葉月 凛太郎の日記

2002年09月25日(水) 人と人とのコミュニケーション

なんだか最近サボりがちですね日記。
以前に理由は書きましたが。
確かにどうせ書くなら面白く!!と思ってしまうのもあるのですが。

何よりも、書くのにエネルギーが要る所為です。
軽いネタでてろてろ書いてるときにはあまり要らないんですが。
勢いに載って書いたりした時にもあまりエネルギーは要らないのですが。

前回の日記のように何か思いを込めて書くとなると駄目です。
痛すぎです。
エネルギーがマイナスです。
どうすればより分かりやすくなるのか。
どうすればより自分の心の中を表現できるのか。

そして何より。
言葉になっていなかった思いをどうすれば言葉に変換できるのか。

その辺が難しくてエネルギー食います。
書こう、と言う気力を食います。

しばし充電。

言葉は脅威です。

どうすれば自分の思うことを伝えられるのか。
どうすれば、自分の意図を伝えられるのか。

同じ「言葉」であっても、言う人によって。言う状況によって。
そして言われた人によって。言われた状況によって。

その「言葉」は違う意味を持つことがあります。
そして、心は見えないものですから。
その言葉に込められた意味を、言った人の意図どおりに正しく理解できるか。
それは判らない事です。

その人たちがよく知り合っていても、状況によっては正しく伝わらないでしょう。
その人たちがまったく知らない人であっても、状況によっては正しく伝わるでしょう。

そう思って考えていくと、結局人の気持ちというのは伝えられないものなのか。
そんな気持ちになってしまってかなり寂しくなります。

伝わった、伝えられたと思うことはある。
もしかしてそれは錯覚かもしれないけれど。

でも、確かに言葉を通して伝わる思いはあるのです。
伝えたい、伝わった。
そう自分が思ったほどではなくても。
ほんのすこしのかけらであっても。
そう思うことがあるのですから。



どうも、前回の日記と今回の日記から察するに。
今の私は確実にマイナスモードに入ってます。
楽しい日記はしばらく書けそうにありません。

なんかまた心配されそうなんで先にフォロー。
書くのが嫌だったら書かないし。
書きたいときに書きたいことを書いていますので。
けして日記書きは負担ではないです。



2002年09月11日(水) 一年前

一年前のあの出来事。
TV越しの「映像」として、「記録」としてしかその出来事を知らない。
それでも、その「映像」をただ「見た」だけの私ですら恐怖を感じる。

あの出来事を真下で。
すぐ傍で見ていた人たちの恐怖はどれほどのものか。

私は、一年前の今日のことはほとんど覚えていない。
うつろに、TVで二機目の衝突を見たのを覚えている。
それよりも翌日の昼間に。
母の病室で見た崩壊の瞬間の記録映像。
そちらの方が見た、という記憶がある。

私にとっては海の向こうの惨い出来事よりも。
母のことのほうが重大だったらしい。
その母は自身のことよりもTVの中の光景のほうがその時には
余程の出来事だったらしく。
何の感慨もなく崩壊を見る私と違って母は悲しそうだった。

一年経った、今日になって
ようやく私はその出来事に
その映像に
恐怖を感じた

あの時私の心が何も感じなかったのは
母の入院と、その原因である病名とで
心の何かがすでにいっぱいで
これ以上はもう何も受け入れられなかったせいだったのだろうか。

あの時、あの惨い出来事を見ていた時。
何も感じない自分自身に対して私は思った。
自分は、余程。心がおかしいのだろうなと。




どうして、信じる神が違うからと争わなくてはいけないのか。
どうして、信じる神が違うからと、相手を攻撃しなければならないのか。

はじめは、宗教の違い。そこから対立が始まって。
そしてどんどん違う思いが絡んでいく。
そして止められなくなっていく。




昔言われた言葉「あんたは冷めてる」
そのためだろうか、中途半端にしか私は神を信じれない。
だから、信じる神のために命すら投げ出す人の気持ちはわからない。

それは本当に神の望むこと?

本当に、あなたがした事は。
しようとしている事は。

本当に、あなたの信じる神が望むこと?

宗教に詳しくはないからよくわからないけれど。
宗教とは、人を幸せにするもの。
人の心に平穏をもたらす物ではないだろうか。

それが、何故。




互いに同じ宗教、神を信じるものたちが集まって集団になる。
それ自体は何らおかしいことじゃない。

なのに、どうしてそれが。

あんな出来事を引き起こす事になったのか。


本当に、それは

あなたの信じる神が

本当に、望んだこと?

そこに、何かほかの思惑は絡んでいない?


すべてがそうではないけれど、
指導者は「指導者」であって。
けして神ではない。

それは、本当に神の望むこと?

「指導者」の言葉を、「神」の言葉としてはいない?

たとえどんなに徳の高い人であっても。
心清らかな人であっても。
その人は、「人間」であって「神」ではない。

それを、錯覚しそうになるから私はできるだけ宗教から離れる。
目には見えない「神」よりも、目に見える「人間」の方が信じやすい。
いや、信じやすいというよりも対象がはっきり目で捕らえられる分傾倒しやすい。
少なくとも、私はそういう人間だ。
だから私は宗教から離れる。
のめり込んで、指導者の言葉が全てだと思いかねないから。


私は、神の存在を一面では信じていて一面では信じていない。
既存の宗教の神はあまり信じていない。
私には私の心の中に信じる神がいる。
どちらかと言えば神道に近いのだろうか。
あらゆるものに、神が宿る。
そう、思っている。

どちらかといえば、信じているよりも。
そうであればいい、と祈っている。の方が近いかもしれない。
曖昧な宗教観だが今はこれでいい。

神とは語らぬもの救わぬものただそこにありつづけるもの。


色々な事件や出来事が起こるたび思う。

何のために、人は言葉を話すのだろう。
互いの意思を、伝えるためではなかったのだろうか。


「分かり合える」ということはもしかして本当はありえない事なのだろうか。


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葉月 凛太郎