ゼロの視点
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2009年01月31日(土) お酒はほどほどに・・・

 ここ最近、酒を控えている。というのも、日本にいると、人に会うたびに、やれ一杯、ほら一杯、ついでにもう一杯と、延々とやりすぎた挙句、動かないので、酒太りしてしまうからだ。

 でも、これくらいだったら、フランスに戻って落とせばいいから、いつもならあまり気にしていなかったのだが、1月中旬に、友人らと飯田橋の居酒屋で酒かっくらったのはいいが、そのまま記憶をなくし、気がついたら実家最寄り駅をはるかにこえる、遠方まで行ってしまったことが予想以上にショックだったからだ。

 たいして食べもせず、夕方から酒をひっかけだし、そこに仕事を終えた友人YK嬢が合流してきて、またピッチがあがっていき・・・・・・。以後の記憶は、未だに戻ってきていない・・・・(滝汗)。

 どうやって友人らと別れたのか?、お勘定はちゃんとしたのか?にはじまり、ここまで記憶がないのに、ちゃんと家に戻る路線にきちんと乗り、乗り換えもこなし、ちゃっかりと座席まで確保していた自分にも驚かざるをえない。ま、ここでちゃっかりと座席まで確保してしまったから、ぐっすりと寝込んでしまったのだろうが・・・・。

 ふと目が覚めて、自分が電車の中にいることに気づき、ボーっと停車中の駅の名前を確認したときのショックは、酒飲んで乗り過ごした経験のある人すべてに、わかっていただけるはず。おまけに、自分が乗り越したと気づいた時には、ドアが閉まってしまい、自分を乗せた電車が、さらに家から遠いところへ向かって走りだすのに身を任せるしかない無力感・・・・。

 奇しくもこの日は金曜日。やっと降りた駅からの上り電車は終了、しょうがなくタクシー乗り場にいくと、結構な人が列を作っている・・・・。寒空の中、ひたすら辛抱して待っているとようやく自分の番となり、暖かいタクシーの車内に入ることができた。そして、家まで5000円で到着。

 5000円の損失よりも、まったく覚えてないことのほうが怖くなり、酒はしばらく控えようと思った次第。着ていたダウンコートのポケットをあさると、なぜか居酒屋のレシートが!。後日、一緒にいた友人に尋ねると、確かに私がレシートを持って帰ることに激しく固執していた、ということがわかった・・・・。ううーん、自分自身がわからん・・・。

 よれよれの酔っ払いで帰った私は、そのまま翌日ゆっくりできればよかった。が、最後にたった1枚しか残っていなかった座席を、いとこES嬢に、なんとかしておさえてもらっておいた歌舞伎公演があり、その翌日は結局、フラフラと這いつくばるように、国立劇場へ行かないといけない羽目になってしまった。

 下手したら、公演中ずうっと爆睡・・・、という可能性が高かったが、団十郎の象引が予想以上に華やかで面白かったこともあり、そののりで最後までバッチリ鑑賞することができて、ううーん満足っ♪。

 というわけで、これを教訓に、酒はほどほどに・・・・、ということを徹底させていこうと思ったゼロでした〜♪。ま、タバコもサクッと禁断症状なく止めた私なので、酒自体も今のところなにも苦になっていないのがなんとも不思議っ。



2009年01月30日(金) 熱中してしまうモノ

 夫を助手席に乗せて、日本の高速で、車線の割り込みが横行する中に突っ込んで行き、なるべく早く渋滞から抜けようと、私が強烈に集中していた。こういう時の私は、なぜか燃えている。もともとの負けず嫌いな性格が、出てきてしまう瞬間なのだろうが、とにかく燃えているのだ。

 こういう時の私をみて、まだボケてもおらず、毒舌だった母はよく、《こんなことで燃えるんだったら、もっと人生で成功するために燃えりゃぁいいのにねぇ、昼行灯ちゃん♪》とか、私に向かって言い放っていたのが、昨日のことのごとく思い出される。まあ確かに、こんなことで燃えてどうするゼロ?、というのは百も承知。でも、ゲームみたいで楽しいんだからしょうがないじゃないかっ!。

 左右から割り込んできそうなクルマをさりげなく、ブロックしていき、1台、まだ1台と潰していき、自分のクルマを進めさせていくのに熱中して、《よっしゃあ!》と気合を入れようとしたときのことだった。助手席でじいっと静かにしていた夫が突然、

「かぁっ!」

 と、大きな声で叫んだのだ。それもあまりにも大きな声だったのと、夫の存在すら忘れて熱中していた私だったこともあり、飛び上がりそうなぐらいにビックリしてしまった私。すると、また夫が、

「かぁっ!」

 と、叫ぶ・・・・・。何、何、何、なんなのよ、それっ?!?!?!?!、と私がビックリしている間に、さっきブロックしていたクルマなどが、1台、また1台、私の前に入ってこんできている・・・(涙)。

 でも、なんで「かぁっ!」なのか?。あなたはカラスにでもなってしまったの?。それとも、集中している私に、夫なりの渇でも入れてくれてるの?、と、頭の中がハテナマークでいっぱいにさせている私に、

「前のクルマのナンバープレートにかいてある、ひらがなが“か”だって、わかったんだよ♪♪♪♪」

 、と目を輝かせながら嬉しそうに語ってくる夫・・・・・。

 そんな夫をみて、「えええええっ、なんだよそれぇぇえええっ ?!?!?!?」と、激しい虚脱感に見舞われた私は、アクセルから足が離れてしまい、みるみるうちに大量のクルマに割り込まれしまったのだった・・・。

 思えば、割り込みゲームに熱中している私の隣で、夫は夫でひらがなあてゲームに熱中していたのだろう。そして、やっとそれが“か”だとわかった瞬間が、あの「かぁっ!」という雄たけびだったのだということは、理解できたのだが・・・・・・・

勘弁してくれよ、オヤジィ・・・・・・(涙)。



※石垣島のレンタカーのナンバープレートのひらがなは“わ”


2009年01月29日(木) 完全休養日






 ストライキ本番の本日、予想していたほどの混乱はなかった模様。とはいえ、ストだということを都合に会社にいかなかった人が一名、我が家にいるんだが・・・・・。そんな一名を傍目に、午後からひたすら爆睡体勢に入る私。突然、ガクッと疲れと時差ぼけが襲ってきた模様。

 昨年の10月上旬に日本に到着した私は、その月の下旬には、石垣島、竹富島、そして西表島と、気温が30度を軽く超える場所で過ごし、シュノーケリングや海水浴にはじまる、夏ならではのレジャーを存分に楽しんだ。その後、食欲の秋、年末年始の行事がぎっしりの冬ときて、フランスへ戻る直前には、そんな遠くないところに春の気配すら感じるまでになってきており、あやうく日本の四季を堪能しつくすところだった私。

 日本にどっぷり浸かりきって生活していた分、余計に時差ボケがひどいように感じるのは気のせいか?。とにかく、今日は本当にガクッときた。サロンには、日本からもってきたスーツケースが荷解き途中で放置されたまま・・・・。本日こそ片付けようと思っていたのに、燃料切れでまたまた翌日に延長。

 それにしても、私が日本に行く直前に買いだめしておいたトイレットペーパーが、あまり減ってないのに驚いた。♂ひとりの生活だと、そんなに減らないということなのか?。日本では、連日のように♀の友人ばかりが私の家にやってくることもあり、あっという間にトイレットペーパーがなくなってしまうのが常だったというのに・・・・・

※写真は、2008年10月27日に西表島の祖納という集落での、節祭のひとコマ


2009年01月28日(水) フランス風物詩・・・

 4ヶ月ぶりにフランスに戻ってきた翌朝、私と夫は、友人JYの母君の葬儀のため、Saint-Germain-en-Layeに出向くことになった。Auber駅ホームに、ちょうど停車中のRER A線に、“こりゃ、ついてる、待たなくていいっ♪”等と思って飛び乗ったのが運のつき・・・・・。

 車内にて、あとは電車が出るのを待っているだけの私たちの耳に、“この先のレールがぶっ壊れた云々とのことで、運行をとりやめる”、というなアナウンスが飛び込んできた。その瞬間、車内の人らが一斉に激しいブーイングをはじめる。

 夫はアジテーター的に、“ふざけんな、国鉄ヤロウ!”と、ひときわ大きな声で言うと、別の方向から、それに応答するように、“ふざけんな、くそ公務員”などと罵声が返ってくる。隣の女性は、“レールが壊れたぁ?。そんなどうでもいい理由で、ただ電車を動かしたくないんだろうに!”と、怒りまくっている。

 ううーん、わたしゃ、本当にフランスに戻ってきちまったんだなぁ、と、しみじみ実感・・・。人身事故で、しょっちゅう運行停止になりまくっている日本の首都圏・電車事情もさることながら、なんだかんだと理由をつけて、または全うな理由すらなく平気で運休する、フランス名物の電車事情に、思いっきり巻き込まれてしまい、しばし呆然・・・。

 闇雲に電車から降りて、別のルートや手段で目的地に向かおうとしても、ただただ込み合うだけと夫を諭し、しばらくはホームで停車したままになっている電車内に残って様子をみることにしてみた。が、先ほどまでは、復旧に15分といっていたのに、少し前では50分かかるとアナウンスが変わってきて、今では見通しは全くつかない等という内容に変わり始めている・・・・・。

 農耕民族じゃない夫は、じっと待つということが基本的にできない。かなり挙動不審になりはじめており、いらいらしはじめている。Défense駅からはSaint-Germain-en-Laye方向への電車が動き出したという情報をゲットした夫は、たとえ獲物が捕獲できないとしても、狩りにでていってしまうアホな狩猟民族性を多いに発揮させたいのか、ごったがえしていることが多分に想像できるDéfense駅に向かうと言ってきかない・・・・。

 いつもだったらここで激しい口論に突入するゼロ一家なのだが、いかんせんパリに到着して24時間も経っていない私、時差ぼけのため去勢されたかように従順だったので、Défense駅へ向かいだした夫の3歩後ろをくっついていくことしかできなかった。

 案の定、Défense駅に向かうために乗ったメトロ1号線自体が、すでにすごい混雑。来る電車来る電車、すでに人で満杯状態で、誰も乗ることができないありさま。ほーらみたことか!、と、例外的に従順とはいえ、私の怒りのボルテージもあがってくる。それでも、無理やり乗り込んで、どうにかDéfense駅に到着してみると、構内には人で溢れかえり、まったく身動きがとれなくない地獄と化していた。メトロ1号線から、RER A線のホームへ行くことすら不可能なのだ。



© AFP

 ここで、息を吹き返したように、アグレッシブな性格の通常運転になった私は、《ここまであなたに市が立ってきてこの有様なんだから、ここからは私に従え!》と夫にむかい威張りだし、人をなぎ倒さんばかりに歩き出し、バスターミナルに向かってみた。

 必ず、Défense駅からSaint-Germain-en-Laye方面行のバスがあるはずと信じていた私だが、さすがに乗り場がどこだかまではわからない・・・。あらゆる路線のバス乗り場ですら、人で溢れかえっているので、行き先をいちいち確認するだけで大変だった。

 結局、Saint-Germain-en-Laye方面行のバス乗り場を見つけられなかったので、違うルートのバスに乗ろうと停留所で待っていると、その前をSaint-Germain-en-Layeと行き先を提示したバスが通り過ぎようとしているのを発見!。本能的にそのバスを追いかけるように、二人でしばしマラソン状態。300メートル以上、バスの速度で走ってしまっただろうか?!?!?!。

 そして、ようやく目的地に確実に到達できるはずの乗り物にありついた私たちは、しばし車内でウトウト。その後、葬式会場に到着したものの、すべての式はとっくに終了していた。ちなみに、葬式の主役であった、友人JY自身も、この騒動に巻き込まれて葬式に間に合うことができなかった。

 予定されている全国ゼネストは、明日の29日ということだったが、それを見越しての事故にみせかけたストライキ(=嫌がらせ)だったのだと、私は解釈しているのだが・・・、いかがなものか?。

 ちなみに、私たちは、この行程を墓場にかざる花持参で動いていたのである・・・。花が潰れないように、色々な格好を無理して電車にのっていたためか、あとになって変な筋肉が痛いのがたまらない!。おまけに、だ・・・・、実は、JYの母は本日埋葬されるのではなく、後日、南仏の墓地に埋葬されるとのことで、その際に花が必要だったと後になって知らされたわけであり・・・・・。

 あああああああああっ、夫よ、もっと事前にきちんと調べておいてよ、お願いだからっ!。


2009年01月27日(火) 約4ヶ月ぶりの帰還

 昨年の10月9日からずうっと日本滞在。あとちょっとで4ヶ月・・・、どうせならこのままずうっと居座ってしまうか?、なんて気分になりかけてきていたものの、どうにか本日の夕方、パリに舞い戻ってきた私。飛行機が予定より1時間も早く到着してしまったため、まだ迎えに来ない夫をまちながら、ボーっと空港内を行きかう人を観察する。

 頭はまだ完全に日本な私とはいえ、これからパリの自宅へ戻るなら鍵が必要!、ということでバックの中を探してみるものの、まったく見当たらず。着ているコートのポケットに手を入れると、日本の自宅の鍵だけはちゃんと入っている・・・・・。

 おい、ゼロっ、やる気あんのか?!と、自分で突っ込んでもあとの祭り。出発までにすることが山ほどあったこともあり、いかにすべての用事をこなしたうえで、実家を閉めてパリに戻るか・・・、ということばかりを考えて動いていたせいで、パリの自宅の鍵を持ってくることなんてすっかり忘れていたことに気づいた。

 私が離れてしまえば、ただの空き家と化す実家なので、4ヶ月弱も暮らした後は、それなりに整理&掃除して、虫がわく、カビが生える、食品が腐る、灯油やガス漏れる、漏電などのトラブルが不在期間に発生しないように、いろいろと努力しないといけないのだ。

 出発直前には、家のことを熟知してくれている友人2名がやってきてくれ、キッチンと風呂場を掃除してくれて、本当に大助かり、ううーん、感謝感激♪。出発1週間前から、外出をひたすら控え、家を閉める作業と日本を離れるまでにしなきゃならない役所&銀行関係の手続きなどに徹底するのが常なのだが、今回はいつも以上に大変だった。

 というのも実は、私がとうとう実母の成年後見人になったからなのだ。海外在住者が後見人などできるのか?、という理由で、裁判所の書記官に嫌味を通り越す、脅しにも近い言葉すら浴びせられ、一時はどよーーんと真っ暗になりかけたものだったが、それでも戦い続けて、なんとか申し出を認めてもらうところまで漕ぎつくことができた。

 後見人として認められる審判が下ったことで、一安心できたとはいえ、後見人になった時点からスタートする色々な煩雑な手続きや面倒くさい書類作成作業などが山積み。ということで、本当に終わりがない・・・・、これの任務を終えることができるのは、実母が亡くなったときなのだ、と思うと、なんともいえない感慨が沸き起ってくる。

 そもそも昨年の10月下旬から11月いっぱいの6週間は、夫も私と一緒に日本にいたのだ。夫は11月下旬にパリに一足早く戻り、その3週間後、私は用事をすませてパリに戻る、というのが当初の予定だった。が、後見人になるための申し出に手間取ったことで、夫の3週間後ではなく、実際にはその2ヵ月後にパリに戻ることになってしまったのだが・・・。

 夫としてみれば、肩透かしをくらった感じだったのかもしれないが、私としたら、条件付きの日本に滞在延長とはいえ、それでも久しぶりの年末年始を日本で過ごし、くそばばあこと、死ぬ死ぬといいながら、相変わらず元気すぎる、性格の悪い姑のいるフランス某地方都市に、クリスマスだからというつまらん理由で足を運ぐ必要もなくなり、これはこれでちょっと嬉しい誤算となった♪。

 後見人のことがどうなるかまったく目処がたたないままの年末年始で、不安になろうとおもえばどん底まで不安になれただろうに、それなりに全力で遊んでいたおかげで、楽しい日本での生活を満喫できたように思う。親はグループホーム、夫は海の向こう、手のかかるペットや子供がいるわけでもない、《ゼロ野放し状態》♪。

 日本最終日の晩は、すでに掃除してピカピカになってしまった風呂場を使いたくないのもあって、家からさほど遠くないところにあるスーパー銭湯系の温泉へ友人とGO。ただ湯につかるだけじゃなく、アカスリ&マッサージもお願いして、ツルツルピカピカになってパリに戻ってきた私。だが、こういうふうに、最後の最後の瞬間まで日本でいかに楽しみながら義務を果たすか・・・・、ということだけい頭を使ってきたツケが、冒頭に書いた、パリの自宅の鍵を日本に置き忘れてくる、という事態を招いた。

 おまけに、夫も夫で、なんと私の帰国1週間前に自宅の鍵を友人宅へ置き忘れてきたままだという・・・・。おまえもかぁぁぁああああっ?!?!?!、ということで、いざという時だけに使う予備の鍵を、しばらくの間、二人で共有する羽目になったゼロでした・・・・・、あーーあ・・・。



               ※都内のとある書店にて


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