一度だけの人生に
ひろ



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あんまりリスカについて
何かを言ったりするのはつまらないと思うし、
何を言っても、なんかしょっているみたいで
嫌なのだけれど、昔に比べて、近頃は
そんなに頻繁ではなくなったので、
ちょっとテーマにしてもよいかなっと。

僕のリスカはしょぼいと思う。
最初のころは手首を切っていたけど、
すぐに位置は手首から二の腕部分になった。
ん?二の腕???


にのうで【二の腕】
1 腕のうち、肩から肘(ヒジ)までの部分。

2 腕のうち、肘から手首までの部分。
〔現在2の意味で用いられることはほとんどない。
もと誤用から出発した1が主用〕


この辞書から引いた文章からすると
僕の言っている二の腕は2の方です。
つまり肘から手首までの部分。
手首を切らなくなった理由は
1、ビビリだから。
2、切りにくいから。
3、目立つから。
などなど。

最初はそんなことは無かったのに
やりなれてくるとやはり「趣味」みたいな感じに
なりました。
しかし、程度的にエスカレートして言ったかと言うと
僕の場合そんなことはなくて、
むしろ最初やったときの傷が一番深かったんじゃないかと思います。
縫わなきゃいけないほどの傷はありません。と思います。
と言うのも縫わなきゃいけないくらいの傷が
どれくらいのものかが分からなくて・・・。
病院に行くのは後々面倒だしってことで、
マキロン、ガーゼ、包帯で今までやり過ごしてきました。
そんなのでやり過ごせるくらいだから、
つまり縫わなくても良い程度なのだと思います。
当然、血管に達したこともありません。

せいぜい真皮損傷くらいとでも言いましょうか、
いわゆるまぁ「パックリ」くらいです。
しかし、どうも僕はこのパックリ状態が
気持ち悪くてしょうがない。
出血している間は良いが、出血前のわずかな時間と
出血後の、乳白色の真皮が気持ち悪い。
どうもあまりにパックリ、中身ジャジャーンは
生理的にうけつけない。
ゾンビ映画やスプラッター映画に加え、
医学書で気持ちの悪いものは、臆病者につき物の好奇心から
ずいぶんと見てきたはずなのに、
どうもこの自分の体にできた溝と中に見えるものが嫌だ。
これを腕中にパックリパックリと
いっぱい同時につけたところを想像すると、
正直、鳥肌が立ちます。

昔、自転車で派手にこけて、
その時、右手のこぶしの辺りの表皮が
ごっそりベロッとはげてしまって、
いわゆる乳白色の真皮部分が大きく露出し、
また肩の部分もそうなった経験があるのですが、
その時以来、どうも真皮恐怖症になったのかもしれません。

まぁそんなところですから、
本当にたいしたことは無いんです。
と言うお話です。

2003年05月30日(金)



 これはどうなんだ

今回は結構ぶっちゃけて。

人間には不思議なもので、
「タイプ」って言うものがある。
これは理屈じゃないからどうしようもない。
正直言って僕は今まで、
自分のタイプである女性と
長く付き合ったことがない。
どうも上手くいかなかった。
Dさんのことも含もうと思えば
含まれるけれど、あれは特殊と考える。

ああ、こんなこと
言いたいんじゃないんだ・・。

「想う人には想われず、想わぬ人に想われて」
とよく言うけれど・・・。
まぁ僕もそんなことが少しは・・・
人並みには・・・
もしかしたら人並み以上なのかも
知れないけれど・・・。

つまりあるわけです。

特にここ最近はこんなのが多いわけですが、
これはどうしたら良いのだろうかと・・・。
もちろん想われて悪い気持ちでは無いの
だけれど、どうも一方的な駆け引きみたいな
ものを吹っかけられるようなことがあって、
疲れるんです。
Kさんの言葉
「あんた後輩の子たちに
やたら人気があるよね。」を
気にして、特に注意して後輩に接してみて、
後輩の友人に探りを入れてみて、
僕の友人に話をしてみて、
いろいろと「あ、そう言われてみれば」とか
「なるほどそういう意味だったのか」的な
出来事が分かって・・・。

そう意識し始めたら、
どうにもやりづらい・・・。

男の友人に相談したら
「タイプじゃない女は
タイプじゃない女として扱え」と
言われました。つまり
タイプじゃないのなら
冷たくあしらえってことです。
そう言われて前に後輩に
「先輩はあんまり人のことに興味がないから
誰にも【分け隔てなく】優しく出来るみたいな
感じじゃないですか?」と言われたのを
思い出し・・・。

さらに別の男友達に
「お前は女には
全員に同じ態度で接するだろう?
いい意味でも悪い意味でも
誰も特別扱いしない。
平均的に扱う。
それが良い女には不満足になるし、
逆に容姿に自信のない女には
良く見えるんだよ。」っと・・・。

なんとなく説得力を感じました。

上記のように忠告されたことを
別の、いわゆる「もてない男」と自他共に
認めている友人に話したら
「そりゃそうだろ。
俺だって、もし良い女が、
誰もが良い男と認めるような奴と俺を
おんなじ風に扱ったら、
あるいはこれはいけるか?って言うような
色気も出るもんだよ。
そこまではいかなくても、元より
割り増して魅力的と映るんじゃないの?」と。

う〜ん。どうなんだろう。
タイプの女には特別に、
そうじゃなければ冷たく。
きれいな女には特別に、
そうじゃなければ冷たく。
それが然るべき男性の姿勢なんかねぇ?


2003年05月27日(火)



 汝ら断食するとき偽善者の如く・・・

悲しき面持ちをすな。
彼らは断食するを人に表さんとて
その顔色を害うなり。」

ダメだと思う。
これじゃやっていけないと思う。
この言葉の苦しさ、辛さ、遣る瀬無さ。
悶えるほどの苦しさである。
どうして良いのか分からなくなる。
一人、泣きべそをかいているしかない。
ダメだ。言わなきゃダメだ。
表さなきゃダメだ。
太宰には神がいなかったと言うのは
このことか。僕にも神はいない。

ただ、黙って、
影で人を助けて、力になって、
誰にも知られずに、死ぬまで
ニコニコしていることの美しさと苦しさ。
ただ、微笑していることの苦しさ。
死んだ方がましだ。

ずるくやればいいんだ。
隠れた苦労なんて、誰も知らない。
誰も知ったことじゃない。
良かれと思って、相手を思って、
黙っていれば、結局、それは無かったことだ。
無い苦労だ。無だ。価値も美醜も無い。
無。

甲斐の無い苦労に耐えること。
無報酬の行為。確かにそれは至難の業だ。
常人の出来うることじゃない。

事実はみんな知っているんだ。
影で、必ず誰かが苦労している。
それは知っているんだ。
でも「知ったことじゃない」んだ。

僕が間違っているんだろうか。
言わなかったことがいけなかったのだろうか。
僕がやらなければ、必ず他の誰かが
苦労することになる。
そう思って黙ってずっとやってきた。
それがいけなかったのだろうか。

いつの間にか、僕がやることを
みんな当たり前と思うようになって、
先生すら当たり前と思うようになった。

そして今回、やらなかった結果、
不手際が発生したことについて、
僕は先生から呼び出されて責められた。

普通、僕はやる立場に無いはずだ。
いや、普通は、普通の感性なら
僕がやるって言っても、
やらせるはずの無いことだ。
みんな僕がやって当たり前と思っている。

世の中は、全てこんなものかと思うと、
とてもやりきれなくなる。
人は全て、こういうものなのかと思うと、
誰も彼もが憎くなる。


2003年05月24日(土)



 純粋ナンセンス

↑椎名林檎がつけそうなテーマですね(笑)

「カントは私に考えることの
ナンセンスを教えてくれた。
いわば純粋ナンセンスを。」

by太宰氏


考えても、無意味



2003年05月23日(金)



 やんぬるかな

う〜ん公務員試験・・・
やばいな・・・受からんな・・・
これじゃ・・・。


僕は勉強するときは
静かだと集中できなくて、
必ずなんかしらの音楽をかけているのですが、
どうも歌詞が耳障りで、
気になってだめなので、クラシックを
聞いていることが多いです。
最近はモーツアルトのレクイエムを
メインで。長いし、歌詞はあるけど
何言ってるのか分かんないから
気にならないし、良い感じです。

高校のときはベルディのレクイエムでした。
バトルロワイヤルで使われたやつ。

数あるクラシックの中から
レクイエムばっかり聴いてるって言うのは
我ながら・・・。

深夜のゼミ室で、レクイエムを
大音量で聴きながら、
黙々と勉強に励む姿は
誰かが見たら、相当鬼気迫るものが
あるんじゃなかと・・・。

実際、鬼気は迫ってるんですが、
まぁここまできたらヤケクソですな・・・。



2003年05月22日(木)



 大貧に、大正義、望むべからず 

フランソワ・ヴィヨン

そりゃそうだわな。
まぁでもそこら辺に、
なんと言うかロマンの
機微って言うものもあるような
気もするんだけど・・・。

特に日本人の美意識は
そこにあると思う。
大金持ちで、なんでも思い通りになる
強い人が、正義を行って、義を通しても
ドラマにはならないんだよねぇ。


弱いものの味方。
自由主義、キリスト。
ああ、なんとなく通じてるような・・。
クリスチャンになろうかなぁ(笑


2003年05月21日(水)



 気弱

気の弱さ。

自分はダメなのか。
自分は醜いのか。
自分は嫌な人間なのか。

そんな気持ちに、とらわれている人達。
僕だけじゃない、きっと結構・・・
いや、たくさんいると思う。

すぐに克服なんか出来ない。
十年経っても、どうだろう・・・。
二十年後も同じかもしれない。
何年経っても
変わらないような気もする。

気弱。卑屈。

そんな自分の嫌なところ。損な所を
最大限意識して、
そして考えをちょっとひねってみて、
なんとなく落ち着いた。
苦しく生きること。
辛い生き方を選んでやると言うクソ意地。
ヤケクソとはちょっと違う。
正しいこと。義しいこと。
自分らしさ。


「私たちは、自信を持つことが出来ません。
どうしたのでしょう。私たちは、
決して怠けてなどおりません。
無頼の生活もしておりません。
ひそかに読書もしている筈です。
けれども、努力とともに、
いよいよ自信がなくなります。
私たちは、その原因をあれこれと指摘し、
罪を社会に転嫁するようなことも致しません。
私たちは、この世紀の姿を、
この世紀のままで肯定したいのであります。
みんな卑屈であります。
みんな日和見主義であります。
みんな「臆病な苦労」をしています。
けれども、私たちは、
それを決定的な汚点だとは、
ちっとも思いません。
いまは、大過渡期だと思います。
私たちは、当分、自信の無さから、
逃れることは出来ません。
誰の顔を見ても、みんな卑屈です。
私たちは、この「自信の無さ」を
大事にしたいと思います。
卑屈の克服からでは無しに、
卑屈の素直な肯定から、
前例の無い見事な花の咲くことを、
私は祈念しております。」

太宰治『自信の無さ』


僕は弱さに相応のいやらしさもあって、
社会に罪を転嫁することを時々します。
そして太宰もこの言葉どおり、
社会のせいにすることが無かったかと言えば、
そんなことは無いと思います。
彼だって時々、社会のせいにしてしまうことが
あったようです。
でもこの言葉を、僕は
信じたくなります。信じたいです。


後輩に「先輩の短所は優柔不断なところ」と
言われて、優柔不断の「優」と「柔」が
気にかかって、
辞書を引いてみました。
一人、フフッと笑ってしまいました。


【優柔】
(1)決断力に乏しいこと。ぐずぐずしてはっきりとしないこと。また、そのさま。

(2)やさしく、ものやわらかである・こと(さま)。

【不断】
(1)絶えないこと。いつまでも続くこと。また、そのさま。

(2)いつもその状態であること。


(2)+(2)=


「優しい」という言葉は、古語では
「身もやせるような思いでつらい。他人や世間に対してひけ目を感ずる。
恥ずかしい。」
と言う意味があったらしいです。



2003年05月19日(月)



 愛を乞う人たち

「愛を乞う人」って映画がありましたね。
見たこと無いけれど・・・。

今日読んでいた、
精神病患者を看護する人の為の本(?)に
「愛とは【〜ために生きる】ことである」
って書いてあった。
著者の考えらしいけれど。
あなたを愛している=あなたのために生きる
ってことになるけれど、
そう言う風に考えたら、
「愛してほしい」なんてすっごく大それた
言葉だよね・・・。

最近の女の子は、特に
「愛」って単語を簡単に使いすぎるような
気がします。僕の周りの子はそうです。

愛、愛って言うけれど、
正直僕は、その実体が何なのかわからない。
とにかく、周りの人が
「良いもの」として追っかけて
いるようだから、
僕も「なんだか分かんないけれど、
そんなに良いものなら僕も欲しいな」
と思って、求めたりしているのだ。
彼女たちには
本当に分かっているのかもしれない。
けれども実際は僕と
あんまり変わんないんじゃないか?と思う。


「人間が人間を「愛する」というのは、
なみなみならぬ事である。容易なわざでは
ないのである。神の子は弟子たちに
「七度の七十倍ゆるせ」と教えた。
しかし、私たちには、七度でさえ、
どうであろうか。「愛する」という言葉を、
気軽に使うのは、イヤミでしかない。
キザである。」

太宰治『チャンス』


七度の七十倍許すことが愛かどうかは
まだ確信がもてないけれど、
後半は、僕は大いに賛成したいと思う。
愛するという言葉を、気軽に使うのは、
イヤミでしかない。キザである。


「愛が欲しい」と気軽に言うこと、
「愛してる?」と気軽に聞くこと、
同様だと思う。イヤミでしかない。
キザだと思う。


2003年05月18日(日)



 五月

久しぶりです。

久しぶりに久しぶりです(笑)

いつものように、日記も
書けないくらいに忙しかったわけではなく、
また、ネットをしていなかったわけでもなく、
特に理由は無かったのですが、
半月ほどなんとなく空けちゃいました。


昨日の夜。
後輩の女の子に戯れに
「あなたの長所は何ですか?」って
聞かれたら
「さあ、なんでしょう?」
「あなたの短所は何ですか?」って
聞かれたら
「さあ、なんでしょう?」
って言いたくなるよって話をしたら、
「先輩の長所は優しい所。
短所は優柔不断なところ。」と
いやにはっきり言うので、
少しびっくりして苦笑してしまいました。

また、「優しさ」ということについて
考えたくなりました。

僕は思い違いをしているんじゃないだろうか。
僕は「優しさ」を
「全く利己心の無い行為」だと
思っている節があるし、また今もどこか
そう思っている。
見えすいたお体裁や、ごまかしや
ご機嫌伺いは優しさではないと思っている
所がある。
ああ、つまり僕の優しさはそれだと
言いたいんです。

でも「情けは人のためならず」
どんな行為でも、考えようによっては
全部「自分のため」とみなすことも
出来るから、難しいですけどね。

ああ、なんかこの話題間違ったかな・・・。



2003年05月13日(火)



 学生(二度目)

学生と言うテーマは二度目。

そろそろ学生も終わりです。
言ってみると意外な気もするけれど、
人は、物心ついてから社会に出るまでは
ずっと学生なんですね。

学生でない僕の人生は、
まだ始まっていないわけです。
そう考えると、まだまだ幼いわけですね。

「幼い」って言葉はなんとなくマイナスのイメージです。
「大人」って言葉はなんとなくプラスのイメージです。
どうしてそうなのか、考えてみると不思議な気もする。

「大人とは裏切られた青年の姿である」by太宰

大人になるってことはいっぱい傷つくこと、
裏切られること、赤っ恥をかくこと。
そしてそれに慣れること。
傷つくことに慣れること。
裏切られることに慣れること。
恥かくことに慣れること。

そして傷つけることに慣れること?
裏切ることに慣れること?
恥かかせることに慣れること?

ずっと学生だったから、
学生の良さなんて、分からなかったけど、
実際、お終いの気配が感じられてくると、
それとともに分かってきたような気もする。
どうしてこう言う具合でしか
感じることが出来ないのかな・・・。
失ったときの喪失感でしか、
そのものの大切さを知ることが出来ない。

「世の中の、どこに立っているのか、
どこに腰掛けているのか、甚だ曖昧なので、
学生たちは困っている。世の中のことは何も知らぬふりして
無邪気を装い、常に父兄に甘えて居ればいいのか。
又は、それこそ、「社会の一員」として、仔細らしい顔をし、
世間の大人の口吻の猿真似して、大人の生活の要らざる手助けに
努めるのがいいのか。いずれにしても不自然で、くすぐったく、
落ち着かないのである。諸君は、子供でもなければ、
大人でもない。男でもなければ、女でもない。」
『諸君の位置』

「今の学生諸君の身の上が、
なんだか不憫に思われてきたのであります。
学生とは、社会のどの部分にも
属しているものではありません。
また、属してはならないものであると考えます。
学生とは本来、青いマントを羽織ったチャイルド・ハロルドで
なければならぬと、私は頑迷に信じている者であります。
学生は思索の散歩者であります。青空の雲であります。
編集者になりきってはいけない。役人になりきってはいけない。
学者になりきってさえいけない。
老成の社会人になりきることは学生にとって、
恐ろしい堕落であります。学生自らの罪ではないのでしょう。
きっと誰かに、そう仕向けられているのでしょう。
だから私は不憫だと言うのです。(中略)
学生本来の姿とは、即ちこの神の寵児、
この詩人の姿に違いないのであります。
地上の営みにおいては、何の誇るところが無くっても、
その自由な高貴の憧れによって
時々は神と共にさえあるのです。
この特権を自覚したまえ。この特権を誇りたまえ。
いつまでも君に具有している特権ではないのだぞ。
ああ、それはほんの短い期間だ。
その期間をこそ大事になさい。必ず自身を汚してはならぬ。
地上の分割には与(あずか)るのは、それは学校を卒業したら、
嫌でも分割に与るのだ。商人にもなれます。
編集者にもなれます。役人にもなれます。
けれども、神の玉座に神と並んで座ることの出来るのは、
それは学生時代以後には決してありえないことなのです。
二度と返らぬことなのです。」
『心の王者』


太宰の随想です。

神と共にあることが出来るのもあと少しです。

2003年05月10日(土)



 ムカついている

勉強の合間に、
借りていたビデオを見た。
僕は、小心のせいか、どうも
一度も見たことの無い新作ビデオを借りることが
あまり出来ないたちで、今回も
一度見たことのある映画を借りてきた。

「ファイトクラブ」

ブラッド・ピットはやはりかっこいいなぁと思った。

映画の中で、ブラット・ピットが
こんなセリフを言う。

「歴史の狭間で、生きる目標が何も無い。(中略)
TVは言う“君も明日は億万長者かスーパースター”
大嘘だ。その現実を知って、俺たちはムカついている」

別にこの言葉に直接、共感したわけでも無いけれど、
世の中には嘘がいっぱいあるって言うのは本当だと思う。
その嘘は、確かにムカつく。


もっとさっぱりしてたって良さそうなものなのに。
何のための嘘か。

2003年05月03日(土)



 本当のこと

本当のことは、どんなことでも
全て、なんだかやりきれないことばかりです。
でも、結局、そんなもんだと思えば、そんなもので、
そんほどそれ自体は辛く無いと思うのだけれど、
本当はそんなものだって、自分も自分と人に対して、
他人も自分自身と人について分かっているのに、
自分はそうじゃないと見せかけて、
生きて行かなければならないのは、とても辛いこと。

どうして、人と人の間は
こういう仕組みになっているのでしょうか?

僕は、自分の事は棚に上げるけれども、
どうして人は僕のことを無用に警戒するのか、分からない。
僕は意図して、決してあなたを傷つけないし、
なんにしても、よほどでない限り、あなたは僕より立派に
決まっているのだから、泰然としていても良いのに・・・。

こんな気持ちをよそに、無用の警戒、駆け引き、探りあい。

僕は周りから「良い人」「優しい人」と言われています。
これは自慢ではありません。
どだいこんなことが何の自慢になりましょうか。
(こんな注釈こそが「無用の警戒」です。)
「良い人」だから相談されるのか、相談できる人だから
「良い人」なのかは分かりませんが、
とにかく恋愛から始まって進路、勉強、友人、家族問題に至るまで、
実にさまざまなことをいろんな人から相談されます。
その時の相手の僕への警戒。
そんな出したり隠したり、濁したりと言う警戒を
するくらいならば、初めから僕に相談などしなければいいのにと
思います。相談にのるのはかまわないし、
話を聞くくらいなら、いつでもいくらでも聞くけれど・・・。


相談と言えば後輩の女の子に
このあいだ意外なことを言われました。
「ひろおさんって、あんまり人に興味ないから、
分け隔てなくみんなに優しく出来るとか、
そんな感じじゃないですか?」

僕が?人に興味ない?
基本的には人のことばかり
考えているような気でいたんですけど・・・。
でも考えてみると、結局は自分の事しか考えていないと言うことと
質的にも見た目的にも変わらないのかもなぁと思う。

当たり前と思っていることを当たり前に
行うと、人は「優しい人」と言います。


「人を憂う。人の寂しさ、侘しさ、辛さに敏感なこと。
これが優しさであり、また、人間として一番優れていることじゃ
ないかしら。」

「人を憂う」は人の為に
何かしてあげることだけじゃなくて、
それは出来たらしてあげるのが良いのだろうけど、
出来なくても、人のことを思い、
一緒に泣き、悲しみ、苦しむことなのだと思う。

2003年05月02日(金)
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