ある、晴れた日の午後のことだった、綱吉が獄寺と共にひと仕事終えて自宅に戻ってきたのは午後5時を少しすぎたところ、黒いベンツから降りてみると、玄関の大きなとびらの左半分が全開になっていて、その前には彼の家庭教師、弱冠7歳の家庭教師が、背を向けて立っていた。片方だけとはいえ、彼の家のとびらはとても大きかったので、7歳の小さな少年の向こう側にいる人物の姿をまるまる見とめることが出来た。それは、彼の中高での先輩であり、遠い親類であり、今は彼の元でヒットマンとして生きる女性の姿であった、栗色のウェーブヘアーが夕方のゆるい風になびき、透きとおるような真白の肌は、なぜだか少しきらめいているように見えた。運転席から降りた獄寺が綱吉と同じように彼女に気付き、つぐみさん、と声をかける、綱吉は彼とつぐみが今、恋愛関係にあることを知っていたので、その様子を一歩後ろから見守るように眺めていた。しかし、彼は何も知らなかったので、そのときつぐみが何も言わず走り去ってしまったことも、リボーンが獄寺を名指しで呼んで、共にまた屋敷の奥に消えていってしまったことも、沈む太陽のもとでただ不可解に思うしかなかったのであった。ある、晴れた日の午後のことだった。
つぐみがヒバリに別れを告げたのは、2年前の冬だった。彼の大学受験を見届けてから、彼と共に受けた大学に進学しないこと、イタリアへ渡ること、そこでマフィアとして生きること、そんな話をして、最後に彼と別れることを告げて、逃げるようにイタリアへ渡った。ヒバリは泣きそうな顔をしていた、きっとつぐみの突然の宣言に怒りすら覚えていただろう、しかし、ヒバリはつぐみを責めなかった。なぜ、や、どうして、を何度も何度も吐き出すだけで、つぐみを罵倒することも、抱いて引き止めることもしなかった。つぐみには、それが何よりもくちおしく、腹立たしく、悲しかった、だから、彼女は揺れることなく日本を発った、ヒバリは追いかけてこなかった、その翌年、綱吉や獄寺、山本らが高校を卒業し、イタリアに渡ったときも、そして、それから1年経った今でさえも、彼は来なかった。彼が行かない、とそう言ったのだと、リボーンや綱吉は言っていた。つぐみは、捨てられたのだ、とその時初めて思い、1年ぶりに涙を流し、あの日からちょうど2年経った冬のある日に、彼女はヒバリを諦めた。私たちは「いけなかった」のだ、と彼女は思った。日本にいた頃からつぐみを慕っていた獄寺と、正面から向き合うようになったのは、そのすぐ後のことだった。
白いだけの壁にはさまれたまま、つぐみは走っていた、何も目的がないわけでもなく、何か目的があるわけではなく、ただ走っていた。そして、長い廊下を抜け、外へ繋がるドアを目の前にしたとき、彼女は自分が走っていた目的を知ったような気がした。そこには、今しがた外出から戻ったのか、黒づくめのまだ小さな少年が立っていた。黒いスーツが誰よりも似合うのは、きっとつぐみが思うよりも永い永い間、それに身を包んでいたからで、だからこそ、彼はつぐみにとって、7歳の少年ではなかった、言うなれば、賢者や預言者の類だと心の隅で信じていた。
きっと、彼は何もかも、つぐみは思って、くちびるを噛んだ。
「あなた、知ってたのね」
「何をだ?」
「、獄寺くんのことよ!」
声を荒げてすぐ、つぐみはサッと血の気が引いた、言葉にすると、それはとても残酷で、彼女の細い身を裂くようだった。ゆるされない恋、禁忌の愛、どう言いつくろったとしても、近親相姦なんてうつくしいものではない。つぐみは自分が汚れていると思った、そして、その手で、口で、彼をもまた汚してしまった、と思って、悔しくてたまらなくなった。
「・・・獄寺のこと?なんだ、何の話だ」
「とぼけないで、・・・彼、9代目の、息子なんですってね」
「・・・、ああ」
「それで、私は9代目の孫よね、ふふ、私、獄寺くんの姪っ子だったのよ、」
「ああ・・・」
「・・・ばかみたい・・・!」
そのときが来たのだ、とリボーンは思った。それは、理由のない嘘だった。
つぐみが自分の出生を知った、正しく言えば、思い出した、あのとき、15歳の彼女に、たった一つだけついた、綱吉も、9代目も、彼以外の誰もが知らない、嘘であった。
「つぐみ、お前は、本当は9代目の孫なんだ」
「え、でも、骸は8代目の孫だって、私も、そう呼ばれていたのを覚えてるわ、思い出したの」
「ああ、戸籍上はそうなっている、だが、お前の母親は9代目の娘だ、当時、既に跡目争いの兆しが見えていたからな、9代目はお前の母親を巻き込まないように、8代目の子どもと偽り、籍を入れた。だから、彼女は8代目の娘、9代目の妹として扱われ、お前は8代目の孫ということになっているんだ」
「そう・・・そうなの・・・」
「これは、生きている人間では、俺と9代目しか知らん、・・・他の人間には、言わない方がいい」
「え、どうして・・・」
「9代目により近しい人間だと分かると、面倒だからな・・・ツナも、気にする」
それを聞いて、つぐみは疑うことなく納得していた、広く、それでいて繊細な器を持つボンゴレ10代目候補の彼が、このことを知ったら、動揺するかもしれない、と思ったからだ。他の候補者が現われることで、その当時、まだマフィアのドンになることをためらっていた彼を揺らしたくなかった。つぐみは、沢田綱吉という小さな少年を、ボスにしたかった、そして、その元でファミリーとして生きたかった。彼の燃えるてのひら、太陽のようなてのひらが、以前骸を浄化したように、自分をも救ってくれるのではないか、と思っていたのだった。
だから、彼女は疑うことなく、今までその秘密をかたくなに守り通し、過ごしてきた。また、つぐみが今の今まで獄寺の出生を知らなかったのは、獄寺も、彼女と同じ想いを抱いて胸にそれを秘めてきたからに違いなかったが、そこまで考えることのできる余裕を、つぐみは持たなかった。
目の前のつぐみの顔、怒りと、哀しみと、嘲けりを含んだ引きつった顔を、リボーンは自分への罰のように思った。つぐみの頬に流れた透明のなみだは、彼女の怒りのせいで、 無色ながら燃えているように見えた。
彼は嘘をついたあと、なぜ自分はあんなことを言ったのか、と疑問に思った、そして、その理由を探した。つぐみと獄寺はいとこに当たるが、近親者同士の結婚は遺伝子的によろしくないだとか、そんなようなことを考えたが、とどのつまり、とてもダイレクトな感情で言えば、彼はつぐみを獄寺と一緒にしたくなかったのだった。既にそのとき、獄寺がつぐみに恋慕していたのは知っていたし、そのことを伝え聞いた9代目がそれを喜んでいたのも知っていた、そしてだからこそ、リボーンはそれを阻止したかった。
リボーンは、つぐみを、綱吉や、他のファミリーと同じように、親が子を愛すようには思っていたが、例えば、獄寺やヒバリが彼女を思うようには、愛してはいなかった。だから、きっとその感情は嫉妬ではなかった。ただ、リボーンは死んだつぐみの母親を、誰よりもうつくしい、と思っていた。つぐみは彼女と、口元がよく似ていたが、リボーンの好きだった瞳は似ていなかった、鋭く、ひとの奥深くをのぞきこむような灰色の瞳は、彼女だけのものであった。ゆえに、彼はつぐみを愛さなかった、しかし、つぐみの心が誰かに縛られることを許したくはなかった、その相手が、つぐみの母親を、彼女が日本人とかけおちをするまで、兄妹である以上にひどく寵愛していた9代目のこどもであるなら、なおさらだった。
リボーンはそこまで考えて、思考を放棄した、とても不条理で、滑稽なことに思えたからだった、自己分析なんて性に合わない、とそれまで考えた全てを白紙に戻した。そして待つことにした、いつかこのたわいもない、そう、彼にとっては口をついて出ただけの、実にたわいもないその嘘が、つぐみと獄寺を生きたまま殺す日、そのときを。もしかしたら、気付かぬまま始まり、終わるかもしれない、そうしたら、自分の負けなのだ、でも、もしかしたら、うまくまとまった2人の仲を、これが引き裂くかもしれない、そうなったら、まるで一生をかけた復讐が、果たされるようではないか、彼の脳はそう結論づけて、考えることをやめた。いろいろなことが目まぐるしく彼の頭をかけめぐったけれど、結局彼の嘘は、理由のない嘘であった。
「なんで、だまってたの、どうして言わなかったの!」
つぐみの声がリボーンのなけなしの罪悪感をあおった、彼女の責めは直接リボーンの罪悪に向けたものではなかったが、どっちにしろ、同じことだった。
「知ってると思っていた、お前、知らなかったのか、獄寺がブラッド・オブ・ボンゴレだって」
「しらないわ・・・しらない・・・」
そのとき、ドアの向こうで車のとまるキッという音がして、ドアの開閉音と共に、聞きなれた声がしたのを、2人は聞いた。複数ある声の1つは、きっと、つぐみが今誰よりも聞きたくないものだっただろうことは簡単に予想がついた。
「ただいま戻りました、あ、つぐみさん!」
まだ目に残る涙で、つぐみの見た世界は歪んでいた、その中でやはり歪んで見えた獄寺の姿は、自分の罪を表しているようだ、と彼女は感じた。一方でひどく無邪気に笑む彼が、今、つぐみを何よりも責めさいなんでいる事情を、恐らく知らないであろうことも、彼女は見てとった。無知は罪だ、と彼女は思ったが、知った今がそう思わせるのだ、と思うとやりきれなかった。
「あなたが話して・・・」
そう言い残して、つぐみは抜けてきた白い壁にはさまれた廊下の奥に吸い込まれていった。あなた、と指名されたリボーンは、自らの勝利を彩る最後の仕上げと、奥底で眠る罪悪感を、彼女の願いを果たすことでぬぐい去るために、獄寺の名前を呼んだ。ひどく、澱んだ声だった。
雨の色は何色だと思う、と唐突につぐみは言葉を放つ。それまでの沈黙、それもあまりいい意味ではないそのどろりとした空白を断ち切るには充分なきっかけであったので、獄寺はその言葉を耳に入れ、脳を動かしてみた。雨の色、雨の色、
「透明じゃないですか」
「そうよね、透明よね」
そう言ってまた黙り込んでしまうつぐみを見て、彼女は何が言いたいのだろう、と獄寺もまた考え込んでしまった。雨の色、雨の色、たしかに今、窓の外では大粒の雨が降っていて、それは土砂降りといっても構わないほどの激しさで、そのために自分は彼女の家にいるのだけれど、ああ、だからどうしたというのだろう。
何ごとにも深い理解と論理を求める獄寺が、論理の渦に巻き込まれていくのをよそに、つぐみは首にかけたタオルを弄びながら、窓を眺めていた。いや、正確に言えば、窓の外に見えるはすむかいの家の窓を眺めていた。窓には濃い色のカーテンがひかれていて、その内側を見せることはない。しかし、つぐみはカーテンを開けなくてもその中に何もないこと、誰もいないことを知っていた。なぜなら、その部屋の住人は今、委員会の仕事、という名の粛清を行っているからだ、本人がそう言っていたから間違いはない。それを告げられたのがたった10分前、まだ雨の降る前だったので、彼はバイクにまたがって颯爽と道の向こうに消えてしまった。1時間で戻るよ、とそう言い残して。
ああ、だったらあの窓を見ている意味はない、そう気付き、つぐみはふっと目を窓から逸らす。
「あの、つぐみさん、さっきの質問ですけど」
結局納得のいく答えを出せなかった獄寺が、しびれをきらせて口をきった。つぐみは、既に脳のかたすみに追いやられていたさっきの質問、を思い出して、ばかなことを言ったものだ、と自嘲を含めて微笑った。
「ああうん、いいの、忘れて」
「・・・そう言われると逆に気になります」
「うん、そうね・・・」
既につぐみの気は獄寺から逸れて、また窓のむこうがわに向かっていた。目線を少し左にずらし、今度は聴覚に集中した、彼が帰ってくるあしおと、もといバイクのエンジンの音が聞こえるかもしれないからだ。さすがに獄寺にもそれが伝わったらしく、まゆに皺を寄せる。彼は知っているのだ、目の前の想い人が自分ではない別の男に捕らわれていることを、彼女は以前、その男を自分の半身のようだ、と言っていた。それがたまらなく自分を揺らす。
「つぐみさん」
からだの内のざわめきを見せまいと耐えながら、獄寺はつぐみの名前を呼ぶ、遠慮がちに、それでいて熱っぽい声で。つぐみは逸らした目線をまた目の前の男に戻す。
「なあに?」
「俺、雨の色は透明だと思いますけど、白いといいなって思いますよ」
「・・・どうして?」
「だって、そうしたら、」
あなたは外を見れなくなる、
獄寺がそう言って、前に、自分の方に歩を進めるのを、つぐみはまるで映画の中のスローモーションのようだ、と思いながら見ていた。縮まる距離は侵食に似ていて、つぐみの内側の、今頃、血をこの土砂降りの雨で洗い流しているかもしれない男でめいっぱいに占められているある部分を、じわりじわりと、たとえば、雨が大地を濡らすように、侵していく。不思議といやな心地はしない、1つ心をざわめかせるのは、からだの芯が熱く熱くなっていくことだった。
獄寺の右手がつぐみの左手に触れ、指を絡める。左手を頬に伸ばし、触れたときの獄寺の顔は、同じように迫るときのヒバリの顔とは別の種類のものだ、とつぐみは思った。血液が駆け巡ってからだのところどころを熱するさなか、無意識に獄寺とヒバリを比べていることに、彼女は気付かなかった。その時の彼女の頭の中では、雨の色と、昔話と、獄寺隼人をつなげる作業が必死に行われていたのだ。
「わたしはね、」
いままさに、くちびるとくちびるが触れる過程に入ったところで、つぐみが小さな声でつぶやいた。獄寺は水を差されたような気持ちがしたけれど、彼女の言葉を待った。
「灰色だと思ってた」
雨の色、と言葉をつなげて初めて、獄寺は彼女の言葉を理解した。
「どうして?」
「空が灰色でしょ、だから」
小学生のときの話だけど、とつぐみは目を伏せる。それは愚かで、幼い過ちであった、そして今、また過ちを犯そうとしている、それもいつか、愚かだ、幼かった、と懐古する日が来るのだろうか。雨が灰色ではないと知り、その透明な水滴に濡れるのを恐れなくなったように、このどうしようもない過ちを、わらって話せるようになる日が。そのとき、自分は誰と一緒にいるのだろう。そんなことが、ジェットコースターのように彼女の頭をかけぬけた後、はた、と合った獄寺の目線に、つぐみは困ったような顔をして言った。
「でも、今は白がいいな」
真白な壁で、囲まれてしまえばいい、せめて、バイクの音が雨の音をかきけす、あと1時間先までは。つぐみを想いが伝わったのか、獄寺のくちびるはつぐみに触れた、が、つぐみの想いを知っていたのか、雨はその5分後に止んでしまった。白い水の壁のなくなった後には、また窓から、むかいの部屋のカーテンの濃い色がのぞいていた。