ゼロの視点
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思えば1989年の春、初めてベルギーから列車でパリの北駅に到着した時は、なんともいえない雰囲気に驚いたものだった。そして、スーツケースを持ってメトロへ乗ろうとヨロヨロと友人MF嬢と2人で歩いていると、目の前にトレンチコートを着た♂が立ちはだかり・・・・・。
邪魔なんだけれどなぁ、このオッサンとばかり、ボーっとしていると、お決まりのコートご開帳で、白人サマのビ魚肉ソーセージの拝見からはじまった、パリ初体験。
ただ、ここで驚いては相手の思う壺とばかり、高い授業料の割にはまったく使い物にならない、私大仏文科在学生の仏語能力ギリギリ精一杯のところで、オッサンに《C’est trop petit pour moi /そりゃ、わたしにゃあ、ちいさすぎるわ〜ん♪》と言い返し、オッサンとその魚肉ソーセージそのものが同時に萎びていくのを、颯爽( ?)と後にした私たち・・・・。
とはいえ、実際のところは、ドキドキしてたわけで、緊張した中での出来事だったのが、今になっては懐かしい思い出。フランス語もどうにか通じたとはいえ、強烈な日本語訛りの、ほとんどカタカナ読みに近い代物だったに違いない・・・(汗)。
さて、昨年の5月、モロッコのフェズを1週間かけて旅行した。夫が所属している某団体のメンバーで、フェズ出身のパリ在住モロッコ人SLが企画した旅行に、私たちは参加したわけだ。ツアーのメインは、ここで毎年開催されている、フェズ世界の聖なる音楽祭(Festival de Fes des Musiques Sacrees du Monde)の鑑賞。
フェズ観光の目玉、迷宮都市とも言われているメディナを、フェズに到着した翌日の朝から、ガイド付で観光。見るものがたくさんありすぎて目が疲れるほどだというのに、そのうえスリにも注意しろと、嫌になるほどガイドらに言われる。そして、そんな言葉に誘発されたのか否か、皆、なんとなくピリピリして観光を続けている。
さて、これが主催者SLの思惑だったのかどうかは知るよしもないが、以後、皆は、フェズが油断もすきもないところというふうにとらえるようになったのは、確か。ゆえにツアーの最後の最後まで、SLが企画したオプションツアーだの、ディナーだのなんだのと、現地人の生活レベルの何十倍もする《贅沢》な企画のみに、彼らは参加し続け、誰も、フェズのメディナを自由行動で再訪しようともしなかった。
私は、もともとこのSLがうさんくさくて、好きじゃなかったので、ツアーには参加したものの、極力、自由な時間をゲットしようと企んでいた。というのも、ツアー中の企画の差額は、全部SLのポケットマネーになっていることは、明らかだったから。そして、最後の最後まで、できる限りの自由行動を続け、SLに《献金》しない私たち夫婦は、かなり煙たがれるようになっていったが、ま、仕方がない。
SLが私たちを利用するなら、私たちもこちらのやりかたで少なからず利用しかえしたって、別に悪いことじゃないわけで・・・・。
さて、連日、《今日もちょっくらメディナで迷ってきま〜す♪♪》と、楽しそうに目を輝かせて、出かけていく私たち夫婦の後姿を見て、ツアーの仲間は皆、あきれていたと後でなって耳にした。《あんな危険なところを・・・》というわけだ。
で、思わず笑ってしまった。バグダッドへ行ってしまったというのなら、わかる、が、フェズはそれでも一応観光都市でもあるわけで、それなりに最低限の用心をしていれば、とても楽しめる場所でもあるはず。なのに、怖い、というわけだ。
で、それ以上に笑ってしまったわけは、日本人がフランスへ行く場合、ガイドブックにはたくさんの治安情報が書いてある。むろん、北駅などは治安が悪いので有名であり、ネットで検索すれば、旅行者の間で《近く北駅を利用するのですが、本当に大丈夫ですか?》などというやり取りを、ごまんと発見できる。
そのくらい、日本人観光客は、ある意味フランス人を怖がり、移民が増えていくパリの治安を気にしながら旅をしたりしているわけだ。もちろん、私もかつてそうだったわけで・・・。ジャックナイフをポケットに忍ばせ、外出する時は、ホテルの部屋でも盗難にあうかもしれないと思い、スーツケースごとがっちり鍵をかけたうえで、南京錠でスーツケースを便座に結びつけ・・・・・・・・。
ここまで他の人がやっているかどうかは知らないが(笑)、あの時の私は、日本人じゃない人は、皆、ものを盗む可能性があるとまで、無意識に思っていたふしがあると、最近になって気づいた。それは、恐らく、熟知できないものへの形容不可能な怖れから来ているのだろうけれど。
が、今回、これと同じように、ツアーに同行した、フランス白人で、日本で言う《一般中流家庭意識》を持っているだろう彼らが、フェズの自由散策を怖がっている様子が、日本人が海外旅行とする時の怖がり方とダブった。そして、日本人が怖がる《異邦人》である、フランス人らも、同じく《異邦人》を怖がっているのが、なんともいえず滑稽で、あまりにも人間らしく、おかしくなってしまった、というわけ。
決して彼らをバカにしているわけではない。むしろ逆で、自分の一度は通過したポイントであるからこそ、自虐的に笑えた・・・、というのが正しい。
恐らく、これを読んで、パリもフェズも全然怖くもなんともない人もいるだろうし、その両方が怖いと思う人もいるだろう。で、全然どうも思わない人もいるだろうし、所詮世界なんてそんなものだ。そう、すべて相対的であって、誰とでも同じ尺度では語り合うことは難しい。
大昔からの歴史年表や近年の世界情勢を見聞していて、はては、あらゆる人間関係、つまりは、同僚、家族、殊に夫婦(笑)のことまでを考慮したうえで、相対的な物事を尊重し、決して自分だけの尺度で他者を断罪しないこと。それは、簡単なようでいて難しいことなのだと、つくづくと思うゼロでした。
ああ北駅、されど北駅・・・・・。
友人がロンドンからユーロスターでパリにやってくる時に、北駅へ迎えに行く機会が定期的にある。が、それ以外に、 気分転換のひとつとして、《さあ、今日はアフリカ大陸でも行ってくるかぁっ♪》というノリで、北駅に足を運ぶことがある。別に電車にのるわけでもないのに、パス(私の場合は年間パス)でわざわざ構内に入り、その中のショッピングモールで買い物をする・・・、ということを、私はたまにする。
サッカー競技場として有名な、スタッド・ド・フランスへ行くにも、北駅を通過せざるをえないシステムゆえ、アフリカ大陸とフーリガンが一緒になって、そりゃあ、エキサイティングな雰囲気になっている時もちょくちょくある。
構内の奥の奥には、モノプリもある。で、そこで夕食の買い物などをわざわざしていることがあるのだが、そこまでの構内の旅が、なんとも異国情緒&スリリングでおもしろい。バーゲンの時期にも、必ず一度は北駅構内のブティックを一巡するようにしている。
かなり安いし、パリ各地にある同じブティックでも、商品が微妙に違う気がするのは気のせいだろうか?。あえて、売れ筋となりやすい、格安商品だけが置いてあるように思えて仕方がないのだが・・・。アフリカ大陸の方々が好みそうな、キンキラした商品が、他のところと比べて、多いようにも感じられる。
あくまでも使い方によって微妙に異なる、《おしゃれと下品》のハザマにある品物たちがたくさんある北駅構内。友人画家(♀)ITも、定期的に北駅巡回をやっているとのことだった。
が、先日の7月27日の19時20分頃、この場所で事件があった。
今年5月の大統領選挙の前にも、一度、サルコジ候補(当時)に対して反対&怒りを表明するとして、パリ郊外からの若者らが、北駅構内ショップのショーウインドウを叩き壊す事件があったりと、何かとHOTな場所ではあるのだが、今回は、死者が出たから、ちょっとだけ驚き。
構内に、虚ろな目をした明らかに挙動不審と思われる男を発見したパトルール中の4人の警官たち。一度は通りすぎたものの、戻ってきてもまだ同じ場所に座っている男に対して、職務質問をしたのが事件の発端。
そして、4人の警官に同行するように言われた《不審者》は、抵抗することもなく、おとなしく彼らについて歩き出した。そして、某スポーツ店の前に来た瞬間、突如、彼は右手を上着のポケットに入れたかと思うと、警官相手にピストルを構えた。
警官らは、武器を捨てるように説得したものの、《不審者》はピストルを発砲。彼の銃口から発火したと同時に一発の発砲音。が、のちに、これは空砲だったのこと、どうなっているのか?。また、別のソースでは、この《不審者》が、2発目を発砲しようとしていたということも書いてあるが、真相はいかに?。
一方、警官のほうは、この《不審者》の選択した行為に基づいて、すぐさま発砲。《不審者》の足を狙った弾は見事に的を得たが、その直後、別の警官から発砲された弾丸は、彼の腹部に致命的な傷を負わせた。そして、《不審者》は運ばれた病院で死亡。40歳のアルジェリア人男性とのことだった。
現在、この事件はいちおう正当防衛として処理されているようだが、ま、ちょっと面倒くさいところもたくさんあるのではないか?、と思わせるところもある。さっき、ざっと目を通した新聞には、この《不審者》には、精神科既往歴があったとも書いてあるから、それが本当だとして、人権屋系弁護士が登場した場合(あくまでも仮定)、さらに複雑な展開を見せることだろう。
映像をみるまでもなく、新聞記事を読んでいるだけで、事件があった場所がわかるので、妙に臨場感がある。ああ、あそこで、発砲かぁ・・・・、なんか、すごいなぁ、というのが、率直な感想。
と、同時に、昔から言っているのだが、いつも私がパリ市内を一人でふらつく時は、何があった時、全力疾走=逃げることができる、が可能な格好を基本にしているということ。バックも、完全にきっちりと閉まるタイプで、いざとなったら、両手をフリーにできるものが良し。または、バックで身を守ることも可能な、頑丈なもの、とか。
ヒールが高い靴が、そりゃあ大好きな私であるが、それでも、場所によっては、走ることができるヒールを身につける。以前、このことを人にいったら笑われたが、ま、本当に何が起こるかわからないし、自分の身は自分で守れ・・・、というわけで、知らず知らずのうちに、私には、こういったことが身についていったようだ。
が、自分の《妙な習慣》は変わらないとしても、今まで一度も襲われたことがないっ(爆)!!!!!。誰も、襲ってくれないっ、と述べたほうが正しいだろうか?!?!?!?。身長173cmもあると、ねぇ・・・・・。襲われないことは、良いこととはいえ、うーーん、微妙に複雑。こんなに備えているのに、どうして?!?!?!?。
ただし、いくら逃げることが可能だろうが、準備してようが、こういった事件に巻き込まれて、流れ弾にでもあたったら、一発でお陀仏なんだろうけれど・・・・・。
2007年07月26日(木) |
ウルリッヒ・ミューエ |
いつものように、テレビニュースを見ながら、あーでもないこーでもないとくっちゃべりながら、夫と夕食をとっていた。そして、ふと入ってきた、とあるドイツ俳優の訃報・・・・・・。
今年の1月に、ふとしたきっかけで、私たちはベルリンへ旅たった。4泊5日ほどの滞在だったのだが、本当にパリとは全く違う空間を、堪能することできたいい旅だった。
ベルリンも移民が多いと聞かされていたわりには、タクシーの運転手でもなんでも、パリに比べれば、日に焼けた人種の割合が少ない。これには、本当に驚いた。トルコ系移民がたくさんいるというが、本当にそんなにいるのぉ?、というほど、パリのソレに比較したら、すべてがブロンド金髪に見えるほど。
人口密度もパリに比べたら、見た目にはベルリンのほうがはるかに少ないように感じた。とにかく、広大な土地と、いまだにあちこちに漂う、旧時代の残滓と、モダニスムの折衷は、70年代のアングラSF映画をみているようでもあって、妙にゾクゾクさせられる。
ベルリンの街をみていると、ふとロンドンを彷彿させる気配もあり、ああ、こういう街がロックを産むんだなぁ・・と肌で妙に納得すると同時に、パリは決してロックな街じゃない・・・、と、なぜか強く思ったりもした。永遠に続くかのような荒涼とした大地から沸き出でる寂莫感と諦念、それに喚起されたかのように《それでも生きているっ !!》身体を逆流する熱い叫び。
一方、パリのおっさんらが囁くように歌っているシャンソン等は、実は、愛だの、捨てないで〜♪、皆に捨てられて枯葉のように死んでいくだけだよ〜おれは〜♪♪、だのと、もっと人間じみていたして、日本の演歌のようでもあるから、面白い。熱くシャウトして、現社会を訴えてやる〜っ、という意気込みはあまり感じられないのが、おフランスのシャンソン。
ま、仮に社会を反映したシャンソンがあったとしても、ロックとはまた一味違うのが、おそらく、ラテン人種とアングロサクソン、および、ゲルマン系の方々と違うのだろうと思った。
その後、友人らのすすめもあって、映画《善き人のためのソナタ・Florian Henckel von Donnersmarck監督/2006独/原題Das Leben der Anderen》を鑑賞。ストーリーなどの説明は割愛(検索すれば、たくさんヒットすると思うっす)。
この映画が淡々とした展開かつ、心に静かにそれでいて確かなインパクトをもって迫ってくる、極上の心理ドラマを展開させる。そして、このシナリオだけでも興味深い映画を、なお一層味わい深いものにさせている俳優が、ドラマの主人公であるヴィースラー大尉を演じた、Ulrich Mühe(ウルリッヒ・ミューエ)だった。
彼の表情、殊に目から醸し出される、様々な感情の葛藤などは、本当にすばらしいと思った。そして、その控えめながらも強烈な演技は、あのベルリンの乾いた冷たさとマッチして、かなりのインパクトを私に与えたものだった。
以後、暇な時間にテレビを何気なくザッピングしていると、この俳優が色々な訳でテレビドラマなどに出演しているのを知って、そのたびに、夫と2人で《あの俳優だっ !!!!》等と、それを発見しては、心もち彼を応援している気分だった。
それが・・・、だ。突然の訃報・・・・・。享年54歳、胃癌が原因とのことだった。
なぜかわからないが、この訃報を耳にして、非常に悲しくなった。普段はこういったことがないのから、自分でも驚くが、わたしと同様、夫もかなり悲しいと言っていた。そして、悲しいという感覚と共に、1月にベルリンで感じた、寂寞感が身体じゅうにひろがっていった。
などと、書きながら、その2時間後に、ARTEチャンネルで放送された映画《仏題Jamais sans ma mère/2003/ノルウェー/原題Mors Elling 》が、たまたま始まったので、観てみたのだが、妙に面白く、すっかりテレビの前から動けなくなってしまった。そして、先ほどの悲しみなどはどこかに吹き飛んで、この映画をみながら、泣き笑いをしているうちに、一日が完全に終わってしまった・・・・・・・・・・・(汗)。
本当に、この夜は、ただひたすらテレビの前で受動的に過ごしてしまった・・・・。とはいえ、ベルリン、そしてノルウェーなどの、緯度の高いヨーロッパの雰囲気に包まれた一夜だった気もするゼロでした。
4月の中旬から5月の中旬まで、また、日本の実家にいた私。前回、日本でゴールデンウイークを過ごしたのは、1997年なので、実に10年ぶり・・・・、というわけだ。
しかし、この時期は本当に気持ちがいい。実家の前の道路を挟んだ向かいには、学校があるのだが、その敷地内の木々が太陽を燦燦と浴びる姿が、窓から見える。そして時々吹く風に、サラサラという心地いい樹木の音を網戸越しに、子守唄かなにかのように耳にするうちに、まどろんでいく昼下がり・・・・・・。
そう、私はこんなふうにして、よくこの実家で過ごしていたのだ・・・・。友人が来ているというのに、ああ・・っ、と、まどろんでいき、そのうち、友人もまどろんでいき、犬もまどろんでしまい、そして、結局みんなが、真昼間から深い眠りについてしまう、我が実家の居間・・・・。
そんなところに、出かけ先から戻ってきた母が、居間で討ち死にしているかのような人間数人と犬を発見して、《いい加減にしなさ〜いっ、おきなさ〜イ !!!!!》と、よく怒られたものだったが、10年ぶりに、このさわやかな時期の実家で、同じようにまどろんでいるうちに、こんなことを思い出した。
今回も、私のまどろみ仲間MF嬢と一緒に、あいも変わらずまどろんでいたのだが、思わず2人で《前だったら、この辺でゼロのおかあさんにたたき起こされていたよね〜っ !!!!!》と、爆笑したと同時に、もう、思う存分まどろめるんだ〜っ、と安堵する。
が、人生皮肉なもので、たたき起こす母親の存在がなくなったというのに、たたき起こされなくとも、ずうっとまどろんでいられない身分になってしまったゆえ、自分で自分を律し、つまりは、自分で自分をたたき起こし、日常の雑事をこなしていかねばならない、というわけだ・・・・、ということで、ずうっとまどろんではいられないという無常・・・・・。
MF嬢は、ふと起き上がり子供のお迎えですっ飛んで帰っていき、私は私で、母のいるグループホームの面会時間内に間に合わせるために、クルマに乗り込む・・・・・。
さて、こんなふうに慌てて母のホームにやってきたというのに、母は母で、またマイペース・・・。
昔から、私は家によく人を呼んできては、前述のようにみんなで、居間で延々とゴロゴロする・・・・、というのが習慣だった。で、その間よく、母は庭掃除したり、買い物いったり、パートへ行っていたりと、とにかく、私たちとは正反対に、《家の外》で多くの時間を過ごしていた。
別に、私たちが母を追い出した・・・、というわけではない(笑)。が、なんでかしらないが、いつも、家に人がいると、彼女は外へ行ってしまっていた。
母はホーム内で個室で過ごしているのだが、その個室に入って、最初のうちは2人で話をしたりしながら、テレビを見たりと、のんびりと過ごしている・・・・。が、ふと、母は《ちょっと行ってくるからね、ゼロちゃん》と言いながら、部屋を出て行こうとする。
私『どこ行くの』
母『ちょっと行ってこなくちゃいけないの』
私『だから、どこよっ !!!!』
母『だって、何も食べるものがないでしょ、だから買い物行ってくるわ〜』
私『いいじゃんべつに、今日じゃなくても』
母『バカね、ゼロちゃん、何言ってんの!!!!!、あたしが買い物しなくて誰がするのっ !!!!!』
私『あっそ、じゃ、行きたければ行けばっ !』
という会話の後に、母は個室のドアを丁寧にしめて出て行ってしまった。で、部屋に取り残された私は、母のベッドの上でゴロゴロしながらテレビを見るはめになる。そして、そういえば、この部屋窓が開いてないな・・・、と、窓を開けて網戸にし、気持ちよくなったところで、またベッドの上でゴロ寝しながらテレビを見ていた私は、気がつくとうたた寝していた模様・・・・・。
ホームには入居者が集っている広間があるのだが、母が、いつものようにそこで元気に仲間と過ごしているので、ホーム職員は、まさか母の部屋に娘がいるとは思っていなかったのかもしれない・・・・。母の洗濯物を、彼女の部屋に入れておこうと思って、とある職員がドアを開けた瞬間、ベッドの上に母とは違う人間が悠々とうたた寝していて・・・・・・・。
私は私で、そのドアが開いた音で目が覚めた。職員と私の目と目があったまま数秒・・・・、妙に照れくさい笑いを双方でしながら、『あっ、どうも・・・・・』とわけのわからぬ、それでいて都合のいい日本語が、自分の口から飛び出していた・・・・・。
今年の夏は、恒例のバカンスへも出かけず、ひたすら節約してパリ生活なわたしたち。というのも、10月に私が日本へ戻る時、今回はうちの夫も同行するゆえ。それプラス、仏人♂2名も私たちに合流し、2週間弱に渡る日本国内旅行を繰り広げることになったから。
もともと、今回の里帰りには、私たちのレイキマスターであるMGが、以前から非常に興味を示していた。彼のおかげで、私も夫も供にレイキマスターになっているわけだが、そんな彼と一緒に日本に行くことが可能だったら申し分ない。
と、言いたいところだったが、それでも、《何か足りない》という感覚が私にはあった。3人で日本へ行くというカタチで話が進めば進むほど、《何》が足りないという漠然としたネガティブ感とは異なって、それが《もう一人》足りない、という観念に、自分がとりつかれているのが、はっきりとわかってきた。
そう、《4人目》がいないと・・・・・、と、ずうっと思っていたのである。そして、MGの方にも、この旅行に興味がある人がいたらどんどん誘ってみて・・、と頼んでおいたにも関わらず、旅行が2週間にわたる長期なものであることもあって、仏人といえど、そんなに簡単に休みを10月に取れないという理由で、《4人目》が見つからなかった。
もちろん、私たちのほうでも《4人目》探しをしていたものの、珍しく誰も見つからず・・・・・。条件としては、4人目は仏人で日本に興味のある人という、非常に安易なものだったので、簡単に行くかと思っていたが、全然反応なし。
こうなったら、せっかく日本へ行く気になっているMGには申し訳ないが、いっそのこと断ってしまおうか?、とまで考えていた時のこと。問題は、いとも簡単に解決した。
なんと、MGのもとでわしらと一緒にレイキを学んできたPTが、日本へ行きたいと申し出てきたのだ。4人目として、これ以上申し分のない人間は、PTをおいて誰もいない。が、彼は仕事もそんなに休めないし、休日はアットホームパパ、そのうえ、旅行をほとんどしない人間として有名だったので、私たちの頭には《誘ったところで、どうせ日本なんぞへ一緒に行けない人》というリストに入っていたのだった。MGにしても、きっと一緒にいくならPTがいいと思っていたに違いないが、《所詮、ありえない話》と思っていたに違いない。
ゆえに、彼からの申し出には腰が抜けそうなほどビックリしたと同時に、ああ、なるほど、こういう答えが用意されていたからこそ、あれほど探しても4人目が出てこなかったのだ・・、と、妙に納得した。
とにかく、今回の旅行とその目的には、ベストメンバーが揃ったということで、俄然、私のやる気度がアップ。さっそく、旅行仮日程を詳細に作り、企画見積書としてMGとPTへ送付し、検討してもらっている。と、同時に、同じように旅行仮日程見積書を日本語バージョンでさらに詳細に作り、それを知人&友人に送付し、興味がある人を募っている。
2週間はさすがに一緒に旅行できる人はいなくとも、各所で1日〜数日間に渡って、私たちの行程に参加表明をしてきてくれてるので、ますます面白くなってきた。
MGは、一度仕事で日本に数日行っているレベル。そして、本当に旅行というものを趣味としていないPTにとっは、初めてのアジアが日本となる。今までに彼が旅行したのは、カナダとアメリカ、そしてヨーロッパの近場を仕事の出張で・・・、というレベルだ。
彼らは2人揃って、よくありがちなところで、日本を妙に神聖視しており、現代日本的なものを見落としているとも思えるところがあるので、そこをどうやって、《わたし流》に打ち崩していけるかが、密かな楽しみとなっている。既成概念を地盤から揺るがす・・・・、ううーーん、なんてわくわくするのだろうっ!!!!!!!。
ふと、暇つぶしに実家がある地名をGoogleで画像検索してみた。すると、実家からすぐのところの写真が何点もヒットして、ビックリ。フルスクリーンに拡大された画像をみていると、写真に吸い込まれそうになってくる。そして、今にでも、そこにうつっている道を歩いて、その先にある実家に当たり前のように戻っていきそうだ・・・・。
物事を思い出そうとする時、私はよく、その瞬間に戻って《その時》を頭の中で再現する作業をする。その時の映像がふと出てきて、そこに舞い戻った私が、再び《そこ》で探偵のように、喪失したと思われる事象を探す・・・、というわけだ。
が、瞬時に映像が出ない時がある。そういう時は、たいがい泥酔して、記憶自体がぶっ飛んでいた場合(汗)。ま、20代の時から比べれば、いまやこういう状況は極端に減ったとはいえ・・・・。何度トライしても、まったく出てこない映像と、そういう自分の状況に酷く不安を覚えたりしたものだった。
とはいえ、いずれきっと、《違った理由》で、また映像が頭に浮かばないことが多くなってくるのでは・・、と、思われる。老化・・・、だ。まだ先の話であるようだが、認知症になった母を見ていると、ありえないことではない・・、とつくづく思わされる。
と、同時に、認知症というのは、《今までできたこと、今まで思い出せたことなどが、何度トライしてもできなくなっていく自分に対する不安という病でもある》と、とある人に説明されたことがあったが、最近私は、それは至極当然なことだ・・・、と、認識するようになった。
さて、写真に吸い込まれ、知らず知らずのうちに写真の中の道を実家に進み始めた私。当然のごとく、かばんの中から鍵を出し、ドアを開けようとしている。そして、実家のドアを開ける感触、音、そして一歩家に入った時の匂いまで、まるで本当にそこにいるかのような、摩訶不思議な感覚がやってきた。
家の中の雨戸は閉まっている。以前、母が実家にいるときだったら、私のイメージだったら、雨戸は開いていたのだろうけれど、おもしろいことに、私の記憶はきちんと書き換えられており、《もう、母はここにいない》ということになっているようだ。気まぐれにしか更新されなくなって久しいこのサイトよりは、きちんと更新されている私の記憶、と、いったところだろうか?。
それにしても、実家近所の写真の効果は、なかなかのものだった。と、同時に、今になって、やっと《郷愁》という言葉の意味とそこに折り込められた感慨が、わかるようになってきている自分を発見。
両親とも、東京都出身ゆえ、里帰りするということがなかった。お盆や正月などの帰省ラッシュをみては、それに猛烈に憧れた。夏休み明けなどに、学校でクラスメートが、《田舎で・・・云々》と楽しそうに語るたびに、田舎がない自分が悲しかった・・・・(笑)。親に《お願いだから、田舎を買ってくれ》と訳のわからないことを、執拗に頼んでいたこともあった私。
それが・・・・・。
何の因果か、今や、クリスマスだ、なんだと、夫の実家へ大荷物で帰省ラッシュすることが当たり前の生活になった上に、フランスとその極東にある母国に帰省するのが常になった生活。
田舎が欲しくても買えなかったから、それならば・・・、と、無意識のうちに私はこういった場所を選んで暮らし始めたのか?!?!?!?、等とも考えてみたが、ま、どちらにしても、こういう生活になった現在、はっきり言うが、里帰りなんぞ、非常に面倒くさいっ、その一言につきるっ!!!!!!!!!!!!。
実家だろうとなんだろうと、適当に近くにあるほうが便利なのだと、こんな人生を遠回りした挙句に、ようやく悟った、40歳になりたての、わ・た・し。あーーあ。
想像上で実家のドアを開けた私だったが、ふと現実に戻って、誰もいない家の様子はどうなっているのか激しく気になりだし、実家近所の友M嬢にさりげなくメールしてしまった。ま、さすがに、すぐに家の中を見に行ってくれ〜っ、等とは頼めなかったものの(笑)。
最近、M嬢はジョギングを始めた・・、ということだったが、いっそのこと、うちの実家前を通るコースにしない?、と、今度頼んでみようか?!?!?!等、深夜に図々しい思索を練るゼロでした。
日本に住んでいた時も、今、こっちで暮らしていても、私はいつも映画が好き。かなり若い頃から、カルト映画から何から、色々と凝りまくって鑑賞してきていたりもする。それと並行するように、フランス文学だの現代思想だのをかじりはじめたのが、今思い起こせば、こっ恥ずかしいわたしの青春時代ともいえる・・・・(汗)。文字通り、本当に《青い春》でしかなく・・・・・、あーーあ。
そんなことから、ヌーヴェルヴァーグだのなんだのと、フランス映画鑑賞ストックは、日本で普通に暮らしている時点でかなりあるし、ソレに基づく、映画評論だの似非評論だの、さらにはその映画背景にいたる原点探しなども、それなりにチェックしていた。
が、場所と言語と文化をすべて視点を変えて、あらためて同じ映画を見直してみるとどうなるか・・・・・・?!?!?!?!。
ま、簡単にいえば、フランス映画などにもちょっとだけ詳しかったとある日本人が、98年からフランスに住み始め、最近になって昔鑑賞した映画を色々とみなおしてみると、あーら不思議、あんなにウルトラ有名な評論家から、マニアックなあんな人こんな人までが、難解だとか、シュールだとか、婉曲的な言葉を駆使して、さらに難解な評論などで絶賛されていたはずの映画が、本当にどうでもいいものだったりするから面白い。
その上、自分自身の変化、つまりはもう青春じゃなくなって、さすがに40歳になったりすると、考え方の違いなどが、前述の視点の変化にさらに激しく拍車をかけるから、笑える。
たとえば、映画《冒険者たち・Robert Enrico監督/(原題 Les Aventuriers/1967)》などは、昔は喜んで何度も見ていたのに、昨年15年ぶりくらいにこの映画をみたら、ほとんど感動もなにもできずに、そのことに可笑しくなってしまった。よく考えてみれば、この映画をみたのは、フランスで生活しはじめてから始めてのことで、ゆえに、日本語字幕なし、フランス語オンリーで鑑賞したことになるのだが、それが、余計、興ざめにさせたところでもあると思っている。
とにかく、ユーモアもあまり私には感じられなかったし、突っ込みどころも満載すぎて、かえって突っ込むのさへ面倒くさくなり、最後にアラン・ドロンが犬死していくのを、あーーあ、だからいったこっちゃない、的に、しらけてみている、わ・た・し。ま、私がばばあになっただけなのかもしれないが(滝汗)、それにしても、なぜあそこまでこの映画が賛美され、わたしもその賛美者だったのかが、全くわからなくなった。
お次は、映画《気狂いピエロ・Jean-Luc Godard監督/(原題Pierrot Le Fou/1965)》。これは、たまたま友人がうちにこの映画のDVDを置いていったのがきっかけで、暇つぶしに1年前に、同じく15年ぶりくらいに鑑賞してみた。
アンナ・カリーナが途中で歌う、あの有名な「Ma ligne de chance(私の運命線)」は、なんてシュールとか、なんてアヴァンギャルドなとか、なんて難解な・・・・・・・、などと色々と評価をうけていたはずの歌詞でもあったのを、見終わってから思い出し、思わずネットで日本語検索してしまったほど。
なぜ、見終わってからしか気がつかなかったのか・・・?、といえば、この歌を聞いている最中、あまりにもバカらしく(いい意味で)、くだらない男と女の溝を端的に言葉遊びで表現されていたので、大爆笑してしまっていたから・・・。難解というイメージから程遠いほど、あまりにも日常的で、切ないほどにわかりあえない男と女が、折り合いをつけられないながらも、延々と乳繰り合っている・・・・、という感じ(笑)。
♀が《私の運命線(ligne)が短いのよ〜》と、ちょっと甘え悲しみながら、自分語りを中心とした会話がしたい。ところが♂の方は、《おいらは、きみのヒップのライン(ligne)のほうがいいねえ、うひょひょ〜♪》と、身体を中心とした会話から肉弾戦に進みたいわけであり、そこに♀が訴える《わたしのことをわかって・・・》というSOSなど、まるで♂の耳には到達していない様子がうかがえる。
まるで、喫茶店などでたまたま隣に座ったカップルが、喧嘩に発展するか否かのギリギリラインで、会話しているのを、《他人の不幸は蜜の味》的に盗み聞きしている楽しさ〜♪。
これ以外にも、かなーーり爆笑できる男と女の会話が多々あり、これって極上のコメディー映画だったんだっけ?!?!?!?、と思ったほど。
立場をかえて、今度は日本文化などを理解するのに、日々頑張っている仏人の場合・・・・。たとえば、《古池や蛙飛こむ水のおと》という芭蕉の俳句について。そして、これを理解するのは大変難しく、この短い一句の中に、日本を解く鍵がある・・・、なんて説明をそのまま真に受けて、一生わからないかもしれないが、すばらしいものとして、この句を暗唱していたりする人が結構いたりする。
感覚というのをゲットすることと、頭で理解するということの違いが、あらためてわかったような気がした。異文化の《現地感覚》をいかに、それを知らない相手に伝えられるか・・・?、ううーん、非常に興味深い課題である。
参考までに、「Ma ligne de chance(私の運命線)」の歌詞をどうぞ〜。
Moi j'ai une toute petite ligne de chance Moi j'ai une toute petite ligne de chance Si peu de chance dans la main Ça me fait peur du lendemain
Ma ligne de chance, ma ligne de chance Dis-moi chéri qu'est-ce que t'en penses ? Ce que je pense, quelle importance ? C'est fou ce que j'aime ta ligne de hanche
Ta ligne de hanche, ma ligne de chance J'aime la caresser de mes mains Ta ligne de hanche, ma ligne de chance C'est une fleur dans mon jardin
Mais regarde ma petite ligne de chance Mais regarde ma petite ligne de chance Regarde ce tout petit destin Si petit au creux de ma main
Ma ligne de chance, ma ligne de chance Dis-moi chéri qu'est-ce que t'en penses ? Ce que je pense, quelle importance ? Tais-toi et donne moi ta main
Ta ligne de hanche, ma ligne de chance C'est un oiseau dans le matin Ta ligne de hanche, ma ligne de chance L'oiseau frivole de nos destins
Quand même une si petite ligne de chance Quand même une si petite ligne de chance... Une si petite ligne c'est moins que rien A peine un petit point dans la main
Ma ligne de chance, ma ligne de chance Dis-moi chéri qu'est-ce que t'en penses ? Ce que je pense, quelle importance ? Je suis fou de joie tous les matins
Ta ligne de hanche, ma ligne de chance un oiseau chante dans mes mains Ta ligne de chance, ma ligne de hanche c'est l'oiseau vole de nos destins.
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