいか、事前に知らされた便は到着している筈なのに
待ち人はなかなか姿を見せず、プラカードを掲げ立ちつくすこと1時間半。
カートを押しながらぞろぞろ進む大勢の乗客に紛れ、やっと現れたのは
柔和な笑顔を寸時も絶やさぬ、たいそう品の良い老夫婦だった。

Tホテル行きのリムジンを待つ間、上司はご主人と何を話しているのか
妙にウケまくっており、アタシは令夫人と女同士ソファに腰掛け
話題と笑みを無理にも途切らさぬようにと骨折っていた。
夫人は日本語が全く話せないのだが、今回の主要な来日目的は
彼女の水彩画の展覧会であるから、絵画ネタで辛くも間を繋ぐことは出来た。
それにしても、自分に向けられた相手の目から、片時も視線を逸らさず
話を続けるというのは、照れ屋さんのアタシには実に難しい技である(ー_ー*)

徐々に暮れなずんで行く空の色や、眼下を走行する大小の車の群れや
既にびっしり夥しく灯った都会のあかり、それらをぼんやり見つめながら
すり寄せてくる上司の膝を避けるため、無意識のうちに身体を強張らせる。
ふと通路向こうの座席を見やると、件のアメリカ人夫婦は、互いの肩と頭に
顔をもたせかけ合い、ブランケットにくるまって仲良く居眠りをしていた。

この安らかに老いたかに見える夫婦にも、乗り越えてきた困苦はあるだろう。
男と女が添い遂げるとは、惰性で一緒に年を重ねるということではないのだ。

そんな当たり前のことを考えていると、バスに酔った上司がアタシの肩に
もたれかかり、のべつ生あくびをしては強烈な口臭を浴びせかけるので
束の間の感慨は、あえなく意識の彼方に消しとばされたのでありました(-_-;)



2001年10月20日(土) かもめが翔んだ日

天高く澄み切った秋晴れの某日、午前中は供回り視察に奔走した。

業者の展示会を見学し、自社の設営にあれこれ提案(イチャモン)を加え
お追従がてら名刺をばら撒き、お辞儀し倒した挙句、解散に及んで
エラーイ上司に社用車を譲るとあって、東京湾に浮かぶ島に置き去られる。
「タクシーで戻るといいよ」足腰の萎えかかった老人(つまりその上司)は言ったが
そこは広大な埋め立て地、縦横に走る幅広の道路の両側に連立するのは
倉庫や工場ばかり。走り過ぎて行くのも営業車や大型トラックが殆どで
一日佇んでいたところで、流しのタクシーなんぞ絶っっ対に通りゃしない。

日盛りの中、橋下の海面やアスファルトが照り返す日光に目潰しを喰らいつつ
地図を頼りにハイヒールでとぼとぼ歩く。何かやり場のない怒りに燃えて。
太陽は中空にあって、浴び放題の紫外線を避けられそうな陰は全くない。
かもめが海風に乗り1羽、また1羽と、これ見よがしに頭上を滑空して行く。
およそ40分後、ほうほうの態でモノレールの駅に辿り着いた時にはもう、軽い
熱射病状態。両頬がかっかと火照り、日陰が濃緑色に見え光の残像が踊っていた。
なんで今回に限って、社用車が1台しか残っていなかったんだろう(`ε´)

退社後、くたびれて不機嫌なアタシを、同僚が車で送ってくれた。
『どうでした、展示会は』と、ここでこう訊かれてアタシは、私情を交えず平然と
冷静かつ客観的な業務上の話なんか出来るほど大人ではないのである。
そうしていきり立って捲くし立てるうち、目に見えて活力を回復していた。
『元気になりましたねぇ〜( ̄ー ̄)ニヤリ』 Σ( ̄ロ ̄;)あっ…

辺鄙なところまで送らせた謝礼のつもりで、地元のレストランに誘い
食事を奢ることにしたのだが、先に相手が、トイレに立つふりをして
勘定を済ませてしまっていた。車中で渡そうとしても決して受け取らない。
『そんな水臭いことやめましょう、オバチャン同士のお茶じゃあるまいし』
「いえあの、そうじゃなくて、今日は送ってもら…」
『このくらい男が払うもんですよ。今夜はゆっくり休んで下さい』
「………(-_-;)はい、ありがとう」
オバチャンとしては複雑な思いだった。

腹癒せに、会社のおカネでたらふく食べてやろうと思ったのに!(`◇´)



2001年10月18日(木) 紫煙

すぐ近所にタバコ屋ができ、自販機も置かれた。ヾ(@⌒▽⌒@)ノ ワーイ!

今までは、駅上のショッピングモール内の専門店でカートンを買うか
仕事で帰りが遅くなった時は、大抵錆付いたシャッターを下ろしている
バス停前のひっそり小汚い店の自販機まで、わざわざ自転車を駆り
往復5分もかけて買いに行くかしなければならなかった。
それが潰れでもしたのか、ある日忽然と店ごとなくなっていたので
アタシはしばらく難儀することとなる。というのも、夜8時前に
帰宅することは稀だから、ジタンブロンドまでちゃんと置いてある
専門店の営業時間内に間に合わないことが多いのである。
しかも疲れ切っている時は、駅前に並んだ自販機で買い溜めするのも忘れ
部屋で一息ついてさぁ一服という時になって「しまった!Ψ(T◇T)Ψ」

言えた義理ではないが、女性がタバコを喫う姿は恰好の良いものではない。
「さぞかし荒んで見えているんだろう」と思いつつ1本咥え、指先は
同時にもう1本引っ張り出そうとしていたりする。ニコチュー恐るべし。
食料が尽き、いよいよ冷蔵庫に梅干しか残っていないような時でさえ
大儀がって立ち上がろうとしないのに、タバコを切らせた時だけは
台風だろうが大雪だろうが、禁断症状に促されて狂おしく買いに出る。
まだ記憶に新しい、オヤシラズの凄まじい炎症に口が殆ど開かず
食事もままならなかったあの日々、ひたすら煙を吸い込んでは吐いて
胃の腑の空虚を紛らせた(でも痩せなかった)。

この悪習に染まったのは、25歳の時のことである。
遅い反抗期という訳ではない。ウォータービジネスデビューでもない。
あの年、短い筈の夏の夜が、とてもとても長かった。
遊び歩く術を知らず、飲んだくれる術も知らず、泣き疲れ眠ることもなく
流れない時間をやり過ごす些細な何かが欲しくて、手を出した。
そして今に至る。

娘の堕落を、故郷の老いた父母は未だ知らずにいます(´。`)y-~~



2001年10月16日(火) 散り際の王妃

今年もこの日がめぐって来た。毎年10月16日になると
昼時に一瞬の瞑想を行うのが、幼い頃からのしきたりとなっている。
ちょうど終戦記念日の正午、国民が戦死者の霊に黙祷を捧げるのと同様に。
我が国で最も有名なフランス女性の命日、と言えば分かるだろうか。
1793年10月、マリー・アントワネットは断頭台上で刑死を遂げる。
王位を剥奪され、獄舎に囚われ、過酷な裁判の末の死刑判決だった。

まだもの心つくかつかない時分、恐らくテレビでだろうが定かではない。
白黒フィルムで見た、荷馬車で刑場に引かれて行く一人の女性の姿を
漠とだが覚えている。処刑台の階段を、無表情に一歩一歩上りつめるさまを
カメラが追っていた。あれは戦前の映画“マリー・アントワネットの生涯”の
ワンカットを掬ったものに過ぎなかったのかも知れないが、30年近くを経ても
子供心に受けた鋭い衝撃と感銘が、今なお焼き付いたまま褪せずにある。
その後幼稚園から小学校に上がり“ベルサイユのばら”は暗記するほど
繰返し読んだ。特に王妃の最期の場面では、何故か居ずまいを正した。
ツヴァイクにカストロに遠藤周作にと、アントワネット伝を読み漁ったものだ。

何がそこまで少女の心を捉えたのか、実は自分でもよく分からない。
或いは究極のヒロイズム。後世名誉回復を果たし、恐らくは相当に
美化され語り継がれているのであろうその「誇り高き王者の死にざま」に
人々は恍惚と陶酔と、またある種神聖な思いを抱くのかも知れない。
悲劇性と、屈辱を転化した揺ぎ無いプライドと。死出の作法。滅びの美学。
それら全てをまっとうする死に方が出来る人間は多くはない。
(そう言えば、かつての日本人は汚辱よりも誉の死を選んだと言うが…)
現代においては望むべくもない、永遠に失われた大時代的ドラマへの
回帰熱のような気もする。  

因みに、新宿の伊勢丹美術館で『フランス王家 3人の貴婦人の物語展』
を開催中。いつ行こう…休日の伊勢丹は混みそうだからイヤだし。



2001年10月14日(日) チャタレイ夫人の恋人

先週から通勤電車の中で読んでいた『完訳版』“チャタレイ夫人の恋人”
(D.H.ロレンス著)を、洗濯機を回している間に読了した。
不能の准男爵クリフォード卿を夫に持つ、欲求不満の妻コニー。
不貞の妻と別居中の森番メラーズ。貪婪に欲し合う二人の飽くなき性の営み。

ロレンスが描破したかったのは、必ずしも性愛哲学だけではなかったろう。
スターリン主義が台頭する情勢下でのボルシェヴィズム批判、反革命思想が
人物の立場や取り巻く背景環境、主張を通し、切実さを以て語るに落ちる。
が、この恋愛小説を有名にしたのは偏に、50年前「芸術か猥褻か」
を問われ物議を醸した、かの“チャタレイ裁判”である。

猥褻文書として、有罪判決を下されたまま現在に至るこの作品は
つい最近まで削除版しか刊行されていなかったというが、なるほど
女性の水着写真にどよめいていた時代だから「いやーん恥ずかしー(-_-*)」
くらいでは済まないほど、当時の日本人には刺激が強かったのか。
こんな上品な文学的婉曲表現の性描写、今では誰もビクともしやしない。
しかし日本にも、そんな性風俗に辛辣な時代が確かにあったのね。

過剰に謳われ保護される自由表現手段の下、恥の感覚は薄れ麻痺する。
惜しみなく与うは良いが、そんなもの分かりの良い社会においては
アダルトサイトの洗礼が、おしりの青い小中学生にまで易々と及ぶ現代。
「子供は見ちゃだめ」とか「大人になるまでお預け」とか
今どきの子は、ママにえっちな漫画を取り上げられたりしないのかな。
大人の権威が失墜して久しいと言われる中、せめて親の圧力に代わる
世論の倫理は、建前だけでも頑としてあるべきだと思うのだけれど
…もう遅いか。


   INDEX  未来 >


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