今日も草の根活動。 それにしても、こうやって動いてみると、いろんなものが見えてきて面白い。 わたしは、いわば最前線にいるわけだが、多くの人に接する中で、この地域の、北区の縮図が見えてくる。 どういう力学で、どういうひとが、どんなことをしているのかが、つながって見える。 ただこれが分かっても、今の自分の非力さを改めて実感するだけで、切なくなる。 非革新の保守層の力のネットワークは、わたしたちが普段想像する以上に、膨大で強大だ。 そしてなにより、深く深く根を張っている。 おそらく、このネットワークが日本各地に張り巡らされているのだろう。 東京の北区という土地ですらこうなのだから、ひとの入れ替わりの少ない地域では、この拡大再生産がひたすら行われているだろうことは、想像に難くない。 これがこの国の姿なのだろう。 政権政党看板の付け替えや、魅力的なスローガンだけでは、この国が変わることはない。
先日は、野澤けいすけくん(千代田区議会議員選挙立候補予定者)の事務所に立ち寄った。 本人の立派さもさることながら、この時期から大きな事務所を構えていることに感心する。 わたしもあんな事務所を構えてみたいものだ、、、と思うが、現実はなかなかキビシイ。 そんな彼は、わたしより一歳上だが、ほぼ同世代。 同じように幼い時分より志を立てたもの同士として、非常に親近感を覚える。 この国の将来を憂える仲間として、協力しあいながらがんばってゆきたい。
野澤けいすけ公式サイトはこちら。 http://www.nozawa-keisuke.jp/
2002年08月15日(木) |
靖国神社問題を考える |
きょうは靖国神社の参拝に行ってきた。 毎年恒例、TOKYO自民党青年部の行事だ。 終戦記念日ということもあって、早朝にもかかわらず、多くのひとたちが参拝に来ていた。 参道手前の大通りでは、右翼団体の街宣車が大挙して押しかけている。そして、いつも通りに、機動隊の方々とあちこちで小競り合いをしている。炎天下のなか、ご苦労なことだと思う。 参道を進み、境内に入ると、重々しい雰囲気になる。老齢の参拝者の一様な表情が、そんな気分にさせるのだろう。この雰囲気の中にいると、この季節の強い日差しが、どっと重くのしかかるような感じさえする。 57年前のきょうこの日も、暑い日だったのだろうか。
ここ最近は恒例の感もあるが、靖国問題が熱い。 いつもながらに思うのだが、この問題になると、思考停止になるひとのなんと多いことか。 なんで、靖国神社を参拝すると、即座に軍国主義者だなんだ、と言われるのか。 同様に、なんで、靖国神社が、当然に日本軍国主義化の象徴とされなければならないのか。 さらに高じて、靖国神社を解体せよ、という意見も依然として根強い。
この国の悪い癖というのか、“象徴”を解体することにばかり目がいきがちに思える。 わたしは、この象徴攻撃は、たしかに、一見すると非常に分かりやすいが、百害あって一利なしだと考える。 象徴というのは、なにかの“結果”として、そう呼ばれるものであって、そのなにか“そのもの”ではないからだ。 靖国問題を例にすれば、靖国神社を問題にする意見は、靖国神社というスクリーンから透けて見える軍国主義(なるもの)を解体したいのであって、靖国神社自体を解体したいのではないだろう。
スクリーン(象徴)を相手に独り相撲をしているような議論は、傍目に分かりやすいものであるだけに危険だ。 議論すべき対象を見誤るからである。象徴の解体に熱心になるあまり、それで満足してしまって、象徴から透けて見える本質部分を議論する機会を逸してしまうからだ。 対象が誤っていれば、当然、まともな分析もできないし、議論も成り立たない。 靖国神社をめぐる議論が、堂々巡り、あるいはすれ違っている感があるのはそのせいだろうと、わたしは見ている。
はっきりと言おう、靖国神社が象徴するものは一つではない。 靖国神社になにを見るかは、ひとそれぞれだ。 既述の通り、軍国主義をみるひともいるだろうし、古き良き日本への憧憬をみるひともいるだろう。 とどのつまり、靖国神社は、思想信条の交差点、あるいは議論の“場”であって、解体・保護の対象ではないはずだ。 この観点から、分祠施設建設計画は愚の骨頂と言わざるをえない。ただ単に、問題の先送りにすぎないからだ。 靖国問題を横断する本質部分への言及がなされない限り、同問題は繰り返されるだろう。 それぞれのひとが、解体したいもの、守りたいものがなんであるのかを明らかにした上で議論をしなければ、時間の無駄だし、不毛だ。
終戦記念日にあって、靖国神社になにを見るか。改めて省察してみるのも良いのではないかと思う。 この作業は、この国の戦後史への総括を促すだろうから。
きのうきょうは、盆踊り。 午後は御神輿も出た。張り切って担いだせいか、肩がめっぽう痛い。ついでに膝も笑っている。 ひと晩眠って明日になるのが怖いぐらいだ。明日になったら痛みで肩が上がらないだろうなぁと思う。
それにしても、お祭りというのは実に高揚感がえられる場だ。そこには非日常性を求めるひとびとがたくさんいる。 それゆえに、お祭りは、核家族化が進むなかで、今や年齢・性に関係無く、全員が参加して楽しめる数少ない催しなのだと言える。 それぞれの地域で、受け継ぐべき慣習、文化といったものは、必ずあるはずである。 それが、地域のアイデンティティーにつながるのだと思う。 自分の住む地域を誇りに思い、愛すべきと思う土壌は、こういったものから作られるのだろう。
自治の要諦は地域に対する責任であると考えるが、その責任を培う土壌こそが、地域へのアイデンティティーだと言える。 東京にあっては、地域文化といったものは、守る努力を意識的に行っていかなければ、簡単に風化してしまう。 それだけに、地域文化を大切にする姿勢が、今以上に必要になってくる。
田中真紀子さんが議員を辞職した。 きのうのニュースで知ったとき、やはり、と思った。 あの方は辞職は当然だったと思う。 政治家は有権者に責任を負う以上、その言動にはなんらかの一貫性がなくてはならない。 それが、あの方には、傍目にも明らかにそれが欠けていた。場渡り的な活動の限界だったのだろう。 永田町で働く中で、あの方の話はいろいろと聞き及んでいるが、一般のワイドショーなどで伝えられる評判と、実際の評判とが、これほどまでに乖離している方も珍しい。 マスコミが作り上げた虚像を武器に政治活動を行ってきたわけだが、そのマスコミに最期は足をすくわれた形になっている。なんとも皮肉としか言いようがない。
一夜にしてヒーロー、ヒロインが生まれ、それが一夜にして悪役にもなる。 正義の味方だと思っていた人物がが、実は悪の権化だった、というようなシナリオは分かりやすくて面白い。 だが、ことは政治についてである。 最近の劇場民主主義には、非常に危惧を覚える。 かつての古代ローマがそうであったように、国民が「パンと見せ物」だけを求めるようになっては、民主主義は立ちゆかない。 政治家に責任が求められるのと同時に、国民にも責任が求められるのである。 そして、劇場民主主義を“演出”しているマスコミに対しても、厳格な目を向ける必要があるのではないだろうか。
住民基本台帳ネットワークシステムが本日付で始動した。 個人情報保護法案の腹いせとでもいうのか、マスコミは一部紙を除いてのきなみ反対の論陣だ。 プライバシー権を楯にして、住基ネットそのものの存在を否定するかの論調も目につくが、これはあまりにも乱暴な議論だと思う。 わたしは、プライバシー権といえども、無制約の自由であるわけもなく、国家の機能として、国民を管理するのはある程度やむを得ないことだと考える。 電子政府化が嘱望される中、このことはなおさらだとさえ言える。
憲法13条を根拠とするプライバシー権は「自己の情報をコントロールする権利」として定義されるが、住基ネット法の問題で重要なのは、このプライバシー権がいかにして保証されるかということである。 住基ネット法案の審議中から、小渕総理が、個人情報保護法案を前提とすると答弁していた趣旨は、まさにこのことに尽きる。 実際、一部市町村では、独自に個人情報保護条例を施行して、プライバシー権を担保しているところもある。 行政は、なにもプライバシー権を侵害したくて住基ネットを施行しているのではなく、行政サービスの効率化という観点からこれを実行に移しているのである。 行政改革が叫ばれる中、行政の効率化という流れに抗いようがないものとすれば、わたしたちが感心を払うべきは、個人情報保護法、条例の制定に向けて後押しの声を発することだろう。
この留保を付けた上で、条件整備が整っていない現段階での住基ネット始動は勇み足だったように思う。
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