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吐き気がする。こわい。自分の身体が解らない。 漠然とした、しかし明確な恐怖。望まれないというその恐さ。 もしかしたら、HIVに感染しているかもしれないというそれよりも強いかもしれない。今の所の話だが。
2006年09月29日(金) |
人の振り見て我が振り直せ |
愛されたいと望む前にまず己が愛さねばならない。難しいことだ。
今でも変わらずに恋しい愛しい。
元気ですか? 楽しいですか? 淋しくはないですか? 恋人はできましたか? 幸せですか?
愛した貴方。一緒に幸せになれたらと望んだ気持ちは嘘じゃなかった。今も時々夢に見る。
どうしたものか、仕事中だというのに目が潤んでくる。単純に眼の調子が悪いのもあるだろうけれど、もしかして己は弱っているのだろうか。
他愛のない会話。その中で仄めかされる色事の気配。そういうのが毎日続くと結構疲れるのだなあと思った。 自業自得。確かにその通りなのだけれど、流されて寝てしまった相手と連絡をとりつづけるなんてことはなかったから、とても困惑している。
ところでふと気が付いたのだが、彼は大好きだったあの人に似ている。感情を飲み込んでしまうところや自分よりも他人を優先してしまうところが、とてもよく似ている。それから、大勢で遊ぶのが好きで、楽しいのが好きで、笑いが好きなところも。甘えてくる仕草や感触は懐かしささえ感じるほどだ。 思わずあの人の呼び名を口にしそうになる。
考えていると泣きたいような可笑しいような気持ちになって、そうして、己は彼を思い出せないことに気が付く。あんなにも彼無しでは生きていけないと思っていたのに、たった二年で全ては色褪せて遠くへ行ってしまうのだ。
穢れが流れ出ていくように、この澱も流れ出てしまえば良い。 恋愛なんて要らない、そんな風に言えれば良い。身体だけただそれだけ。そんな風に乾いてしまいたい。 人の心は複雑で、そのくせ呆れるほど単純。でも己には他人の心を読む術など無く、推し量ろうとすることももう億劫で、ならば顕れた言動が己にとっての全てにすれば良い。そうすれば期待せずに済む。惑わされずに済む。 そう思ったのに。 惑う。他人の言動が己を惑わせる。独りになりきれない己は、期待している。惑うことを望んでいる。
惑わないと口にしなければ傾いてしまう。縋り付きたくなってしまう。 この甘えを断ち切りたい。
少しずつ間隔が短くなっていく。 目覚めたら何でもなくなっている。そんな日も近いかもしれない。
色眼鏡を通すという表現に違和感がある、と書いた。それについてメールを戴いて、ずっと考えていた。 例えば食事。 己一人ではそれはただの行為であって、ほとんど楽しむと言うものではない。カロリー摂取のためにある。それがホテルの食事でも、クラッカーでも、己にとっては同じことだ。もちろん味は分かる。美味しいとも不味いとも思う。でもただそれだけだ。 誰かといて初めて食卓を囲む食事となり、私は味以外の意味をそれに付与することが出来る。 つまり、味は変わらないと言う点で「bias」とも少し違うのではないかと己は思うのである。偏ってはいない。もともとの味が変わるわけではない。食事という行為に楽しみや味わいを与えてくれるものが他人なのだ。 そもそも己には味に対して意味を感じない。芸術に対しての意味を感じない。だからそれに対して感銘を受けると言うことがほとんど無い。内側から何かを創造できない。そういう人間なのだとここ数年で思うようになった。 でもそこで誰かを通して何かを見るということもない。私が見ているのは結局の所その誰かなのだ。
色々破綻している気がするが、とりあえず今の感想。
メールを貰った。 一瞬首を傾げて、それから吃驚して、なんだかニヤニヤして、小躍りした。すごく嬉しかった。 最近人との出会いやコミュニケーションが増えていて、そういうのがすごく嬉しい。
己は他人に依存して生きているということを自覚している。誰かと繋がっていないと不安で寂しくてたまらない。慣れればそれも何でもないことになるのだが、大学時代の真綿に包まれたようなあの空気に馴染んでしまってからはそれが辛くて辛くて仕方なかった。 メールや電話を待ってしまったり、会いたいと思ってしまったり、そういうことが今でもある。SNSもほとんど中毒になってしまっているのを考えると、己は本当に距離のとり方が下手なのだなと失笑する。 意識的に他人と距離をとる。誰のことも特別に好きではない。積極的に動かないで、受身でいる。そう言い聞かせて言い聞かせてようやく己は立っている。
誰に向けるでもなく、でも誰かに向けて、書いていた文章。己の感情の鬱々とした部分。喜びよりも悲しみや怒りに塗りつぶされた文章。 それでも、「読んでいる」と、「好きだ」と、そう言ってもらえたことがとても嬉しかった。
すごく色眼鏡を通すんだねえという言葉に少し違和感があった。 「色眼鏡」とは「偏った物の見方。先入観にとらわれた物の見方。」という意味らしい。「偏っている」を意味するのか、と推測する。 偏っている?確かにそうかもしれない。何を見ても何をしても、一人では何も響かない。そういう人間もいる。一人では食事すら満足に味わえないそういう人間もいる。己のように。 そういうのを偏っているというのだろうか。ちょっと違和感があった。
人を好きな筈なのに何でか物凄く面倒になって放り投げたくなる。 淋しいのに逃げ出したくなる。一人では出掛けることも、外食もままならない人間だと言うのに。 そういえばそもそもそう思い始めたのはいつだろう。
繋いだ手をそのまま自分のものに出来たら良いのに。 そう思った夜の道。
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