KENの日記
 < 過去  INDEX  未来 >

2009年05月28日(木) 焼酎「刻の封印」




弟夫婦の九州旅行土産で頂いた焼酎「刻の封印」です。熊本県人吉市の深野酒造の焼酎です。

原材料 米、米麹(黒麹)
容量 720m
度数 39〜39.9度

参考ページ

球磨焼酎酒造組合のページ

深野酒造株式会社のホームページ

酒造組合ホームページの定義によると、球磨焼酎とは

「米こうじ及び球磨川の伏流水である熊本県球磨郡又は同県人吉市の地下水(以下「球磨の地下水」という)を原料として発酵させた一次もろみに米及び球磨の地下水を加えて、更に発酵させた二次もろみを熊本県球磨郡又は同県人吉市において単式蒸留器をもって蒸留し、かつ、一切の添加物を加えず容器詰めしたもの」だそうです。

深野酒造の創業は文政六年(1828年)とのことで、福岡・久留米、筑前・黒田藩の御用商人をしていた初代「深野時次」がお米の買い付けに人吉・球磨(当時の相良藩)に出入りするうちに、人吉盆地の豊富な米、良質な水、冬の冷涼な気候に目をつけ、当時相良藩が藩をあげて焼酎・清酒の製造を奨励していたこともあり一族でこの地に移ってきたのだそうです。現在の当主は6代目にあたるという非常に伝統のある酒造所です。

この球磨焼酎はあまり飲んだことがないのですが、「刻の封印」は非常にしっかりした味わいです。正攻法の妥協を許さない厳しい酒造りをしていると思います。約40度のアルコール濃度なので4倍に薄めると丁度10%になります。その辺りをキチンと割らないと美味しくいただけないと思います。



2009年05月24日(日) 「佐野市」散策

今日は天気が良くはなかったのですが、佐野市の散策に出かけることにしました。目的は佐野市の郷土博物館で開催されている「須永元」の特別展でし。しかし、佐野市というと他に「佐野ラーメン」「田中正造」など色々興味深い歴史を有する街ですので一度訪れてみたいと思っていた場所でした。




佐野市の北東部郊外にある佐野ラーメンの「おぐら屋」です。午前11時の開店20分前に行ったのですが既に玄関前には行列ができていました。20分ほど外で待って開店と同時に入店。店内の席はすぐにいっぱいになり外には行列ができ始めました。注文したのは定番のラーメンと餃子。ラーメンはあっさりしたスープに独特の「まろやかな麺」。おいしさを主張するタイプではないけれど非常にバランスが良く上品な感じがします。餃子は野菜たっぷりの大ぶり餃子。従業員がよく訓練されていて「てきぱき」と動いていたのが印象的でした。外で待っているときから地元の「とちぎテレビ」の撮影クルーが来ていて、店の繁盛ぶりを記録していました。県外ナンバーということで私達の車も撮影されたみたいです。とにかく佐野市にはたくさんのラーメン屋があって、人気の店には行列ができています。この「おぐらや」をはじめ、街で見かけたラーメン屋のいくつかにお客が群がっていました。たいしたものです。




「田中正造」の生家。ラーメンの「おぐらや」がある佐野市北部郊外から市内に向かう街道沿いにあります。県道237号線の「旗川」を渡ったすぐ左側にあります。田中正造は明治時代の政治家で足尾銅山鉱毒事件で明治政府と渡り合った人物です。佐野市郷土博物館には「田中正造」に関する展示が豊富です。明治維新後の殖産興業に邁進する明治政府の「ゆがみ」を糾したことに非常に大きな意味があると考えています。明治維新後の明治政府は列強に対抗するため、かなり無理をして国力強化を行いました。殖産興業、薩長主導政府を支える官僚制・官立学校制度確立、軍事力増強等ですが、そうした体制強化に国民の考え・目標を集中させたことにより、一方で国家全体が盲目的に戦争に向かって突き進んでしまったともいえます。明治・大正・昭和の国民は「田中正造」のように国に対して正面から「異論」を唱えることができなかった。これに匹敵するのは、世代が限られるものの戦後の「安保闘争」くらいしか思い浮かびません。「田中正造」の依頼により書かれた荒畑寒村の「谷中村滅亡史」は私が若い頃に買った最初の社会問題を扱った本でした。

政府が盲目的に方針を決定し(諸外国の動向・歴史の推移をよく見極めずに)、国民が盲目的にそれに追随するという構図は、今でもあまり変わっていません。日本の「新型インフルエンザ対応」は典型的な例だと思います。




佐野市内の戻って佐野市郷土博物館を見学しました。博物館は佐野市の大橋町の「例幣使街道」沿いにあります。例幣使街道とは江戸時代に京都から日光東照宮に定期的に通った「例幣使」が通った道で、中仙道の「倉賀野」から日光に向かって東に伸びる街道でした。丁度現在の国道50号線のような街道です。さて博物館の須永元の展示ですが、今回は須永の修行時代の展示が中心のようでした。私の興味は須永が慶応義塾を出た後に朝鮮独立闘争家を支援したことで、今回の展示ではほとんど触れられていませんでした。

須永元の旧家は、博物館の道を挟んで反対側の佐野市市民プールの場所にありました。上の写真がプールの入り口です。季節外れのプールは草に覆われて荒涼としていました。このプールの奥の一番南側に須永家の庭園・築山の部分が少し残っています。柵の中に入ってみてきました。かつてはさそ立派な庭園だったと思わせる植木が残っています。しかし訪れる人はほとんどいないようです。日本と朝鮮の過去の歴史に目を向けることを避けているようです。金玉金を始めとする須永が支援した朝鮮の政治家は「閔妃暗殺」の罰を逃れて日本に逃れてきた人達でした。このあたり以降の歴史はあまり語られることがありません。




最後に訪れた場所が佐野市内堀込にある「妙顕寺」。金玉均の書となる扁額があり朝鮮革命闘士の墓があります。金玉均は1884年12月、閔妃の独裁政治を倒すために日本人とともに甲申事変を起こします。しかし政権奪取に失敗した金玉均は日本に逃れました。実は須永元も当時朝鮮にいたのですが重病のために事件にかかわることがなかったのでした。日本に帰った須永は金玉均を手厚くサポートしたようです。しかし金玉均は李鴻章の誘いにのって日本を離れ上海を訪れますが、そこで中国側と通じた朝鮮の暗殺者に命を奪われました。1984年3月のことでした。その年の7月には日清戦争が起こります。日本・朝鮮・中国を巻き込む泥沼の抗争の始まりです。韓国の独立を支援した須永はそれから10年後の「日韓併合」(1910)には大反対だったようです。日本政府(軍)の方向は既に須永の思い描いた構図から大きく外れてしまっていたようです。妙顕寺には朝鮮革命闘士の禹範善と黄鉄の墓があります。この二人の詳しい来歴はわかりません。今後おいおい調べたいと思います。



2009年05月19日(火) スリランカ内戦終結?

スリランカ政府軍が敵の大将(V.プラバーカラン)の首を取ったことにより、一応26年間に及んだLTTE(タミール開放の虎)との内戦は終結したもようです。今回の内戦の最終局面について少し考えて見たいと思います。


1.インドとの関係

スリランカにとって最も重要なインドとの関係は非常に微妙でした。スリランカの対岸のタミール・ナド州の世論はルーツの同じタミール人(LTTE)に同情的でした。私はいつかインド政府の仲介が入るのではないかと思っていました。しかしスリランカ政府は最後の総攻撃を「インド総選挙」にぶつけました。与党のインド国民会議派はどちらかというとタミール・ナド州の動きには批判的でしたので政治的な介入にはなりませんでした。

インドにとっての悪い思い出は「ラジブ・ガンジー暗殺」です。今回の総選挙でも大勝利した国民会議派の現党首の「ソニア・ガンジー」の旦那さんでした。ラジブはスリランカ内戦に介入し、インド平和維持軍をスリランカに派遣し当時のスリランカ政府を助けました。これに反旗を翻した「LTTE」は自爆テロで「ラジブ」を吹き飛ばしたのでした。「ソニア」にとってスリランカ問題に介入することは「悪夢」を思い出すことです。しかも選挙の真っ最中ですから、介入はできなかったのだと思います。インド政府の公式な談話を待ちたいと思います。


2.アメリカ、ヨーロッパ諸国との微妙な関係

スリランカの新聞には「スリランカ政府のテロに対する勝利になぜアメリカは祝福しないのか」「ヨーロッパはなぜ歓迎しないのか」といった論調が出始めました。たしかにイラク・アフガニスタンにおけるアメリカを中心とする多国籍軍のテロとの戦いをみれば、テロに勝利したスリランカ政府の気持ちも分かります。

しかし、アメリカ・ヨーロッパ諸国からすると、核兵器を保有するパキスタン・イランの情勢と、小さな島国のスリランカの内戦とはそもそも利害関係が全く違います。できれば最悪のシナリオは避けて、どこかで「LTTE降伏」「残存メンバーの第3国脱出」を実現させたかったところです。そしてアメリカに限っていうと、核兵器問題では大きく譲歩した「インド」との関係を考慮しなければなりません。インド政府が歓迎しない「一方的勝利」を簡単に祝うことはできないのです。またアメリカ・ヨーロッパが、未曾有の経済低迷・新型インフルエンザの流行といった大きな内政問題を抱えていたことも、積極的な関与を遅らせた原因であった思われます・

さらに注目しておきたいのは、1983年のタミール人迫害の際に難民として欧米豪等に逃れたタミールの人々のことです。シンハラ人も海外に移住していますが、タミール人の数には及びません。タミールの人々はカナダ・オーストラリア・ヨーロッパ諸国で有力な「集団」となっている模様です。それらの人々にとっては、祖国スリランカにタミール人自治区域ができることが夢でした。今回その夢は消え去ってしまいました。スリランカの内戦が収まっても、海外におけるスリランカ政府批判は激しくなるのではないでしょうか。


3.復興に要する資金は?

国際社会はスリランカ政府に対して、インド洋津波の後「内戦解決を条件」に大規模な復興資金援助を約束しました。その中で日本の拠出は最大なのです。今回内戦解決が「政府軍の一方的勝利」に終わったのですが、これを契機にして援助凍結が解除されるのかどうか。26年間の内戦の間に破壊されたインフラ復興のためには多額の資金援助が必要になります。多分内戦終結後のスリランカ政府の姿勢を確かめた上での判断になると思います。その中で日本政府は「復興資金」をちらつかせるだけで、スリランカ政府に強いメッセージを発しませんでした。ここでも日本政府は中途半端な対応に終始しました。



2009年05月18日(月) プラバカラン氏死亡。

BBCページの配信です。

Sri Lankan rebel leader 'killed'

The elusive and feared Prabhakaran had led the Tigers since the mid-1970s. The leader of the Tamil Tiger rebels, Velupillai Prabhakaran, is dead, the Sri Lankan military has said.

The broadcast quoted military officials as saying Prabhakaran was killed along with two of his deputies. It said Prabhakaran, his intelligence chief Pottu Amman and Soosai, the head of the rebels' naval wing, were shot dead in an ambush in the Mullivaikal district while trying to escape the war zone in an ambulance.

Earlier, at least three senior rebel leaders were killed, including Prabhakaran's eldest son, Charles Anthony, the military said. State TV broadcast images of what it said was Charles Anthony's body.

Military spokesman Brig Udaya Nanayakkara confirmed Prabhakaran's death, saying 250 Tamil Tigers were also killed overnight.

スリランカでは土曜日の大統領の対テロ(LTTE)戦勝利宣言を受けて、日曜日最後の攻撃が行われたようです。ジャングルに逃げ込んだLTTE軍はサッカー場程度の広さの地域に追い詰められた模様です。当然周囲は「ねずみ」の逃げる余地も無いほどスリランカ政府軍が囲んでいます。LTTEに残された道は最後の抵抗か集団自殺でした。

スリランカ政府の発表では銃撃戦の末にリーダのプラバカラン氏が死亡したということになっています。果たして真実はどうだったのでしょうか。アメリカを含めて国際社会が最後の段階で介入を試みましたが、スリランカ政府は拒否しました。「テロとの戦い」を推し進めるオバマアメリカはテロリストの「命乞い」を強引に推し進めることはできなかった。結果として「LTTE」は「全滅」の道を選びました。但し、「LTTE」は最後の段階に抵抗を中止する旨の宣言を出しています。私には集団自殺であったのではないと思われます。

今日スリランカの知り合いに電話してみました。タミール人の友人は不在でしたが、シンハラ人の友人とは話ができました。彼女とはスリランカテレコムで一緒に苦労した間柄で忌憚無い話ができるのです。彼女は最近北部の難民となった人々向けに支援の輪が広がっていることを教えてくれました。シンハラ・タミールの区別なく、これから戦乱に破壊された祖国再建のために大変な苦労が待っているといった話をしてくれました。国際社会、スリランカの国民が祖国再建のために努力して欲しいと思います。

それと26年間に及んだ「LTTE」の抵抗は何であったのか。これから問われるところです。簡単には整理できないでしょうが、これからの祖国再建には避けて通れない歴史です。不幸な状況が再び発生しないように、スリランカ政府はしっかり考えて欲しいものです。



2009年05月16日(土) スリランカ内戦激化(19)

スリランカ大統領の「ラジャパクサ氏」は訪問先のヨルダンから帰国して会見し、反政府ゲリラ組織「LTTE」との戦いに勝利したとの談話を発表したもようです。実際政府軍はインド洋に面する非常に狭い地域にLTTEを追い詰め、近く最終攻撃に着手すると思われます。下はBBCページに掲載された記事です。

The Sri Lankan president has declared a military victory over the Tamil Tigers after 26 years of bloody civil war.

Speaking on a visit to Jordan, Mahinda Rajapakse said he would return home to a nation totally free from the "barbaric acts" of the rebel group.

However, senior officials told the BBC fighting rages on in a tiny area of the north-east where the Tigers' leadership is said to be cornered.

More than 70,000 people have died in the bitter war for a Tamil homeland.

「LTTE」側については、有力幹部の死亡が再三伝えられる中、リーダのプラバカラン氏はまだ指揮を取っている模様で、既に陸・海・空の退路を完全に絶たれた「LTTE」は最後の抵抗と集団自殺を覚悟しているようです。今回のスリランカ北部を戦場とした政府軍の戦いは、一見政府軍の勝利と見えますが話はそれほど単純ではありません。

オランダのスリランカ大使館が海外に逃れた「タミールの人々」によって攻撃されたように、迫害を逃れて海外に渡ったタミール人は沢山います。こうした人々の支援によって祖国スリランカのLTTEは戦いを継続してこれたのでした。更にスリランカ島の東にはインドのタミール・ナド州があり、ここはタミール人の州で「LTTE」に同情している人々は沢山いるのです。

今回26年に及んだスリランカの内戦が「LTTE軍」の悲惨な「全滅」という結果に終わった場合、タミール人の恨みは未来永劫の消えることはないでしょう。アメリカを始めとした国際社会の停戦要請に対して、スリランカ政府が強行な姿勢を崩していません。ここ数日の政府の行動が未来の更なる不幸を生むことにならないよう願っています。



2009年05月15日(金) 訃報:望月日康師死去

杉並区の蓮光寺の住職をされていた「望月日康さん」5月9日に死去されました。朝日新聞のWebに「訃報」が掲載されていました。67歳だったそうです。

「望月日康さん」はお父様の望月教栄上人(故人)とともに、1945年8月18日に台湾で起きた飛行機事故で死亡したインド独立の英雄「スバッシュ・チャンドラ・ボース」のものとされる遺骨を保管してきました。毎年8月18日に蓮光寺で開催される「スバッシュ」の法要を主催されてきました。昨年の第64回法要は体調を崩されたということで息子さまが教師を勤められました。「スバッシュ」の遺骨をインド政府が正式に受け取りにきて、遺骨を祖国インドに届けることを目標として遺骨を守ってこられただけに、願いが適わなかったことが残念です。ご冥福を祈りたいと思います。



2009年05月12日(火) 糖尿病かも

昨年の人間ドッグ(11月)で糖尿病と判定され、「糖代謝検査」の必要なしとされました。次のドックまでには必ず医者に行ってきなさいと言われ、ならば「食事療法で減量して血糖値の値を下げてやる」と決意し、今年に入って減量作戦を続け、現在は標準体重の67Kg(身長は174cm)に落としたのですが、最近の献血においても血糖値(グリコアルブミン比率)が合格ラインに入らなかったので、今日NTT逓信病院に相談に行ってきました。これまでの人間ドックの結果、最近の献血での血液検査通知書を持参し、病院でも血液検査して、先生のお話を聞いてきました。

まずは「糖尿病」の型の説明から。

「1型糖尿病」
膵臓のβ細胞というインスリンを作る細胞が破壊され、からだの中のインスリンの量が絶対的に足りなくなって起こる。

「2型糖尿病」
肝臓や筋肉などの細胞がインスリン作用をあまり感じなくなる(インスリンの働きが悪い)ために、ブドウ糖がうまく取り入れられなくなって起こるものがある。わが国の糖尿病の95%以上はこのタイプ。

「遺伝子によるもの」
遺伝子の異常等が原因となって、糖尿病が引き起こされるもの。薬剤が原因となる場合もある。

「妊娠糖尿病」
妊娠中に発見された糖尿病。新生児に合併症が出ることもある。

先生の評価としては過去の検査結果から徐々には改善してきている。食生活でここまでチャレンジしたのは立派とのこと。普通は「悪化の一途」をたどるらしい。

因みにHbA1c比率のここ最近の推移は、以下の通りで、今日の検査では「はっきり糖尿病の6.5以上」を僅かに下回りました。

2008年 1月 :6.9
2008年11月 :6.7
2009年 5月 :6.4

しかし依然として要注意範囲の「6.0以上」には変わりがありません。先生は今日の診断として2つの可能性を指摘されました。なお、家族・親戚で糖尿病は聞いたこともないし、妊娠もしていないので、私の場合は上記の1型か2型の糖尿病を心配する必要があるとのこと。

1.本来の私の理想的な体重はもう少し小さくて、まだ食事と運動のバランスからいって余分なエネルギーを摂取している。(実際若い頃は随分痩せていました)

2.2の「型」の糖尿病形態ではなく、ひょっとして「インスリン」の量が少ないのかもしれない。原因は色々考えられるが病気でなくとも老化現象ということもありえる。この場合食事療法では良くならないので別な対策が必要。

結論としては、もうしばらく食事療法を継続し、2ヵ月後もう一度血液検査をして、食事療法の成果を検証すると同時に、インスリン量の検査も行い、1型か2型タイプなのか判定しよう。ということになりました。それまでに良くなっていれば、それに越したことがありませんが。



2009年05月11日(月) 遅ればせながら「グスタボ・ドゥダメル」

NHKBS2の「クラシックロイヤルシート」で放送されたベルリン・フィルのワルトビューネ・コンサートの模様を録画しておいて今日聞いて見ました。指揮は話題のグスタボ・ドゥダメル。すごい才能がでてきたものです。今回のコンサートのテーマは「ラテンアメリカ音楽」だそうで、ドゥダメルの身体に染み込んだ旋律とリズムだけに、他の追随を許さない演奏でした。

1. 交響曲 第2番 「インディオ交響曲」( チャーベス作曲 )
2. スペインの七つの民謡 ( ファリャ作曲 )
3. センセマヤ ( レブエルタス作曲 )
4. ブラジル風のバッハ 第5番( ヴィラ・ローボス作曲 )
5. バレエ組曲「エスタンシア」( ヒナステラ作曲 )
6. ダンソン 第2番 ( マルケス作曲 )
7. ア・フエゴ・レント ( オラシオ・サルガン作曲 )
8. ウエスト・サイド・ストーリーから「マンボ」 (バーンスタイン作曲 )
9. ベルリンの風 ( リンケ作曲 )

ソプラノ:アナ・マリア・マルティネス
管弦楽 :ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指 揮 :グスタボ・ドゥダメル
収録  :2008年6月15日, ワルトビューネ野外音楽堂 

ドゥダメルはベネズエラに1981年1月生まれました。従って今年で27歳。若いと思っていたハーディングが1975年生まれなので、ハーディングより6歳若いことになります。シモン・ボリヴァル・ユース・オーケストラ・オブ・ヴェネズエラと録音したチャイコフスキーの交響曲5番をCDショップで立ち聞きして、素晴らしい指揮者であることを知っていましたが、今回ラテン音楽を聞いて「とんでもない指揮者」だということが分かりました。ラトルやアバードが絶賛しているというこも頷けます。

顔の表情を含めて身体全体で「音楽」「歌」を要求し、それが直接的に、素直に楽員に伝わる稀有な才能を持っています。ラトルの思い入れの故もあるのでしょうが、あのベルリンフィルが必死になって着いていっています。べルリンフィルの楽員は「若い才能の発見」を心から喜んでいることが分かります。日本の某交響楽団に絶対にまねのできない姿勢ですね。

ドゥダメルの指揮姿はときどき「アバード」と似ているところがあります。アバドとの親密さを示すものです。そういえばアバードは最近益々円熟味が増している感じで上手に年輪を重ねていますね。自分でも演奏しながら若い音楽家・後継者を育てることに力を入れています。カラヤンとは違いますね。

同じ日にヨーロッパの期待の星の「メスト」がクリーブランドを振ったブルックナーの交響曲第7番を放送しましたが、「ドゥダメル」の音楽の方が圧倒的に魅力的でした。

若くして亡くなった「ケルテス」のことを前に書きましたが、ケルテスのことを思い出しました。ケルテスは本当に人を楽しませること、いっしょに楽しむことが好きな人間だったようです。それが異常な域に達していたようです。テルアビブでの演奏会の練習が終わった後、どうしても遠くからやって来たソリスト(日本人の岡村喬夫さんら)を楽しませたくて「遊泳禁止」のホテルの裏の海岸に泳ぎに行き、高波に飲まれて亡くなったのでした。ドゥダメルの指揮する表情をみていると、本当に純粋に音楽を楽しんでいることが分かります。そして楽員との一体感は凄い物があります。これがリーダシップなのでしょうね。



2009年05月08日(金) ムラビンスキーの「未完成」等




「ムラビンスキー」の新発見の音源のCDがでました。HMVで試聴したところ録音状態が素晴らしく、当然ながらその音楽の水準はとんでもなく高いので即購入しました。家で聞いて見ましたが予想通り、何年かに一回出会えるかどうかの「CD」だと思います。

演奏曲目
シューベルト:未完成交響曲
チャイコフスキー:交響曲第4番
ムラビンスキー指揮、レニングラードフィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年4月24日
収録場所:モスクワ音楽院大ホール

HMVのホームページでは、このCD音源について以下のようなコメントを載せています。

「ムラヴィンスキー未知音源のリリース、それも驚愕のステレオ録音です。1959年4月24日モスクワ音楽院大ホールで行ったレニングラード・フィルのコンサート。同じコンサートのモノラル・ライヴ録音が、かつてRussian Discから出ていましたが、今回の発売元のPraga digitalsによれば、当時駐露フランス大使館の職員が会場で密かに収録した別音源とのこと。日本ムラヴィンスキー協会天羽健三氏著のムラヴィンスキー・ディスコグラフィによると、ムラヴィンスキーは1959年4月下旬から5月にかけてモスクワにいたものの、4月24日にはコンサートを行った形跡がなく、日時が正しいのならばリハーサルの可能性が高いとのこと。また5月に同地で行った同じプログラムのコンサートは、レニングラード・フィルではなくソヴィエト国立交響楽団を指揮しており、当盤と同様の表示をしているRussian Disc盤に疑問を投げかけています。キング・インターナショナルではこの事実をPraga digitals に伝え、事実確認を求めましたが、表示通りで間違いないという返事を受け取りました。」(HMVの記事引用)

このCDには客席の音とか拍手が全く収録されていないことから、通しのリハーサルを収録した可能性が高いと思います。また「レニングラード・フィル」も「ソビエト国立オケ」のひとつですから、「ソビエト国立オケ」の主力メンバーとしてムラビンスキーが手兵メンバーを沢山連れてきていたことも十分考えられるでしょう。とにかく弦楽器(特に1stバイオリン)、管楽器・打楽器の全てのパートが抜群に上手です。そして各パートが指揮者の指示にぴったりと着いて行っています。これだけの演奏はなかなかできるものではありません。

録音も素晴らしいです。「フランス大使館員が会場で密かに録音した」というのは信じられません。左右の音のバランス・広がりは大したもので、フランス大使館員がプロの録音技師を連れてキチンと録音したというのが真実ではないでしょうか。

このCDを魅力的にしている要素としてCDケースに使われている「絵」が素晴らしいと思います。この絵は「Boris Mikhailvich Kustodiev」が1916年に描いた「ステンカ・ラージン」です。ステンカ・ラージンが決然とボルガを航行しているところです。チャイコフスキーの4番の勇壮な交響曲とぴったりの絵だと思います。このレーベルは良く考えてCDケースを作っていて高官が持てます。



2009年05月02日(土) 須坂へ帰省

長野県の須坂に帰省しました。昨年の車検の折りに「ETC」を取り付けたので高速道路の休日割引を利用できました。帰省する時には「川越インター」で関越にのって須坂長野東インターで降りることにしていて高速料金は片道「4600円です」。それが今回の割引で片道「1400円」でした。「1000円」でない理由は、関越の練馬〜東松山は東京近郊区間にあたって、川越〜東松山、東松山〜須坂長野東間がそれぞれ別料金・別割引が適用されるからのそうです。

須坂の街は至る所に街路樹として「はなみずき」が植えられていて、今が丁度花の満開の時期のようで大変綺麗でした。実家に一泊してははと一緒に埼玉に戻りました。弟が母を連れて先に田舎に帰っていて、今回の連休を機会に母を再び埼玉に迎えることにしたのでした。母にとっては少し大変かもしれませんが、弟夫婦のところも奥さんの高齢の両親がいることもあり、母には暫くは埼玉に住んでもらうことになります。




Ken [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加