ゼロの視点
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2004年11月30日(火) 失われた時を求めて・4

 アタマでわかっていても、感情が追いつかない・・・、ということは人間をやっていれば、ほとんどの人が経験していることだと思う。で、私もご多分に漏れず、この時期はそんな感じだった。

 で、何か背中をポンを押してくれるような発言、ないしは、人が欲しくて欲しくてしょうがなかった。

 そして、とうとうそれらが現れ始めた。

 まず、ふっと母のケアマネージャーのI嬢がわが実家を訪れた。私はこのI嬢のことを信頼している。そして、それを彼女が感じてくれたのかどうかはわからないが、彼女とは色々なことを話せるようになってきていた。

 で、この日は、私が色々と自分の苦悩というか、処理しきれない自己矛盾について率直に語り出すと、彼女はこう答えてくれた。

『あのねゼロさん、親子ってのはね、キツイこと言っても平気なんですよ。ま、とはいえ、キツサにも限度がありますけれど、もし、お母さんがボケるまえにも、こういった関係があったのなら、それを無理に変える必要なないですよ・・・・。で、一瞬ヤバイと思っても、それは母と娘だからこそ、あとで和解できるんだから、逆にそれ自体にもっと自信をもってもいいんですよっ!!!!』

とのことだった。おまけに、

『いつも優しく、被介護者を受け入れるってのは、それは私たちに任せてください。これは、アル意味第三者だからこそできることであり、私だって、今仕事としてできていることが、実際に自分の母にできるとは、到底思っていません(爆)』

とのことだった。

 私は、本当に、本当に、この言葉に救われたし、この言葉を待っていたように思えてならない。親と子の従来の関係もなげうって、プロの介護人のように、親に振舞えねーーーーーーーーーーーんだよ、と常々思っていたからだ。でも、“こうしないと、親のボケを1層進ませる”だのなんだのという説も非常に根強いので、私はこの矛盾の間を行きつ戻りつしていたからだ。

 キツくとも、そこに従来の親子関係=肉親愛があれば、なんとかなる、という彼女の発言は、私の囚われすぎていた観念から解放するに充分だった。


 そして、さらに自分をパワーアップさせていくステップに、私が昨年からレイキをやっていることを、やっと思い出したのだった(汗)。

 そうだ、レイキって手もあったじゃないかっ!!!!、という感じだ。逆にいえば、そのくらい、私はレイキというものをやりながら、それを胡散臭いと思い、真面目に取り組んだこともなかったのだった。

 が、こうなれば、なんでもあり(笑)。とりあえず、恥も外聞もなく、再度自分なりにレイキに取り組んでみるか?!?!?!、と思い、それを実践しはじめたら、どんどん楽になっていってしまった・・・・。

 楽になりつつある過程で、“ああ、人間って自分が不幸と思えば、どこまでも不幸になっていられるものなんだ”としみじみと実感した。

 不幸だの、満ち足りてないなどと、延々グチはいえる。で、そんなグチを聞かされた相手は、知らず知らずのうちに、“こーすればいいかもよ”だの“あーすればいいかもよ”などと言ってしまうが、不幸でいたい人間は、そんなアドバイスなんぞ聞いちゃいない。

 逆に素直にアドバイスに従っちゃったら、もう不幸ではいられなくなってしまうのだから(笑)。

 で、私も、最近までこんなことをしてたんだな、と気付き、あらためて自分のアホ性を実感すると共に、“執着をすてる”という誰でも知っている言葉の奥に一歩近づけたような気がして、嬉しくなってしまった。
 


2004年11月17日(水) 失われた時を求めて・3

 かくして、過去と現在が激しく交錯する世界において、さすがの私も自分が統合しきれず、気がついたら、適応障害のようになっていた。

 自分の国に戻って、適応障害?!?!?!、と思えば思うほど、気分が凹んでいく・・・・。ヤバイ、ヤバイと、焦れば焦るほど、どつぼに嵌っていくのだ。

 冬至に向けて、どんどん日が短くなっていく。

 私が母のために完備した、介護保険を利用したサービスで、週3回デイサービスという老人のための保育園のようなところから戻ってきた母が、日没と共に、せっせと雨戸を閉めはじめる。

 そして、最後の一枚の雨戸が閉まった音を聞くと、まるで、全世界から隔絶されたような感覚に襲われ始めた。まだ午後6時前なのに、私は世界から隔絶されてしまうのだ・・・・。

 どのチャンネルを回しても、同じことばかり。切り口まで同じ。つまらん、つまらん、つまらん・・・。なんで、レポーターが美味そうに食べている映像などを延々と見ていなければならないのか?!?!?!。どうして、グルメばかりなのか?!?!?!。

 レポーターがあんぐりと開けた口の中に、“逸品”と称されたメニューが飲み込まれていく・・・・。どうして、暇つぶしにつけたテレビで、ここまでメディアが提示する情報を追体験しないといけないのか?!?!?!等、強烈な不満が延々と生まれてくる。

 でも、テレビを消してしまうと、もっと怖い。でも、何が怖いんだろうか?!?!?!、それがよくわからない。

 母と私だけの空間か?!?!?!、きっとそれもある。
 
 でも、それ以上のものはなんだろう?!?!?!

 色々な人と話していても、妙におととい、フランス人らと、身分も名前も気にしないで、会った瞬間に話がはずむ世界を体験してしまった今、さぐるようにして、それでいて、相手の気に障らないよう注意する、日本的なコミュニケーションが、ますます孤独を募らせてもいただろう。

 そして、午後8時ぐらいには寝てしまう母。

 深々とふける夜に、独り取り残され、出かけるにも出かけられないような気がしてならない、感覚・・・・。

 思えばパリでの生活は、午後8時くらいから、出かける準備をして・・・等、これからが始まりだった。そしてあまりにもこれに慣れてしまったため、午後8時には皆終わってしまって、しんと静まり返った住宅街にいること自体が、喩えようのないほどの恐怖を私にもたらせていたのだろう。

 今思えば、どうってことのない、こと。が、その時は、まるで窒息するかのごとく、キツかったのだ(泣笑)。

 5月中旬から6月下旬にかけての里帰りでは、私は色々とやることがあった。まず母をあらためて病院へ連れて行き、検査を受けさせ、それを元に、いかに限られた期間で、介護保険を申請して、それに基づいたサービスを母に与えることができるか否か?!?!?!。

 それは、まさしくタイムレースのような里帰りだった。が、逆に今思うと、私にやることがあったため、過去だの現在だの、自分の存在意義だのと、考える余裕もなかったので、楽だったのかもしれない。

 が、今回は、前回の里帰りで実施した母へのサービスが、本当に母にマッチしているのか否かを含めて、“母と一緒に生活しながら、母を観察して、微妙な変化や病状などをできるだけ的確に把握すること”がメインなだけに、実は私自身はそれほどやることがなかったりする。

 そして、今回はマジで長期・・・・。このまま何もやることもなく、ただ、母のかたわらに存在し、彼女のペースを受け入れ、とはいえ、3ヵ月後にはパリに戻るとなると、私は精神的に壊れてしまうのではないか?!?!?!、とドキドキしはじめた。

 もう、ネガティブな考えばかりが私のアタマを占拠する。ゆえに、母とできるだけ有意義に過ごすという目的とは、どんどんかけ離れていき、母と私はどんどん険悪になっていき、喧嘩も増え、気がつくと、私はしょっちゅう金切り声をあげるようになっていった。

 で、そのたびに、自己嫌悪に陥り、“私は何のために実家に戻ってきたのだろう?!?!!”と、出口のないネガティブな世界に落ちていくのだ。まるで蟻地獄。これでは、母のためにもならないし、私のためにもならない・・・・等。

 とはいえ、フランス時間で夫および友人らとコンタクトを取るために、どこかフランス時間を気にしている自分がいる。

 日本でフランス時間を気にし、日本語で基本的には日本人とコミュニケーションを取りながら、特定のメールや電話では、フランスシフトに即座に戻り、それと同時に母のリズムにも合わせ、銀行めぐりだの、なんだのも同時にして、とはいえ、自分のための時間はいっさいない・・・・、といったところだ。

 奇しくも、私が精神的に不安的になればなるほど、母のわけのわからない言動が増えてくる。そして、またそれに私がイライラして、ヒステリーを起こし、母がもっとおかしくなっていくのだ。

 そんな時、八方塞になって、介護する人のための電話相談、というところへ藁をもすがる思いで電話してみると、結局かえってきた答えは“いつもおかあさんにやさしくしてあげなさい”だとか、とにかく自分を抑えてナンボということだけ・・・・。

 介護する人たちが、その行き場のない感情をわかってもらえると思って電話して、結局その答えが“がまんしなさい”だとしたら、これは本当にヤバイと思った。

 確かに、私の場合は、母はまだ初期の痴呆だし、充分に最低限の日常生活は彼女だけでできる。それでも、イライラすることがたくさんあるのに、このレベルがどんどん酷くなってきている人を介護している人が、不満をいうな、泣き言をいうな、と言われたら、どうなってしまうんだろう?!?!?!、と思った。

 電話相談というけれど、これじゃ、暗に自殺斡旋機関ともいえるなぁ、と。

 それプラス、きっとマニュアル通りの返答なんだろうけれど、この私に、“気分転換に、フラッとなじみの場所へ行ったりするのもいいでしょうね”等とのたまってくる。

 が、わたしゃ、すでにこの相談員に、基本は海外在住で、こうして定期的に実家に戻ってきていると伝えてある。だからこそ、私にとってのなじみの場所は、飛行機に乗って最低11時間は必要な場所の先にあるわけで、そこに簡単にいけないから、ここまでおかしくなっている・・・・、というのに、だ。

 私なりに、この時期はかなりキツかったが、それでもこの電話相談で逆に目が覚め、“おめーなんかにゃ、世話にならねーぜ、偽善者よっ!!!”と、ガス欠寸前になっていたメーターが、ぐんぐんと満タンとまではいかないが、中間地点ぐらいまでには復活した。

 そして、その日から、母が寝たあと、夜な夜な(午後10時〜午前2時ぐらいまで)、近所の24時間営業のファミレスに繰り出すようになっていった。そこで、自分の興味のある本や、今学ばなければいけない資料などをたくさん持ち込んで、ドリンクバーのコーヒーを腹の中が真っ黒になるまでお代わりし続けながら、それでもつかのまのマイワールドを築き、精神的に落ち着き始めたゼロでした。


2004年11月16日(火) 失われた時を求めて・2

 校門の先には、懐かしい光景があった。一歩一歩足を進めるたびに、昨日まですっかり忘れていたはずの膨大な記憶が蘇ってくる・・・。当時、わけのわからぬ不満を抱えて、仏頂面だった自分を追体験しているかのようだ(汗)。

 通いつめた仏文研究室まで行ってみた。現教授陣の名札を眺めつつ、未だにわしの恩師の名前が存在しているのに、再び私の時間軸が狂っていく。

 そこだけには留まらず、まだまだ独り構内探検を続ける私。かつて、溜まり場にしていた、建物は取り壊されているのを目の当たりにして、心臓がチクリ・・・。今は、妙にピカピカした現代建築が、当時の建物の後に堂々と存在していた。

 その瞬間、また私はようやく現在に立ち戻ることができた・・・。“ああ、昔と変わってしまったんだ・・・・”と思うことで・・・。

 構内の喫煙スペースで、ボーっとタバコを燻らせた跡、ようやくここを離れようと再び校門のほうへ足を進めはじめた。すると、私が向かっている校門から、何故か、心当たりのありシルエットが、今まさに構内へと向かって進んでくる・・・。

 げ、げ、げ・・・・・・・。

 しばらく、このシルエットにじっくり焦点をあててみる。どんどんこちらの方向へ迫ってくる、見覚えのあるシルエット・・・。

 げ・げ・げ・・・・・・・。

 それは、まさしくわしの恩師の姿だった!!!!!!。

 こんなことがあるのか?!?!?!。

 私は、この恩師とゼミの仲間と一緒に1998年の2月、イラン旅行へ旅立った。そして、その旅行の終わりに、私はヨーロッパに立ち寄り、そのまましばらくブラブラしたあと、夫に出会って、そのままフランスに住み着いてしまったのだった。

 確かに、恩師には非常に目をかけてもらったし、いろいろなことを学ばせてもらった。が・・・、イラン旅行中、恩師のことがだんだんと鼻についてきて、この旅行を最後に、この一連の付き合いから“足を洗おう”と思って、そして今がアル。

 なので、迫り来る恩師のシルエットを前に、本能的に木の陰に隠れる私・・・・。とはいえ、どうもこのシルエットから目が離せないので、彼が視界から消えるまで、ずうっと木の陰にいる私・・・・。これじゃ、まるで、星飛馬のねーちゃんじゃないかっ!!!、と、ひとり突っ込みを入れながらも、金縛りにあったように留まりつづける私だった。

 恩師が昨年、還暦を迎えたことは知っていた。そして、彼の還暦パーティーの招待客リストには、私の名前があったらしいことも、風の噂で知っている。が、私の居場所も特定できず、そのリストには、“ゼロ行方不明”となっていたらしい。

 私が影から見送った、当時と同じシルエットを持った恩師は、それでも、かなり老けたように感じられた。

 それが、また、私を現実に引き戻してくれたともいえる。が、この過去と現在を、振り切ったブランコのように激しく行き来する私の感情は、どうすればいいのだろうか?!?!?!。

 なにがなんだかわからないまま校門の外に出て、またパブロフの犬のように、都バスにのって、もうひとつの懐かしい駅へ向かう私。この駅界隈も、よく飲んだり食ったりしたものだ。

 また、ついつい好奇心に駆られて、当時のなじみの店などを探検してみると、その8割が消滅していた・・・・・・。特に、私の大好きだった水餃子の店が無くなっていたことは、かなりの衝撃だった。

 そして、校門を出た時点に拍車をかけるように、もっとフラフラしていた私は、気がつくと、また違う都バスに乗っていた。

 今までが学生時代のおさらいだったとしたら、このバスは、私の社会人時代へと誘うバス路線だった。

 恐ろしいことに、このバス路線は、あまり変わっていなかった。でも、私が働いていた場所だけは、かなり変わっていた・・・。あれから何年経ったのだろうか?!?!?!、と思うと、もう訳がわからなくなってきた。

 とはいえ、まだぽつぽつとある残滓・・・・。これをどうやって、即座に私の乏しいアタマが統合できようか・・・・・・・・?!?!?!。バスの車窓から、また当時の膨大な記憶が私のアタマを占領する。過去・現在が秒刻みで行き来する。

 そして、結局私はこのバスの終点まで、降りることもできず、乗りつづけた。そして到着した場所は、夫と一緒になる前に、暮らしていたオトコが現在働いている場所でもあった。

 もしかしたら、“一緒に昼飯でもどお?!?!”と彼に電話すれば、それは可能だったと思うが、ここに来るまでに、かなりアタマがグチャグチャになっていた私は、この駅からまっすぐ実家に戻ることを選んだ。

 あとは、実家に戻るだけ・・・・、としばらく何もせず、電車のシートに座っていた私だが、ふいに手元にある雑誌を読み始めてしまった。

 その雑誌とは、“パリマッチ”・・。昨晩、P&Fが私に、“フランス語も懐かしいだろうから、暇つぶしにこれあげるよ”と、機内誌を私にくれたものだった。

 真昼間の電車、そして車窓からは、典型的な日本の風景、でも、フランスの俗物雑誌“パリマッチ”を読んでいても、充分その話題についていける・・・。そう・・・、それはまるで、日本のワイドショーを見るかの如く・・・。

 このパラレルワールドに、またまたアタマがクラクラする私。

 私は、一体、どこにいるのだ?!?!!。
 私は、何をしているのか?!?!?!。

 わからん、わからん、わからん。

 そして、苦肉の策で、私の周りの乗客の姿を見ると、多くの人が携帯でメールを打っている。が、これはフランスでも当たり前になっている今、私がどこにいるかをわからせてくれる、決定打にはなり得ない。

 が、メールを打つ人たちの手元に視線を集中させると、あきらかに、フランスの携帯とは違って、もっと最新式だったりするので、やっと私は日本にいるのだ・・・・、と、実感できた(汗)。

 

 ようやく、実家の最寄駅に到着した私だったが、このまま我が母の世界に直帰するのも耐えがたく、実家近くのモ〇バーガーで、無料の求人情報を暇つぶしに読みながら、ライスバーガーセットをペロンと平らげたゼロでした。
 


2004年11月15日(月) 失われた時を求めて・1

 それは唐突にやってきた・・・・・。

 日本に里帰り中の私は、すっかり初期痴呆の母のペースに合わせて、パリ生活と正反対の、早起き早ねの生活をしはじめて、はや2週間が過ぎた頃、パリから一通のメールが届いた。

 それは友人Pからだった。昨日から、彼の仕事(某航空会社のスチュワート)で日本に来ていて、48時間都内のホテルに滞在するという。で、可能ならば、わしがそこに合流して、一緒に遊べないか?、というお誘いだった。

 Pの彼女Fもスチュワーデスで、今回は一緒に来るという。私は、同い年のPと仲がいいし、彼女のFも大好きなので、快くOKして、彼らの宿泊するホテルに向かった。

 いざ彼らのホテルに到着してみると、そこはかつて私が大学生時代に嫌というほど歩いた通学路。フランス暮らしをしてから、この界隈に足を踏み入れるのは、本当に初めてのことだった。

 妙な懐かしさに、アタマをクラクラさせながらも、とりあえず彼らの部屋へ直行。そして、彼らに導かれ、某航空会社の乗務員が集ってアペリティフを楽しんでいるというサロンへ入っていく・・・・。

 一歩サロンに入ると、そこは200%フランスだった。テレビもフランス語、で、だーらだら、とはいえ、ベラベラと好き勝手に話すフランス人がわんさか。でもケチゆえに、とりあえず、みんなでアルコールやつまみ類を持ち寄って、それでチビチビとやる・・・・。

 日本的は自己紹介もなく、誰彼ともなく、適当に今転がっているサッカーボールに絡むように、話に参加しはじめる。

 マガジンラックにある雑誌まで、全部フランス語。本当に、つい数週間前まで日常にあった世界が、このサロンに入った瞬間に存在している不可思議。

 すっかり自分がどこにいるかも忘れて、その瞬間、瞬間に没頭しているうちに、アッという間に時間が過ぎ去っていった。

 そして、さて帰ろうと思うと、電車がない・・・・。が、ラッキーなことに、P&Fカップルは、各自部屋をキープしていた上に、カップルなので、一部屋があまる・・・。なので、それをちゃっかりと利用させてもらって、私は1人、彼らの隣部屋で熟睡させてもらった。

 そして、翌朝、彼らとの待ち合わせ時間にロビーに降りていくと、そこにはバッチリと某航空会社の制服で、仕事モードに入っているP&Fカップルがいた。パリでは、あちこちのパーティーで一緒だったけれど、彼らの制服姿を拝ませてもらうのは、これが始めて。

 仕事モードとはいえ、口をひらけば、“あーあ、また仕事しなきゃ・・・”“たまんなーーい”など、典型的なフランス人(笑)。

 ひとしきり、ロビーで3人で楽しんだ後、私は彼らが乗り込んだ成田行きバスを見送った。

 ああ・・・・・、これから彼らはパリへ戻っていくのだ・・・・、と思った瞬間、強烈に10月末まで当たり前のようにいたパリのあちこちの街角のイメージが、とどめもなく私のアタマにフラッシュバックしはじめ、彼らと一緒にそのままパリへ戻りたいという激しい衝動に襲われてしまった・・・。

 なんという心細さ・・・・。私だけが取り残されてしまったのか・・・・?!?!?!。いつになく、際限のない不安が私に留まりつづけ、フラフラとホテルと後にした。

 そして、たどり着いたのが、某コーヒーショップだった。パリに戻りたいと思いつつ、身体は昔のことをはっきりと記憶しているかのように、大学生時代に通いに通いつめたコーヒーショップに、私は入っていた・・・。

 そして、パブロフの犬のように、当時と同じメニュー(これが恐ろしいことに未だに存在していた!!)を頼み、これまた当時と同じように喫煙席に1人陣取って、ボーっとする。

 当時、いつも友人のY嬢と一緒に、講義が終わった後ここに立ち寄り、将来の不安や、現状の不満などを延々と話し込んでいたものだった。話し込めば話し込むほど、打開策がみつかるはずもなく・・・、とはいえ、やめられない、妙な習慣、と、いったところだろうか。

 しかも、わしらは仏文科の学生だった(汗)。双方ともまったくフランスなどへ留学する気もなく、適当にしかフランス語自体の勉強もせず、今思えば、思う存分、いわゆる“モラトリアム”な時を過ごしていたのだと思う。

 迫り来る就職活動への不安などもよくここで語り合った。で、互いにフランス文学など全く関係のないところへ就職活動を開始させてもいた。

 が、今は・・・、だ。このコーヒーショップの目の前にあるホテルで、フランス語でフランス人と当たり前に交流してきて、彼らと一緒にパリに帰りたくなっている自分がいる、という、なんともいえない奇妙な感覚を、どう説明したらいいのだろうか・・・・?!?!?!。

 簡単にいえば、“なんちゅー人生だっ”という感じ、か?!?!?!。

 そして、当時と同じように、充分このコーヒーショップでダラダラしたあと、抑えようもない好奇心にしたがって、当時の通学路を歩み出し、私は母校の校門の先へと足を進めていった・・・・・・・・。


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