人ごとじゃないと思う今日この頃。
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2002_10/2t2002102800.html
日朝交渉が物別れに終わった。 なにも成果は出なかったが、日本側としては焦ることはないと思う。 懸案事項は、拉致問題と、核問題だ。 じっくりと臨むのが上策だろう。
それにしても、またしても北朝鮮の姿勢にはビックリだ。
「日本は我々を信用していない」 などと北朝鮮は言っているが、あれだけ沢山のひとをさらっておいて、 信用しろ、と言うのもいまさら無理があるような気がする。
「5人を戻して信頼回復を」 とも言っている。開いた口がふさがらない、というのはこのことだ。 信頼回復の努力をしなければならないのは、だれあろう北朝鮮だ。
その上さらに、経済協力ばかりを求めてくる。 調子が良すぎると思うのは、わたしだけだろうか。
日朝交渉のテーブルには、永田町で何度かお会いした方が臨まれている。 今後とも毅然とした態度で日本の姿勢を示し続けることができるよう、エールを送りたい。
今度の補選の総括として、結局、組織票がものをいう選挙だった、政治不信が深刻になっている、 といった論調が目立つ。
確かに、低投票率の原因は政治不信で、結果として組織票が際立ったのは確かだ。
ただ、この結果を指して、「政治不信」のひと言で済ませても良いものだろうか。 なぜ多くの国民が、政治に無力感をもっているのか。 このことの意味をもっと考えてみても良いのではないかと思う。
わたしの私見だが、つまるところ、多くの国民の意志をまとめ上げる受け皿が無いということだ。
期待に応えられそうな政党が無いとなれば、政治から距離を置くようになるのは当然だ。 それは、諦めにも似たものだろう。
そうなれば、終わりなき現状の維持・再生産がなされることになる。
だからといって、曰く、政治が悪くなっているのは投票に行かないひとびとのせいであり、 ますます民意とかけ離れた政治になってしまう。投票に行かない彼らこそがが日本をだめにしている元凶だ。 と断じるのは早計だ。
低投票率の結果、組織票に支えられた与党が勝利を収めたが、 その組織票だって、民意の表れには違いない。 組織以外のひとの意志こそが真の民意であるかのごとくの論調は傲慢だろう。
近代政治は、民意を組織することで支えられるのが前提だ。
既存の組織以外の形で、民意を組織できなかったところに いまの日本の不幸がある。
本来なら、野党第一党・民主党こそが、既存組織外の民意を糾合するべき立場にあったにもかかわらず、その民意を、無党派という言葉を使い、無定義概念に貶めたことに問題がある。 つまり、単なる“アンチ”としてしまったのだ。
欧州各国では、自由主義に対抗する形で、野党第一党が、 社会民主主義あるいは第三の道という形で、 積極的な理念を提示し、民意をまとめ上げた。 トニーブレア率いる英労働党が、顕著な例だろう。
いまとなっては詮無いが、もともと同床異夢の政党にそこまでの期待は出来なかったのだろう。 民主党というところは、その出生からして異なる理念をもったひとびとの寄り合い所帯なのだから、 明確な統一された理念の提示などは不可能だったのかもしれない。
はっきりと言うが、無党派の反乱と称して、自然集合的に、一定の志向性が出来上がるとするのは幻想だ。 政党の存在を前提とする議会制民主政において、政党が理念の提示を怠るのは、政党自身の自殺行為に等しい。ましてや、最初から、無党派層なる不確かなものに基礎を置こうとしていること自体が正気の沙汰とは思えない。
政党は、確かな基礎があるからこそ、政党たり得るのだ。 その基礎作りを怠ったツケがいまに回ってきているのだろう。
依代(よりしろ)となる理念が無ければ、無党派はいつまでたっても無党派だ。 無定義概念である以上、既存政党に対するアンチとしてしか、その存在を客観的に語ることは出来ない。
無党派の可能性を引き出せない民主党の罪は深い。
議会制民主政を採る我が国において、政治が政治として機能するには、政党間の理念対立が必要だ。
政治は終焉を迎えたわけでもないし、 政治の可能性はいまだ無限に広がっていると、わたしは信じてやまない。 そのためにも、民主党の再生を切に願う。
きょうは、政治問題への意識の高い学生グループ数人と話をする機会に恵まれた。
彼らは、非常に研究熱心で、へたな政治家よりも政治のことが分かっているんじゃないかと思うぐらいに、よく勉強している。 そんな彼らの高い意識のに触れて、大いに刺激を受けた。 この国もまだまだ捨てたもんじゃないなと、思いを新たにした。
その席でも言ったのだが、 この国を変えるという信念が、民主政の原動力だと、わたしは信じている。 この信念がある限り、歩みは遅くともこの国はかならず良くなるはずだ。
現状の政治が、戦後半世紀かかって作り出されたものだとすれば、 その改革には同じく半世紀かかるかだろう。 その半世紀先に責任を持てるのは、だれあろう、若者以外にあり得ない。 わたしたちのように若い世代が政治を志すのは、この点において、 意義があるものだと信じてやまない。 政治は結果責任なのだから、未来に責任を持てるのはわれわれ若者しかいない。
それゆえに、わたしは政治を志すにあたって、この信念だけは放棄すまいとこころに誓っている。
彼らのような真剣な若者が、これから少しずつでも増えてくれば、それだけこの国は良くなっていくと思う。
彼らの今後の活躍を大いに期待していきたい。
今日は、母校・上中里幼稚園の運動会。 こどもたちの屈託のない笑顔はなにものにも代え難い。 園の行事には、光栄にも来賓として何度か招かれているが、ほんとにほのぼのとした気分になる。 スピーチをさせてもらっても、素直な反応があって嬉しくなる。
この子たちをみていると、最近の少年犯罪の増加や、情緒不安定児が増えているのは、どこか別の世界の話に思えてならない。
・・・この子たちの今後の教育になにか歪みがあるということなのだろか。
小学校・中学校の教育にも問題があるのだろうし、家庭の問題もあるだろう。 それ以前に、教育は政府の、この国の鑑だ。
こどもたちは夢を持てないでいる。また、モラルの崩壊も著しい。親も教師も、躾に対して自信を失っている。そして、こどもを恐れてすらいる。 この国を束ねるなにかが、明らかに失われてしまった証拠だ。
だからといって、先祖返りして、教師に権威を与えてみても解決にはならないだろう。 父権の復活を叫んでみたところでも、虚しいだけだ。 なぜなら、権威の裏付けがなにもないからだ。 手品ではないのだから、確固たるパワーがないところに権威など生まれようがない。
工業社会として成熟した日本は、国家として夢を見る段階をすでに越えているのだと思う。 国家レベルで、工業社会日本が立ちゆかなくなっていることと、社会の構成単位、例えば家族であったり、日本型会社組織といったものが機能しなくなっていることとは、パラレルの関係にある。
日本の次の段階は、高付加価値産業、サービス産業、知識産業を主とした、個々人の能力やアイデアに依存する分散型の社会になるだろう。 そこにおいては、国家が全体を束ねる発想ではなく、国家は個々人の能力を引き出し、それを活かすための大器となるべきだ。
なにも全てのひとが同じ夢を見る必要はない。それぞれに異なった夢であっても、全てのひとが夢を見られる社会であるべきだ。 この国にダイナミズムが甦り、躍動感のある社会となることを目指したい。
躍動感は国家にベクトルを与え、新たなモラルを形成する。それは、あたかも指揮者のいないオーケストラのように、自然と一定の方向へと収斂されるだろう。 全てのひとが夢を見られる社会、という前提を共有することにおいて、それが逆説的に国民を束ねる価値規範になるだろう。
こどもたちが元気に走る姿を見ながら、この子たちの未来と、この国の未来のあり方をぼんやりと考えていた。
拉致被害者8人の死因が報告された。またも衝撃的だ。 安倍官房副長官の記者会見を事務所で観ていた。
平然と他国の主権を侵害できる、あの国の感覚からしてよくわからないのだが、今度の説明もさらにわからない。 自殺に、交通事故、加えて中毒死。 おいおい、ほんとかよ!? と言いたくなるような説明が羅列されている。 うつ病で自殺、海水浴で溺死、遺骨は、、、というと、曰く、洪水で流されました。 もう破れかぶれで弁明しているように聞こえるのはわたしだけだろうか。
どこかのトンデモ話を聞いているような気分がする。 子どもの頃、矢追純一氏のUFO番組をよく見ていたが、 UFOに拉致されました! とかいう話の顛末となんとなく似てる。。。
あれは宇宙人(?)が相手だから、フィクションでも済ませられるが、 これは、いま現に起こっている事実の話である。 それも、すぐ隣の国が起こした事件だ。
事件の真相は、あの国が握っているのだから、 日本政府は、断固として、調査を要求・継続していくべきだ。 あの国が拉致を認めた以上、少なくとも拉致の経緯の説明責任を果たさせなければならない。
日朝国交正常化交渉は、それからの話だろう。
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