2011年05月02日(月) |
わが星、わが身、そして、わ。 |
左耳で、ずっと、耳鳴りがしている。 と、思ったら、それは、鼓動の音みたいだった。 どくんどくん、左耳でだけ、聞こえる。 左の鼓膜が心臓になったみたい。
ままごと、という団体?の「わが星」という舞台を見た。 それはそれは、すばらしかった。 わたしは、なにかを、「丁寧にやる」ということが苦手だ。 だから、丁寧なものに憧れるし、尊敬する。 (いっぽうで、「無造作」にも憧れる。わたしは、ただ、がさつなのだ。) わが星はとても丁寧な舞台だった。 わたしたちが味わうものは、空間であり時間だった。 だから、その場に足を踏み入れた瞬間に、舞台は始まり、時間は流れ始めていた。 空間に入ってから出るまで。 そういう丁寧さが、とても好きだと思う。
それは、「ラップによるミュージカル」などとも評されていた。 でも、わたしにとっては、それは、ラップでも、朗読でもなく、ダンスでもなく、演劇、でもやはりないのかもしれないが、なんというか、「時間そのもの」「空間そのもの」だった。
わたしにとっての詩(の朗読)の定義って、なんだろう、と考えたときに、「シンプルで、だからこそ、あらゆる表現を包括するものとして自由」という印象がある。それはスタート地点でもあるし、結果でもある。 詩、って、とても広義の言葉だ。わたしにとっては。最初にあるものだ。
そして、演劇、っていうのは、いまだによくわからないのだけど、それは「音楽ではないライブステージ」「映像ではないもの」というか、他のジャンルと対比しながら考えていくと、「ステージ」そのものの気がする。じゃあダンスはなんなんだって思うけど、ダンスは体が言語、演劇(芝居)は肉体で言葉を扱うってことなのかな。そしてなにより、演劇は、生と生との関係性が描き出されるもののような気がする。そして、すごく面白いと思うのは、生きているからこそ、言葉を体が裏切る瞬間などが見えたりする。 それから映像と比べたときに、ありえない奇跡が目の前で起こる、それが舞台だと思う。醜い人が絶世の美女に見えたり、時空がゆがんだり、距離を越えたり、そんなもの。
そして、たとえば詩の朗読が、話者と言葉、話者と詩に託された存在(世界)、話者と観客という関係性で成立しているとしたら、演劇は、演者と空間(時間)、演者と演者、演者と物語に託された世界、演者と観客、っていう関係性があるんじゃないか、とか思った。
そしてリーディングと演劇のどちらにもいえるのは、「存在そのもの」であるということ。これはダンスも音楽もあらゆる表現がそうかもしれないけれど。
わたしは、言葉をとても愛しく思うけれど、どこかで言葉を信頼していない。でも言葉にとらわれる。言葉がにごした世界の中に、とても直接的な何かがあるような気がしている。だから詩を書いているし読んでいる。 わたしは、関係性にひかれるが関係性をうまくあつかえず、そこに存在するということが全然うまくない、だから演劇にものすごく憧れる。 わたしは、言葉に疲れている、思考を手放したいと思っている、そしてそれが実現できるとき、とても放たれる、だから、ダンスに取り組んでいる。
話がずれたけど、私、「わが星」を見て、時間や空間が収縮するのを確かに見た。そして、そこにない存在と近づくのを感じた。だから、涙がでた。 演劇の定義とか、超えた。好みも、超えた。
私は結構頑固なので、いろいろこだわりもあるけれど、結局のところ、そういうこだわりを超えて「ああどうしようもなく好きだわ」と思えてしまうような「例外」に出会えることが、何よりも幸福な気がしている。今日この頃。 そしてそういう例外が、世界を広げてくれるのではないだろうか、と。
そういう「例外」に共通点があるとしたら、それは「この作り手を信頼した、信頼したい、信頼しようと決めた」もっといえば「信頼する、それがだまされていたとしてもかまわない、なぜなら私の感じたことはとても価値のあることだったから」という感じかな、と思った。
よくわからない日記だ。。。 *************
ビンラディンの死が「容疑者の殺害」と報道され、そしてそれが歓喜をもって受け止められている様を目の当たりにし、よくわからないが、とても不安な心持になっている。 だって「容疑者の殺害」を「正義」としてみなすって、ものすごく語義矛盾じゃないか、なんだかとても、すわりが悪い。。 ビンラディンの説明が「〜である」じゃなく「〜と見られている」みたいなあいまいな言い方をもって報道されていて、そして、そのひとが「殺害」されたということ。 ねえ、でもそれってやっぱり、おかしくないか。 そして、報道で使用されていた殺害という表現が、ただの、機械的な翻訳の結果なのか、意図的な使用なのかが、気になる。 ある種の主張なのかな、とか。
不安とか、恐怖にとらわず、見据えていかないと、いけないのだろう。 強くなれ、私。そしてしぶとく、ねばりづよくなれ。
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最近、現実の中で、いろんな漫画の台詞やシーンが脳裏をよぎる。
フィギュアのヨナVS真央を見ているときは、「SWAN」の「精神の透明性」という言葉が浮かんだ。
そしていま、何度も何度も繰り返されるのが、「エースをねらえ」の初期に、岡ひろみとダブルスを組んだお蝶夫人が、ひろみをねたむ部員たちから「敵よりも、ダメな味方のほうが怖いって本当ね」みたいな陰口を叩かれ、「誰ですかわたしのパートナーを冒涜するのは!」的な言葉で一喝する場面。 あのとき、お蝶夫人がひろみの側にたったことで、ひろみは冷静に自分の力を発揮し、最後まで全力で戦うことができた。 「ダメな味方のほうが怖い」って言葉、わかる気がする。でも、人間は、叩かれたり批判されたりいじめられたりしつづけても冷静に力を発揮できるほど強いわけじゃない。 怒りもある、もどかしさもある、でもそれでも、こちらが先に受け入れなければ発揮されない力のようなものもあるのじゃないか、とか。 わたしはお蝶夫人のように気高く味方を信じ、守り、そのひとの力を発揮させることができるかしら、とか。 ていうかそんなに他者の話ではなく、その味方を選んだのも自分だったりするわけだから、そんな自分を棚に上げた話をしていたらいけないな。 二元論で考えてもどうにもならないしな。。 自分以外のひとは他者であり、すべての他者は自分のかがみだ。
でもあれは、お蝶夫人が実力のある人で、「いざというときは私がまもるわ」「私がいるのよ、ひとりじゃないのよ」と言い聞かせることができたからこそ、というのもあるのだよな。 私には実力なんて無い。器もない。権力も無い。 でも、少なくとも、大きな傷は負っていない。体は動く、健康もある、そういう状況なのだから。 そこで、多少の傷は負うから、それでも他者を信じる、だって関わってしまったのだから、という、関与のしかたがあってもいいのかもしれない、と思う。 それは闇雲に賛成するとか従うとかじゃないし、信者になるわけでも太鼓もちになるわけでもない。むしろ、その逆として存在するための、ひとつのステップとして。
いやはや、ぐだぐだ。。。 それにしても、手を、つなぎたいものだ。 それって、いちばんシンプルな、存在証明であり、生きる力だね。
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