以下、ちと長いけど、興味深い文章を発見したので、引用し、その後、ダラダラとほざき。
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モノガミーとポリガミーについて【CASUAL ESSAYS】http://petitco-po.kir.jp/casual/essays.cgi?mode=view&no=1
モノガミー(モノガマス)とは、異性愛社会における一夫一婦制、単婚主義のように、セックスのパートナーをお互い一人に限定したカップルのみを“正当な(婚姻)関係”とみなす考え方。別名「カップル主義」。浮気を絶対に認めないゴリゴリのパートナーシップである。
一方、ポリガミー(ポリガマス、マルチガマス)は多婚主義を意味し、多数間での性的関係を社会的に認める考え方だ。日本をはじめとする多くの先進国(この言い方は嫌いだが分かりやすいのであえて使用)はモノガミー社会なので、ポリガミーのサンプルといえば「浮気」や「スワッピング」などのマイナスイメージモデルしかないのが残念だ。
(略)モノガミーにとって、「2」は象徴的な数字だ。<あなた>と<わたし>の二人きりの世界。それに対してポリガミーは、「3」以上の数字であらわされる。
(略)孤独が原点だから、それを寂しいとも辛いとも思わないし、むしろわたしは孤独のすがすがしさをこよなく愛している。もしかしたら、誰かと分かりあえる瞬間を共有できるかもしれない。しかし、ダメならまた原点にかえるまでのこと。だから、分かりあえなさを大げさに嘆き悲しむ必要はない。
そんなわたしは、モノガミーにこの上ない嘘くささを感じる。「人と人は必ず分かりあえる」「どこかに運命の人がきっといる」。そんな甘い夢を見させる無責任さが、モノガミーから透けて見えるのだ。夢を見るのはそれぞれの勝手だ。しかし、その夢が「叶って当たり前」と思い込む傲慢さ、根拠のない全能感がいただけないのである。結局は、自らの傲慢さと全能感に見事なしっぺ返しを食らうだけじゃねーか。
分かりあえることを前提とするならば、分かりあえなさを目の当たりにすると絶望し嘆き悲しむのは当然だろう。「分かりあえるはずなのに分かりあえない」から、モノガミーは孤独を恐れたり、孤独じゃないふりをしたりする。そして「愛している」ことを理由に他者を束縛する。独占欲や傲慢さや依存を美化する。それがわたしには我慢できない。人は人の所有物にはなりえないし、自分自身の所有物にすらなりえないのだから。
(略)孤独に立脚したモノガミーというものがあれば、特に異論はないのだが、孤独とモノガミーは相容れない関係なのだろう。
「孤独のすがすがしさをこよなく愛している」のは私も同じくなのですが、私は「孤独に立脚したモノガミー」ってありえると思っているのですわ。というのも、わたしが、そうだから(笑)。もちろん、今回引用した文章を書かれた方が言うように、一昔前の少女漫画やロマンス小説のような「人と人は必ず分かりあえる」「どこかに運命の人がきっといる」的な、いわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーに立脚したモノガミーであるのならば、恋に恋する状態だとか、「寂しさを埋めるために他者を求める」関係になってしまう可能性は非常に高い。
でも、そうじゃないモノガミーもあるわけで、ただ単に、私がそうだから、だけでは全く説得力がないので、以下、考察してみます。
まず、「孤独」と「モノガミー」は相容れない、と断定することはできないと思うのですよ。孤独を埋め合わせるために恋愛という関係へと相手を誘う、という人たちは居るには居る。けど、そうではなくて、お互いの孤独を認めあいつつも、というよりむしろ、「お互いの孤独を認め合える相手だからこそのモノガミー」というのも存在していると思うので。(←私はこれ。)
それと、私が知る限り、ポリガミーであると自称している方々の、特にそう自称する人の生物学的性別が男性であるケースにおいては、彼らの行動の実態というのは、それこそ「孤独」を埋め合わせるために多数の人間を必要としているだけであるように思われます。心理学で言うところの「回避依存症」と「恋愛依存症」の併合型という感じの人が多いと私は思うんですよね、自称ポリガミーの男性って。
ちなみに、孤独を埋め合わせるための恋愛、というのは、恋愛依存症の文脈では、ロマンス依存症か共依存症。でも、あくまでこういうのは心理学の文脈で言われているだけのことで「病気」とは一概に言えないので注意してくださいませ。病気ではなく、人間関係にまつわるその人の「クセ」または「傾向」というニュアンスで考えたほうが、より正確かと思います。参考リンク以下。
http://homepage2.nifty.com/by-myself/huma-rhythm/love_addiction.htm
http://osaka.cool.ne.jp/inspire211/dependence.htm
あとは、「束縛」に関しては、これもまた自分の話になってしまうけど、もとから私は束縛心や嫉妬心が強いほうではないんですよね。だからなのか、“「愛している」ことを理由に他者を束縛”というのが、ちとわからない。。少なくとも、私が、いわゆる「浮気」というものについて、どちらかというと否定的なのは、相手を束縛したいからだとか、嫉妬するからだとかではないんですよね。あえて言えば、ほかの人とワザワザ浮気する必要性がない相手としか「つきあう」という関係になる理由が特にない、というか。
一体、これをどういう風な言葉で表現したらいいのか非常に迷うのですが、あえていえば、「付き合う」「恋愛する」「パートナーになる」というような、二者関係を結ぶための基準と要求が非常に高いからなのかもしれません。うーん。上手く言えないなぁ、これでは何か説明不足な気がする。。
たとえばですね、相手が「つきあっている」と思い込んでいたとしても、私からすると「は?お前なんかと付き合ってるはずないだろうに。。」とか「いや、付き合う、ってそういうことじゃないんですけど。」というような人が過去に何人かおりまして、まぁ、そういうことなんですよね、要するに。そういうのって、ヒドイといえばヒドイかもしれないけど、私の場合、恋愛であれ友人関係であれ、人間関係というのは、お互いがお互いにコミットするというのが前提としてあって、この前提条件にまつわる基準と要求が人よりも高いんじゃないのかな、と自分では思っております、はい。
「その関係性にどのような要求をするのか?」という点に関しては、モノガミーであれポリガミーであれ、お互いの「合意」は必要だと思うし、「お互いの孤独を認め合える相手だからこそのモノガミー」を実践している人たちって、実のところ、古今東西、たくさんいると私は思ったりします。