紫の生活

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冗談
2008年10月21日(火)

さっきNHKで茂木健一郎が、脳にとっての「笑い」の重要さ、みたいなことをしゃべってたが、たしかに、私たちは笑いがなければ生きていけない。冗談を禁じられるのは、ひょっとすると風呂を禁じられるよりつらいかもしれない。

よく関西人が、なにか冗談をいい、相手がのってこないと、すぐつまらん奴だという。そして東京人は全部つまらん奴で、関西人は全部おもろい奴だという。
むろん彼は間違っている。東京人もまた、おもろい奴なのだ。自分が冗談をいい、相手がのってこないと、つまらん奴だと思うのである。ただ、それを口に出さないだけである。

しかし、自分が冗談をいい、相手がのってこないとき、責任は完全に自分にある。おのれが冗談をいっていることを、相手にわからせてはじめて、冗談は成立するのだ。いかにも明らかな冗談、すなわちダジャレなどが低級とされるのも、この所以である。
先日、某SNSで、やらかした。成立させられなかったのだ。私はいま、沈んでいる。


詩人について
2008年10月20日(月)

最近、サイトに掲載していた小説を、全部「テキスポ」という投稿サイトに移した。たしか去年くらいに開設されて、そのときはたしかに文芸サイトという感じだったのだが、いつのまにかニュース評論とか2ch記事みたいなのが目立つようになっていた。まあ私はどちらも好きなので別にいいんだが。

印象的なのは、文芸チームの中で「詩」が多いことだ。詩人には無条件で憧れる。
私に詩は書けない。小説は、書いたものが「小説になっている」かどうかは一応、わかるつもりだ。だが詩は、どう書けば「詩になっている」のかわからない。もっとも、小説にしたところで、完全にわかっているかあやしいし、具体的になにがどうなれば「なる」のか説明できるものではないと思う。けれども詩は、漠然と感じとることすらできない。

以前から「詩は酔っぱらって読むくらいがちょうどいい」と思っているが、酔っぱらってでもいないとよさが理解できそうもないからだ。書くのもまたそうなのかもしれない。



おっさんどもが夢のあと
2008年10月19日(日)

めずらしく用事があり、八王子の山の中までいった。
予定では、朝早い時間、少なくとも午前中に家を出て、用を済ませるはずだった。午後3時には立川ウインズにいける計算だったのである。
けれども、前夜、酒を飲み過ぎて、寝坊した。休日に用があるというのは、それだけでなんだか損した気分になるものだ。結局二度寝して、起きたのは昼過ぎだった。

おかげで秋華賞に間に合わなかったが、私はどちらかというと、でかいレースより、多少マイナー気味のレースの方が好きである。素人にとって、でかいレースは、予想するまでもないガチガチか、予想をはるかに超えた大波乱かのどちらかだからだ。
今日はその大波乱の日だった。最終レースだけ買えればいいやと思ってウインズに入ったら、まさに秋華賞が決着する瞬間だった。いつもながら、100人以上の人間がさんざんわめきちらした末に、いっせいに静まり返る瞬間は筆舌につくしがたいものがある。


残念賞
2008年10月18日(土)

競馬。負けた。2レースで複勝かすっただけだった。
ひとつは本命にしていた馬がゴール寸前で穴馬に抜かれた。穴馬は、過去3レースすべて10着以下で降格した馬だった。
もうひとつは、本命にしていた馬が2着にすべりこんだが、1着だった穴馬に5馬身以上差をつけられていた。穴馬がどういうアレだったかはもう忘れた。
どちらもヒモ馬が全部複勝圏内にいたので、もし穴馬さえおとなしくしていてくれれば、今日の負けは取り返せたはずであった。
もっとも、その他のレースはかすりもしなかったのだから、こっちの方が完全な負けなのだが、複勝だけ取るというのは、なんだか決勝とか準決勝まで進んでいながら、結局銀でしたというような、ある程度手応えを感じながらも残念賞に終わったみたいな複雑な屈辱感がある。


世界一の女
2008年10月16日(木)

 いま、職場は渋谷、遊び場は新宿の場外馬券場という生活をしているが、この2つの町を行き来していると、つくづく思うことがある。
 日本の女の子は、ほんとにキレイだということだ。
 もちろん純粋に造形的な美という意味では、フランス人やベネズエラ人にはかなわないかも知れないが、着飾り方、お化粧の仕方、バッグの持ち方なんかは、全国民への浸透度合いという点で、おそらく世界一だろう。

 では、日本男子として、世界一「カワイイ」女の子たちにどうすれば好かれるのか。いまもって、ぜんぜんわからない。いいトシしてアホかと思うかも知れんが、職場の50過ぎたおっさんが、よく給湯室で女の子相手におしゃべりをしており、女の子たちは実に楽しそうに話を聞いている。少なくとも、私といるよりは楽しそうである。もっとも、それ以上に問題なのは、女の子たちにどうしたから嫌われたのか、いまもってわかっていないことである。


タクシー
2008年10月15日(水)

 以前は、泥酔するとよくタクシーをひろったものだが、ここ数年、めっきり使わなくなった。その代わり、始発が出るまで飲むのである。もっとも、始発まで飲んで後悔しなかった試しはない。けれども、始発まで飲むと決意するそのときは、最高にいい気分である。だが最近は、始発まで飲むと決意するそのときに、すでに後悔している。

 少し前、仕事でタクシーに乗らなければならなくなり、ビルの前で客待ちしているタクシー群に近づいていった。運転手たちは、外に出て、空を見上げている。車内で居眠りしているのもいるが、ほとんどは、外に出て、空を見上げている。私が近づいていっても、しばらく気づかない。
 別に、日本がのんびりしたいい時代になったわけではない。彼らは、煙草を吸っていたのである。同情せざるを得なかったが、彼らにとっては、客に「吸うな」という方がさらに苦痛らしい。しかも、禁煙宣告をして、ヒステリックに怒るのは、断然女性が多いらしい。



義のために賭ける
2008年10月14日(火)

 自分では変化しているつもりが、実は退化していたということが、往々にしてある。しかも、痛い目を見るまで、それに気づかない。愚か者の悲劇だ。

 この連休も、私はまんまとしでかした。なかでも最悪だったのは、WINSにいかなかったことだ。ここ1年で、私は、競馬がなければ生きていけない人間になりつつある。

 競馬がなければ生きていけない人間がたくさんいるのは、WINSや競馬場に出向けば一目瞭然である。それぞれ事情はあるだろう。たしかブコウスキーのエッセイに、ギャンブルはマスターベーションだったか性的欲求だったかに心理学的に近いと書いてあった。私は、カネを賭けること自体は嫌いである。というか、怖い。必ず負けると考える。けれども、競馬新聞に目を通した瞬間に、恐怖はいきなり消え去る。あれはなんなのか。「義のために遊ぶ」と太宰治は書いたが、その心情が、このとき少しだけわかる気がする。




   
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