一度だけの人生に
ひろ



 人の為に偽りを述べる

人の為に偽りを言うことは、
まさに「相手のため」ってことになるみたいですね。


「人の為」になるには
自分を殺さなければいけないという
神が創ったこの世の中のルール。

みんなそれをいずれ理解して、
自分の事を大事に出来るように生きていく。


けれども中には、
それが分かっていても人の為に、人の為にと
苦しんで、頑張って、精神的自殺を試みて、
敗れて、肉体的自殺を遂げる人もいる。
いや、いた。


それを蔑み、罵る人もけっこういるから、
僕らはますます死にたくなる

2003年10月31日(金)



 これからの夜

(11月23日に。)


今はけっこう、頑張れてると思う。

ある程度、やれていると思います。

けれども不安定です。


心はちっとも落ち着きません。
些細なことで転落し、苦しんで、へこみます。
自分で、へこむ要因を探して、
それでへこんでいるんじゃないか
自分が疑わしくなるくらい毎日苦しいです・・・。

それでも毎日「えい!」と決心して、
学校に来て、やるべきことをやっています。


「これからもやっていけますか?」と訊かれたら、
正直、無理なような気がする。


自分の将来を想像してみる。


色んな想像をして見るけれども、
結局、最後は自分は自殺に終わるんじゃないかと、
感傷でも、悲哀でも、陶酔でもなく、
実感として強く感じられて、暗澹とします。


この先、こんな風に毎日自分を叱り付けて、頑張って、
何もない、こんな虚無の毎日を暮らしていくのだと思うと
僕の未来の最終点はいずれにしても決まっているじゃないかと
思われて・・・。



「死ぬなら早い方が良い。」
どこかでそんな言葉を聞いたことがあります。


自分の実感に若干の感傷を含めて、
そんな言葉を夜毎、かみしめています。

2003年10月30日(木)



 呆然

「ああ、ロマンチックな学生諸君!
青春は、たのしいものらしいねえ。馬鹿野郎。
君等は、なんのために生きているのか。
君等の理想は、なんですか。
なるたけ、あたり触りの無いように、
ほどよく遊んでいい気持になって、つつがなく大学を卒業し、
背広を新調して会社につとめ、可愛いお嫁さんをもらって
月給のあがるのをたのしみにして、一生平和に暮すつもりで
居るんでしょうが、お生憎さま、
そうは行かないかも知れませんよ。」

太宰治『正義と微笑』


実にもう、嫌になった。
やはり、大学生は馬鹿だ。
この上なく無智だ。いや、もっと悪い。
犯罪的に堕落しているなんて言うと、
ヒステリックに喚いているみたいで印象良くないのかも
しれないけれど、そんな言葉も使いたくなるくらいだ。
もちろん全員が全員ではない。でも、多数だ。

今の、男の大学生の頭の中にあるもの。
「お金」「女」
今の、女の大学生の頭の中にあるもの。
「お金」「男」
          (まさしく)以上


馬鹿馬鹿しい。
理想、なんて言わない。
夢、なんても言わない。
ただ、あさましいみっともない真似はやめろ!

女は男を誘い、男は半狂乱で女のケツを追い回す。
そして男も女を誘い、女も半狂乱で男を追い回す。

僕だって、実にだらしのない男だ。
少しも高邁なところがない。けれども、けれども・・・。

飯を食うために生まれてきたのかしら。
セックスをするために生まれてきたのかしら。
つまらない。味気ない。馬鹿馬鹿しい。

「一言で言おう、おまえたちには、
苦悩の能力が無いのと同じ程度に、
愛する能力に於ても、全く欠如している。
おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。」

太宰治『如是我聞』



遊ばなければ損だとばかりに、
半狂乱になって遊び、酒を食らって、人を馬鹿にし、
異性のケツを追っかけて、絡み合うこと。
それが青春ですか?一番楽しいときですか?
馬鹿馬鹿しい。それが青春の本質だとしたら、
「死にたいくらい」馬鹿馬鹿しい。僕はごめんだよ。

男の話をしない女性と話したい。
僕の「男性」を無視してくれる女性と話したい。
男同士の愛情(つまり友情)を素直に告白し、
大切にする男たちと酒が飲みたい。


ああ、世の中はやっぱりこんなものなのだろうか?
そしてこれからますます「こんなもの」の生活に
なっていくのだろうか。こんなのは絶対、嫌だ。

少しでいい、少しでいいから自分を恥ずかしく思ってくれ。
そんな自分を恥ずかしく思ってくれ。


恥じらい。照れ。悔恨。
それらの無い人間こそ、もっとも程度が低く、
残酷で、くだらないと言う説を僕は信じている。
いや、そのはずだ!そうじゃないなら、僕はごめんだよ。

何度でも引用したい。確実だと思われる。

「一言で言おう、おまえたちには、
苦悩の能力が無いのと同じ程度に、
愛する能力に於ても、全く欠如している。
おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。」




2003年10月29日(水)



 自己精神殺害計画

雨にもまけず 風にもまけず 雪にも夏の暑さにもまけぬ

丈夫なからだをもち 慾はなく

決して怒らず いつもしずかに わらっている 一日ニ玄米四合と
                                    
味噌と少しの野菜をたべ あらゆることを じぶんをかんじょうに入れずに

よくみ ききし わかり そして わすれず 野原の松の林の蔭の

小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気のこどもあれば 行って看病してやり

西につかれた母あれば 行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくても いいと いい

北に けんかや そしょうがあれば つまらないから やめろといい

ひでりのときは なみだを ながし さむさの なつは おろおろあるき

みんなに でくのぼー よばれ ほめられもせず くにも されず

そういうものに わたしはなりたい


2003年10月28日(火)



 遠くにいても

人格障害、アダルトチルドレンに
関する本を読みながら。


自分を愛してくれる人が
離れて、遠くにいても、その存在を感じ、
安心して生活していくことが出来る能力・・・。


僕を愛してくれている人、
何人いるだろうかと考えると、
少なからずの自惚れや誤解も含めて、
案外にその存在に思い当たる。



けれども、常に愛を確認していたい人達。




僕らの弱さ、敢えてこの言葉を使うなら、
「欠陥」はほんの、ほんの小さなものでしかない。


誰にも、横たわる現実は少しも変わらない。

僕らはただ、その見方を少し間違っているだけ。

2003年10月25日(土)



 ユダ

ユダはキリストから
「本当にあなたは可哀想な人だ。
あなたは、本当に、生まれて来ないほうが良かった。」
と言われたとか言われてないとか・・・。

そんなこと言われて、
まともでいられる人なんていない。


あなたは、本当に、生まれて来ないほうが良かった。

僕の中でも誰かが言っている。

2003年10月24日(金)



 同じ感じ方と全然違う処し方

色んな人がいる。
そして、たいていは同じ事を感じている。
勝手ながら、同じ思いをしていると
言わせてもらう。

けれども、その処し方、
自分を守るためにどうするかって言う部分で
人それぞれ違った方向へ散っていく。

人を攻撃して自分を保つ人。
自分を傷つけることで自分を保つ人。

卑屈と傲慢。気弱と虚勢。

僕は卑屈である。気弱である。
そしてそれで僕は良いと思っている。
「自分を思えば人の事なんて言えないはずだ」
と言う理屈を僕はあくまでも遵守している。
(もちろん、及ばないところもあると思うけれど)


偽善と言うことを考える。
人はたやすく人を「偽善だ」と罵る。
けれども、「何が悪い?」と言う顔をして
ドシドシと苦悩することなく進んでいく様もどうだろう?
「偽善ですら無い」と言う言葉が浮かぶ。

「とにかくね、生きているのだから
インチキをやっているのに違いないのさ。」BY太宰治


生きている限り上は〜氏、下は〜氏まで
全員、程度の差はあれ例外なくインチキをやっているのさ。
だからこそ・・・。
人のインチキを見破って、
そこを攻撃して得々としていたって・・・
ところで、あなたは?の一言で終わりだよ。


僕は僕のインチキを恥ずかしいと思っていたい。
恥ずかしいと思っていることが大切なんだと思う。

2003年10月23日(木)



 本当の幸せ教えてよ

題名は今聞いていた歌の歌詞から。

「思春期に、少年から大人に変わる道を探していた。」
だってさ。僕はもう思春期じゃないけれど、まだ探してるよ。

大人ってどんな人のことだろうと
考えると、なかなか難しい。
子供って言うのは今の僕ってことで・・・
23歳にもなってまだ子供って言うのも・・・。


僕は本当に頭が悪いと思う。
みんなが分かっていることも、
僕はなかなか上手く飲み込むことが出来ない。
ただ、ぼんやりしていて、何をしたいのかすら、
自分で分かっていないのだから。
こんな人間ってあるのだろうか。
自分のやりたいことも分からず、
自分の感情についても自信が持てないで、
ちっとも確固たるものが無く、
すぐにフラフラとよろめく。
いい加減に、何らかの形で固めてしまえば
こんなに右往左往することも無いのだろうけど、
僕の思いは常に現実離れしている。
「良いなぁ」と思い、
「こんな人になりたい」と思う。
僕のそんなイメージは、人からみたら
あまりに呑気で、いい気で、「バカ」である。

完全な自己喪失の道化が世の中には
必ずいると思う。僕がそうだとは言わない。
少しでも自己喪失を起こしていて、
自分がどんな人間で、どんな思考パターンを
持っていて、どんな事が好きで、嫌いで、
そんなことも分からない人は、一体どうやって暮らしていったら
良いのでしょうか。

人が良いと言ってるものを「良い」と思い込み、
人が悪いと言っているものを「悪い」と信じ、
人が憎むものを憎んでいる振りをして、
人が嫉妬するものに僕も嫉妬する。
ふと立ち止まって考えてみると、
少しも分からない。どれが良くてどれが悪いのか。


僕が分からない。

どんなことをしたら僕は喜ぶのだろう・・・

2003年10月22日(水)



 大事な何か

人間って不思議な生き物。
色んな意識的、無意識的機能を持って生きている。

何か、何か僕の中に大切なものがあって、
僕はそれを守るために必死になっている。
それは何なのだろうと考えてみても、
はっきりとは分からない。

よく分からないから、取りあえず、
「自分」と言ってみる。
でも、それでは正確でない様な気がする。

自分の中の何か大切なもの。

それを失ったら死ぬ。なんて言うものじゃない。


けれどもそれは僕を生かしている。
そして死んでも、それを守ろうとするだろう何か。


何か、大切なもの

2003年10月21日(火)



 少年

人の期待に応えること。

それが少年の生きている意味だった。
それが少年の自己評価の全てのよりどころだった。

人に評価される自分であること。
そんな自分でなければ、自分を肯定できなかった。
そんな自分でなければ無意味であり、無価値であると、
はっきりと言葉にされた認識ではないにしろ、思っていた。

少年は青年になった。
人は、彼に何も期待しなくなった。
完全な自由の中で、青年は全く空っぽな自分に初めて気がついた。

自分には、自分の考えが無い。
自分には、やりたいことがない。
自分には、自分が無い。

「やりたいことをやりなさい」
と言う、青年にとっては最も難しい課題を与えられた。

操者のいなくなった操り人形。

糸の切れた凧のようにフラフラ当てもなく
風に揺られて右へ左へ。


あらゆる行動と努力の「動機」が無くなった。
苦しさに耐える意味も失った。
生きていく張り合いを失った。


みんなと同じように生きていくために
心の中に染み付いている「倫理」を
一つ、また一つと意図してかあるいは意図せずにも破っていった。
その度に激しい罪悪感を感じて、自分が嫌になった。

みんなが平気で通っていく道が
恐ろしくて、とても平然と歩くことは出来なかった。

「人の目障りになってはいけない。
人の迷惑にだけはなってはいけない。
人を押しのけてはならない。
人を傷つけてはならない。」

彼の倫理は全て彼の恐怖心からでしかない。

人が彼を「良い人」と評せば、
彼はまごうことなく自分を「良い人」として認識し、
人が彼を「クズ」だと評せば、
彼は自分を、真実として、「クズ」だと認識する。


結局、「彼」は最初からいなかったのである。


2003年10月20日(月)



 私は誰です?

困った問い。

僕は一体誰だろう?

異常な質問だけれど、
こんな言葉に悩まされて、
一晩、ベッドの上で過ごす事が、僕はあるのだ。
考え出すと、ますます自分が誰なのか
分からなくなる。
全てが頼りなくなって、
僕の中にある、あらゆる、概念と言ったら良いのか
観念と言ったらいいのか、とにかく「考え」と言うもの
全てが疑わしくなり、
残るのはどうしようもない不安だけ。



「僕は、いません」

と言う答え。
もちろん、「いません」と答えた人も僕じゃありません。

2003年10月19日(日)



 ハッピーバースデー

『山羊の歌』時代から数えると、
三度目のテーマ「ハッピーバースデー」です。

今日から23歳です。
23歳って言うと僕の中では
立派な「社会人」としての「大人」って
イメージが幼い頃からあって、
それはきっと23歳では順調に行けば「学生」では
無くなっていると言うことが大きいのだろうと思います。
そのイメージを思うと、
今の自分はあまりにも頼りなく・・・。

けれども同時に、今の僕を思うと
老成の社会人、「苦労人」としての大人になるには
多分、あと10年以上は必要だと思う。

そして近頃はこう思う。
まだ、些細なことにクヨクヨしたり、
鬱々したり、喜んだりしている自分を見ると、
自分の若さと言うものも感じられて、
こんな自分でいることも、悪くないと。

そして、一生このままなら、それも悪くないと。

人からみたらどう見えるのか分からないけれどね。


書いてみて思った。
この頃の僕は「弱い僕」を「弱い僕」として
前より少し、肯定出来るようになっているんじゃないかって事。
無理してまで、「強く」なろうとする思いが小さくなって
いるのじゃないかってこと。
弱い自分を、少し許せるようになったじゃないかってこと。

なんかの漫画でこんな言葉があった。
「本当の自由とか、解放と言うのは
どこか遠いところへ、何もかも捨てて
旅立ったりすることじゃない。
今まで許せなかったことを
許せるようになれることが本当の自由なんだ。」
一字一句この通りではなかったと思うけれど。

誕生日だから、久しぶりに明るい感じの話を。
もしかしたら少し言い過ぎかも・・^^;

僕は相変わらずの僕ですよ。

2003年10月17日(金)



 友達

僕は八方美人です。
これはなかなか筋金入りだと思う。
正直に言います。人に嫌われたくないんです。

だから、僕は人並みかそれ以上に
「相手に上手くあわせる」ことを
やっているわけです。
自分が良い奴だと思っている奴の
悪口を目の前の奴が言っているとしても
「みんなと同じように」上手く受け流します。

思い出したのですが、以前に酔っ払って、
ある友人に、別の友人のことで、
「お前はあいつのことを馬鹿にしているだろう?」
とケンカ腰で詰め寄って、寸前で
周りにいた他の友人達に止められると言うことが
ありました。

その直後は
「なんてことをしてしまったんだ」と猛省。
どうやったらこの失敗を帳消しに出来るだろうかと
悶々としていたのですが、
客観的に自分のことを見てみたら・・・。

なんか自分がやったことに対して
こう言う評価を与えることは自惚れに似ていて
嫌なのですけれど・・・。
もし僕と同じ事を、僕の友人が、僕のために
誰かにやっていたとしたら、
僕は、気恥ずかしいだろうけど、
とても嬉しいだろうなと・・・。
酔っぱらいは
ウソがつけないものだけに・・・。

「自分のいないところで
自分を誉めている人を信頼しなさい」
と言う言葉が、誰が言った言葉だか忘れたけれど、
ありますが、それに似たような感じの・・・。


僕に対する悪口に、
「そんなこと言うなよ」と
言ってくれている、そんな良い友人、
僕に、いるのかなぁ

2003年10月11日(土)



 わかんないけれど

僕の大学出身でセラピストに
なった人は数人いるらしい。
数人もいると言うべきか、
数人しかいないというべきかは
分からないけれど・・・。

僕の知っている限りでも数人、
セラピストを目指して、
うちの大学で勉強している人がいる。

見ていると、正直、果たして
こう言う人がセラピストに
なるべきなのかしらと思ってしまう時がある。
「こう言う人はセラピスト向き」と言う
人間像がはっきり分からないから、
あんまり偉そうには言えないけれど・・・。

あまりに楽天的なのだ。
悲愴なセラピストも困りものだけれど、
酷く楽天的、楽観的なセラピストも、
いかがなものなのだろう。
実情を、知らないのだと思う。
僕もどれほど知っているか怪しいものだ。
けれども、それより遥かに知らないのだと思う。
探せば、いや、探さなくとも
すぐ身近に病的と言われうる人が
見つかるはずだ。リストカッターなんて
ゴロゴロいる。
そしてそんな人と、人間として真剣に
向き合おうと思ったら、どんなに大変なことか・・・。

そして、あまりにも無知なのだ。
僕もどれほど知っているか怪しいものだ。
けれども、それより遥かに知らないのだと思う。
何より、本を読んでいないのだ。
与えられた課題をこなす事しかしない。
ヤスパース、フロイト、ユングなんてのは
もはや心理学では古典中の古典なのだけれど、
読んだことも無いと言うのはまずいでしょう?

臨床の現場で役立つことは少ない、
もしかしたらほとんど無いのかもしれない。
でも、古典と言われる学説から得るものも多いと思う。
実際、僕は多くを得たと思うし、
何より「おもしろい」「なるほど」と思うのだ。
そう思えないなら、やめてしまえ。

フロイトやユングを読んだこと無いのは良い。
でも、本を読まないのだけは勘弁して欲しいと思う。

パスカルの『パンセ』を読んで欲しい。
あれが少しも理解できないのなら、
偉そうだけれど、素質が無いのではと思う。


2003年10月10日(金)



 ストレス解消

ストレスの解消の仕方が見つからないから、
こんなに悶々生活なのだけれど・・・。

久しぶりに一人でお酒を飲んだ。
リストカットをするようになってから、
ある程度酔っぱらうと必ずと言っていいほど、
切りたくなって、だから
あんまり一人でお酒を飲むのは
控えていたのですけれど。

今回はリストカットはしなかった。
二合の銚子で4本だから、
八合前後ほど飲んだのだろうけれど、
吐いた・・・。
一人飲みはペースが自然と早くなって、
少ない量でベロベロになってしまうものだけれど、
八合前後で胃の中身を全部
吐いてしまうほどになるのだから、
明らかにお酒は弱くなっているのじゃないかと思う。

ところが。
また、血を吐いた。
前回と同じくマロリーワイス症候群だと思うけれど、
これは癖になるものなのだろうかと・・・。
二度目だから、血を吐いたこと自体は
それほど衝撃ではなかったけれど、
それよりもここ2、3日の
微妙な胃痛が気になる。
胃潰瘍なのかも知れないと思う。

もし、胃潰瘍だったなら、
この時期に胃潰瘍になるなんて、
なんてついていないのだろうと思う。

お酒がストレス解消になるなんて
思っていないし、実際、なっていないのだけれど、
たまの息抜きにお酒を飲んだら、血を吐くなんて、
つくづく良いことがない・・・。

一人飲みで、リストカットを自制する事ができて、
その代わりに吐血とは、俺の一人飲みは
血を見ずには終われないのかと、正直、苦笑してしまう。



2003年10月09日(木)



 僕はどんな人ですか?

生活の変遷と言うものを感じる。
生活感の変化と言った方が正確かもしれない。
どう考えても、今の僕の生活と、
生活に対する姿勢が、一昔前の自分のそれと
全然違うように思える。

いわば「浮ついている」と言うような。
あるいは「ぼんやりとしている」と言うような。
なんだかフワフワしていて、
「生活に落ち着いていない」とでも
言ったら良いような感じ。
別に、遊び呆けているわけでもなく、
また「やるべきこと」をサボっている
と言うわけでもない。
なんだか、おかしい・・・。

無意志の生活と言うものは
こんなもののことなのかもしれない。
惰性で「やるべきこと」をやっている状態。


寝つきが悪いのはDさんとの恋愛騒動以来、
ずっとだけれど、眠る前が一番、厭世観が増して嫌だ。
色んな後悔がたくさん思い出されて、
もう詮の無いことばかり、考えてしまう。
どうしても眠れそうに無いときは、
ベッドから起き上がって、タバコを吸って、
本を読んだり、音楽をかけてみたりする。
そんな時は、たいてい何をしても気が紛れない。
いっそ、もっと意図的に気分を落として、
声を上げて泣いてみたら、すっきりするかもしれないと
思って、試みてみる。たいてい泣けない。
でも一、二度泣くことが出来た。
遠い過去の、悲しかったり、
辛かったりしたことを無意識的にか、
意識的にか、反復して、オイオイ泣いた。
泣いた後、そんな自分の感傷が、自分で
馬鹿くさくて馬鹿くさくて、声をあげて笑ってしまった。
「一人芝居」と言う言葉も思い出した。
泣いたお陰か、それとも自分があまりに
馬鹿くさくて呆れたのか、
その後ほどなく、あまり苦痛を感ぜずに眠ることができた。

本当に、僕はどれが本当の僕なのか分からない。
何をしても、何を思っても、何を言っても、
「一人芝居」と言う言葉が後ろをついて回って、
我ながらあまりに自分が馬鹿らしくて、
情けなくて、嫌になる。
こんなことを書いていても、
書いている自分の「一人芝居」を意識してしまって、
そして、「一人芝居を意識している」と書く自分の「一人芝居」。
どうどう巡り。


何でも良い。とにかく僕を規定してしまいたい。
「怠け者」それでも良い。
「無気力」それでも良い。
「弱虫」それでも良い。
拗ね者、甘えん坊、ガキ、感傷家、空想家・・・
どれでも、何でも良いんだ。

僕は一体、どんな人間なんでしょうか

2003年10月08日(水)



 玲瓏レンズ

『道化の華』と言うタイトルは
僕が敬愛し、研究している太宰治の
小説のタイトルをそのまま拝借していたもので、
僕の生活や、性癖を考えてみても、なかなか
良いタイトルだったのですが、
この日記のリファラー機能を見てみると
一日に一回くらい、グーグルやインフォシーク、
その他の検索エンジンからこの日記に迷い込む人が
いるようで・・・。
太宰治の『道化の華』を探している人には、
迷惑だろうし、あんまりそんな感じの訪問者が
いるのも、嫌ではないのですが、
よくも思えないので、
タイトルを『玲瓏レンズ』にしました。
これも僕の好きな詩人、宮沢賢治の詩集の中からの
言葉なのですが、題名ではないので、まぁ大丈夫かなっと。
「玲瓏」とは「美しく澄みきっている様子」と言う意味です。
この日記の内容とは、とても似つかわしくない
タイトルなのですが、今のところ他に良いタイトルも
浮かばないので、良いのが浮かぶまでこのタイトルにします。

一日に一回ないしは二回程度なので、
もしかしたらどなたかが僕の日記を探して
検索をかけているのではないかと思ったりしたのですが、
もしそうでしたら、HPの掲示板に一言書いてくだされば、
また考えます。

2003年10月07日(火)



 恋愛幻想

「構造改革」はまだ良いのかもしれない。
一昔前の大学生たちに流行った「革命」と言う
言葉には、その様相が見て取れる。
それが実現すれば、すぐさま、あらゆる諸問題が
解決され、新しい、素晴らしい毎日が始まるんだと
言うような幻想。「南無阿弥陀仏」みたいな感じ。

女の子に多いと思うのだけれど、
どうも「恋愛」と言うものに対して、
そこまではいかなくとも、似たり寄ったりの
幻想を抱いている子が結構いると、
大学に入った頃から、思う。

「恋愛さえ出来れば。」

恋は確かに良いものだと思うけれど、
あまりの「必死さ」に、何か、
「恋」ってそう言うものか・・・?って気がする。
再放送のドラマ「いつも二人で」の中で
良いセリフがあった。
「せっかくだから、大事にしてみたら?」
そう言うものだと思うけれど。

まぁ恋の話は良く分からないけれどねぇ。

そう言えば、Dさん云々の話から
もう半年以上も経っているんですね。
この八ヶ月は本当にあっという間でした。
あれ以来、もちろん、全然連絡は取っていません。
今頃は何をしているのでしょうかねぇ。

大学生活も、あと五ヶ月ほどしかないので
実質的にも心情的にも恋愛できる感じじゃないから、
唯一の大学時代の恋の思い出になるんですねぇ。

むうう・・・なんともコメントのしづらい・・・。
まぁ無いよりはずうっと良いってことで。

2003年10月06日(月)



 何にもならない

結局、僕らは幸せ過ぎるから、
毎日、変なことで鬱々したり、
小さなことでカッとなったりしてしまうのだろうか。

ゼミ室を出てすぐの窓際、
椅子に腰をかけて、煙草を吸いながら
三年間、ちっとも変わらない同じ景色を見る。
僕もちっとも変わっていない。
相変わらず、良く分からない不安を抱いて、
その不安が何なのか、必死に探して、考えてみて、
それらしきものに気がつくと、
かえって、自分にガッカリしたような、
つまらない、味気ない思いになったりしている。

一言を持って言い表せば。
と考えると、つまりは
「張り合いが無い」と言うことなのかもしれません。
「張り合い」なんて言葉を使うと、
世の「大人」の恰好の標的となるのでしょうけど、
実感なんですから、ごまかしたくても、仕様が無い。
でも、大事でしょう?張り合い。

世の中、ままならないことが多いってことを
今こそ、声高に叫んだほうが良いんじゃないですかね。
「あなたは何にでもなれるんですよ。
けれども、何にもならなくても、別に良いんですよ。」
(↑BY北野武)
って生まれてきた子供達に言ってあげましょうよ。

やっぱり、俺って甘いのかねぇ。


「甘さを軽蔑する事くらい容易な業は無い。
そうして人は、案外、甘さの中に生きている。
他人の甘さを嘲笑しながら、自分の甘さを美徳のように考えたがる。」

太宰治



幸せすぎるのかな・・・。

2003年10月05日(日)



 

僕には、もともと物欲があまりない。
それはこの日記でも何度か書いてきたと思う。

服、靴、音楽CD、DVD、AV機器、テレビ、車。
特に欲しいとは思わないし、思ったとしても、
凄く弱いもので、手に入らなくたって
それほど残念でもない。
「あれば良いな」くらいの欲求でしかないのだ。

だから、逆に周りの友人たちが、
どうしてそんなにあれやこれやと
物を欲しがるのか不思議な気がする。

学校にほとんど来ないで、
買い物のためにバイト、バイトの毎日で、
次から次へと物を購入する人たちを見ていると、
「自分の幸福の観念と、人のそれが
全く食い違っているのじゃないかと言う不安」
とまで言ったら大げさになるのかもしれないけれど、
そんな風な感じすら受けるのだ。

物欲があまりないのだから、
文字通り「食べていける」だけ
稼げば良いと言うのが率直な、
僕の実感的考えだったのだが、
どうも、そう言う風に単純にもいかない。
凡そ、この世の中で、特に日本で、
「食べていける」だけしか稼がない奴、
あるいは稼げない奴は敗者、負け犬の評価を
受けるようである。
そのために皆、望むと望まざるとに
関わらずに、必死に物を求めていく。
なんとも不思議だと思う。
どこか、実感から離れた、
空転した資本主義の幻想と言うか、
とても妙な、馬鹿馬鹿しい間の抜けた感じ。


「日本人が皆こんなあやつり人形みたいな
へんてこな歩き方をするようになったのは、
いつ頃からのことかしら。ずっと前からだわ。
たぶん、ずっとずっと前からだわ。」

「ねえ。アナーキーってどんな事なの?
あたしは、それは、大昔の桃源郷みたいなものを
作ってみることじゃないかと思うの。
気のあった友達ばかりで田畑を耕して、
桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオも聞かず、
新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙もないし、
演説もないし、みんなが自分の過去の罪を自覚して、
気が弱くて、それこそ、己を愛するが如く、隣人を愛して、
そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。」

太宰治『冬の花火』


ああ、いいなぁ
そんな部落を作れないものかしら。

2003年10月01日(水)
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