HIS AND HER LOG

2006年12月27日(水) 加重さるる天才

「細川」

彼女は彼のことをそう呼ぶ。彼の周りで同じように彼を呼ぶ人間は教師くらいのものだったから、同じ高校生の、それも普段あまり接することのない女子にそう呼ばれるのは、何となく新鮮な気持ちがしていた。確かに、彼女の方が1つ年齢が上回っていて、正式に雇われている訳ではないけれどトレーナーとして部活に参加しているから、それは全く不自然と言うことはないのだろうけれど。

「・・・ども」
「まだやってんの」
「はは、何か体動かしときたくって」
「今日のメニュー消化してんでしょ、雲水じゃあるまいし」
「や、見習おうかなとおもって、雲水さんを」
「何で?」
「オレ、怠けてたつもりはないんスけど、鬼頑張ってた訳じゃない気もして」
「ふーん?」
「次は、負けたくないから」

泥門戦のことを言っているのだ、と小夜は思った。長く天才と呼ばれた彼と、それを負かしたアメフト歴1年足らずの男。あの時、天才細川一休が雷門太郎に負けたあの時、足りなかったのは何だったろう。アメフトへの情熱か、ボールへの執念か、それとも実力か、運か。負けた一休自身は、それは実力の差なのだと思っていた。というよりも、全てが実力で決まるその世界において、それだけで伸し上がってきた彼が、他の要素を原因に見立てることなんて出来るはずがなかったのである。しかし、小夜はそれだけではない、と思っていた。才能を持つ者として常に人に観られ、自らもそれを自負してきた彼のプレイは、非常に精錬され、整ったものであることを彼女は知っていた。彼は、同じ天才である金剛阿含もそうであるが、彼らは、「無駄に足掻く」ことを知らない。他人のそれを目に映したことはあっても、自身の肉体、精神において体感したことがないだ。それが「無駄」だからである。それ故に、彼らは雷門や十文字の「最後の足掻き」を予想出来ず、目の前にいながらにしてタッチダウンを止めることが出来なかった。それは天才である彼らの数少ない弊害であり、それを経験不足の中に含めてしまうのならば、やはり一休の敗北は彼の思う通り実力不足によるのかもしれない。

小夜は座禅の間で同じくトレーニングを続ける男のことを頭に浮かべ、ふう、とため息を吐いた。

「本当は早く鍵閉めちゃいたいんだけど、まだ他にも残ってるみたいだし、10時までなら付き合ったげる」
「え、マジスか!」
「私は重いわよ、筋肉ついてるから!」

に、と笑いながら、小夜は腕立て伏せをする一休の背に片足を乗せる。一休は足の動きに沿って短いスカートが揺れるのを後ろ目に感じながら、そういえば彼女が短パンをいつも仕込んでいるのを思い出し、煩悩退散と念じて彼女が完全に乗り切るのを待った。背中に圧し掛かる、泥門の正トレーナーである彼女の体重分の重みは、同じ泥門の選手に負けた自分には丁度いい負荷かもしれない。一休はそう感じ、小夜の全体重が自分に掛かるのを知ったのち、また腕立て伏せを始めた。

「小夜さん、本当に鬼重いッスねー」
「うっさいチビ」

鍛え方が違うんだよ、と小夜は毒づいて、一休の髪を強く引いた。イテッ、という声と共に崩れ落ちる彼を下にしながら、まだまだしごきがいがあるな、と胸の内で呟くのだった。



2006年12月22日(金) 鶏は三度鳴く

同じ顔をしている、と初めて小夜は思った。自分に馬乗りになって営む阿含の、サングラス越しの目に射抜かれながら、何もかもが正反対な彼と彼の兄のその顔を重ね合わせていた。そうだ、双子だったのだ、彼らは。今更のように思い出して、自嘲に近いため息をつく。何も解かってはいなかったのだと、ただ彼らの周りを通り過ぎただけに過ぎなかったのだと、そう確信し、矮小な自身がひどく情けなくなった。阿含は時々呻くように彼女の名を呼んだり、息を洩らしながら、動物のように腰を振る。その合間合間に小夜を貫きたいがごとくにじっと目を合わせるとき、小夜は彼の瞳の中に雲水を見るのであった。容姿も、性格も全てが相違な彼らの中で、唯一等しい顔のつくり、その中でも特に印象的な強い力を秘めた瞳が、阿含との情交の最中であっても、彼女に雲水を想起させる。なんて事だ、と毒づいてみても、先に均整を崩したのは他ならぬ彼女自身であり、今起こる全ての事象へのどんな悪態も、過去の罪業をもって相殺されざるを得ないのであった。


あの時、阿含は見ていた、そして彼女はそれを知っていた。実際には、それが阿含ではなく、もっと前に別れた恋人であればよかったのに、と小夜はその時思っていたが、阿含がそこに存在することも、あながち意味がないとは思っていなかった。これを期に彼が全てを諦めてくれればいい、と無責任なことを考えていたのである。それは彼女が来るべき数日後にこの国を発ち、事物を風化させるには充分なくらいの時間をおいてしか戻ってこない、という予定された未来に起因しており、気持ちとしてはもうどうにでもなれ、と言わんばかりのものであった。今身体を重ねているこの男も、その弟も、愛すべき元恋人も!向かうアメリカには兄がいる。この世で一番愛しく、美しく、自分の神たる兄が。常に自分を"すくって"くれる兄が。それまでの辛抱だ、もうどうなったって私は知らない。小夜は間違いなく、その時"すくわれ"たがっていた。思うように進まない全てのこと、仲たがい、色恋、天才との約束。何もかもから解放され、自由に泳ぎまわることを望んでいた。だから、彼女にとって、今なされているこの行為はそれらへの憂さ晴らしに過ぎない。そこに多少の恋情と情欲が混じっただけのことだ。そして、彼女の中ではその全ては金剛阿含という男の所為であって、彼女が阿含の透き見を黙認したのも、彼への処罰のつもりだったのかもしれなかった。


計算外だったのは、その1年半後、彼女が再び日本に足をつけるその時まで、彼らの感情が微塵も風化されていないことであった。



2006年12月12日(火) 滑落

後から考えてみれば、その時阿含は非常に油断していた。自分の行い、彼自身にとってはほんの冗談のような、それでいて素直でない彼の好意の表現の一つのような、而して周囲にとっては暴挙でしかなかったその一言が、彼女をどう動かすのか、それを予測しなかった、出来なかったからである。しかし、天才と呼ばれる彼にとってすら唯一掴めない存在である彼女の行動など、もしかしたら誰も予期出来なかったのかもしれない。
ただ、その日小夜が留学のために渡米するまであと数日という立場に立たされており、そして無性に阿含を傷つけたい思いに駆られ、そこに兼ねてから互いに情を移していた雲水がタイミングよく現れた、というだけのことだった。それは偶然と言うには出来すぎた舞台であり、彼女があのように行動するのは、すくなくとも彼女にとっては当然のことであった。ひどく滑らかに、その後一つの過ちになりゆく事象の渦に、彼女はすべりおちた。無論、雲水も阿含も同様である。

「うち、すぐそこなんだけど」

小夜の口からすべり落ちるその言葉を、同じように上から下へ落ちてくる水滴に打たれながら雲水は聞いていた。え、と心の中で呟いて、ああ、とまた心の中でもらした。そしてまるで自然に、うん、と返事をして、無言のまま駆けて行く小夜の背を追った。
つい数分前までは青かったように思った空は今は灰色に侵され、何か、決して善くない何かを、暗示するようであった。それほど強くもない雨の粒が、風のない空間を重力にまかせて地面と事物を打ちつけたが、それから逃げるように足を速める彼らを追うことはなかった。だから、彼らは実際雨から逃げていたのではなく、ただそれよりももっと抽象的で粘着質な、形なき何かから逃げていることを自らの心にも悟られないようにするため、雨を建前上の理由に使ったに過ぎない。愚かと言えば愚かかもしれない、しかしまだ15、6の少年少女にとってはひどく大きなことで、まるで神の目を盗む行為であるかのようだったのだ。
1分足らずで玄関の庇の下に駆け込み、小夜は合鍵を取り出して密室への入り口を解く。どうぞ、と振り向きもせず慣れた家屋に足を踏み入れるが、雲水は気にすることもなかった、彼はこの先の予感をもって、重いドアの鍵を閉めた。

「初めてね、こんな風になるの」
「ああ」
「ずっとこうしたかった?」
「ああ」
「阿含に知られたら、きっと殺されるわね」
「・・・」
「どうする、やめるなら今」

今のうち、と言おうとしたところを、左からの強い力によって小夜は遮られた。夏にしては冷たい床の温度が未だ全身に纏わりつく水滴によって更に彼女の身体を冷やし、しかしそれを中和するかのように内包的な熱が彼女の両肩を縛っていた。目の前の男の瞳には思春期の少年独特のギラギラとした情熱がこもっていて、小夜は自分がそれに中てられたいと思っていることに気付き、自嘲した。この1年半、必死に守ってきたそれがこの瞬間破砕される、一時の自棄的行為がこの先自分を含む何人かの人間を苦しめ苛めるかもしれない。知りつつも、もはや止まることはないのは、彼女の情欲のために違いなかった。

「好きだ」
「・・・」
「好きだ、小夜」
「・・・うん」

雲水の愛欲に歪んだ顔が、小夜の内側をひっかくように刺激して、彼女は理性的思考の扉を閉めた。

「私も」

彼の首に手を回し、自分より硬く締まったその肉体に彼女は初めて触れ、ぎこちなく押し縮められていく空気にのまれていった。

「ん、・・・は、ん、・・・」
「・・・はあ、にのみ、・・・さよ、・・・ん、」

ちゅ、ちゅ、と唇を貪っていくうちに冷たかった床は温くなり、熱くなり、次第にねっとりとした熱気がその場を支配した。彼らの行為を洗い流す雨も既に止んでいて、そこあるのは2人の身体と熱だけだった。


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ハチス [MAIL]

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