ゼロの視点
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2009年03月26日(木) 変態村

 アンダーグランウンドコミックスを代表する、カートゥーン作家の、ギルバート・シェルトン(Gilbert Shelton)と、ロバート・クラム(Robert Crumb,)は、夫が尊敬する人物。そのうちの、ギルバートのほうが、本日パリの某所で、彼の原画展のオープニングカクテル(Vernissage)を開催。

 これに行くために、あらゆる用事をキャンセルしていた夫に、引き連れられるように、会場へ。会場には“baba cool”な人、もしくは“baba cool”だった人などがたくさん。で、もちろんネクタイしめてるような人がいないのが、あまりにもステレオタイプで、内心大爆笑。

 こういう人らに限って、意外に住んでいるアパルトマンの中に、ナポレオン3世風の家具とか置いちゃってそうな気がするのだが・・・。で、一見、サラリーマン風な格好で無難な雰囲気の人のほうが、家がかなり“baba cool”だったりするのでは、などと想像しながら、ひとり人物観察にはげむ私。

 夫は、とても無口でシャイなギルバート・シェルトンに色々と英語で話しかけている。ひとつ質問をするとゆっくり考えてからようやく一言を口にするようなギルバートに、あーだこーだとぺちゃくちゃ話しかける夫のツーショットをみてると、まるでイジメのようにすらみえてくる。

 片手に赤ワインもって、気分よくなりながらまだまだ人間観察をやめない私は、ふと“見覚えのある顔”にぶちあたった・・・・・。私は、視覚人間なので、とにかくちょっとでも見た風景や、人物の顔など、絶対に忘れないのだ。かなり雰囲気が変わっていても、たいていの場合、人物判定できるのがちょっとだけ自慢(←こんなことしか自慢できないのだが・・・・)。

 考えあぐねた挙句、その顔が、私の大好きな映画『変態村 (Calvaire/ Fabrice Du Welz監督2004)』のバルテルというオッサンの役を怪演じた、俳優 Jackie Berroyer様であることに気づいたっ!。ひゃーーー、強烈に感激♪。といことで、さっそく近寄っていき、彼に映画の感想をベラベラと夫のように一方的に伝えたあと、ツーショット写真とサインをねだってみると、こころよくOKしれたので、これまた感激。これを見ていた夫もやってきて、彼は、なぜかギルバートとJackie Berroyer様と夫の3人で写真に収まっていた。

 いやあ、それにしても本当に感激だ。デジカメと携帯の両方でツーショット写真をゲットしたので、さっそく映画『変態村』を一緒に見に行った友人へ、自慢の写メを送りつける。夜中の日本で、ふと携帯に送りつけられた一枚の写真に、あのバルテルが・・・・・・・。

 今からちょうど3年前の2006年3月、実家里帰り中の私のところへ、友人MF嬢が「変態村、という映画を渋谷のシネマライズでやってるんだけれど、ゼロさぁ、、いかにも、あんたが好きそうなタイトルだから、一緒に行かない?」と誘ってきたのがはじまり。

 季節は春休み中ということもあり、渋谷に地方から出てくる若者も含めて、人が少なめな朝一番の回にあわせて、その日は行動してみた。めったなことでは朝一で行動することのない私だが、映画『変態村』のためなら・・・、というわけだ。

シネマライズと思っていたら、その中のライズXが『変態村』上映館だったのにちょっと驚きつつ、道路に面したチケット売り場で、私が大きな声で「変態村、大人2枚くださいっ!」と嬉しそうに言うと、MF嬢が「ちょ、ちょ、ちょっと、声、大きすぎるよ・・・・」と、嫌がられたものだった。

 会場一番乗りした私たちは、列の一番前に並び、ひたすら館内に入れてもらえるのを待つ。ようやく入れてもらった館内は、な、な、なんと、昔、それこそMF嬢と仕事帰りに呑んだくれていたバーそのものだったことに気づいて、二人で大爆笑。

 2階席一番前に行くために上った階段や、壁紙など、本当に当時のバーそのままで、朝一で昔のようにカクテル注文しそうな気分になった。そして、ようやく映画がはじまると、なんと『変態村』という映画が、フランス語だということにビックリ。

 それ以前に、私が『変態村』という言葉のみに駆り立てられてここまで来ただけで、映画についていっさいの下調べもしてなかったことに、自分ながらビックリ。ストーリーはネタばれになるので書かないが、とにかく終始笑いっぱなしで、喉がかわき腹筋が痛るほどだった。そして、気がどんどん触れていく、バルテルというオッサン役をやったJackie Berroyer様の演技は、本当にあっぱれだった。

 そして、今年の2月はじめ・・・・。ふとテレビをつけると、この映画『変態村』がちょうどはじまるところだったので、さっそく夫を居間によんで、私のおススメ映画を彼に鑑賞してもらう♪。昔夫がお世話になった、ポルノ女優が出てたりして、最初のつかみはOKだったら、どんどんストーリーが混沌としてくる中、ちょっと引き気味なりながら映画を見ている夫。でも、バルテルのオッサン役は、いい味だしてると賞賛していた。

 こんな偶然とはいえ、事前学習があったゆえに、このヴェルニサージュで私がJackie Berroyer様を発見して、狂喜乱舞しているしている私と一緒に、夫もそれなりに喜ぶことができたのかもしれない。とても小柄なJackie Berroyer様、あなたに会えて、ゼロは本当に、本当に、嬉しゅうございましたっ♪。



             映画『変態村』での、Jackie Berroyer様



        シナリオ作家、カートゥーン作家としての顔ももつ、Jackie Berroyer様


2009年03月24日(火) 難問解決

 やっと、やっと、やぁぁああああっと、私を悩ませていた物事を終えることができた・・・・・。いやいや、それにしても、本当に長い道のりだった・・・って、少し大げさだが、とにかく、昨年の9月からアタマのどこかにいつもひっかかっていて、決して落ち着くことがなかったのは、これが原因だったのだ。

 正式に、母の成年後見人として家庭裁判所に認めてもらうまでも大変だったが、これらに要する書類整理&作成が、個人的に強烈に面倒くさかったのだ・・・・・。また、今後、すべての収支決算を家庭裁判所に見張られるような感じになるのが、とても耐えがたく・・・・、って自分で後見人になりたいと申請しておいて、ま、まっこうから矛盾しているのだが・・・・あはは。

 とはいえ、できればこんな制度を利用することなく、母の人生に関わりたかった、というのが本音。実家の金銭管理など、母にまかせっきりだったところから、本日までの道のり・・・・。2003年頃に、いよいよ、母のまだらボケが気になり始め、それから、年に2度日本に帰るたびに、行政手続き各種、およびどんな銀行にどんなものがあり、どの銀行から日常生活にかかる経費が自動引き落としになっているか等を、私なりにチェックしてきたつもりだった。

 母がまだそれほどボケてないときは、それはそれで、財産にかかわることを知ろうとすると、母が私が金を取ろうとしているなどと、警戒するおそれもあったので、これもなかなか面倒くさかった。また、ボケが進行してくれば、それはそれで、今度は、色々と大切な書類、保険証書、郵便物など、様々なものが無くなっていたり、変なところにしまいこまれていたりして、これを発見することが非情に大変だったりもした。

 母に、介護保険利用のサービスを利用してもらうことになった2004年から、まもなく丸5年。とにかく、崩れかけはじめた橋を渡っているような境遇であり、ちょっとでも立ち止まったりすると、自分の足元まで崩れそうなる、綱渡りタイムレースの日々だった。

 立ち止まったり、里帰りの回数を一回でもパスしたりすると、またその間に母が一歩一歩、着実にあちらの世界へ歩を進めてしまうからだ。せめて、《せめて色々な手続きが済んでからにしてよ〜っ!!!!》と、笑顔であちらに行こうとする母を、後ろからヘッドロックでもかけて、こちら側の世界に引き戻したい衝動に襲われたのは、数え切れないほど。

 基本は、海外からの遠距離介護という境遇の私。ゆえに、色々な手続きなどが海外からでもスムーズにできるように、特別に準備しないといけないことが色々とあったのだ。同じ国にいれば、いつでもできそうなことが、そう簡単にはいかないので、ますます前倒しで色々と計画して、それを実行していかないと、実際には1回の里帰り期間を有効に使えなくなってしまうのだ。

 今年の2月3日付けで、成年後見人としての審判がおりたのはいいのだが、この日から2ヶ月以内に、財産目録、年間収支予定表を作成して、家庭裁判所に提出することになっていた。たった1枚の資料が足りないためだけに日本に戻るという最悪な状況に陥らないように・・・・、と、意識しすぎてしまったのか、今度は完璧に使用を作らないと・・・・、という異様なプレッシャーを自分にかけていたようで、もう、完全金縛り、いや、ひとり亀甲縛りSM状態になっていたらしい私。

 前にも後ろにも進むことができない、恐ろしいまでの閉塞感に包まれた2月から3月中旬・・・・。何も進んでないから、余計焦る・・・、で、また何もできなくなり、もっと焦る・・・、というアホらしい日々。アホだなぁ・・・、自分、ってしみじみわかってるのに、動けない。ま、それだけやりたくなかった、というだけなのだろうが・・・・・(汗)。

 で、いつもの、尻に火がついて、実際に尻が燃え始めた頃に動き出すという、私のパターンで、3月中旬から、ものすごい集中力でラストスパート。日本時間にあわせて、夜中から書類作りをはじめ、わからない箇所があったら即、役所や銀行、および家裁へ電話して、相談する・・・、というスケジュールで、なんとか書類完成♪。

 予定では、締め切りの日ぐらいに、ちゃんと書類が家裁に届くはずなのだが・・・・・。ま、あとは、書記官などの判断にお任せするしかない。これで、印鑑がたりないから、それを押すためだけに日本に戻る・・・、というようなことにならないことを祈るばかりである。

 最後に、億万長者のように資産がありすぎる人にも、絶対に後見人が必要なのは当たり前なのだが、うちのように少ししかない家庭などは、きちんと後見人がいないと、その微々たる資産を有効に使うことができず、悲惨なこと(いざという時に、親名義の預貯金を使えずに、突然の出費に対応できない等)になってしまう場合もあるので、これらのことを見越して私は母の後見人になったのだが・・・・。

さて、どうなることやら・・・・・?。



      あの刑事コロンボも、いまや認知症・・・。彼の後見人は実の娘ということだ


2009年03月16日(月) 20年という年月・・・

 大学生だった私と友人MF嬢で、春休みを利用してパリに滞在していたのは、今からちょうど20年前の3月。この時が私にとっての初海外旅行で、パリには通算3週間強滞在していた。

 滞在していたホテルは、サン・ラザール駅前にある« Londres et New York(ロンドン&ニューヨーク) »というホテル。なぜパリにあるのに、ロンドン・ニューヨークなのかは知らないが、とにかく便利な場所にあるホテルで、とっても重宝したものだった。

 この単純な名前のホテル、だが、ちゃんと発音しようと思うとなかなか通用しなかったことがあった。知り合いになった人間に、「私たちのホテルは、サンラザール駅前にある、ロンドン&ニューヨークというところです」と伝えたいのだが、なかなか伝わらず・・・・・・。

 学習したはずのフランス語の発音が悪くて、フランス人に理解してもらえなかったり、そんな状況に焦って英語で話そうとしたら、これまた、うまい言い回しができずに、わけわからん文章になってしまったりと、苦労したものだ。


「サンラザール駅からは、ロンドンやニューヨークにはいけないのよ、知ってる?」と心配されたり、
「これからロンドンとニューヨーク経由で東京へ戻るんだね」などと、勘違いされたり、
「ロンドンやニューヨークと比べれば、やっぱりパリが一番よ!」と自慢されたり、

 なぜ、こうも自分たちのホテルの説明が相手に伝わらないのか・・・・と、切なくなっていた当時がなんとも懐かしい。今思えば、言葉だけの問題ではなく、人生の場数を踏んでないというか、とにかくまたまだケツの青いガキだったのだな自分・・・、と思うことしきり。ま、それだけ、まだ当時の私たちには可愛げ、というものがあったのかもしれないが・・・・(汗)。

 今は、このホテルがある交差点を、背後からくるバスにチャリンコで、体当たりの幅寄せしながら、絶対に自分の前にいかせないようにして走り抜けている私。ぶつけられたら、どうやって相手を打ち負かすような自己性討論を言うかまで考えながらの幅寄せ、だ。

20年もたつと、人間、こんなになってしまうのだと、泣き笑いしている昨今である。




2009年03月14日(土) 衝撃的な出会い

 このままずうっとベッドでダラダラしていたい・・・、と思っていたところに、一足早くでかけていた夫から電話・・・・・。「絶対に、おもしろくなるから、講演会に来るべきだ!」と・・・・。

 ううーーーん、と、数分布団の中で迷った後、やっぱりどうも自分の第六感からも“講演会へ行ったほうがいい”というレスポンスがびしびしきてたので、サクッと起きて、あっという間に着替えセーヌ河を越えて、講演会会場へ出向く。

 二人の哲学者、Luc Ferry(リュック・フェリー)とAndré Comte-Sponville(アンドレ・コント=スポンヴィル) による講演会会場は、すごい人の数だったが、いちおう講演会申し込みをきちんとしておいたので、問題なく会場い入れてもらえ一安心。

 Luc Ferryのほうは、哲学にまったく興味のない人でもフランス人だったら誰でも知ってる?, というくらい有名な人で、2002〜2004年の間、ラファラン首相のもとで、教育大臣としての任務も果たしている哲学者。一方、André Comte-Sponvilleについては、Luc Ferryとの共著を出版していることぐらいしか、知らないまま講演会に出向いた私。

 講演会は、André Comte-Sponvilleが最初に話し始めた。そして、彼が話し始めてすぐに、何か啓示をうけたかのように、鳥肌がたちはじめた私。自分のぴったりの音楽、あるいは演奏法をする音楽家が奏でる音に出会った時と同じ、激しい高揚感に見舞われたのだ。

 André Comte-Sponvilleの言葉選び、論の進め方、既成概念の崩し方、比喩の提示の仕方、リズムなど、すべてにおいて、私は彼の虜になってしまった♪。と、思ったら、同じくこの日までAndré Comte-Sponvilleについて、あまり知らなかった夫も、完全に彼の虜になっている様子(笑)。

 このまま、2時間、3時間でも彼の話を聞いていたいぐらい、まったく飽きることのなかった講演内容で、あのままベッドにいないでよかった・・・、としみじみ思ったほど。それにしても、ここまで高揚するのも久しくなかったこと、いやいや、本当に素晴らしい出会いに恵まれ、嬉しい限り。

 Luc Ferryの講演は、彼の第一声が《Déconstruction(デコンストリュクシオン)》、つまりは日本語でいう、あの《脱構築》にはじまり、長いこと哲学分野から遠ざかっていた私には、この言葉が、プルーストのマドレーヌのような効果をもって響いてきたので、ニタニタしてしまった。

 それにしても、脱構築とは、なんともいえない日本語訳だと思うのは私だけだはなかろう。かなり無理があると思うのだが・・・・・。この言葉だけが一人歩きしていた、一時期の日本現代思想界を思うと、余計ニタニタしてしまう。

 家に戻ってきてからというもの、夫と二人でAndré Comte-Sponville数々の講演を動画サイトで検索しては、鑑賞する・・・、というのを繰り返している私たち。

 この分だと、当分の間、我が家での《André Comte-Sponville祭り》は終わりそうにない♪。




2009年03月12日(木) 逆走高齢者

 高速道路を逆走する高齢者が、年々増えているような記事などを目にするようになって久しい。年々増えているのか、もともといたのだが、ただ記事が増えてきているのかはしらないが、実際に私、逆走高齢者に遭遇したことがあるのだ。

 それはそれは、まだ私が若かりし大学生の頃のこと。高速道路ではないものの、クルマ専用有料道路の追い越し車線を颯爽と走っていたときのことだった。

 その日の有料道路はそれほど混んではいなかったものの、それなりに片側3車線が適度にクルマで埋まっている状態だった。追い越し車線にいた私の前には、ちょうどクルマはなく、私が先頭をいくようなカタチでしばらく進んでいた時のことだった。

 遠く前方に見えるクルマが一台・・・・・。普通だったら前方のクルマの後ろが視界に入るはずなのに、みればみるほど、前に見えるクルマはのリアガラスではなくフロントガラス・・・・・・。

 えええええぇぇえぇえええええっ?!?!?!、と思うのもつかのま、あっという間にそのクルマは私に向かって進んでくるので、慌てて隣の車線に逃げ、間一髪で危機から脱出!。隣の車線にうつりながら、前方から来たクルマが私の右脇を通り過ぎていく光景をスローモーション映像のように、今でもよく覚えている。


 恐らく今の時代だったら、もみじマークを推奨される年齢の殿方が運転し、その隣には同年輩の妻らしき人が同乗していた軽トラック。運転するじいさんが、間違って反対車線に入ってしまい、引き返すにもどうにもこうにも何もできないまま、低速ながら逆走を続けていたのだと思う。

 焦りに焦りまくった運転手のじーさんの顔は、まさにムンクの絵画《叫び》状態で、口が縦長にぱっかりあいており、絶対に「ああああああぁぁああああっ !!」と、車内で叫んでいたに違いない。彼の隣のばーさんは、ただ目を見開いて助手席にはりついたままのように見えた。

 私を先頭に、続々と後続車が隣車線に移っていき、じーさんのクルマはただただ私とは反対方向へ進んでいき、バックミラーで確認できる時点まででは、事故も発生することなく、そのまま私の視界から彼らは消えていった。もし、隣車線に逃げるスペースがないほど、混雑していた場合は、とんでもないことに・・・・・などと思うと、ちょっとゾッとしたりもする。

 その後、新聞やテレビニュースで、逆走老夫婦の事故のニュースを耳にすることもなく、まだネットニュースも発達してなかった当時は、その後を調べようにも手段がなかったので、きっと彼らは無事だったんだと、私の中で、勝手に結論づけている。

 さてさて、クルマを持たないパリジャン・パリジェンヌ生活をしているから、こっちではこういったことに巻き込まれる心配もない♪、などと油断してた私。昨年、酔っ払って夜中にチャリンコ乗っていたら、知らない間にパリ環状線の入り口に入り込んでいたことがあった。

 高速逆走ならぬ、高速で、日本人♀がチャリで酔っ払い走行して吹っ飛ばされて死んだら、どんなニュースになるんだろう・・・、とあとで顔を赤らめるのがやっと・・。人の振り見て我が振り直せ・・・、とは、こんな私にある言葉だなと、神妙に思ったゼロでした。




2009年03月11日(水) 暗証番号の落とし穴

 母が認知症になってからというもの、“老い”に関する考え方が必然的に変化していったように思う。おまけに自分も確実に年を重ねているわけであり、まださきのことでありながら、もしかしたら、あとちょっとのことなのかも?、等と、あえて戦々恐々としてみたりすることすらある。

 あらゆるところで暗証番号を求められるのが、現代社会。キャッシュカードはもちろんのこと、申し込みをするだけで暗証番号やパスワードが必要だったり、うまく管理してないと自分が、そのパスワードからはじき出されてしまう危険がいっぱい。

 私のパリの自宅アパルトマンは、道路に面した入り口で暗証番号を求められ、次にエレベーターにのっても、暗証番号を押さないと中でブロックされてしまう仕組みになっている。もちろん、上に行く場合と、下に降りる場合でも別の暗証番号が要求される徹底ぶり。

 防犯にはとてもいいのだろうが、もし、ボケはじめちゃったらどうすりゃいいんだろう?!?!?!、と、ふと不安になったりするのだ。階段もあるのだが、そこにアクセスするには暗証番号は必要ないにしても、やはり鍵が必要とされるゆえ、物忘れがひどくなってくる初期のボケレベルくらいから、このアパルトマンで暮らし続けることは、けっこう大変なことになってきそうだ・・・・・(汗)。

 留守電メッセージ聞くにも暗証番号が必要だし、メールボックスにアクセスするにもパスワード。幸いなことに、コンロに火をつけたり、冷蔵庫をあけたり、シャワーを浴びるのにパスワードがないことだろうか・・・・。

 母の場合は、より便利に・・・・と思ってやった風呂場のリフォームがアダとなってしまった。ボタン操作だけで湯加減から、水位など調節できる便利なオートタイプにしたのだが、ボケはじめた彼女にはそれがなかなか覚えられず・・・・。

 それでも、私の暮らしと比較すれば、遥かに暗証番号やパスワードを使う頻度が限られた生活をしていた母。どうにもこうにも一人暮らしに黄色信号が点滅しだした頃でも、母は鍵をなくして家に入れないで困った・・・、という経験は、なんとかせずに済んでいた。

 何者かに憑依されたように、朝から晩まで探し物をしている認知症患者に、新米の医者が「何を探しているんですか?」と尋ねたら、「そんなことがわかるのだったら、問題はないっ!」と、患者に怒鳴られたという逸話を聞いたことがある。

 というように、何を探しているのかわからないので、それをひたすら探し続けるような状態になってしまった場合、エレベーターにふと乗ったのはいいものの、その瞬間、自分が上にいきたいのか、それとも下に行きたいのか以前に、何がしたいのかもわからなくなってしまった挙句、エレベーターの扉が非情にも閉まり、そのまま中でブロックされてしまうかもしれない将来・・・・・・・・・・・・・・・・。


これは、ちょっと、マジで、こわぁーーいっ、と思ったゼロでした。




2009年03月10日(火) 残された妻のゆくえ

 昨年の2008年3月5日に、夫が敬愛する友人の作家JPが亡くなった。享年88歳。彼の持病であった糖尿病が悪化し、足先が腐り始めたのをきかっけに入院した彼。誰もが予想していた通り、残念ながらも、彼が元気に退院することはなく、入院から2ヶ月ちょっとで彼は彼岸へ旅立っていった。

 彼の死後、妻Mが残された。が、彼女は10年弱前の交通事故で脳を損傷しており、軽度の認知症状態。また、この夫妻には二人の子供がいるのだが、故JPには法的に認知されていない。

 そんなこともあって、彼が住んでいた城のような家は、彼の死を境に、財産や金目のモノを巧妙に狙う人が足繁く通う場所となっていった。偉大な作家としての素晴らしい業績の影で、ひとりの父、ひとりの夫としてちょっと甲斐性足りなかったか?、ということも死後明らかになってきた。

 日本では、認知症高齢者を狙った悪徳リフォーム詐欺などが流行っていたが、所詮これと一緒。妻Mが家に来てくれた人に、ホイホイと高価なオブジェなどを譲ってしまうのを狙って、本当にすごい数の人間が出入りした模様。JPの死のたった3ヵ月後に、彼らの家を訪れた私たちは、家の中がほぼ空っぽになってしまっているのを目の当たりにし、腰が抜けそうなほどビックリしたものだった。

 その上、アカの他人以上に怖い存在といえば、身内の人間。Mの妹の夫、つまりはMにとっての義理の弟MMというのが、Mの世話をするという名目で一ヶ月以上、Mの家に住み込みでやってきていたのだが、このMMが実に胡散臭い人間だった。

 南仏で古美術商をやっているMM.。連日Mのところへやってきては、故JPが残していったオブジェや本などについてコメントしていくのを、逐一ノートにとってその価値を計算。そして皆が寝静まった夜に、少しずつ少しずつ価値のありそうなものを、自分のトラックに積み込み、まんまとお宝ゲット。

 子供たちは、法的に認知されてなかったことと、それを踏まえた上での財産分与について、故JPが生前きちんとしておかなかったこともあり、なかなか手も出せないず・・・。こうして故JP家は、完全無法地帯になっていたのだった。

 そしてその翌7月の末に、未亡人となった妻Mは長年住んだ城のような家を売り払い、それを元金に老人ホームでの生活をはじめた。

 夫婦揃って元気だった頃は、夫の著述業のアシスタント業もバリバリこなしていた妻M。パソコンもなかった時代は、夫が書きなぐった原稿をすべて綺麗にタイプし、校正もやっていたらしい。家に出入りする人の顔と名前は一発で覚えた上、ものすごく人当たりがいい女性として評判だったらしい。

 私たちは、彼らの晩年しか知らなかったが、妻Mと故JPが、なんでもないふとした瞬間に、互いの愛を確かめるかのように見つめあったりする、実にほほえましい光景に何度も遭遇したものだった。

 また、私たちは用事で参加できなかったJPの葬式でのこと。JPが入った棺が積み込まれ、いよいよ霊柩車のドアが閉められた時、妻Mが亡き夫に最後の別れを告げるかのように、《バイバイ》といいながら、ドアの扉を、やさしく、いとおしそうに撫でていたMの姿に、不覚にも涙腺が緩んだ参列者がいたらしい。

 とにかく、妻Mのすべてから、彼女がいかに故JPを愛していたかというのがひしひしと伝わってきて、その彼女の圧倒的でまっすぐな愛には、ただただ驚嘆させらることが多かった。

 今思えば、《JPのいなくなったこの世》自体に未練も何もなくしていたのかもしれないM。だからこそ、連日自宅に遺品をたかりに来る人間と戦うことすら放棄していたのかもしれない。いつかまた、JPと再会できる日を願っていたと想像できる彼女は、いつも遠い目をしていたように思う。

 そして、本日、Mは亡き夫JPの元へ旅立っていった。夫の一周忌が無事に過ぎるのを見届けるかのように、3月10日未明に亡くなった彼女。

 実は彼女、昨年末に脳に腫瘍が発見されて手術もできない状態で、入院していた。そして先週、昏睡状態になる直前に、娘Fに向かって《もう、私はお父さんのところに行くことにしたから、幸せなのよ》と、いい残していたとのことだった。


在りし日の、JPとMのほほえましくも愛し合っていた姿を偲び、心から冥福をお祈り申し上げます。



              JPがすでに眠る墓


2009年03月09日(月) 日本語会話レッスン

 昨年の春、私と一緒に日本にやってきたMJの紹介とのことで、とある女性から電話がきた。既婚のELという女性で、夫がずうっと日本語をやっているのだが、誕生日プレゼントに日本語個人レッスンのプレゼントを考えているのだが、その先生をお願いできるか?、という問い合わせだった。

 いきなり値段とか、どんなレッスンを提示できるかと質問攻めにされたので、適当にかわしつつ、こっちも彼女に質問攻めしにしていく。

■彼女だけが乗り気でレッスンをプレゼントしたいと思ってるのか?。

■日本語の文法じゃなく、日本語で話し相手になってあげてほしいとのことだが、それは彼自身が欲していることなのか否か?。

■親切な妻な印象もうけるが、逆になんでも仕切っている妻の押し売りのようなプレゼントなのでは?。

 などなど、色々な疑問がアタマに浮かんできたが、ま、とにかく初回のアポをとって、とりあえず電話を切った。私なら、勝手に夫が個人教授とかを発見して、プレゼントだよ〜、なんてやってきたら、絶対に嫌なタイプなので、大丈夫なのかこの話?、と思うことしきり。

 とにかく、秘密のプレゼントということゆえ、私が彼女の夫に直接電話して、どのようにして学びたいのか等、なにひとつ尋ねることはできない。ああ、面倒くさい役回りだなぁ・・、と思いつつ、初回の本日を迎えた。

 日本語初心者ではないことだけは、妻側から聞き出していたので、参考書、辞書、日本語学習教材、簡単な日本語の読み物、日系フリーペーパー等をカバンにつっこみ、待ち合わせ場所へ行くと、妻からのプレゼントを受け取ってしまった夫TMがいた。

 挨拶をフランス語でかわしたあと、さっそく彼の日本語レベルをチェックも兼ねて日本語だけで話しかけていく。TMは考えながらも、日本語できちんと応答してくる。まったくの初心者に教えるよりも、こういうレベルのほうがいたって楽なので、正直この時点でラッキーと思った私。

 そして、カフェに入って腰をおちつけ、簡単な世間話を日本語でしたあと、彼がいきなりカバンから一冊のテキストを出してきた。日本語の読解テキストで中級レベルと書いてある。そして、彼がテキストを開き、第1章に掲載されている原稿用紙に2,3枚レベルの、ルビすらふってない普通の日本語の文章を、スラスラと読み始めたから、ビックリ。

 驚きながらも、小学校の時の国語の時間などを思い出してしまった。スラスラ、漢字なども含めて、抑揚をきちんとつけて読むことができる子もいれば、ひっかかってばかりの子などもいたなぁ・・、と。さすがに、非日本人訛りはあるものの、なかなか調子よく日本語を読んでいく彼に、圧倒されっぱなし。

 和仏辞典で、わからない言葉は全部調べ上げ、新しく増えたボキャブラリーで、また色々と例文を作って頭にインプットする作業をここずうっと続けているとのこと。すごいぞっ!。

 “て、に、を、は”や、主語などがない、日本語独特の言い回しなどの理解には、未だに苦しんでいるようだが、話す、読む、書くという作業をここまで総合的にやって、まだ4年ということを考えれば、近いうちにかなりのレベルにいくのではないか?、と思われる。

 日本にいれば違うのかもしれないが、フランスを中心に“日本語を学んでいるフランス人”らには、それなりに出会ったりするのだが、幸か不幸か、私は、このTMレベルまでの人に知り合ったことはなかった。

 日仏カップルないしは、インターナショナルカップルで、非日本人♂のほうが日本語が流暢だったりする。とはいえやはり、私たち生粋の日本人が話す速度や語彙にはなかなか対応できないことが多い。

 ゆえに彼らのレベルにあわせて、日本語を話すことになるのだが、こっちの日本語までもが、彼らにつられて変になりそうになることも多々アリ、これはこれでなかなか面白くも危険なコミュニケーションにだったりもする。

 または、話すほうはペラペラなのだが、日本語の読み書きはまったく駄目というタイプにも、かなりの頻度で遭遇してきたように思う。

 我が夫にいたっては、一方的に知っている日本語を口にすることは得意だが、日本語で話しかけられたらアウトというレベルでしかなく、おしゃべりで暑苦しいオウム状態。

 《ゼロがフランス語話すから、日本語が覚えられない!》等と、わけのわからん理由を盾に、日本語ができない悲劇を皆にボヤくのが趣味になってきている夫だが、このTMの存在が起爆剤となって、オッサン、真面目に日本語習得に燃え始めてくれるといいのだが、さてさて、どうなることやら。

 ちなみに、TMとの日本語会話レッスンは、初回お試しで、生徒であるTMがピンとくれば以後続けていくというシステムにしておいたのだが、さきほどTMのほうから続けたいと申し出があったので、しばらくこのまま週1ペースで様子をみていくことになった。




2009年03月07日(土) 草食系男子2

 草食系男子といえば、わが夫も日本に来るたびに、華奢でおしゃれな日本男児をみるたびに、あっけにとられまくっている。あ、もちろん、若い日本女子なぞは、もう興味津々なオッサンであることは、皆様推測されていることであろうが・・・・、それにもまして、だ。

 街中、電車の中とありとあらゆるところで目にする、草食系男子を見るたびに、「すごい、ゼロより、あの日本男児のほうが女らしくみえるのはなんでなんだ ?!?!?!」などと、平気で私に尋ねてくる夫・・・・・・・。そんなの知るわけないだろうが、おい!。

 歌舞伎町のドンキホーテ前で、人間観察のために、夫と一緒に立ち止まることしばしば。ここには、色々なキャッチセールス軍団がたまっているところとして、それなりに有名なのだが、夫はガイジン、私の見た目はどうやってもだませそうもない、しっかりしすぎてしまったアラフォー、ということで、あらゆるキャッチセールス軍団から放置されるのだ。

 そこに私たちがいるというのに、まるで透明人間のような扱い、と表現すればよいだろうか?。歌舞伎町のおおくの風俗はガイジン男性お断りだったりするし、ホストクラブ系のキャッチだとしても、どうみても私がドンペリなど、入れそうにないのは火をみるより明らか。いずれにせよ、日本語でじっくり話せそうもない人間なんて、面倒くさいわけである、彼らにとって(笑)。

 あまりの放置され具合に、「ここまで自分が存在してないように扱われる場所というのも、なかなかないから、本当に不思議だぁ !!!!!!」と、ひどく感動している夫。たしかに、フランスだったら、アイコンタクトばしばしな社会ゆえ、放置される感覚など味わえるほうが珍しい。

 さすがに私もこれに慣れてきているから、この場所での放置具合には、ニヤニヤと笑うしかないのだが、私がニヤニヤしながらフランス語を話しつつ、周りを思いっきり観察しているだけで、余計、皆に放置されていく結果になっている、というのは、夫はまだ気づいていなかった。

 別に、夫だけの問題ではないんだよ・・・、とオッサンに言ってあげてもよかったが、今回はスルー(笑)。そして、誰にも干渉されずに、その場に突っ立って人間ウォッチングすること30分、ようやく私たちに声をかけてきたのは、アフリカ系のフレンチスピーカー。

 私たちに、英語で話しかけてきたのにもかかわらず、その英語がバリバリのフランス語訛りだったので、そこが歌舞伎町だったのにもかかわらず、一瞬にして、パリの北駅にワープしたか?、と戸惑ったほど。訛りを見破った私たちは、すかさずフランス語で答えたところ、彼がセネガル人だと語りだした。

 歌舞伎町まできて、声かけられるのがセネガル人という運命に、夫は妙にガックリ。と、同時に、私たちの目の前で繰り広げられている、なかなか激しいキャッチセールスの押収と、ナンパ劇とはいえ、所詮、草食系動物の営みにしか感じ取れなかったのが、個人的に興味深かった。

 テストステロンとフェロモンがもろだしな、おフランスから比較すれば、本当にサラッとしていて、とはいえ、きっと深みに嵌れば隠微なのかな?、という想像力をかきたてる、妙な日本文化がそこにあったような気がした私だった。

 夫からみると、なんちゃってイケめん風の髪型は、アタマの上にシュークルートをのせているようにみえるようだ。で、そのシュークルートを頭部にのせたにーちゃんが、おぼこっぽくも、それなりに着飾って化粧したお姉ちゃんをゲットしている様子を逐一観察したあと、「やっぱりシュークルートをアタマにのえたうえで、日本語話さないと、ねーちゃんとゲットできないのか?」と私に尋ねてきた。なんだか、同じ♂として、悔しかった模様(爆)。

 ま、夫の顔に何か載せるのだったら、ルイ14世みたいなズラのほうがよっぽど似合うのだろうが、それだったら、ますます日本のピチピチギャルからは、避けられることだろう・・・・・・。




     千切りされたキャベツの酢漬け、シュークルート


2009年03月06日(金) 草食系男子

 草食男子とか、草食系男子という言葉を最近よく見聞する。おまけにこの間まで4ヶ月弱日本に滞在してたこともあり、定義する以前に、これらの言葉が言わんとするコトを肌でつくづく感じることができたと思っている私。

 一方、これらの男子に対して、肉食女子というのがあるらしい。ま、だいぶ薹が立ってしまっている私なぞは、腐・肉食女子なんつーカテゴリーに自らはいってしまえば、批判を浴びることもなかろう(笑)。もともと、長身、態度大きい、離すときは相手がビックリするのもお構いなしにまっすぐを目をみるし、言いたいこともいうタイプなので、日本男児などは、私のことを真っ先に怖がるのではなかろうか?。

 さて、里帰りのたびに、私にくっついて日本に来たがるフランス人が年々増えてきている。昨年の春は、夫の姉のような存在のMJが、私と一緒に日本へやってきた。そしてそのMJをあてにして、10名弱のフランス人が同時に日本上陸していたので、時に彼ら全員を引き連れて銀ブラツアーなんてものもやった私。(ちなみに、この時夫は、フランスでお留守番♪)。

 そのついでに、新宿歌舞伎町にも足を運び、ホストクラブがたくさん立ち並ぶ界隈を皆で歩いていたときのこと。店の外には、ホストの顔写真がたくさん飾られているのだが、なんと、私が引き連れているフランス人らは、皆、ホストたちの顔をみて、“絶対にこれらが皆、女性だ!”と信じ込んでいたのだ。

「すごいわねぇ、日本は。売春婦の顔写真がこんなに堂々と飾ってあるのね♪」

「それにしても皆、似たような髪形と雰囲気なんだけれど、なんで?」

「男装しているみたいなんだけれど、ここってレズビアンの店なの?」

 など等、歌舞伎町のど真ん中で、私が大爆笑しすぎてそのまま即死しそうなことを、あどけない顔でたずねてくるフランス人御一行様。ちなみに引き連れているフランス人は女性9名に、男性1名。男性1名にいたっては、“自分が遊ぶんだったらどれにしようかなぁ?”等と思いつつ、写真をみていたに違いないと、今でも思っているのだが・・・。

 で、私がもう制御不能なほど笑い狂いだし、フランス人御一行様だけじゃなく、道を行きかう人々までが不審に私のことを遠巻きに観察しはじめた頃、ようやく呼吸を整えながら「これは、オトコなんだよ、オトコっ !!!!!」と彼女らに説明。

 なおかつ、女だと思って品定めしていたフランス人♂には、“ドンペリのロゼでも注文したら、やらせてくれるかもよ?、だけど信じられない値段らしいけれど、ね〜♪”などと言ってみる。で、もちろん彼を含む、フランス人御一行様は、しばらく、ホスト看板写真の前で全員絶句状態。

 この時、英語じゃなくて、まだちょっとマイナーなフランス語でよかったなぁと思ったものだった。ベタな英語で、色々と説明した場合、それなりに理解できてりまう人がいるだろうが、フランス語だと意外に平気なのが、本当にラッキー。

 彼女ら曰く、《日本の若い女の子は、皆、お人形にみたいな化粧して細いけれど、それを相手にする男のこたちも、ここまで女のこみたいなのね、わーーーーーーービックリ !!!!!》と、うわごとのようにフランス人御一行様は、繰り返し発言していた。

 以後、このご一行様は私に引き連れられ都内縦断しているうちに、より一層注意深く、道端や電車内、レストランや居酒屋などで日本男児を観察していたとのことだが、皆、本当に清潔そうでかわいくみえるのだそうだが、彼らとアヴァンチュールを楽しむ?、という想像はなかなかできなかったとのこと。

 ということで、死ぬ間際までセクシーでありたいと願う、元祖肉食獣・フランス人女性からは、日本男児一般は草食系男子でものたりないのかもしれない。あ、でも、草食系だったら“食っちまう”という究極の至福があってもよさそうなのだから、そこまでもいかない・・・、ということは、もはや昆虫、ということなのか?、と色々と考えあぐねているゼロでした。

 とはいえ、元祖肉食獣女性なんてゴメンだぜ、と思っているのでしょうがね、日本男児さま〜。なので、お互いさまなのでしょうが、うふふ。




2009年03月05日(木) 逆ギレおとこの深層心理

 なんだかんだいって、オレ様キャラな夫。なので、逆ギレなんつー技は、彼の十八番。最近は、喧嘩の回数も減りつつあるわしら夫婦であるとはいえ、それでもたまの喧嘩は、あいかわらず濃厚。で、だいたい夫の逆ギレから、もしくは彼の逆ギレを私が誘発したところではじまる。

 ただ、こうなる前に、夫がやりたいだけやって知らん振りしてたとか、約束をまもらなかったなど、そういう夫の不手際がそもそもの原因であることがほとんど。もしかしたら、私の不手際もあるのかもしれないが、それをが指摘してきたら、私は逆ギレもしないし、それなりに自分の非を認めながら、うまくもっていこうとやるのが普通。

 が、が、が・・・・、夫は、自分の誤りを指摘されると逆ギレするのだ。日本人じゃないから、謝罪する習慣がないと簡単に片付けることもできるが、私の高校からの親友M嬢の夫は、筋金入りの柴犬みたいな日本男児だが、私の夫以上に、逆ギレのプロフェッショナル。

 おまけに、彼女の二人の息子達も、いたずら等をしたあと母親に怒られた時、素直に“ごめんなさい”と言えないとのことで、洋の東西にかかわらず、自分の過ちを認められない♂の種別が、確実に存在するのだ!、というのが私たちのあいだでの結論。

 この間も、明らかに私にまったく非がなく、夫が100%クロでしかないことがあった。ここで見なかったフリをするのも一案なのかもしれないが、わたしゃそこまで賢い妻にもなれないし、そこまで夫に譲りたいとは思わなかったので、しばらく思案した後、わたしなりに穏やかに夫に問いかけてみた。

 最初は、自分でも信じられないくらいうまく行って夫が自分の非を素直に認めだして、拍子抜けした私。が、とりあえずこっちも落ち着いて穏やかに言えばなんとかなるんだ!、とようやく逆ギレ対策を発見したような気がして嬉しかったものだった。

 が、やっぱりそれだけで済まなかった。その翌日も、調子にのった夫のつまらん失態を発見して、それにちょっと私が触れた瞬間、夫が逆ギレ。その瞬間、昨日はなんとが避けることができたはずのリングの鐘を、結局は鳴らす羽目になってしまった。

 それでも、なんとかエネルギー消耗を最低限に抑えたいと思っている私は、声を荒げることなく、淡々と夫を追い詰めていくのだが、それがますます逆効果。ああいえば、こういうという感じで、議論をもとからひっくり返すようなことを夫が言い始める。

 このやり方は、夫が分が悪くなるはじめると彼がやる戦法とわかっているものの、物事の根底からくつがえし、まるで私がすべていけない様な話になってくるから、ついつい私もそれにのって、夫をますますきちんとわからせないといけな〜いっ、というシフトに入ってしまうのだ。あーーあ、これぞ本当の悪循環!。

 《オトコというものはプライドだけの生き物だから、察してあげることが大切》と、私のアドバイスしてくれる方々も多いことだろう。が、が、が・・・・・だ。相手を察してあげるのと、相手がそのことをきちんと自覚しているかどうかはまったく別もの、としか考えられない私は、“私だけが我慢すれば・・・”なんつー態度にはでられない、というか、でたくもないのだ!。

 なので、脳みそフル回転で、説得力がありそうなたとえ話などを、すごい早さで探しまくる。まさに、脳内グーグル検索。そしてとうとう、この間の喧嘩では、時に大女優、時に弁護士であり同時に検察をやった結果、完全に夫を《ホールドアップ》状態にまで追い詰めることに成功した!。まさに、ダーティーハリーになった感じ♪。

 が、しかし、実際は甘くなかった・・・・・・・。四方八方を完全に追い詰められた夫が、ここで投降してくるかと思ったが、そこでもまだ抵抗、《ここまで追い詰めやがって、本当に覚えてろよ!》とまでのたまってくる。その瞬間、カッとした私は、

「覚えてろとかいうまえに、なんでも忘れるのがアナタよね!」と、またまた間髪いれずに答えると、またすざまじい形相で夫が私に向かって、

「Tu vas voir !(覚えてろよ!)」と言ってくる。

 Tu vas voir !って、いうけれど、こんなおっそろしい顔で“覚えてろよ”なんていわれて、忘れないでいるほうがよっぽど難しいよ、と口から出そうになったが、ふと黙ってみた。かまいたちが飛びまくる、ピリピリとした、しーずかな我が家・・・・・・。

 さすがに、どんな展開になっていくのか自分でもサッパリわからなかった私。そしてしばらくすると、夫が私の近くを横切っていった。そして、その夫が数秒後、また私の近くを横切っていったので、“あ、オッサン、何か私に言いたいんだけれど、言えないのかな?”と思った。

 で、またしばらくすると私の近くを横切っていく夫・・・・・・・。最初は夫の出方を待ってあげたものの、こう横切っているばかりだと、またまたイライラしてきたので、《何がしたいんだオッサン!》と、単刀直入に夫に尋ね他私。ま、これですら、夫の策略にのっちまったなぁ・・・、という気がしてしょうがないのだが・・・。

 単刀直入モードになってしまった私は、なお立て続けに、「アナタが悪いことしたのに、それに気がついたというだけで、アナタが逆に私をなじって、どう考えてもわけわからん!。そのあげくに、何度も何度も私の近くを横切るな!」と、火に油を注ぐようなことを夫に進言した瞬間、奇跡が起こった。

夫「ゼロ・・・・・・・・・。ボクはニワトリなんだ・・・」と。

私「ニ、ニ、ニワトリっ?!?!??!!、さっぱりわけわからん!!!!!」

夫「ニワトリみたいにね、首を切られて完全にしめられちゃった後でも、本能で身体だけが、そのあと数秒反応しちゃって走り回っているようなものなんだ・・・・」

私「・・・・・・・・・」

 で、しばらく考えてみたあと、あんなに逆ギレして、意味不明に一人前に脅し文句とか言いながら、自分のことをニワトリと同列にしてしまう夫の発言が、妙にツボにはまってしまい、呼吸困難になるほど笑いが止まらなくなってしまった。

 と同時に、逆ギレする♂というか、動物の本能というものが端的に理解できたような気がした。ま、本当に理解できたかどうかは別として。




2009年03月03日(火) オトコのズルさ

 バツ2で、二人の前妻の間に合計5人も子供をもつ、刑事コジャック似のJY。彼が2番目の妻と正式に離婚してしばらくたってのこと。長いこと、彼は妻と別居していたとはいえ、まだ自分の妻というつながりがきっと彼の中にあったのだろう。が、実際離婚してしまってからは、かろうじてつながっていたモノもプッツリと切れて、寂しさがつもる一方だった模様。

 夜分遅く、ほろ酔いで我が家に電話してくる回数が増え、夫と二人で《あのJY,ちょっヤバイんじゃないのぉ?》などとよく言っていたものだった。

 そんな彼に転機が訪れたのは、昨年の春のこと。出張で韓国行きを命じられ、はじめての極東アジア行きを喜んでいた彼は、簡単な韓国語会話などを暇があれば勉強するようになった。メトロの中で、会話集を片手に、つたない発音で韓国語を勉強していたら、彼の背後から笑い声が起こった。

 ビックリした彼は後ろを振り向くと、どうにも哀れなJYの韓国語に、ほんまもん韓国人女性3人が、笑いをこらえ切れずに吹きだし、大爆笑している最中だったらしい。そこで、彼が彼女らに「じゃあ、どうやって発音したらいいか、教えて♪」と、オッサンなりのチャーミングな笑顔で甘えたところから、3人の中の一人の韓国人女性ASとただならぬ関係になっていった模様。

 ASのおかげで、JYの韓国出張もより充実したものになり、それに比例するように、JYとASの仲も急接近。二人の出会いからちょっとたった後に、JYが私たちの家に、ASを紹介がてら連れてきた時には、二人はどこからみてもラブラブカップルになっていた。

 その頃からか、JYが深夜にほろ酔いで我が家に電話してくるようなこともピタっとやんだ。ま、きっと夜は夜で、二人で忙しいんだろうね、ふふふ、とニヤニヤしていた私たちだった。

 最初のうちは、彼女は仕事を持ち、自分のアパルトマンもキープして、週のうち何日か一緒に過ごすという関係だったのだが、あれよあれよといううちに、ASが職を失い、専業主婦然として、JYの家に住みつくようになっていったようになっていった。

 たまたま彼女がいない時に、私たち夫婦で彼の家にいったことがあったが、彼のクローゼットの中に以前からは考えられなかったくらい彼女の服だとかバック等で溢れているのを、JYが見せてくれた。「こういうの、ボク、好きじゃないんだよね・・・・ほら、なんか占領されていくというか、さ・・」、と言いながら、アンタまんざらでもないんじゃないの?、などと思ってた私だった。

 どうもAS抜きで、JYは私たちに会いたかった模様で。先日、ひっさしぶりにJYと私たち夫婦3人でランチをした時のこと。ムッシュー・自己矛盾と名付けてたいほど、矛盾ばかりのJY、相変わらずASのことは本当に愛し始めているけれど、専業主婦のように毎日、毎晩、ボクのことばかりに彼女が存在している生活が、キツイなどと私たちにお悩み相談。

 「彼女のさりげなく言えばいいじゃん!」と、身も蓋もなく私がいうと、「そんなに簡単にいかないんだ」とか、もったいぶったことをJYは言う。彼のモットーが《パートナー等に、絶対本当のことなんか言う必要はない!》というだけあって、なんでもかんでも隠して、影でボヤイて、欺いてというほうが、このオッサンは好きなのだ。

 あーーあ、胸糞悪いってか、おい、オッサン、都合が良すぎるんだよ、どアホ!、と意見したかったものの、そんなことを言いながらも、彼女のASが、筋金入りの《自分が欲しいものを着実に手に入れていく女性》だという気がしてならない私。

 あとちょっとでもすれば、彼女がJYに結婚を迫り、正式な妻としてJYの日常に君臨してしまうかもしれない行く末を、とても見届けてみたい気がしてきた私。なので、敢えてなにもアドバイスも言わず、ニコニコ笑顔で、彼がどこまでドツボに嵌っていくのかを、じっくり観察させてもらうことにした♪。

 なんでもかんでも人のせいで、人からは嫌われたくないゆえに、口先では言いことを言い続ける生活なんて、そんなに簡単に続かないんだよ〜ん、知ってた、JY?。ましてや、自分では、ASを追い出せないから、私たちを追い出し係に任命しようとか、そんな図々しいこと、考えてやいませんよね?。



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