夜行高速バスで新宿駅西口に着きそのまま埼京線に乗り換えて「さいたま」に戻りました。足の「肉刺」はかなり酷い状態になっていました。靴下を上手に履いていれば長距離歩行では「肉刺」は殆ど出来ないのですが、「雨」に濡れて足の皮膚がふやけてくると直ぐに「肉刺」ができます。皮膚がふやけて弱くなることに加えて、靴・靴下との皮膚の摩擦が大きくなるので肉刺が出来やすくなるのでしょう。
10日以上遍路をすると1日くらいは「雨」が降りますから、その度に「肉刺」を作っていたのでは溜まりません。次の遍路の機会までになんとか雨対策「肉刺編」を考えておかなくてはなりません。防水靴という手段があるのでしょうがどれくらい効果があるのでしょうか。遍路解説書には「靴には金を惜しむな」と書いてありますが、その通りなのかもしれません。
2015年09月25日(金) |
遍路最終日「第44番大寶寺」 |
朝6時前に「民宿シャロン」の近いサンクスで朝食と昼食兼用で「お結び」を買っていると、津島町の三好旅館で別れた横浜の青年遍路と偶然出会いました。彼は私より先を歩いていただけに、昨日(午前中の雨の中)追い付いてきたことにビックリしていました。買い物を先に済ませ私が先に出発しました。彼とは「第44番大寶寺」で再び出会いました。
今日のスケジュールは「民宿シャロン」から「大寶寺」まで約35Km歩き、大寶寺のある熊高原町のバス停から3時45分発のJRバスで松山駅に移動し、松山で「JR」か「伊予鉄」の夜行高速バスを使って新宿に戻ることになっています。秋の連休直後の通常の金曜日なのでバスには空き席があるだろうと考えバスの予約はしませんでした。
今日の遍路道の後半には峠越えがニ箇所ありました。内子町と久万高原町の境にある「下坂場峠(標高570m)」と久万高原町の「鴇田(ひわた)峠(標高790m)」です。この最後の「鴇田峠」はかなりキツカッたです。それでも天候が良かったこともあって予定通り午後2時ごろには大寶寺に到着することができました。
久万高原町は南北に国道33号線が走っています。この国道をそのまま北上すると松山市に至ります。国道沿いの「久万中学前バス停」から松山駅までは約1時間の乗車で料金は1380円。次の遍路では全く逆に新宿から松山市に入り松山から「久万中学前」に移動することになります。
松山には複数のバス路線が一点に集まるようなバスターミナルはありません。JR高速バスの久万高原行バスに乗車するにはJR松山駅が便利ですが、新宿から走っている伊予鉄高速バスは伊予鉄のターミナル駅松山市駅が便利です。JR松山から松山市駅までは市電で5分(160円)かかります。松山から新宿へのバスとしてはJR高速バス(12400円)と伊予鉄バス(12300円)の二つの高速バスが走っています。
松山駅まで行ってJRバスのチケット売り場で問い合わせてみると今晩のバスは若干狭い席が二つだけ残っているとのこと。この情報を得てから松山駅構内の旅行代理店で伊予鉄バスの状況を聞くとまだ大分席が余っているとのこと。ということで伊予鉄バスのチケットを買い求め、市電で松山市駅に移動しました。松山市駅近くで夕食を済ませ夜行高速バスに乗り込みました。伊予鉄バスは空席が多かったのでゆったりした気分でぐっすり眠ることが出来ました。伊予鉄バスの運転は春の「海部観光」レベルに近く非常に静かでした。
2015年09月24日(木) |
第43番明石寺から内子町へ |
今日は天気の回復状況を見てどこまで歩くのか決めることにしました。昨日昼頃まで好天気に恵まれた遍路だったのですが、夕方から天気が崩れ始めて夜には大雨となってしまいました。遍路は雨の中でも雨具を着けて歩くのですが、雨の中の歩行は靴下が濡れて「肉刺」が出来やすくなり、その肉刺の痛みによって歩行距離はだんだん短くなっていきます。できたら避けたいものです。
今日以降も雨が降り続くようであれば約30Km先の「大洲市」まで歩き、大洲市で今回の遍路を区切り「八幡浜市」発の伊予鉄道の夜行バスに乗って新宿に戻ることも考えました(案1)。一方、天候が回復し今日明日も長距離歩けるようであれば、もう一泊して約75Km先の「第44番大寶寺」まで歩き、そこで遍路を区切ろうというのが第2案です。これは八十八箇所の半分の四十四番まで辿りついて置きたいという単純な発想です。
このどちらにも対応できるように「とうべや」ご後主人には朝食を「お結び」に代えて貰って昨日中に準備をしておいてもらいました。今朝天候が回復していたなら出来るだけ早く宿を出発できるようにと考えました。朝4時半頃に眼を覚ましました時には外は「土砂降り」でした。物凄い音を響かせて大粒の雨が降っていました。これでは「案1」でも難しいかもしれないという懸念も過ぎりました。
しかし朝6時過ぎの天気予報によると愛媛県西部の「大雨」は今日の午前中には峠を越して午後からは雨が止みそうだとい話が出てきました。そして朝7時過ぎには雨の勢いは少し弱くなってきました。これは「運」が向いてきたと考えて7時30分には宿を出発しました。宿のご主人は「本当に大丈夫なの」という風な顔付だったので、雨が再び酷くなれば引き返すことも考えている旨お話して出発したのでした。
私の予想は見事にあたり、雨脚はどんどん弱くなっていき午前10時近くに雨が止んだのでポンチョを脱ぐことが出来ました。このポンチョはひじょうに便利でリュックとともに上半身を雨から守ってくれました。しかし問題は膝から下でした。昨日夜から降り続いた雨で山間の遍路道は「臨時の川」のような様相を呈していました。ポンチョでカバーされない雨はどんどん靴に流れ込むし、川のような遍路道では当然靴はびしょ濡れになります。予想通り両足には「肉刺」が出来始めました。
雨が止んだので今日のスケジュールを確定することにしました。大洲市で遍路を打ち上げるのではなく第44番まで足を延ばすというものです。しかし朝6時前に出発していれば問題ないものの、今日は雨が小降りなるのを待っていたため1時間以上出発が遅れてしまったことです。「第44番大寶寺」までの77Kmの道程を二日で歩くには今日中に「内子町」まで行っておきたいのです。距離は約40Km。夜遅くなって着いてもよいように内子町の「民宿シャロン」に素泊まりで宿を確保しました。
遍路道が内子の街を通り抜けていました。内子の街には「内子座」という古い歌舞伎劇場があります。この劇場は大正天皇即位をお祝いして当時の有志が建設したもので来年が丁度建設100周年となります。国の重要文化財に指定された立派な建物です。こういう形で後世に文化財を残す先達がいるのはうらやましい限りです。
「とうべや」から約40Km歩いたのですが、朝の雨と途中の山間の遍路道に雨水が流れていたことで靴の中はびしょ濡れとなっていました。「民宿シャロン」では500円で洗濯をしてもらったのですが、ズボン・靴下に加えて汚れた「靴」も洗って頂き、靴の中に新聞紙を詰めて乾かしてくれました。明日は遍路最終日となるのですが、最終日に濡れた服とか汚れた靴で歩くのは辛いものですし、第44番大寶寺の後に新宿まで高速バスに乗ることとなるので、綺麗に洗濯してもらったことは非常にありがたかったです。
2015年09月23日(水) |
第41番龍光寺、第42番仏木寺 |
今日は津島町の「三好旅館」を出発し第41番の龍光寺、第42番の仏木寺を打ち、仏木寺近くの民宿「とうべや」さんの泊まっています。歩いた距離は30km弱で午後3時30分過ぎには宿に着くことができました。国道56号線「松尾阪トンネル」を回避して古い遍路道を選んだのですが、これが予想したほど厳しいものではなく、すんなりと歩くことできたので、道中ずっと快適な歩きができました。歩き遍路開始後10日程過ぎると身体が長距離歩行になれてくるもののようです。この感じだと40Kmもそれほど大変だとは思えません。
今日お参りした第41番龍光寺大変地味なお寺でした。参道の正面にはお稲荷さんが鎮座しているため赤い鳥居が遠くから見えます。寺に山門等の門はありません。お稲荷さんの左に本堂があり右側に太子堂があります。お遍路はお稲荷さんにはお参りせずに左右の龍光寺にだえお参りします。何か変な感じがしました。
一方そこから3Km程離れた第42番仏木寺は大変綺麗なお寺でした。作りも新しいのですが、それなりに風格があり落ち着いたなお寺さんでした。今日の宿の「とうべや」も非常に小ぎれいな民宿です。作りが新しく清々しい感じです。ネット上では人気のある民宿なので満員かと思っていたら客は私一人でした。連休最後なので今日まで遍路している人は少ないようです。
今日の遍路道は宇和島の街中を通過しました。宇和島市は今年宇和島伊達家400年祭りの年にあたり市内各所に記念祭りのポスターが貼ってありました。宇和島市内の伊達家屋敷を博物館に改装した「伊達博物館」でも400年記念展示をしていました。400年前の1615年は大坂夏の陣で「豊臣家」が滅亡した年です。この大坂夏の陣で活躍した伊達家は恩賞として宇和島10万石を徳川家康から与えられました。初代藩主は正宗の長男「伊達秀宗」です。長男は秀吉の「秀」を賜っています。そして徳川二代将軍秀忠の「忠」を賜った次男の「忠宗」が仙台伊達を継承しました。興味の尽きない「宇和島」でした。残念ながら詳しく散策する時間はありませんでした。
今晩の宿の「とうべや」さんは若い頃地質調査関係の仕事で全国の宿を「泊まり歩いた」というご主人が一人で運営されている「宿」です。嘗てのネット情報では山から「狸」が家族で下りてきて「とうべや」の庭先で餌を食べる光景を見ることができる宿として有名でした。現在は猪が出没するために猪狩りが行なわれ、それに連れて狸も近づかなくなったとのことでした。その代わり近所の猫(野良)が毎日やってきます。
遍路開始以来続いた晴天も今夜から崩れ出しそうです。夕方頃から雨が振り出しました。天気の崩れは「遍路」の大敵です。そろそろ今回の遍路切り上げ計画を考え始めました。現在宇和島市を抜けたところですが、そのまま遍路道を進むと30Km程度先に「大洲市」があります。「大洲」は八幡浜市初東京行きの「伊予鉄高速バス」が通っています。天候が悪化し雨の日が続くようであれば、「大洲市」当りできりあげる選択肢を「案1」としました。
一方天気の崩れが今晩が峠で明日以降暫く好天が続くのであれば、少し長距離を歩いて「第44番大寶寺」まで歩いて大寶寺から松山に出て松山から焼こうバスで帰る方法を「案2」としました。現在42番ですが、44番までは77Km程度あります。77Kmを2日で歩いて午後7時30分松山発の予行バスの乗るというの少々チャレンジングな案です。どちらかにするか明日の天気次第です。
2015年09月22日(火) |
津島町の三好旅館宿泊 |
第40番観自在寺から第41番龍光寺までは50.2Kmあります。ここを一日で歩くのは無理ですから途中で一泊する事になります。さらに遍路道が主に通っている国道56号線は、この区間に観自在じから27Km付近に松尾トンネル(1710m)があり、歩き遍路にとっては難所となっています。このトンネルを歩いて通過するには27分かかり、通過車両の排気ガスでトンネル内の空気は大変汚れていると解説本は脅かします。一方トンネルを迂回・山越えする形で旧遍路道がありますが、こちらの長さは3.7Kmとトンネル通過に対して2Km余分に掛かかるのです。
この松尾トンネルの後はしばらく適当な宿泊施設がないので、少し距離は短いでのすがこのトンネルの手前の津島町で宿を取りことにしました。民宿磯屋からは23Km程度の距離なので午後2寺30分には宿に到着してしまいました。今日は少し体力を温存して明日頑張るつもりです。津島町は古い町のみが保存されています。きょうの 宿「民宿三好屋」さんは築100年を越える古い建物を利用しています。建築当時は珍しい木造3階建てだったのだそうですが、今は2階建てに改造されています。お隣の佃煮屋さんはもっと古く明治4年建築だそうです。昨年瓦を取り替えた際に屋根裏から棟上げ式の記録が出てきたのだそうです。明日は第41番龍寺とそこから近い第42番の仏木寺を打つことにしてって、その近くの民宿「とうべや」に宿を確保しました。
今日はいよいよ高知県に別れを告げ愛媛県にはいりました。第39番の高知県の延光寺から第40番愛媛県の観自在寺までの25Kmの遍路道です。今日の遍路道の特徴は何と行っても高知県・愛媛県境の「松尾峠」越えでした。久百百で一緒だった地元四国のベテラン遍路さんは「松尾峠」を通らない遍路など考えられないと言われました。松尾峠を通らずに国道56号線を迂回する方法もあるのですが、ベテランお遍路の言葉通り「松尾峠」を越えました。
この峠道は高知県側は非常に険しい道が延々と続く全く容赦の無い道でした。坂道には踊り場の平地がほとんどなく休憩所もありません。結局峠に達するまでずっと急な坂道でした。一方の愛媛県側は全く逆で遍路道は整備され坂もそれほど急坂ではありません。これは四国の特徴だと思いますが、海からは非常に切り立っていますが、島の内陸部は大地になっていて緩やかな場所が多いのだと思います。松尾峠頂上で神奈川県から来たという青年といっしょになり、歩くスピードがほぼ一緒だったため何とは無しに会話しながら相前後して歩きました。そしてこの青年と別れ「松尾太子休憩所」で昼飯を食べていると、民宿「島」でいっしょだった女性遍路が峠から降りてきました。彼女私を追い越していきましたが、後に別の休憩場所で一緒になりしばらく川沿いの気持ちの良い遍路道を一緒に歩きました。
今日の遍路道は松尾峠を通過してしまうとあとはのんびりした山道と、コンビニの沢山ある国道56号線なので道を間違えないように注意しているだけで気楽に歩くことができました。観自在寺のある愛南町街中に近づくと遍路道は「僧都川」の土手を歩くこととなり、やがてその川は「御荘港」という小さな港に繋がっています。僧都川では丁度落ち鮎漁の季節で「縦編み」という鮎を追い込む網をもった漁師さんが魚のいそうな場所を探していました。
今日の宿は「民宿磯屋」。海辺の小さな宿で漁船等が繋がれている岸壁のすぐ脇にあります。定員3人という小さな宿ですが、今日は既に定員一杯だったのですが、急に泊まりたい遍路客が現れて、女将さんが布団部屋を片づけて始めました。私の手伝って一人止まれる部屋ができました。非常に気さくな女将さんで楽しい夕食を頂きました。10年以上前にご主人を亡くされその後お一人で民宿を運営されているのだそうです。高野山の「親王院」という寺のご住職が若い頃遍路したときにこの磯屋に泊まりそのとき以来おつきあいがあるようで、八十八箇所満願した後の高野山参りでのお勧めの宿だといって紹介してくれました。
2015年09月20日(日) |
久百百から第39番延光寺 |
今日は久百百から第39番延光寺まで歩きました。距離は約34Kmで宿は延光寺近くの民宿島屋さんです。昨日の足摺岬往復40Kmに比べると距離が短いので気持ちが楽でした。その分昔の遍路道などを寄り道したり、休憩時間を長く取ったりすることができました。お遍路は無理な歩行計画をたてて焦るよりゆったりと歩くことが良いと改めて感じました。
第39番に行く道は、市ノ瀬という地区にある「真念庵」を経由して古い遍路道を通るルートと、その南側に新しくできた県道21号線を通る方法とがあります。更に北側の「真念庵」を通る古い遍路道は途中の三原村を通過するルートとその手前で古い遍路道に入り込むルートがあります。選ぶ道に依って経験する雰囲気・様子も大分違うことだろうと思われます。私は県道を通らずに古い遍路道の方を選ぶことにしました。結果的には非常に面白い体験ができたと思います。
まず案内地図に記載されていない古い遍路道が沢山あるので、アスファルト舗装でない山林の中の遍路道をたっぷり歩くことができました。アスファルトの道は基本的に平面なので足の裏への刺激は一定なのですが、舗装されていない山道は岩や石を踏んでいくことになるので、結果的に足首・足の裏への程良い刺激となるのです。また遠くを見渡せない山道は距離感が掴み難いので結果として歩いていても疲れないようになるようです。
途中立ち寄った三原町では「どぶろく」のお接待を頂きました。偶々休憩所を併設している食堂で休んでいると、その店の方から思いがけなくその地区で作られていると言う「どぶろく」を頂くことができました。三原地区では10年ほど前から地元で取れる米を使って「どぶろく作り」を始めたのだそうです。現在では「どぶろく特区」に指定されていて7軒の家でどぶろくを作っているのだそうです。その店で頂いたどぶろく「富喜」は大変美味しいお酒でした。
三原村から第39番延光寺のある平田町までの道沿いに「中筋川ダム」があります。ダム建設の影響でダム下流の中筋川の水面は下がり大変深い谷のようになっています。谷の上を通る橋はバンジージャンプが可能なような高い場所を通っていて素晴らしい眺めとなっています。
民宿久百百を起点として足摺岬先端にある「第38番金剛福寺」往復にトライしました。行程は40Km。時速4Kmで計算すると10時間歩き続けることになります。久百百を6時30分に出発しました。宿のご主人が昼食用の「おむすび等」を準備してくれました。足摺岬方面には食事が出来る店が殆どないので非情に在り難い心配りです。
もう一度同じ道を通って同じ場所に帰って来なくてはならないので、遠くに行けば行くほど戻る帰りの行程が厳しくなるので非情に疲れる歩きの旅でした。こういう歩行計画の設定は好ましくないことが分かりました。途中の窪津という漁港では朝水揚げされた「かじき・さわら等」の魚が市場に並べられているところを見ることができました。豊かな海に囲まれている高知なならではの光景だと思いました。
足摺岬は海岸線にそって県道27号線が走っています。足摺岬への遍路道はこの県道を通ることが多いのですが、遍路地図には記載されていないような古い遍路道がかなりあるようです。足摺岬の海岸線に沿って海岸近くを迂回しているのは県道で、岬をショートカットするように海岸線から離れて標高の高い場所の登っておりるものの距離的には短いくなっていのが遍路道です。どちらを通るのかは遍路の選択となります。
しかし一般的に古い遍路道が「蜘蛛の巣」がすごいし、倒木が道を塞いでいるとか草が茂っているとか整備されてません。これまで通過してきた旧遍路道に比べても大変荒れているという印象が強かったです。第38番金剛福寺正面のレストランの方の話によると、これまで遍路道を整備されていたお爺さんが昨年怪我をしてしまって遍路道を整備できない状況になっているのだそうです。昨年の台風で遍路道は大きな被害がでたようですが、足摺岬の遍路道は台風通過後の状態そのままとなっているようです。
昨日二人しかいなかった「民宿久百百」は連休初日の今日は満員となりました。有名な「女将さん」が復帰するまで忙しい時には近所の方が応援に来てくれるようです。
2015年09月18日(金) |
足摺岬を目指す遍路2日目 |
第37番岩本寺から第38番の金剛服寺までは80.7Kmあり、札所の間の距離としては88カ所の中で最長です。そして次の第39番延光寺は半島から離れた内陸部にあるための、足摺岬の先端から戻ってこなくてはなりません。足摺岬から戻る方法には半島の西側を回って帰る道と、半島東側の同じ道を戻ってくる方法があります。
ここではお遍路さんの趣味や都合によって遍路道を選びことができます。時間に余裕があり足摺岬をたっぷり堪能したい人は足摺近辺で一泊して西側海岸をあるくことができます。一方先を急ぐ遍路は同じ東側の道を戻ることが39番に向かう最短コースとなります。この場合も余裕を見て足摺で一泊するか、少し長いけれど足摺岬を日帰りで戻ってくる方法があります。私は足摺岬先端にある第38番から20Kmの場所にある民宿「久百百」に宿を取り、足摺岬までの片道20Kmを往復しようと考えました。そして民宿「久百百」に連泊することにしました。
民宿「久百百」は民宿「たかはま」からは約34Kmの距離にあります。今朝は6時40分から歩き始めて民宿久百百には4時40分頃に着きました。約10時間の歩行でした。しかし明日の40Kmに比較すると大分短い行程でした。民宿久百百の手前に民宿「安宿」という遍路に人気の宿がありますが、そこから足摺岬までは23Kmとなります。「安宿」さんからの足摺岬往復は少し難しいと考えました。
民宿「久百百」は足が痛いといって辛そうに歩くご主人が一人で切り盛りしていました。この日は客が少ないのでご主人が料理作りもしていました。遍路客客同士で話をしている中で「明朗・活発な久百百の女将さん」の話題がでました。遍路客の間ではかなり有名なようです。ご主人に奥様はどこかへ出かけているのかと伺うと、なんと女将さんは「股関節手術」で入院中だという返事が返ってきました。9月下旬に退院できるとのことですが、股関節を人工関節に代えると大分リハビリ期間が必要です。「女将さん」が不在の間は自分も膝の痛みを抱えるご主人が一人で、客の多いときは近所の人達の手助けを得て運営しているのだそうです。足摺岬に向かう遍路には大変便利な、そして有名な民宿ですので何とか長く運営していって欲しいと思いました。
民宿「たかはま」からの「久百百」への行程は「四万十市」東部を縦断するものでした。水の奇麗さで有名な四万十川は下流では多くの川が合流して大河となっています。度々海岸近くを通る遍路道からは雄大で波の大きい太平洋を見渡すことが出来ます。波が高く天気も良いのでよい波を求めてサーファーが集まっているようでした。これまで高知からずっと遍路道に寄り添ってきた国道56号線は四万十市から海岸を通らずに宿毛市へ向かいます。足摺岬へは「国道321号線と県道」を通っていくことになります。この道沿いにはコンビニも無ければレストランも殆どないので「久百百」では歩き遍路客に昼食用の「お握り、バナナ、ヤクルト、キャンディ」を用意してくれます。これで大助かりでした。
2015年09月17日(木) |
遍路1日目(足摺岬を目指す) |
朝7時20分過ぎに高速バスはJR高知駅につきました。社内アナウンスでは徳島道が通れなかったため、高松道に迂回したと言っていました。それでもほぼ定刻に到着することができました。新宿から高知駅までバスは雨の中を走っていましたが、高知駅では雨はほぼ止み「窪川」では太陽が顔を出す良い天気となっていました。ここのところ西日本は台風も上陸せず東日本に比べると良い天気が多いような気がします。
窪川に停車する「特急しまんと」は8時30分発。徳島駅で朝食をとることにしましたが「うどん」とか「そば」の店はまだ閉まっていてお洒落なモーニングサービスを提供するレストランが開いていました。仕方がないので万国共通のトースト・コーヒーの朝食を頂きました。JR窪川駅には9時28分に定刻通り到着しました。高知駅には「アンパンマン弁当」とか「アンパンマン」を描いた列車が停車していました。高知はアンパンマン作者の「やなせたかし」と関係が深いのかもしれません。(注:父親の出身地で本人を嘗て住んでいたようです) 岩本寺で遍路再開のお参りをしていよいよ歩きはじめです。
今日は遍路再開初日であり、午前10時30分という遅い出発なので、歩き行程は27Kmにしました。目指すのは黒潮町の民宿「たかはま」です。民宿のご主人から「同じ列車で歩かれた方が夕方6時30分に着いた」と電話で教えてもらっていたのですが、私は4時30分に着くことができました。しかし初日の27Kmは少しきつかったです。「まめ」はできませんでしたが足の筋肉痛はかなりのものでした。
民宿の客は私一人だったのでゆっくり風呂を使い、洗濯もきっちりできたので疲労をかなり回復することができました。窪川から黒潮町までの遍路で二人の方からお接待を頂きました。歩道ですれ違った農家のおばさんからは高知出作られている「ぶしゅかん」二つを頂きました。また山からの湧き水を汲んでいたおじさんからは「焼き栗」を頂きました。このおじさんは特攻隊の生き残りだと言って、車に積んでいた写真集を見せてくれました。
第37番岩本寺から第38番の金剛福寺までは「80.7Km」離れていて、四国88箇所の札所間の中では最も長い遍路道なのです。平地の平均歩行速度「時速4Km」で歩くとして20時間かかります。遍路初日にはあまり無理をしない方が良いので、岩本寺から27.5Km離れた民宿「たかはま荘」まで歩くことしました。丁度彼岸花が咲き始める時期なので遍路道のあちらこちらに彼岸花を見ることができました。
「民宿たかはま」の客は私一人だけでしたが、シルバーウィークの連休になると混雑することでしょう。「民宿たかはま」のご主人は相撲が大好きだそうで今場所元気の良い高知県出身の「栃王山」を応援していました。高知県は相撲が盛んなようです。民宿の飼われている黒猫(クロ)は犬のように「リード」で繋がれていました。これは高知県で良く観られる光景です。大変毛並みの良い猫でした。
7月8日から2ヶ月間あまり「船」に乗っていたため、夏休みとか有給休暇を全く取れませんでした。勿論土曜日曜の休みなしです。9月10日に漸く下船したので、まず9月末日で失効してしまう有給休暇とか夏休み特別休暇を取得することにしました。今年の9月はシルバーウィークで敬老の日・秋分の日が連続休暇となりますが、これに夏休み等を加えるとかなり長期間の休暇となります。
ということで急に休みがまとめて取れたのですが、妻は「仕事・マンションの役員業務・合唱練習など」既にスケジュールが埋まっていて、私は私と一緒に長期休暇をとるというわけにはいきません。こうなると長期休暇を有意義に使う方法として残る道は一つ「四国遍路」の続きを歩くことです。妻の同意を得て9月16日(水)高知行きの高速バス「小田急ブルーメッツ号」(新宿20:35発)の座席(料金は12,900円)を確保しました。小田急バスの残り二つの座席のひとつでした。
遍路道具は一応一式揃っています。最も重要な「靴」は以前のものをもう一度使うことにしました。底は減っていますが履き慣れたものが良いだろうと考えました。前回遍路の反省で雨対策としてしっかりした「ポンチョ」を買いました。またリュックザックは従来の物を使いますが、雨対策として荷物を小分けに収納出来るビニール袋を何枚か用意して雨に備えました。
春の四国徳島入りは「海部観光」という徳島のバス会社の高速バスを利用しました。今回高知行きは小田急バスです。乗り心地は海部観光のバスが断然良かったと感じました。海部観光バスの設備も勝っていますが最も違うのが「運転」でした。今回の小田急バスは通常の大型バスの運転技術だとは思いましたが、海部観光の運転手は客が眠っていることを前提にした夜行バス運転技術に長けていたと感じました。アクセル・ブレーキ、ハンドル操作等に非常に注意した運転でした。他の夜行バス運転手も見習って欲しい技でした。
今日午前中に長崎市の大浦にある陸運支局にいってきました。途中の国際航路船が着岸する波止場には中国から来たという大型客船が停泊していました。客船の接岸している波止場には多くの観光バスが停車していました。タクシーの運転手さんの話では、客船の乗客は何台ものバスに分乗して「免税店」に買い物に出かけるのだそうです。更には近隣の観光地に出向くことになるのでしょう。中国からの観光客の来日は再び活況を呈しているようです。
「飛行機」で日本にやってくると持って帰ることが出来る「御土産」の量はかなり限られますが、「船」で来るとかなり大型なものとか大量の御土産を持って帰ることが出来るのです。日本では「免税店」が御土産を船まで運んでくれるのでどんどん買ってしまうようですが、中国に帰ってから「船」から自宅までの運搬が大変だろうなと想像されます。
長崎は明治産業革命遺産が世界遺産に登録されましたし、そのほか教会などのキリスト教関係の名所・旧跡、出島 の江戸時代の貿易港関係の旧跡、更には原爆投下に関する旧跡など、大変豊富な文化遺産・観光遺産が残されています。それは次第に整備されてきているので観光客の数は増加しているようですが、まだまだ「長崎」の街として観光客向けのインフラも含めて一体的に整備されるという状況にはなっていません。昨年訪問する機会を得たイタリアの「フィレンツェ」は小さい街ですが、文化遺産と観光客インフラ・食文化が上手く融合して整備されて「世界クラス」の観光都市になっていました。長崎は「素材」が豊富に揃っているので、整備の仕方次第では「世界クラス」に近づくことも可能だと思いました。
昨日は駅前のホテル「ウィングポート」に泊まりました。久しぶりの揺れない寝床なので大変ゆったりと眠れました。今日は長崎での仕事が終わったので急遽飛行機の座席を確保して自宅に戻りました。全日空は満席なのですが、15時5分発の日航便に二つの空きがあったので帰ることが出来ました。三菱重工の城下町長崎は金曜日は単身赴任者や出張者が東京に戻る需要が大変多いようで、飛行機便の確保は大変難しいことを思い出しました。
7月8日に常陸那珂港で乗り込んだ「船」は、回の工事を無事終了させて本日9時過ぎに母港「長崎港」に入港しました。工事海域の茨城・福島沖から2日間かけての回航となりました。台風が本州中部(伊勢湾あたり)に近づいていたのですが、「船」は台風の影響が強くなるまえに静岡・伊勢湾を通過することができたので、波・風による「船」の揺れはそれほど大きなものではありませんでした。
10日入港が突然きまったことから入港後の仕事の段取り準備で回航2日間はかなり忙しくなりました。「船」は海に出ているときが本来の仕事ですが、陸に接岸している貴重な時間にも「次」の航海に向けてしなければならない仕事が大量にあります。事務の裏方が大車輪で動き回ることになります。毛布やシーツ等のクリーニング、故障した器具・設備の補修、食料・燃料の積み込みなどの作業が接岸後に待ち受けているのです。
私は今回の入港で「交替」することになり今日「下船」しました。常陸那珂港で乗船してから2ヶ月余りに船上生活でした。この間横浜に3回入港しましたが、入港時は忙しくて自宅に戻ることは出来ませんでした。明日11日金曜日午前中に運輸局への届出を済ませて自宅に戻る予定です。
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