ゼロの視点
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2003年02月27日(木) デジカメ

 昨晩から、様々なことでゴタゴタしていていた。おまけに、来週の火曜日から一ヶ月の予定で日本からパリにやってくるいとこI嬢に、うまくいったらデジカメを日本で購入してもらって、それを運んできてもらおうと思って、カタログとにらめっこ。

 いかんせん、夫とたった二人きりだけで食事をしたのが昨晩が10日ぶりという状況。ゆえに、二人の間で、まとまった話も全くできていなかった。最近つくづく思うが、我が家は現在では完全に昼の部と夜の部ができてしまっているようだ(笑)。

 フランスのFNAC(大型書店&電気製品店)をはじめ、電化製品店などにもたくさんのデジカメが売られているが、日本のソレと比較すると、もう本当にアナクロな世界。フランスで新製品として高価に販売されているものが、日本じゃ二束三文といっても過言ではない。

 フランスの店頭で見慣れた商品だが、いざ、本当に購入する気になって日本のサイトなどで情報を仕入れていると、今度は選択肢が多すぎで頭痛がはじまる始末。もうなにがなんだかわからないのだ。

 それでも、昨晩は本気で二人でフランスのカタログと、日本のサイトを首っ引きで調べ上げ、どうにかやっと希望の商品を見出せることができた(恐らく日本からアクセスしている人には、ギャグにしか思われない状況だろうけれど)。値段とモデルと比較しても、やっぱり我が母国って感じで、突然、国粋主義者的になってたりする私。

 商品を決めたとはいえ、なるべくなら日本在住の親族に金銭的負担をかけたくなかったので、ネットで購入してみようと試みてみた。が、最近アルツの激しい私は、ポイントカードの登録を完全に忘れていた・・・・・。

 すでにネットで1度申し込みを完了したのが午前2時過ぎ・・・。それでもなにか不安で、来仏する予定のI嬢の姉、U嬢にメールを送ってみた。すると、さすがにどこか抜けている(尻抜けともいう)私に幼き頃から慣れているU嬢が色々をサポートしてくれる(感激っ)。案の定、サポートしてくれればくれるほど、私の詰めの甘さが判明してきて・・・・・。

 そんなこんなで、U嬢と私は、メールながらもほんとんどチャット状態で、パリ時間午前7時まで様々なやりとりを交わした。そして結局、ネット購入はあきらめて、新宿近辺に在住のU嬢自らに、ショップに足を運んでもらうことになってしまった・・・・(汗)。

 午前2時ちょっと前に希望商品を選んで、幸福なまま床についた夫とは別に、キッチリと商品をゲットするまで妻とそのいとこが延々を議論している模様を知らぬ夫・・・・。すべてを終えて、午前7時すぎに私が床につくと、不用意にも、夫のヤロウ、「今までネットで遊んでいたんだね」と寝ぼけ眼でほざく・・・・。一瞬カチンときたものの、さすがに少しは大人になってきた私(この年で?!?!?、という突っ込みはやめてください)、一歩も百歩も譲って、穏やかにいままであったことを端的に夫に語ってあげた。さすがに嫌みったらしかった夫も、自分のオモチャ(それと同時に私のオモチャ兼仕事道具)を最も安く手に入れられるかもしれない可能性を得られたことが判明して、突如満面の笑みになる・・・・・・。

 連日のゴタゴタとこのデジカメの件で、床についてもなかなか眠れなかったが、とりあえずは本日、11時過ぎに起床。その後、Mistral嬢の家にお邪魔して、私のサイトの掲示板で奇妙な再会を彼女とした、私にとっても初対面の“たま”さんが合流してきて、とても充実した午後を過ごした。

 話もどんどん弾み、あっとういう間にときが経っていった・・・・・。


2003年02月26日(水) 母国語

最近は、日本語をたくさん喋ったり、書いたり(このサイトも含めて)する機会が増えてきた。いい傾向だと本当に嬉しく思っている私。

 ネットで日本語の新聞読んだりするのはいいが、これだとあくまでインプット作業でしかなく、喋るだの、書くだのというアウトプット作業がおそろかになってしまう。

 以前にも書いたが、英語はテレビなどの情報や、会話などかなり聞き取れても(インプット)、話そうとする(アウトプット)すると完全にその回路がサビてしまっていて、まったく作動しなくなってしまった。

 英語は母国語じゃないからいいけれど、このイン&アウトプット作業をある程度やっていないと、母国語でさえ錆びつく可能性があると思うことしきり。私はこれを非常に恐れている。

 たまーーに、長いこと外国で生活していて、母国語もそして滞在国の言葉も両方がおかしくなってしまっている人に遭遇することがある。

 3年前に日本へ里帰りした時のこと。夫を連れていったので、誰かフランス語圏の人を探していた(だって、そのほうが私も楽だし、夫も息抜きできる)。そして、紹介の紹介で、非常に奇妙なフランス人Jと出会った。70年代の終わりから日本に滞在しているという彼。日本人の妻に、3人の娘がいると言う。少なくとも20年以上は日本にいるのに、彼の日本語は私にはわかることもあれば、理解不可能なこともあった。

 ではフランス語はどうか?。

 夫曰く、感想は私と同じで、彼の言っていることがわかる時もあれば、まったくわからないこともあったそうだ・・・・・・。当時の私は、残念ながら今よりもフランス語能力がなかったので、直接Jのフランス語をジャッジできなかったのだが・・・。

 でも・・・・・、それでも・・・・・、なんかヤバイな・・・・、ってことは察知できた。

 Jは、それでも久々にフランス語を話す機会があって嬉しそうだった。フランスに戻りたいけれど、もう戻れないとも言っていたのが、殊に印象に残っている。ハッキリとは言わなかったが、妻とも、子供達ともあまりうまくいっていないようなことを匂わせてもいた。生活は、妻が稼いでいて、彼は家事をやっているとのこと・・・・。

 どうやら私は、恐ろしいものを見てしまったようだ。トラウマになっているような気がする・・・。それにしても、どうして巡り巡ってJに出会ってしまったのだろう、私達?。教訓か?!?!?!。

 その1度の出会いきり、連絡も取ってないが、今でもふと蘇る鮮烈なJについての記憶。


 今ごろ、彼はどうしているのだろう?。


2003年02月25日(火) 放置プレイ

 ブリコラージュ、つまりは日本語でいえば、日曜大工的な意味あいがあるものだが、フランスではこれがとてもお盛ん。自分でどんどん内装してアパルトマンをまったく別のものに作り変えてしまう人が多い。それじゃなくても、たいていのことは自分達で修理したり・・・等。

 たしかに、フランスだと何かが壊れても、修理業者に頼めばなんでもOKというわけにはいかない事情がある。修理業者もインチキだったり、そんなことは日常茶飯事。

 さて我が家は、夫も私も、ブリコラージュにてんで興味がない。決して自慢にはならないが、本当に興味がないのだ・・・。ま、要するに横着なだけなんだが。

 私にいたっては、電球が切れても、そのままにしているタイプ。昔っからそうだ。(ちなみにインテリアなどにも、ほとんど興味がない)。今、廊下とトイレの電球が切れている。廊下は、もう一つの電球が“生きて”いるからまだ歩けるけれど、トイレは真っ暗。なので、蝋燭をつけている。ちなみに電球が切れて本日4日目・・・・。

 自分がやると思った途端に、不便なことでも不便ではなくなる性格と申せばよいだろうか?。夫もしかり。おそらく家中の電球がいっぺんに切れてしまったら、さすがに翌日ぐらいには電球を買いに行くかもしれないが・・・・。でも、それも実は定かではない。

 パリ上陸中の姑は、こんな様子の二人を見て、猛烈にカッカとしている。でも、暖簾に腕押し。サロンのカーテンの留具が一本はずれて恐らく、すでに1年半以上。毎回我が家に来ると、相変わらず放置された留具を見つけては、嘆き悲しみ、わしらに罪悪感を感じさせようとしてくる。

姑「このままでヨソ様をお招きしたら、あとで笑われるのは貴方達なのよっ!!」

わしら「笑われてもいいんじゃないの?。」

姑「本当に恥だってことがわからないの?。」

わしら「そんなことが恥だと思うような、陳腐で外見だけのおブルジョワな社交世界なんてクソ食らえです。」

姑「ウキーーーーーーっ!!」と激怒。行き場の無い怒りをどこにやるのか、彼女?。
 
 今まで家の何かが壊れると、いつも友人・知人が修理してきてくれた。なので、友人らが我が家に残していったブリコラージュのための道具が、我が家にはいたることろにたくさんある。

 義弟も、もちろん大切な我が家の修理部隊の一員。彼は大会社のお偉いなのだが、国際会議などを終えたその足で、スーツ&ネクタイ姿でドライバーセットなどを持参で我が家に修理にやってくる。最近では、2ヶ月間放置されていた2本のフロアースタンド照明を、見事に蘇生させてくれた!!。

 しかし、だ・・・・。ふと思うが、日本で生活していた時は、そんなに簡単にいろいろなものは壊れなかったと思うのだが、どうなんだろうか?。ま、電球は切れるとしても、だ・・・。満足に、なにもかもがすべて作動していた日々があっただろうか?。

 わしらも相当、知恵遅れな夫婦ではあるが、それにしても、ねぇ・・・。

 といことで、少なくとも我が家は、何事もキチンとしていたい人がもし来た場合、きっと数分でアタマがおかしくなってしまうのかもしれない、と思ったゼロでした。

 ちなみに、昨晩我が家にやってきてディナーした友人Dは、蝋燭の灯るトイレで無事に用を足していた様子だった。人間、やればなんでもできるじゃないかっ?!?!?!。

 私は、小物を買ってきてかわいく並べたりなどということは、絶対に自らやらないタイプだが、似たもの夫婦とはよく言ったもので、そんなことやらない妻であって、ほっとしていると言っている。ああ、“われ鍋にとじぶた”?。これぞまさしく、インテリア・デコレーション命で生きている自分の母に、心底嫌気のさしてしまった息子の発言ともいえる(笑)。


2003年02月24日(月) Maurice Blanchot

Maurice Blanchot(モーリス・ブランショ)が亡くなったそうだ。享年95歳。日本で顕著に有名なのは、『文学空間』だと思う。『明かしえぬ共同体』(西谷修訳)というのもあるが・・・。この本も色々な絡みで読んだなぁ・・・。

 彼の著作は、大学時代にずいぶんと繰り返し呼んだ記憶がある。とくに『文学空間』などは、ね・・・・。ゆえに、プルーストのマドレーヌじゃないが、ブランショという名前を目や耳にするだけで、青春時代の“こっ恥ずかしい”記憶がどんどん蘇ってくる。不思議なものだ。

 彼の死亡記事を読んでいると、ブランショがカフカとヘッセの賞賛者だったことが記述されていた。うーーん、あらためて納得。戦時中は極右のジャーナリストとして記事を書いていたこともあらためて知った。

 確か、ちょっと前までポンピドゥにて、彼の展示会もあったが、あれは死を予告していたんだろうか?。←と早合点したら、それは勘違いで、違う人だったっす!!。

 今は、全然彼の著作を久しく読んでないが、追悼もかねて久しぶりに読み返してみようかなと思ったゼロでした。それにしても、原書で読むのと、翻訳で読むのでは、時にニュアンスがあまりにも違うのに、あらためてビックリしている。殊に、フランス語で生活して、辞書や書物だけでは決して得られない、またはそう簡単に日本語に訳せない表現などを、とりあえずダイレクトにフランス語で理解できるようになった今、アル意味、形容し難い“違和感”がつきまとう。

 またそれと同時に、アタマでっかちにたくさんの本を読んでいた大学時代、私は本当にそれらの本を理解していたのかどうか?!?!?!、というおおきな疑問もつきまとうのであった。ゆえに、記憶の混同なんていうものも、つきまとうのかもしれん?!?!?!。

 


2003年02月23日(日) 10000ヒット

 昨年の11月8日から書き始めたこのサイト。おかげさまで10000ヒットとなりました。

 これまで掲示板に書き込みしてくれた方、または個人的にメールをくれた方などを含め、いろいろなところからアクセスしてくれたすべての方に感謝しております。

 先週の火曜日からメールの受信がまったくできない状況が続いておりますので、メールをくれた方、申し訳ないですがもう少し返信をお待ちいただけると嬉しいです。

 なんの変哲もないサイトですが、これからもよろしくお願い申し上げます。きっと写真がアップされたり、壁紙がかわいくなったりというようなことはないと思いますが・・・・(汗)。

 また、よく酔っ払ったまま書いていることがあるので、誤字脱字がありますが、お許しくださいませ。気がついた時に、たまーーーにだけれど、直したりもしております。

 これからもなるべく頻繁に更新していこうと心がけておりますので、暖かく見守っていただけると幸いです。とはいえ、日常の戯言には違いないのですが・・・(汗)。
 


2003年02月22日(土) 愛犬・マルチンっ!!

 最近、毎日日記を更新している私・・・。みなさん、もうおわかりですね!!。なぜ、私が毎日こうやっていられるか・・・・。そうです、全然真面目に仕事してないんです(汗)。おまけに、締め切りが今年の10月末とわかった瞬間、必要以上にダレきってしまい・・・・。

 でも、締め切りの目処がついた瞬間に、初夏に必ず日本へ里帰りしようと決意。ちょうど免許の書き換えもあるし・・・。

 日本で一人暮らしをしている母のこともそうだが、頻繁に恋しくなるのが私の愛犬・マルチンのこと。1986年の4月に、友人の弟が公園で捨てられている犬を我が家に連れてきたのがはじまり。愛犬がやってきた時、ちょうどマルチン・ハイデガーの本を読んでいたのと、録画していたヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』を(主人公はマルチンという名前だった)観ていたこともあり、メス犬なのに、マルチンと命名した。

 幼少の頃から、いつも犬が飼いたかった。でも犬嫌いの母親が大反対して決して実行されることがなかった。しかし、とうとう1986年にマルチンが不意に我が家に登場して以来、我が家の生活は一変した。我が母は、今では完全にマルチンにベタベタである。

 マルチンは私が浪人生活に突入した頃からの付き合い。イライラしたり、ボーっとしたいとき、いつもマルチンは私の隣にいた。激しく遊んだり、駆けずり回ったり・・・。

 私にとって、本当にかけがいのない存在が、マルチン。彼女のことを考えると、今すぐにでも飛行機に乗って日本に帰りたくなる。そしてマルチンの匂いを嗅ぎたくなる。そして、撫でで撫でて撫でまわしたいっ!!。

 マルチンは、猫みたいな犬でもある。妙にシラっとしていて、毎日を自分の過ごしたいようにして過ごす。アル意味では私とソックリともいえるが、またそこがいとおしくてたまらないっ!!。

 マルチンは今月で満17歳を迎えた。老いたとはいえ、幸いなことにまだまだ元気。でも、いつか(想像したくもないけれど)永遠の別れが来ると思うと、無理をしてでも少しでも多く、マルチンとの日々を過ごしたい。

 2001年の11月に里帰りしたのを最後に、現在まで日本に里帰りが出来ていない私。この時、パリへ戻る早朝に、玄関まできて、私の顔をじいっと見つめていたマルチンの姿が忘れられない。

 “またちょっとしたら戻ってくるからね”とマルチンに話し掛けて、家を出てからすでに1年以上が軽く経過している。その時は、絶対一年以内に日本にまた里帰りができると思っていたが、仕事が入ってしまい、結局昨年はまったく日本に戻れなかった・・・・(涙)。

 昨日も、マルチンの夢をみた・・・・。彼女の匂いも、身体の感触も、鼓動もなにもかもすべて、あまりにもリアルな夢。しかし起床したら、マルチンじゃなくて、隣には夫がいた・・・・(苦笑)。ああ、マルチンに会いたいっ!!。

 パリに住んで、たくさんの犬を毎日見る。そしてチャンスがあれば犬と遊んでいるし、犬を飼いたいなぁ・・・、とも常々思ったりする。でも、あくまでそれはマルチンの代わりでしかなく、私が本当にいとおしく思うのは、我が愛犬でしかないことを、ことごとく痛感する日々。

 ということで、次回里帰りしたら、その期間中、ずうっとマルチンと一緒にいようと決めた。色々な人にも会いたい・・・・・。でも、マルチンは私の分身でもあり、どんどん(残念ながら)老いていくのが目に見えている・・・(涙)。なので、少しでも時間があるなら、彼女とずうっと一緒の時間を過ごしたくて堪らないゼロでした。

 待っててね、マルチン・・・、もう少ししたら帰るからねっ!!。
 


2003年02月21日(金) 誤解

 午後に担当編集者の打ち合わせ。日本とは違い、出版元と、出版エージェンシーが存在するフランス。日本でいう編集プロダクションとは、また違うのがなんとも説明し難いのだが・・・。

 どうやら、現在書いてきた私の原稿において、あまりにもパリでの日本人について悲観的な記述が多くくて、これだとガイドブックにならないことが判明。わたしとしたら決して悲観的ではないのだが、あまりにも現代日本と日本人の現実を書きすぎたので、これだとフランス人の興味を削ぐことが判明(笑)。なのでもうちょっとビジネスマインドで行きしょーーーーっ、ということになった。

 さて、今回の編集者との打ち合わせでは、実は私の最大の駆け引きがあった。それは締切期限の問題。夫とその友人ジャーナリストの意見では、私はすすべての原稿を最低でも4月の終わりまでに仕上げなくてはならないことになっていた。とはいえ、版元との契約に参加したのは、私だけ・・・・。私としたら、絶対に今年の10月までに仕上げればOKという話をしたはずであった。でも、アル意味、この仕事をフランスで、フランス人向けにするのは私として初めてだったゆえ、もしかしたら、締め切り期限について、私が都合よく解釈していたのではないか?!?!?!、という不安がつきまとっていた。

 そして本日、率直に締め切りについての議論を切り込んでみたら、やはり10月末までに、とりあえずすべての原稿を仕上げればよいことが判明!!。ラッキーっ!!。

 結局、私がきちんと契約時において、フランス語ですべての条件を理解していたことがわかって、大満足のゼロ。もうこれからはフランス人が意味不明にアドヴァイスしてきても、耳を貸さないことにすると心に決めるっ!!。

 反面、根拠のないフランス人サイトのプレッシャーにて、3週間ですでに40ページ分の原稿を書いてしまったのは、アル意味よかったのかもしれない。10月までの仕事で、すでに3分の1の仕事は終えてしまったのだから(笑)。ま、それなりに書き直しがあるとはいえ、この前までのプレッシャーとは違い、余裕さえ生まれてきたっ!!。

 さて、私の出版エージェンシーは、ギルバート・シェルトンとその妻ローラ・ファウンテン。ギルバートは『フリッツ・ザ・キャット』などで一斉を風靡した作家だ。おまけに、我が夫はシェルトンの大ファン!!。彼らの関係をたどっていけば、ヴェルヴェット・アンダーグラントまでたどり着く。

 私は60年代から70年代のサブカルチャーが大好きなので、これからもっともっとギルバート・シェルトンらと知り合っていくことに、非常に興味がある。本日、彼らの事務所を訪れたが、アンラッキーなことに彼らはいなかった。が、いつかはキチンとした関係を築いてみたいと、ひしひしと思った。

 いずれにせよ、彼らは私よりも年上・・・・。ゆえにタイミングを失えば、彼らがこの世を去ってしまう可能性がアル。だから、一瞬一瞬のタイミングを微妙にとらえていく必要性があるのだと、痛感した・・・・っ!!。

 さて、締め切りが今年の秋までとわかった以上、とりあえず仕事をある程度進めて日本に里帰りできる可能性ができて、大満足のゼロでした。

 

 


2003年02月20日(木) 真珠夫人アゲイン

 起きたら、午前11時を過ぎていた・・・・。やっぱり連日の喧嘩が祟ったのか?。

 実は本日、パリ郊外在住のY嬢を招いて、『真珠夫人・完結編』の鑑賞会(笑)を開く予定だった。わしのサイトの掲示板(掲示板の存在を知ってますか、みなさん?!?!)で彼女が、私が以前書いた『真珠夫人』の日記に興味を持って書き込みをしてくれ、それが縁で本日の鑑賞会となったのだ。

 そして、昼ドラなら、国が変わっても、やっぱり昼下がりに主婦同士ランチしながら、ってのが流儀でしょっ!!、というコンセプト。だから、絶対今日のランチは、丼物でも作って、二人でそれをつつきながら、くらだねーーッ昼ドラと観ようと心に決めていた・・・・。

 が・・・・、前述したように起床したのが、昼ちょっと前。泣く泣く、ランチはキャンセルしてもらい、Y嬢には自宅で昼ご飯を済ませてもらってから登場してもらった(恥)。

 午後1時半頃やってきたY嬢と、彼女が持ってきてくれたケーキでお茶しながら、おしゃべりを楽しみ、その後、『真珠夫人・完結編』の鑑賞会に突入。やっぱり日本人同士で、余りある突込みどころに、突っ込みを入れながらの鑑賞は醍醐味がある。こんなことは例えネイティブ並にフランス語が話せようと、また逆に、フランス人の友人がネイティブ並に日本語話そうと、味わえない面白さだ。日本に生まれて、育ってないと、突っ込めない個所がたくさんあるのだからっ。

 ドラマセットとか、セリフなど、毎分(時に毎秒)突っ込みを入れたくさせる効果がある『真珠夫人』。多分、日本にいたらここまで面白がらなかったと思うものの、笑えるのだ。おまけに、本日のネットでの芸能ニュースでは、真珠夫人で主演をはった女優・横山めぐみが離婚したと報道されていた。真珠夫人の祟りか?。

 そしてコレを観終わった後も、二人で色々な話で盛り上がり、Y嬢は帰宅していったのが18時半。

 それと同時に喧嘩中の夫から電話が入る。夫の友人JYが今晩来るのは判っていたが、予定を早めて(最近、コレばっかり)19時半にやってくるというのだ。おまけに、彼は夫の会社での立場を優位にできるだけの援助ができる人間ゆえ、そうそう邪険に扱えない(苦笑)。JYはアペリティフにウイスキーを求めるので、急いで買いに行く・・。

 夫曰く、ディナーの用意はしなくていいとのことだったけれど、買い物ついでに肉屋で“出来合い”のシュークルートと、美味しそうなソーセージ類を見つけたので、即購入。おまけに、非常に安上がりっ!!。

 あとはバゲット(フランスパン)を購入するだけと思い歩いていると、予定より早く我が家の界隈に到着して時間つぶしをしていたJYを発見。彼は独り言をブツブツ言いながら歩いていた(笑)。完全にアタマはどっか違う次元に言ってしまっている事は、人目でわかる。なので、彼の背面にそうっと回って脅かしてみた。するとJYは私の予想以上に驚いていた。ちょっとは驚いてくれるのは期待したけれど、そんなに驚かなくても・・・・・ね(汗)。

 さて、いつものごとくアポを取っても、定時に帰ってこない夫。ゆえに私はJYと“もてなし”もかねて、色々と話す。こういう時は、インタヴュアーの性格を発揮して、なるべく相手に話させて、また相手が話したくなるような話に振っていくのが常。そして相手が調子よくなってきたら、普段な尋ねにくい話題に、切り込んでいくのが私の楽しみでもある。

 ということで、友人とはいえ、夫もJYの過去までは知らなかったようなことまで、彼は語ってくれた。JYの風貌は、モーリス・ベジャールのような感じで、一瞬かなりのインパクトを与える人物。どっか倒錯的な雰囲気があったので、彼のセックスライフについて切り込んでみた。

 その結果を書くと、長くなるので今回は省くが、とっても面白くどんどん盛り上がっていった。そんなところに、アポの時間から1時間以上遅れて夫が戻ってきた(遅いんだよっ!!)。

 JYと夫は、一緒に仕事をする予定だったが、時間のズレと、雰囲気からディナーをまずはじめたほうが無難と考え、準備を始める。会話もまず私が充分温めておいたので、多少の調理時間も退屈せずに持つだろう。

 午後9時半すぎにディナーをはじたが、JYはどうやら今晩は私ともっと議論したい雰囲気だった。私としては、夫とさっさと仕事をはじめて欲しいと思ってたが、とはいえ、ここで切り離してもアウトなので“芸者”気分で、お相手をする。彼は、日本大企業とたくさん仕事しているので、日本人男性のせく舎利ティーから、社会機構までどんどん議論をしていった。

 ということで、ディナーとしては大いに盛り上がったが、JYは結局議論に盛り上がりすぎ、疲れきってしまって、夫との仕事は進まず・・・・。ゆえに土曜日にもう一度アポを取り直すことになった・・・・(汗)。
 
 ああ、これでよかったのか、悪かったのか?!?!?!?!。

 とりあえず、本日は、日暮れまで日本人Y嬢と“日本人社会”を思う存分楽しみ、夜はフランス社会で議論して、とりあえずやりたいことはやったので、明日からは完全に仕事に復帰できそうな気分のゼロでした。


2003年02月19日(水) 姑上陸中・・・・

 実は、月曜日の晩から姑がパリに上陸中・・・・。パリにある彼女のStudio(日本でいえば、ワンルームマンションのようなもの)のキッチンなどの改装工事の立会いがあるからだ。

 本来なら今週の半ばにやってくる予定だった姑。それが予定を突然はやめて月曜日にやってきたから、もうパニック。日本でおなじみだった、台風情報を彷彿させる。台風が突然進路や速度を変えつつ、自分の住んでいる場所に接近してくる様子を、ドキドキしながらテレビをみていた日々・・・・。

 彼女のStudioは1区にあって、シチュエーションとしたら最高。とくに観光客にはもってのほかの場所だと思う。しかしコンロなどがあまりにも古いため、今回思い切って工事をすることになったのだ。

 私が生まれた頃からのものがたくさん捨てられずに、積み重なった部屋を工事できるレベルに片付けることの難儀さといったら、そりゃ、想像を絶するものがある。ゆえに、姑上陸とともに、わが夫婦も片付け部隊として借り出され、月曜日、火曜日の晩は、マジで全員強烈にイライラして、大喧嘩が勃発していた。誰と誰が喧嘩しているか、もうまったくわからないくらい、グチャグチャに喧嘩している。わしら夫婦の間でも、もちろん大喧嘩ッ。

 喧嘩というのは、本当にエネルギーを無駄に消耗するものだとつくづく思う。疲れた・・・・。

 そして、本日は、工事なので、姑がStudioにいないほうが工事の進みが早いということになり、昼から我が家にやってきた。もちろん夫は仕事があるので不在。ゆえに私が昼から一対一で姑様と“なんともいえない昼下がり”を過ごさなくてはいけない。

 結局、午後1時に彼女がやってきて、ランチをして、午後5時まであーだこーだと延々と二人で喋り続け、そのあと工事の立会いに行き、午後11時すぎに家に戻ってきた・・・・・。もう、ヘロへロ。

 途中、勤務中の夫や、義弟から、私と姑が一対一で大喧嘩していたら・・・、と懸念されたゆえ、しょっちゅうご機嫌とりの電話がかかってくる。わしらが“刺しちがえてる”とでも思ってたのだろうか、男性諸君?。

 しかし、予想を反して、本日の午後から、姑とわしが結託して、アンチ・夫グループを結成した(笑)。日替わりランチのように、敵と味方が激しくチェンジする我が一族の“戦国時代”!!。午前中までは、私対姑&夫グループだったのに。
 
 各自激しく消耗しながらも、キッチンの出来はなかなかのものになった。この部屋を使うのは、もうすぐ日本から来仏する、わがいとこ様のI嬢っ!!。3人の怨みつらみのこもった部屋で、彼女は果たして安眠できるのだろうか(笑)?、ねえ、I嬢?!?!?!。

 とりあえず、明日とあさっては休戦日にしようと思うっす。じゃないと、神経がもたんし、仕事の準備も全くはかどらず・・・・。


2003年02月18日(火) 反戦デモ

 先日、世界中のあちこちであった反戦デモ。今回のパリの反戦デモには、用事があっていけなかった私達。その時間、家でテレビをみていた。

 我が家はLCIという、ニュース専門放送テレビを受信しているのだが、それを見ていたときのこと。各国での反戦デモの様子が流れていた。ロンドンでは何十万人とか、そういう数字と様子を何気なくみている私達に、突然日本での様子が流れてきた。

 日本での反戦デモは300人・・・・。

 ええっ?!?!。300人?!?!?!?!?!。


 一瞬聞き間違えたのか?、と思った。まだフランス語のヒアリングができてないのか?、とも思ったので、夫に尋ねてみると、やっぱり彼も300人とアナウンサーは言っていたという・・・・。

 果たして、300人という数は多いのか少ないのか?。日本の人口に対して、単純に計算すれば、絶対的に少ないのは確か。しかし、もし私も日本に住んでいれば、反戦!!、なんて思ってても、デモなんてしようと思わなかったかもしれないし、参加することなぞ、考えてもみなかっただろうから、なんともいえない。また、こんなふうに考えている人が多いと推測するのだが・・・・。

 フランス語で、デモはmanifestation、動詞でいえばmanifester=表明する、明示する、という意味になる。

 確かに、manifestationがさかんな“おフランス”に比較すれば、日本は表明することを美徳の一つとして取り入れていないことは確か。それに、いくらmanifestationしたって、戦争が行われるときは行われるんだから、とあきらめモードが漂いやすいのも日本なのかもしれない。

 ゆえに、反戦を内心訴える日本人がたくさんいても、それが外国のテレビカメラで、端的に撮影できないのは無理ない。逆説的に、こういう国民が多いなか、300人もの人がいた、ってことは数字的には、“多い”ともいえるのではないか?、とまで思えてきた。

 国民投票として、ダイレクトに総理大臣を選べない日本に対して、フランスは自分達の一票が、そのまま大統領を選ぶひとつの原動力となるシステムも、やっぱり大きな違いなのだろう。

 昨年のル・ペン騒動の時のデモに参加して思ったが、manifestationを表すもう一つの言葉、"descendre dans la rue"(直訳でいえば、路上に下りていく)という感覚を肌で味わったものだった。それが例えふざけた参加表明であっても、とりあえず家から出て行き、自分の意見を体現していくとい表現すればよいだろうか?。

 ル・ペン騒動の時のメーデーのmanifestationには、実に第二次世界大戦のパリ解放の時以上の人が文字通り“路上”にいたとのこと。また今回の反戦デモは世界中で参加した人数は史上最大だったとも言われている。

 戦後、アメリカべったり政策だったドイツも、踵をかえした今、日本はどのようにアホ・ブッシュ政権から距離を取っていくのだろうか・・・・?。

 特に、母国を出て異国で暮らしている身にとって、世界情勢の変遷にはどうしても敏感にならざるを得ない。もし現在、槍玉にあがっているのが、アジア人であったり、または日本そのものであったとしたら、と思うと、やはり穏やかではいられない。

 エコール・ド・パリと呼ばれた、いわゆるフランスのベル・エポック時代も、第二次世界大戦へ繋がる、各国での情勢異変(殊にファシズムの台頭)により消滅している。また日本でも、大正ロマンと呼ばれた古きよき時代も、全体主義の軍服連中により消滅させられている。

 うーーーん、やだな、なんだか・・・・・。


2003年02月17日(月) ソウルメイト?

 ソウルメイトだの、運命の出会い等という言葉をたくさん目にしたり、耳にしたりする昨今。日本もそうだけれど、フランスも同じ。結婚はせず、女性も仕事を持って、男と住むなら、同棲だけで充分、などといっているわりには、意外に長いこと話しこんでみると、白馬の王子様を待ち望んでいるフランス人女性は多い。

 さっきまであんなに格好よく、強気で、美しかった女性が、突然本音を語りはじめ、おまけに眼の前で泣き崩れられたりすると、ビックリすることも多々アル。ウッそーーー?!?!、って感じだ。

 おまけに、女性だけじゃなく、男性もそうだったりするから可笑しい。50代後半の精神科医Gは、4人の子供を4人違った母親から作って、仕事も順調なのに、未だに理想の女性に会えないことを毎日悩み、泣きべそをかいている。

 ところで、わしらの出会いはなんだったんだろう?、とふと思った。夫に出会う一年前、いとこ連中とちょっとだけ“マイブーム”になっていたヒプノセラピーというものがあった。催眠をかけてもらって、前世を探そうというシロモノ。結局、私は前世とやらをまったく見出せなかったが、いつもいつも同じイメージには出会っていた。また逆にいえば、ヒプノセラピーをやらずとも、このイメージは昔からあったともいえる。

 どんなイメージかといえば、私が海の底にいて、徐々に海面に上がってくるイメージ。そして海面から頭を出し、周りの景色をボーっと見ているのが常だった。前世はきっとサカナだったんじゃないか?、とまで思った。おまけによく、ボーっとしている私を、我が口の悪い母は“だぼハゼ”と呼んでいたし・・・・。

 さて、夫に出会った後、わしらは南フランスにある小さい島、L'île de levantにバカンスに出かけた。そこで今まで一度もやったことのないスキューバダイビングを無理やりやらされた私。一日目は、恐怖で出来なかったが、二日目に突然自分だけが出来ないのが悔しくなり、発作的に潜ってしまった。

 夫は上級クラスで別行動、私が潜っている間に、どうやら先にボートにあがっていた様子。私といえば、潜り出したら楽しくなってしまい、ずうっと海に潜っていたくなっていた。しかし、酸素が・・・・。

 というわけで、同行者の講師と一緒に、しぶしぶと海底から海面にゆっくりとあがっていく。頭上の海面を見上げると、夫が手足を動かさずに、ただ水死体のように浮かんで、私を待っている。

 そのイメージに激しくデジャヴュを覚える、私。実は、前述したいつも私が持っていたイメージには、実は海面に“水死体”のような誰かがいたのだ。でも、それが誰なのか、またなんのためにいるのか、よくわからなかったし、全然気にしてもいなかった。

 が、まさか・・・・。これって、もしかして?!?!?!、と思った。そして、海面にあがり、アタマを出して、あらためて周りの景色を見渡してみると、それまた激しいデジャヴュ。

 夫の顔をマジマジとみながら、心の中で、もしかしてコイツと結婚しちゃうのだろうか?!?!?!、と思った・・・・。

 そして、その一週間後、パリに戻ってきた私達。自宅で夫に、漢字を教えてとせがまれていた。どうせ教えるなら、変な言葉と思った私は、パンストの袋に入っていた厚紙の表に“男根”、そして裏に“女陰”と、太いマジックでデカデカと書いてみた。そして、「オトコとオンナは表裏一体~っ!!」などと歌いながら、その紙をヒラヒラと夫に見せていた。

 すると、夫が突然、「ああっ!!」とくぐもった声で唸る・・・・。おまけにアタマを抱えている。お下劣な彼女に耐えられなくなったのか?!?!?!。

 しばらくして、事情を彼に尋ねてみると、ヤロウは激しいデジャヴュに襲われていたそうである。それにしても、男根と女陰でデジャヴュだなんて・・・・、あなたったら・・・・(汗)。

 ま、そんな奇妙で強烈なデジャヴュが、現在にいたるまで頻繁におこるわしら夫婦。私達がソウルメイトなのかは、よくわからないし、結局、結婚しちゃったから、どうでもよかったりもしている(笑)。

 でも・・・・、ソウルメイトとか、運命の出会い等の言葉の響きに、私はもうちょっとロマンティックなものを想像していたんだけれど、な・・・・、と。

 ゆえに、激しい理想を抱きながら、恋人さがしをしている友人らの悩みなどを聞いていると、ついつい、ニヤニヤと笑ってしまうゼロでした。

  


2003年02月16日(日) 真珠夫人

 ギニョルをみてから、ふとなんでもいいからビデオをみたくなった。仕事したくないだけなんだけれど。

 そして、先週の水曜日にたまたま友人が貸してくれた日本のテレビドラマのビデオがあることに気がついた!!。ラッキー。

 彼女は、「とにかく面白いから観てみ」って感じで貸してくれた。なので内容はまったく知らない。でも、今、なんでもいいから現実逃避を自宅でしたい私にはピッタリだと思って、すぐさまみはじめる。

 おお、それは、なんと噂だけは耳にしていた、昼ドラの『真珠夫人』のダイジェスト版だった。非常にくだらない、役者はヘタ、だけど、これがハマルーーーっ!!。出た、たわしコロッケ、そうか、これだったのかっ、なるほど!!。昼ドラの要素、ドロドロな展開をこれでもかと見せつけられる。どんどん登場人物が死ぬし、ヒロインは全然幸せにならない。

 異様にはまってテレビを観ている私のところに、夫がたまに“構ってちょーだい”モードでやってくるが、完全放置プレイ。今回は、同時通訳してあげようなんて気すら起こらなかった。

 パリに住んではじめて、こっちで日本の昼ドラを見たが、面白い、マジで。こんな奇妙なもの、絶対にフランスでは見られないとつくづく思った。おまけに自宅でお気軽・現実逃避には、ピッタリだ。

 そんなわけで、これを見終わったら、日が暮れていた。おまけにこのドラマの評判等をネットで調べて、最後には“2ちゃんねる”の過去ログにまでアクセスして、楽しんでしまった・・・・・(かなりの時差があるけれど)。

 そんなことをしているうちに、もうひとつ観てみたい昼ドラを発見。『女優・杏子』だ。誰かビデオ持っている人いませんか?。

 
 


2003年02月15日(土) ズレ

 生まれてこのかた、1度も初々しいと言われていないことに、突然気がついた。手持ちの講談社の国語辞典からあらためてこの言葉の定義を引用してみると、“きよらかで、すれていない”とある・・・・。

 パリ住み始めて4年と7ヶ月。しかし、色々な人から“ゼロさんって、もう何十年もパリに住んでいるんでしょ?”とか、“悩みなんてないんでしょ?”“弱気になることってあるの?”等と言われる事、数え切れず。

 どうしてなんだろ?!?!?!?。なんだかちょっと寂しい気がしてならない・・・・。

 で、さっき夫に、私に初々しさがあるかどうか聞いてみた。すると質問している最中に、すでにヤロウは耐えられなくなったのか、飲み物を噴き出してまで爆笑した。ショックぅーーーーーーーーっ。熱があるんじゃないかとまで、逆に質問された・・・。

 確かに、変な意味で負けず嫌いな性格でもあるが、わしだって人並みに悩んだり、苦しんだり、センチメンタルになることだってあるのだ。でも、どうもそれを他者はまったく気づいていない、ということが私にとってどうも面白くないっ!!。

 非日本人の友人らにも、いつも“あんたは、自分のやりたいことをやりたいように進めて行くだけの、恐ろしく強い人間だ”等と常々いわれて久しい。本当にそうなんだろうか?!?!?!。私って強いの、もしかして?!?!。そんなカテゴリーに入りたくなくても、入れられてしまうのだろうか?。わからん。

 シナリオのない、アドリブの世界に強いことは確かだ。でも、それがアダとなって、かなり日本社会では苦労してきたつもり。例えば面接などでは、小論文テストなどがないかぎり、常に“生意気”というレッテルを貼られ、落ち込んできた私。ところが、意図せずにも国を変えて、こちらに住んでみると、本当に自分の意を反して、面接ウケが妙にいい・・・・。私のほうがビックリしてしまう始末だ。別に国別の面接対策など、練っていないからなお更のこと。

 いつも、同じように発言して、振舞っているのに、180度違う評価というのは、今でも戸惑うこと多し・・・。

 以前にも書いたが、仏文科などに所属していても、決して留学すらしたいと思わなかった私。苦労して金ためて留学・・・、ま、それじゃなくても、とにかくあらゆる苦労なんてしたくないからねぇ・・・。人生できるだけ楽しみたい!!。おまけに、日本語以外の言語習得に四苦八苦なんぞ、本当にしたくなかった。そして、できることなら、日本に住んでいたかった・・・・。

 日本に住みつつ、日本の悪口を言いながら・・・、なんてマジで面白そうだと思ってた。例えば、映画ひとつ見ても、“フランス映画は面白いのに、日本映画界はなっとらん!!”とか、妙な意味での西洋贔屓などを、一生味わっていられれば、楽しいと思うことしきり。

 例えば、ジェーン・バーキン。フランスに住んでから、本当に大嫌いになってしまった(笑)。もう異様に鼻につく。今でも日本の雑誌ではバーキンのヨイショ記事等がたくさん見受けられるが、テレビに彼女が出てくると、すぐザッピング。ゲンズブールととうの昔に離婚したくせに、いつも彼の看板で、彼をとの日々を語り、わざとらしい英語なまりのフランス語を披露する彼女。ああ、吐き気がするっ!!。そこに見えるのはビジネスだけ。ドワイヨンがどう思うと、金稼げればいいんだろうなぁ・・・・、きっと。日本の芸能界でいえば、亡き夫の偉業だけを語りつづける未亡人のような存在にしか、私には見えない。ね、いっぱいいるでしょ、こういう人たち、日本にもっ?!?!?!。

 ま、そういうわけで、いつものとおり、言いたいことを非日本人に語っていると、ウケる、ウケる・・・(汗)。で、ますます、へんにおだてられて、以居心地があんまり良くない。

 それから日本に在住していた時(特に高校から大学時代)に、読みまくったマルキ・ド・サドや、ジョルジュ・バタイユ、それにセリーヌ等。これらもこっちに住んでから、だいぶ解釈に変化が現れた。ま、いまだに 新しい解釈をして好きだけれど・・・。これらも、今思うと、日本人からした妙なフランス、および西洋への憧れが、解釈に異様に含まれているとしか思えなくなってしまった。これらは私にとって、アル意味では面白いし、またアル意味では悲しい発見でもある。

 学生時代には、まともな映画館では決して一生観ることのできないかもしれない映画(特にフランス映画関連)を観るために、自主上映会に足を運び、時にはそれでも日本では鑑賞不可能な映画を自分が観たいがために、自ら時々、企画を主催して、上映会を主催などしていた私。ところが、国を変えて、現在では日本映画の自主上映会に足を運んでいる始末(苦笑)。ここに、恐らく永遠に続く、私の世の中とのズレが改めて確認できることの、強烈なカタルシス。ああ・・・・っ!!。

 また、ズレといえば、最近個人的に笑えることがあった。極左の知人と会話していた時のことだった。あまりにも彼らの主義が非現実に感じた私は、それを暗黙的にムショウに皮肉りたくなり、ふとシャルル・フーリエのユートピア論を引用して彼らを揶揄してみた。すると、私が想像した以上に、彼らは反論できなくなっている・・・・。か、か、か、悲しい・・・・・。

 私としたら、そこまで議論をふっかけてくるなら、もうちょっと“とことんまで”やってほしいのだ。ましてや、賛否の問題ではなく、基本的なシャルル・フーリエの名前も知らずに、極左論なぞ語って欲しくないとさえ思う。

 ということで、フランス人は知的とか、議論好きなど、理論的など、変な意味で日本では語られていることが多々あるが、みなさん、安心してください、フランス人はバカなことも多々あります(笑)。ただ単に言いたいことを検証なく語っているだけのことがありますよーーーっ!!。

 ということで、夫曰く、私がこういったことで議論をふっかけること自体、初々しいという印象を与えることは難しいという結論にいたって、今、ちょっと落ち込んでいるところです・・・・・。なんかムショウに寂しいっス・・・・。

 少なくとも、武豊と結婚した、佐野量子の顔が欲しかった・・・。だってオンナノコらしくて、可愛いと思いませんか?。それだけでも、他者に与える印象が違ってくると思われてしょうがない、ゼロでした。
 
 


2003年02月14日(金) 日本映画無料上映会

 同じ区に住むY嬢からの誘いで、とある語学学校での日本映画無料上映会に行ってみた。日本書籍専門書店などで、この学校のパンフレットは目にしていたものの、どんなところかよくわからなかったので、ソレ知りたさもあった。

 指定された時間に行くと、授業が終わったあとだったのかどうかは知らないが、顔は“外人”なのに、日本語をまるで日本語のように話す人が数人いて、興味をそそる。何気なく、資料を読むフリなどして、彼らの会話に耳をやるが、本当に日本語うまいっ!!。

 さて本日の映画は2002年に公開された『カタクリ家の幸福』。沢田研二、松坂慶子、丹波哲郎、忌野清志郎、武田真治等出演のお馬鹿なミュージカル。タダという言葉の響きに弱い、典型的なフランス人の夫も、やってきた(笑)。

 個人的には、どうなんだろ・・・・、この映画。丹波哲郎の演技に、ときどき笑えたけれど、なんか笑わそうとしている製作者側の意図に、節々にカチンとしたりもした。あと、浪花節的なものも、妙に苦手なゆえに、この効果と狙ったワライのリズムに少し興ざめ。

 ということで、次回の映画についつい期待してしまう私。これから時間がある限り、しょっちゅう映画を観にここに出没してしまいそうな予感。

 逆に、非日本人の観客の反応のほうが私には面白かった。ネライどおりに笑っている人もいれば、ムスっとしている人もいる。とはいえ、この映画のワライは、ある意味での日本お得意の“内輪ネタ”的なものが多かったので、そこをどう理解していたかまでは、知ることができず残念。

 映画のあとは、Y嬢夫婦と、日本語スピーカーのアラブ人女性とその彼、そしてもう一組の日本人女性M嬢とアメリカ人の彼Cと一緒に、日本レストランへ行く。色々と話が弾んでとても楽しかった。

 ところで本日はバレンタインデーだった。こっちでは男性が女性に花束なんぞをプレゼントするのが多いらしいが、我が夫は、キッチンの壁にかかっているタタミ一畳分のホワイトボードに、花束の“絵”を描いていた・・・・。

 ま、これだったら水をやらなくても枯れないから、いいかも?!?!?!。



 


2003年02月13日(木) ワイドショー

 現在、パリ時間14日金曜日の午前5時すぎ・・・・。実は私、日付としては昨日になる午後11時半すぎに帰宅した夫の顔を突然みた瞬間、なぜかサッパリわからないが、突然腹が猛烈にすき始め、突如米を研ぎ、“炊飯器でらくらくビビンバ”なんつーものを作ってしまい、調子にのってご飯茶碗大盛り2杯もたいらげてしまった。

 しかし、ものすごい速さで大量にかきこんだらしく、現在まで胃が持たれて眠れず、とはいえ仕事するまでの集中力も得られず・・・・・、そんなわけで意味不明に日記更新っ!!。

 13日の昼過ぎに、A嬢の御宅へはじめて遊びに行った。彼女の家の近くには様々なフランス映画でチラッとウツル場所があって、妙に感動。そして大杉栄もここに短期間滞在してたんだな・・・・、と(笑)。ま、なかなか滞在したくても、滞在できない場所だが。

 A嬢とY嬢と共に、延々とお喋りを続けるというか、勝手に弾む。妙に面白い。全員、さすがだてに年は食ってないと思った。昼下がりに主婦ばかりで集まって、べらべら喋る贅沢。こういうのやってみたかったのよ、私、って感じ。A嬢のたんたんとしながら突っ込みがある喋りや、Y嬢のメリハリのある喋り。時間の経過の早いこと、早いこと。

 ところでA嬢の家は土足禁止だったので、家に入った瞬間靴を脱いだ。私の靴をY嬢の靴の隣においたのだが・・・・。彼女のサイズは35、そして私は41。彼女の小さくてかわいいパンプスの隣に、デカイうえに、先っちょが尖がってるから余計巨大なつくりになっているわしのブーツ・・・。しばし、絶句。

 家に帰宅すると午後8時過ぎ。仕事でもしようか・・、と思った途端に電話がなる。友人のJだ。彼女は現在離婚調停中の40歳。そして現時点で5人のボーイフレンドをキープして、日替わりで楽しんでいる。相手は全員年下の男性だ。20代後半から、老いていても33歳までの♂で、全員身長が185cm以上。ちなみに彼女は160cm。

 離婚調停中の彼女の夫は、身長168cmで体重が50㎏だった。ある日彼女がメトロに乗っていて、ふとか細い足と腰の男性を見て、“なんなのこのオトコ、ひ弱っ!!”と思い、好奇心にかられて、よーく見てみたらそれが自分の夫だったことの衝撃を皮切りに、彼女の夫への愛は完全に覚め、その後彼女は家を出た。スゴイ理由(笑)。以後彼女がつれて歩く男性は、もうみんな素晴らしい体格の人というのが暗黙の了解になっている。

 そんなJも、色々と悩みなどがおありのようで、電話口で5人の特徴をたくさん語ってくれる。一番のお気に入りは、Jのことを遊びと思っていて、Jが遊びと割り切っているオトコが、彼女のことを本当に好きだったりと、老若男女・古今東西どこでも同じ。で、おまけに愛するよりも、愛されたいらしい。うーーーん。

 昼間は、日本語で、主婦の井戸端会議にて夫のことや日本の両親の老後について熱く語り、そして夜は離婚調停中の女友達の悩みは、まるでフランス語版・みのもんたの思いっきり生電話のようだ。たまにワイドショーめいたものがふと恋しくなるときがあるが、どうやら日本語の世界でもフランス語の世界でも、現在の私の身の回りで起こる現象のほうが、インパクトがあって面白いのかもしれない・・・?、と、ふと思った。


2003年02月12日(水) アジ専

 アジ専と称して、アジア人ばかりを口説いている西洋人が世の中にはたくさんいる。

 私は彼を友人とは思ってないが、知人のJAは、フランス人男性の31歳。警官でメトロの警備などが彼の担当だ。彼は中国人がわんさか住む13区に住まい、あいた時間がたとえ一秒ともあれば、それをアジア人女性のナンパに費やすのが日課だ。

 彼のみためは、結構かっこいい。そして、それを自分で充分知っている彼は、仕事中のメトロの中でも、アジア人女性を見つけるとさっそくソフトな物腰で話し掛ける。アジア人女性をモノにする確率はかなり高い模様。

 私の女友達の弟分みたいな存在がJAで、その関係で私は彼のことを知った。私のことも一応口説いてみたらしいが、全然駄目(笑)。というのも、私の性格のほうがあまりにも強かっただけなんだけれど。今じゃ完全に私のオモチャにされている。とはいえ、なぜだかしらないが、自分の業績としてナンパしたアジア人女性とのいきさつを私に語るのが好きらしく、たまにどーしよーもなく暇なときは、私が彼の話し相手になっているというのが現状。

 でも、実際彼のやっていることは結構鬼畜だったりする。中国人の妻を娶ったのが、1999年のこと。人助けと称して、ビザが欲しかった彼女と結婚してあげたと彼は言い張る。が、実際、中国人の妻はJAにメロメロ。そんな妻を毎日家に残し、彼は毎日新しいアジア人女性をナンパしては食っているのだ。

 ある日、モンパルナスからのバスに乗り、ぼーっと窓から景色を眺めていた私。サンジェルマン・デプレ教会のあたりにさしかかり、何気なくカフェの中を見ていたら、JAが新しい獲物のアジア人女性を口説いている真っ最中だった。ちょうど渋滞していたので、長いこと彼らの同行をバスの中から観察することができた。

 アジア人女性は、格好から推測するとかなりの確率で日本人と思われた。彼女はバスの車窓から見るだけでも、彼にかなり惹かれている様子。ああ、ここにも彼の新たな犠牲者が・・・・っ!!。

 ちなみに彼は、ロンドン在住の私の幼なじみがパリに来たときにも、口説きを実行している。英語は話すが、まったくフランス語を話さない友人に対して、強烈なフランス語アクセントで、文法が滅茶苦茶ながら、一生懸命わしの友人を口説いていた様子。のちに彼女曰く、彼の言っていたことのほとんどはまったくよくわからなかったとのこと(笑)。

 ナンパが縁で夫婦になっている人もたくさんいるだろうし、これに対して、決して私は反論しようとは思っていない。それはそれで素晴らしいことだとさえ思っている。が、JAの場合だけは、マジでこの場を借りて、少し語っておきたくなった。そのくらい、彼はアジア人女性に対して節操がないのだ。

 その後、毎日放って置かれた中国人妻が10年ビザを獲得し、職を得たのを見計らい、彼はさっさと離婚手続きをはじめ、先日それが法的に成立。彼は晴れて独身に戻り、今までの勢い以上にナンパに燃えている。そして妻は毎日泣き暮らしているとのこと。

 ま、こんなアホにひっかかる妻も妻だけれど、彼の実態を見破らずに毎日、アジア人女性が彼の毒牙に引っかかっている。でも、ね・・・、私は誰にも忠告する気はない。こうやってここで書くことはするとしても、直接本人には一言何かを言おうとは思っていない。

 なぜなら、引っ掛けるアホもアホなら、ひっかかるアホもアホだからだ。それにみんな成人しているのだし、ね。彼がナンパじゃなくて、殺人を犯しているのなら、警察に通報してもいいが、情事なんつーものは、個人の責任の範囲だとしか思えない。

 言葉の問題があったとしても、しばらく冷静に彼を観察していれば、必ずその怪しさに気付くのが普通だとしか私には思えない。それに薄々気付きながらも彼に身体を許している女性がいるのなら、それは意識的にも、無意識的にも絶対女性がどこかで、乗り気なんだと私は解釈している。

 例えば、彼が遊び人だと見抜いた上で、彼に一泡吹かせ、なおかつその後彼をメロメロにさせていくような女性が出現したら、私は実におもしろいと思うんだが・・・・。

 アヴァンチュールなんてものは、死ぬまで続いていいと思っている。またそういった男女の誘惑は実に面白いが、それはすべて個人の力量、つまりは責任でしかない。しかし、1度身体を許したら、どこかで彼が自分を娶ってくれるかもと尽くしてしまう女性が未だに存在しているのは、私個人としては実に悲しい。

 我が姑様じゃないが、もし彼女のように、結婚まで処女を守りつづけることを誇りとするなら、それはそれでよし。要するに、自分のやり方をどうやって遂行させていくか?、ってことが一番大事なんだと思わざるをえない。

 また逆に、ヤリたくてうずうずしているなら、さっさとヤッテしまえばいいと思う。そこに、妙な言い訳として、道徳、つまりは、世間の考え方等を突然持ち出して被害者ヅラしている女性は、個人的に好きじゃない。男性も女性の生理を知る必要もあるだろうが、女性も同じように男性の生理を知る努力をしてもいいんじゃないのか?!?!?!、と思うことしかり。

 守ってばかりでも発展しない人生、とはいえ責めだけでも発展しない人生・・。ようするに永遠に続くある種のゲーム(わかりあえない溝)があるからこそ、男女の仲は面白いと思うのだが、どうなんだろ?!?!?!。


2003年02月11日(火) とある場所

 午後4時に、“とある場所”へ日本人女性O氏のインタビューへ出向く。彼女は芝居などの分野、特に日本からのアーティストの招聘や、現代日本文化をフランスに紹介することに長年尽力を尽くしている人。

 この“とある場所”は実に面白いところだ。特に私にとって!!。なぜなら、そのうちアポイントメントを取ろうとしている人に、偶然にもどんどん出会えてしまうからだ。

 O氏とも、ここで偶然に出会った。その日は、別の人のインタビューでこの場所にいたのだが、ふとしたきっかけで彼女と話をしはじめたら、それがそのうち必ずアポを取ろうとしていた、O氏その人だったのでビックリ。

 本日は、フランスでそれなりのファン層を獲得している"BUTO"こと舞踏についての現状等について、O氏に語ってもらった。代表的なダンサーについては知っていても、それらがどのような派をつくり、現在までにいたっているかなどはよくわからなかったが、彼女が丁寧に説明してくれてたおかげで、だいぶ概略がつかめてきた。

 そこに、ひとりの女性が通りかかった。O氏は彼女に挨拶をはじめ、彼女らの話を聞くでもなく耳にしていると、この女性も、実は私がインタビューしようとしているE氏だったことが判明。すかさず名刺を渡し、見本誌をみせて取材協力をあおぐ。

 その後、O氏が運営するアソシエーションの内容についてインタビューしているうちに、もっともっと彼女らの運動を紹介したくなったので、別枠でこれらを紹介する企画を打診してみる。すると、隣の席にいた女性が私達のところに混ざってきた。彼女H氏は、やはり別のアソシエーションを運営していて、今後かなりおもしろそうなことをフランスでやろうとしていることを知る。

 こういう、想像だにしない展開で、色々な人に出会いっていくのは妙に興奮するものだ。また、これらの女性達が、ものすごくパワフルで一貫した姿勢を保ち続け、それぞれの活動をしているのを見ると、こちらも刺激される。私は決してフェミニストじゃないが、今まで出会った人で面白いっ!!、と思った人は女性が多い(特に日本社会において)。

 それに対して、フランスにもある日本の官僚社会の男性陣は、どうも発言の歯切れが悪く、また個人像が掴みにくい。個人と話しているのか?、それとも組織と話をしているのか?、判別が困難な錯覚に陥ることが多々アル。

 彼女らは当然、これらの男性陣と時には組んで、企画を実現させていくのだが、それらの過程において、かなり不愉快なことも必然的にあるだろう。私の立場は、あくまでジャーナリストとして、外から接すればよいだけなので(時には思いっきり皮肉ることも可能)ストレスとしたら、軽いほうなのかもしれない。

 結局、色々な話を彼女らとしているうちに、インタビューも3時間近くになった。彼女らが、貴重な時間を割いてくれたことに誠に感謝している。

 相変わらずフランス語でモノを書くことは辛い仕事ではあるが、とはいえ、こうしてパワフルな日本人女性陣に出会えることは、なによりも貴重で楽しい瞬間だなとつくづく思った。嫌だ嫌だといいながら、この仕事が終わったら、次はこのテーマでモノを書きてぇ・・・、などと大胆不敵にも考え始めているゼロでした。

 帰り道、すっかりアタマが日本になってしまったのか、十○屋にて、突如日本食料品を大量に購入。作ったばかりのメンバーズカードで割引にしてもらい、ホクホク。ついでに、ここの2階がビデオなどのレンタルをしていることを、本日になってやっと知る(笑)。興味をひかれたので、さっそく2階にあがって、顧客層と、その選ぶ作品の傾向などをしばらく観察してみる。

 思った以上に利用者がいるんだなぁ・・・、とひとりでビックリしていた。


2003年02月07日(金) お下品な言葉

 朝おきて、のんびりとミルクティーなんぞを飲んでいると一本の電話。ここ数日の風邪で、ガラガラ声で電話に出ると、姑だった。開口一番、

姑「タバコの吸いすぎよっ!!」
私「風邪で、あーたの息子さんも風邪ひいてますよ」
姑「だからタバコの吸いすぎよ」
私「でも、あーたの息子さんはタバコすわないでしょーが」
姑「タバコで年に何人の人が悲惨な最期を遂げていると思ってるの?。」
私「そんな人いるんですかね?。」
姑「あーらやだ、本当にヒドイ声、タバコの吸いすぎよっ!!」
私「先週風邪ひいてましたけど、もう元気になったんすか?」
姑「もう平気よ、だって私タバコ吸わないものっ!!」
私「一本、ためしに吸ってみます?」
姑「くだらないこと言わないのっ!!。先日送った美術館のオープニングパーティーの招待は、本日なの覚てる?。
私「?」
姑「ほーら、あなた達夫婦ってのは揃いも揃って郵便物もみないのね!!」
私「きっと、あーたの息子さんがどっかやっちゃったんじゃないっすかね?」
姑「・・・・・。」
私「全然見覚えもないっすよ」
姑「で、とにかく本日の夕方だから必ず行くのよっ!!」
私「だから、私達、二人揃ってヒドイ風邪なんですよねぇ」
姑「タバコ吸いすぎだらかよっ!!」


なんなんだろう・・・、この堂堂巡りの会話は・・・・(汗)。


何か不都合なことを言われたときには、すぐ“あーたの息子さんのせい”にすることにしている私。下品な言葉を使っても、それもなにもかも、みーんな、あーたの息子さんが・・・・、って切り返す。

 逆に、姑はなにかとタバコを使って責めてくる。くしゃみひとつしてもタバコの吸いすぎだから、ということになる。

 ま、それはそれとして、非常に品のない言葉や振る舞いを毛嫌いする姑。ある日、姑の家にいるとき、彼女の目の前でわしら夫婦が軽い口論となった。その様子を見ていて、言葉の格闘技のように感じたらしい姑。そのあと私に質問してきた。

姑「そんなにバンバン言わなくてもいいんじゃないの?」
私「だって、あーたの息子さんは私のことなんて言うと思ってます?。」
姑「なんていうの?」
私「Casse couille (直訳キンタマ潰し/イライラさせる嫌な奴の意)ですよォ、Casse couille!!」
姑「Casse・・・・あ、あ、あの、なんていったかしら?。」
私「couilleですよ、couille、couille、couiiiiiiiiiiiiille!!」
姑「ま・・・・」
私「あーたの息子さん、こんな下品な言葉を言うんですよォ!!!」

息子のせいにして、姑にむかって何度もcouille(キンタマ)と連呼した時は妙にスカッとした(笑)。現場には夫と、義弟がいたが、夫は喧嘩もすっかり忘れて、嫁がわざと婉曲的に姑に向かって下品な言葉を言っているのを知り、笑い出している。夫も自分の母親をからかうのが生涯の趣味。

 しかし真面目な義弟は、心配そうにことの成り行きを見ていた。案の定、その後義弟のところに何度も姑は電話して、
「ああ、長男夫婦の言葉があまりにも乱れていて夜も寝られない」等とグチっていたそうである。

 そういえば、これはわざとやった例ではないが、まだフランス語が初期の頃とんでもない間違いをしたことがある。ブルターニュ地方のカトリック信者の前で、私はただ、こういって言葉を始めたかっただけだった・・・・。

"Chrétien(発音はクレチアン・意味キリスト教徒)......."と。しかし実際に私の口から出ていた言葉は似ているようで完全に違うものだった。

"Crétin.......(発音はクレタン・意味バカ、白痴)"。

 潜在意識はふとした時に漏れ出すというが、果たしてそうだったのか?。熱心なキリスト教徒を前に、彼らを公然とバカと言ってしまったゼロでした(汗)。


2003年02月06日(木) 担当編集者

 私の担当編集者の女性Sは、のんびりしている。それが本来の姿か否かは定かでないが、とにかく今のところ、こういった印象を私に与え続けているのは確かだ。

 先週の木曜日に40ページ分の原稿をとうとう彼女に送りつけたのだが、その返事が月曜日に来るような編集者。ま、私としたら、時間やスケジュールに異常に正確で、重箱のすみを突いてくるような人じゃなくてラッキーなのだが。

 昨年の初夏に、この仕事の面接があった。Sの家で行われたのだが、実際にそこを訪れてみると、なんとも可愛い女性がでてきた。それが私の未来の担当編集者Sだった。私といえば、面接で意外に緊張していて、前日から(とはいっても、直前の直前で、真夜中から始めただけだが・・・)、旦那相手に面接の予行練習をして、すべて可能なプロジェクトを口頭で言えるように訓練していったほど。あらゆるイジワルな質問をされても、ほぼ完璧に答えられるようにしていった。

 友人らに、フランスの編集業界の面接は、興味がなかったら5分で打ち切られると脅されいた。で、いざ蓋を開けてみると、世間話のような仕事の話しのようなものが延々と続いて、1時間半も二人で喋っていた。で、最後にSのほうから、面白そうなので、とりあえず10ページほどの本の概要書を10日以内に書いて送ってください、ということになった。ま、これが今の仕事のはじまり。

 妙に拍子抜けしたものの、ま、手ごたえはあったのかな、と思った。そして彼女との別れ際に、白髪の紳士が現れた。Sと親しそうに話している姿と話の内容から推察して、てっきり親子だと思っていた。

 家に戻ってから、興味本位で、彼女の名前を検索にかけて調べてみると、運良くそれを発見。おまけに履歴書まで掲載されているっ!!。よーく考えてみれば、彼女の名前はフランス人のモノじゃない。ロシア人。10年前にフランスに来てから、かなりのキャリアを積んできているのがよくわかった。年齢も私より2つ上だけだったことも判明。

 その後、またまた興味が湧いたので、今度は白髪の紳士のことを検索にかけてみたら、見事にヒット。彼が彫刻家だということだけはわかっていたが、よく彼の生い立ちなどを読んでいくと、彼とSが夫婦だということがわかった!!!。ざっと計算して、30歳の差だ。うーん、なかなかやるね、S!!。

 両方の情報には顔写真があったので、それを夫に見せたら、妙に喜んで勝手に顔写真をコピペして、S夫婦の切り貼り画像を作っていた。こんなことはSは知らない。

 さてSの履歴書から判断して、彼女はまだ新米の編集者なんだとふんだ私。その途端にちょっと余裕が(笑)。日本とフランスの仕組みは違うとしても、わたしも日本では編集者だったことがあるので。とはいえ、版元のほうの社長はかなりやり手なので、余裕はそんなにかまし続けられないのだが・・・。

 今のところ、先週入稿した40ページ分(残り110ページ)の原稿は、すこぶる評判がよいとのこと。ああ、一安心。某仏雑誌に日本の代表のような顔して書いている、女性ジャーナリストがいるのだが、こいつだけにはスノッブに差をつけてやろう!!、と思っていたのだが、どうやら徐々に成功してるかな?!?!。でも、こんなことは書き手と編集者の間には手にとるようにわかっても、実際、読み手にはわからないものかもしれないが・・・。

 でも、いいのだ、すべてが自分のエゴのためだ(笑)。

 そんなわけで、必死こいて入稿しても、打ち合わせは来週まで延期というのんびり編集者S。この分だと、マジで平気で締め切りを延ばさせることが可能な気がしてきて、妙にウキウキしてきてしまう。

 しかし、自分の性格を棚にあげて、我が夫が私にプレッシャーをかけてくるのが許せんっ!!。あいつの性格なら、締め切り前日から仕事を始めるのが常だろうが(わしも放っておけば同じ)、どうも自分と同じ性格のものを見ると、叱咤激励したくなるようだ・・・。でも実に、鬱陶しい。ゆえにまたバトルになる・・・・。

私「キサマは編集の仕事をしらないっ!!」
夫「世間を甘く見すぎているっ!!」
私「よくそんな言葉がキサマに言えたもんだ、だから最近、よく雪が降るんだよっ!!」
夫、逆ギレ・・・・・、ってな感じ。

 異常に集中して仕事したあとに、編集者からOKが出て、のんびりと進行していくペースに気が完全に緩んだらしく、突然風邪がぶり返したゼロでした。


2003年02月04日(火) SDFのバーゲン

 よく買い物に行くスーパーの入口には、SDF(要するにホームレス)の仲間で10フラン(ユーロではいくらか知らんっ!!)の冊子を売って、生計を立てている女性がいる。フランス全土ではわからないが、パリにはこうやって日銭を稼いでいるSDFが多い。

 雨の日も、風の日も、雪の日も、猛暑の日も・・・・、という感じで毎日スーパーの閉店まで、売れるかどうかもしれない冊子を持って、入口に立っている彼女。

 私は、このスーパーに閉店時間ギリギリに出没するのが常。ゆえに限られた時間で買い物をしなければならないので、彼女のことなど構ってられないのが実情。しかし、こうもいつも顔を見ていると覚えてしまう。

 それじゃなくても、私は強烈な"physionomiste"(他人の顔をよく覚えている人)なので、たとえシチュエーションが変わっても、一度見た事ある人ならたいてい見分けられることが多い。

 この特質は、街中で会いたくない人とバッタリしそうになったら、私のほうが先に察知できるので、結果的にいやなご対面を回避できるという利点がある。

 さて、先週のことだ・・・。夕飯の買い物がてらに近所のブティックにフラフラと立ち寄ってみた。ムートンの毛皮のロングコートが半額になっていたのでそれを物色するためだ。

 店内に入ると、すでに私のお目当てのコートを試着している人がいる・・・・。ゲっ、と焦りながら近寄ってみると、なんとそれはいつもスーパーの入口に立っているSDFだった。SDFと私が同じ趣味っていうのにもちょっとビックリしたけれど、彼女がそのコートを購入できるだけの金を持っているということにもビックリした。

 彼女は店員と交渉していたが、よーく耳を澄まして会話を聞いてみると、彼女はどうやらフランス語がほとんど喋られないようだ。となると、東欧からやってきたSDFか?。きっと寒い日にも外に立っている彼女、ムートンの毛皮のロングコートでも着てないとやってられないと思ったのだろうか?。

 ということで、彼女が毎日売っている冊子の売上高を知りたくなったゼロでした。

 


2003年02月03日(月) ネット

 1998年の春頃からパリにブラブラと滞在しはじめて、6月の終わりごろから本格的に住み着くようになった私。

 その当時は、パソコンなども持ち合わせていなかったゆえ、毎日がフランス語だらけだった。頑張って日本書籍店に出向かない限り、日本語に触れられる機会は皆無。

 そして2000年の終わりに、日本へ里帰りしたついでにパソコンを購入してフランスへ持ち帰ってきたのが、ネット生活のはじまりだった。

 今おもえば、住み始めの頃にネットがなかったので、嫌がおうにもフランス語に慣れる必要があり、言語習得にはよかったのかもしれないと思うことがしばしばある。

 ま、それはそれとして、先日我が家でやった中国新年パーティーで着ていただいた日本人の方々で、6人中5人がネットを通して知り合った人。時には掲示板で知り合ったり、ダイレクトにWEBマスターにメール書いて、待ち合わせしてみたり等で、知り合った。また昨年の11月から立ち上げた私の“なんちゃって”サイトを通して知り合った方もいる。

 本当に、ネットは便利で、素晴らしい交流手段だとつくづく思う。私のように、自分から意図してネットででも日本人と交流する機会を作らないと、フランス人ばかりの世界になってしまうので、この手段は欠かせないのだ。

 逆にフランス人の友人・知人でネットで知り合った人がまだ、いない。こちらのほうは、どうも旧式世界で、口コミだったり、パーティー会場だったり、と、いずれにせよアナログな知り合い方が主だ。

 私は単純な人間なので、ネットでなんとなくコンタクトがとれたら、すぐ実際に会ってしまいたいタイプである。顔の見えない人と長いこと個人的にメールだけでは楽しんでいられないのかもしれない(笑)。特に狭いパリに住んでいるなら、なお更のこと、と考えてたりもする。

 で、図々しいことに、私は人見知りしないのだ(笑)。突撃取材だの、インタビューだので完全に“出会い”に対して慣れてしまっているのだろう。夫は私に何十倍も輪をかけたタイプなので、もっと単純。ゆえにこんな夫婦ゆえ、知り合いの数が芋ずる式に増えていく。

 でも、日本人部門は、私個人が頑張って開発しないとなかなか知り合いができないのが現状。そんなわけで、ネットが活躍している。とはいえ、誰でもいいから知り合いたいってわけじゃないのだけれど(笑)。

 おまけに、今回の仕事で“パリに住む日本人”社会の交流手段として、このことを記事としてまとめて書いてみた。個人サイトでもなんでも、フランスのソレと比べたら、質も量も多いのが日本。限られた時間の中で、夜中でもメールはできるし、サイトも読める、交流のコンビ二みたいな社会。

 これらはさすがに日本語がペラペラのフランス人ジャーナリストでも、読みこなせていないので、編集者にネタとしてはかなり面白がってもらえたようだ。

 さて、それでも最近は取材を通して、面白い(時にはクセの強い)日本人の方々に出会うことがある。個性が強烈に強くて、それでも面白い人は50歳以上に意外と多いのだが、この人たちは案外メールすらできないことがあるので、結局連絡はアナログ方式になってくる。

 アナログなフランス社会に生きて何十年という、50代以上の日本人・・・。そりゃ、ギャップがあってもショウガナイんだなぁ、とつくづく思いながらも、ふと面白くなって内心笑ってしまったりする。で、こういった人に限ってミニテルならできると自信を持って言うことが多々ある。

 

 さて、いとこのU嬢よ、2000年の里帰り中、帰国直前になってパソコン購入を思い立った私につきあってくれてありがとう。そしてありったけのものをインストールしてくれたことも本当に感謝してるっす。このおかげで現在のゼロがおりましてよっ!!。


2003年02月02日(日) 引き続き中国新年

 昨日に引き続き、中国新年のパーティー。夜、中国人の友人宅へディナーへ出向く。

 夫は中国語を話す。私はまったく話せない。とはいえ、いざ中国人とコミュニケーションするとなると、漢字が大活躍!!。夫の通訳などまったく必要なく互いに、ペンと紙さえあれば、どんどん会話できるのが面白いっ!!。夫は漢字の読み書きもできるが、とはいえ日本人の私よりは書けない。ザマーミロっ。

 というわけで、いくら夫がペラペラと中国語を話したところで、肝心な単語は私のほうが漢字で説明できてしまうのだ。

 中国人の友人らと、突然、山口百恵の話しになった。彼女は中国で物凄く有名だったらしい。あと高倉健も超有名。中国人の間でも、男らしいオトコの代名詞だったとのこと。かなりの中国人女性が、高倉健に憧れていたらしい。

 そして小泉純一郎の話しになった。中国人としては、やっぱり彼が靖国神社に参拝したことはおもしろいことではなかったと言われた。そうか・・・・。やっぱりね、と妙に納得。

 中国と日本の合作映画「鬼が来た」(鬼子来了)はものすごくよくできている。この映画を見たとき、そのシニカルでリアリスティックな、大戦中の中国における日本人の姿は新鮮だった。こういった側面は、残念なことに日本ではあまり語られていない。

 これらの話題を含めて、大いに話題が盛り上がった。本当に漢字は中国人とのコミュニケーションに不可欠なのもだと、痛感。でも共通の言語をもっていることの醍醐味をつくづく感じた。


2003年02月01日(土) 中国新年

 昨年から、中国新年に我が家でパーティーをやるようになった。私はどうでもいいのだが、中国フェチの旦那がたまには変わった催しをしたいという意があるらしい。とはいえ、私もそれに乗じて、日仏カップルだとか、日本人女性なども招待して、中国というよりは、アジアに関係する人々の集いと化しているのが現状。

 ただ昨年とは違って、前日まで仕事だのなんだのと忙しかったので家の中が泥棒が入った後よりもヒドイ状況だったのが問題。1月31日から2月1日にかけては、寝ずに朝7時ちかくまでセコセコと家の片付けをしていたほど。

 でも、我が家に来てくれたみなさん・・・・、我が家は頑張って片付けでもあんな程度です・・・・。笑ってやってください!!。

 当日、パリ日仏会館の図書館にどうしても行かねばはらず、雪が降るなか午後3時過ぎに出発。するとメトロやバスのダイヤが大幅に乱れている。RATPのしわざだ。"le mouvement social"なんぞとアナウンスを入れているにも関わらず、実際はmouvoirじゃなくて、immobiliser。要するにスト。

 パーティー招待客には夕方5時半と言ってあるのにもかかわらず、どうにもこうにもそれまでに家にたどり着けない・・・。結局午後6時すぎに家に戻ると、すでにMさんとYさんの日仏カップルがすでに到着していた。おまけに“準備が遅い”夫は、まだ鬚も剃っておらず、わけのかわらないセーターを2枚重ね着するなど醜い格好のまま、あたふたしている・・・・。

 ほうら、やっぱり・・・・・、と思う私。Mさん、Yさんには私の不在中、かなり手伝ってもらっていたようだ(恥)。

 ふとテレビを見ると、スペースシャトルが墜落していた。 一瞬昔の事故の映像か?、と思ったら最新の事故とのこと。Yさんとテレビを見入る。そういえば、Yさんとは不思議な縁で、例の9月11日のWTCテロの時も一緒にいたのだ。

 それはそうと、帰宅して急いで着替えて、準備をはじめると続々と人がやってき始めた。今回は少なめに招待したはずだったのだが、それでも40人は越えていた。初対面のAさんや、同じ区に住むYさんと夫などもやってきてくれてとても楽しかった。それプラス馴染みのEさんその夫と、Mさんとその彼も合流して、日本人女性は6人。

 招待客には一品づつ何かを持ってきてもらったのだが、それがどれもスゴク美味しかった。キッチンで皿に盛ったり、レンジでチンしている最中にツマミ食いをしていた私。なので、すべての料理を味わった(笑)。

 初対面の人とはもっとじっくり話したかったのだけれど、パーティーのホステスなので、あっちこっちで話さねばならず、ある意味では楽しいが、この点ではちょっと残念・・・。ま、次があるか、と諦める。

 こうして日本語、中国語、フランス語が奇妙に飛び交うパーティーは午前2時近くまで続いた。中国新年なぞ、ただのきっかけに過ぎない、パーティーだったとも言える(笑)。

 宴のあと、今年が自分の干支であることをふと思い出した・・・・。


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