一度だけの人生に
ひろ



 学生

「生活」と言うことを考えてみると・・・。

自慢にもなりませんが、
僕の一ヶ月の生活費は大学生の平均の
それより遙かに少ないようです。
友人に言ってみたりすると、
「ハァ?それでどうやって生活してるの?」
といつも言われます。
ですが、特に不自由を感じることはありません。
しかし、もともと不安症、神経症、深刻癖な
自分なので、手持ちが少なくなると、
言いようのない不安に苛まれます。
特に、困るわけではないのですが、
背中に重石でものせられたかのような
嫌なプレッシャーを感じずにいられません。

バイトして稼げばいいじゃんっと
お思いになる人もいらっしゃると思いますが、
僕には「欲」と言うものが、余りないのです。
これはあまり良いことではありません。
物欲がないのです。また「享楽欲」と言ったら
良いのでしょうか、そう言うものもほとんどなく、
さらには人間の三大欲、食欲も人並みより遙かに低く、
22歳の男盛りを鑑みると、性欲もあまり無いようです。
ただし、睡眠欲だけは人よりあるようですが。
ゆえにバイトしようと思う動機があまり無いのです。

また浪人時代の、バイトばっかりして、
稼いだお金を全部アルコール代に
あて、毎日飲んだくれるといった、
我ながら最低に惨めで、侘びしい時代の記憶もあって、
あまり余計なお金を稼ぐ気になれないのです。

「なあに。そんなこと言って、結局は怠惰なだけなのさ」
と言われれば、確かにそれも否めないような気もしますが・・・。



2002年11月30日(土)



 情熱的と言うこと

「情熱的」と言う言葉と状態を、
僕は嫌悪しています。
それは太宰の言うとおりに、
「相手の立場を無視しているということ」
だと思います。
自己否定の念が頭の片隅にもない人を
本当に心から嫌悪します。
嫌で嫌でしょうがありません。

「もっと気弱になれ!お前は少しも偉くないんだ!」
太宰のように、そう、叫びたくなります。


自分を疑え!確かにあなたには知識がある。
気概がある。勇気もあるかもしれない。
しかし、それであなたは一体何をなした?

ことさら息巻いて、何をするかというと、
ただ他人を馬鹿にしているだけじゃないか。

信念とか言う言葉で、自分が一段上にいる気になって、
言い返せない、気弱で、優しい、控えめな人を
馬鹿にしていじめているだけじゃないか!

自分を疑え!自分の考えを疑え!
自分の感情を、姿勢を、行動を疑え!振り返れ!
そうすれば、そんな安易に誰も彼も、なんでもかんでも
馬鹿にすることが出来るものか。

お前はただの我がままの気取り屋だ!
理論家でも、右翼でも左翼でも、思想家でも
なんでもありゃしないんだ!

お前は人を傷つけて得意になっている最低の人間だ!

2002年11月29日(金)



 同情と愛情

この間、僕の専攻の教授の一人である、
ある三十代前半の女性教授が、他の、同じく僕の専攻の
年配の教授に怒鳴り声で説教されていました。
なぜ怒られているのかは、聞いていても
学生の僕にはあまり分かりませんでした。
研究室から声が漏れて、演習室にいた
僕にまで聞こえるくらいですから、
相当大きな声でした。

僕は、人が(特に目上の人が)大きな声で
人を叱っているのに出くわすと、
妙にハラハラしてしまって、落ち着かなく
なってしまいます。
目上でなければ、特にそんなことは
無いのですが・・・。
僕には目上の人に叱責されると、
自分が悪くなくても、
だんだん自分が悪いような気がしてきて、
最後には「おっしゃる通り、自分はダメなんだ。」
となってしまう、意志薄弱な所があって、
目上の人に叱責されるのは地獄の思いなのです。
だから、他人事でも聞いているとハラハラしてしまって、
嫌なのです。

だんだん、その女性教官が
(その人の、いつもオドオドしているような性格もあって)
とても可哀想で、それと同時に「愛おしく」思ってしまいました。

この「愛おしい」という感情について
僕は昔から迷い、悩んできました。

僕は昔から、といっても高校生からですが、
恋愛の対象として「好き」になるのは、
いつも「可哀想」だと感じた女性だけなのです。
逆に言うと「可哀想」と少しも思えないような
感じのする女性には魅力も何も感じないのです。
気にもならないと言っても良いかも知れない・・・。

「同情と愛情は区別しなさい」
っとは良く聞く言葉ですが、
この言葉を考えるとき、もしかしたら
僕は今まで、一度も愛情というものを持ったことが
無いのかも知れない。もちろん異性愛と言う点において。

しかし、考えてみるに、
同情と愛情の区別とはどうやってするのもだろうか?
例えば金持ちが、使用人の娘と恋をする
なんて言うような映画とか物語があるけれど、
他人から見て、「これは愛情じゃない」と
言い得るもの(条件?行為?)は果たしてなんだろうか?
また当事者から見て「これは同情じゃない」と
言い得る者はなんでしょうか?
よく考えてみてもはっきりと
区別できるものがないような気がする・・・。

あいじょう(アイジヤウ)【愛情】
〔夫婦・親子・恋人などが〕相手を自分にとってかけがえの無い存在
としていとおしく思い、また相手からもそのように思われたいと願う、
本能的な心情

どうじょう(ドウジヤウ)【同情】
差し迫って困っている相手の苦しみ・悩みを、相手の立場に立って理解し、
そのうちにいい目も出ることが有るのだから、しっかり生きるようにせよと
温かい言葉をかけること

この辞書から引いてきた
意味を見ると、明らかにこの二つは
別個のものであることがわかります。
どう考えても別個のこの二つを見て僕には
ある自己弁護の一つの考えが浮かびました。

「愛情と同情は本来、全く別個のものであって、
これらが同時に発生することも十分あり得るし、
また、先に同情ありきの場合でも、
その定義、性質上、両者は混同し得ないものである。」

と、書いてみたら、まだ言いきれないものも、
あるような気がしてきた。

例えば同情されて、それを愛情と勘違いする人の話。
例えば同情して、それを愛情ゆえと勘違いする人の話。
いや、まて、全く愛情のない人に
(僕だったら)同情するだろうか?
ああ、難民の子供たちには僕は同情する。しかし
彼らは僕にとって「かけがいのない存在」か・・・。
違う。つまり難民の子の場合は純粋な「同情」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

考えれば考えるほど分からなくなります。
「かけがいがない」という気持ちも、持ってはいましたし、
それなりに恋愛の煩悶を今まで十分に味わってきた
ようなつもりではいたんですが、
もしかしたら、僕の場合は同情と憐憫と可哀想と言う
気持ちの煩悶で、本当はみなさんの言う「恋」は
したことがないのかも知れません。

2002年11月28日(木)



 情けは人の為ならず

この言葉の意味を最近の人は
間違って理解しているみたいです。
そう言う僕も高校一年くらいまでは
「人に情けをかけるのは、
相手の為に善くないことで
自分でやらせるのがよい」と言うような
意味で理解していました。
みなさんはどうでしょう?

本来は
「やがて、自分が逆境に立ったときには、
相手から救いの手を差しのべられることにも
なるものだ」の意で、
つまり人の為じゃなくて、自分の為に
なるんだ。と言うことです。

別に、このことについてどうこう
言いたいわけではないんですけど・・・。

僕には、どうも人のことについて、
自分のことのように考えてしまって、
まさに独り善がりな煩悶をすることが
多いのです。何もできないとわかっていると、
かえって、煩悶も大きくなって、
憂鬱な毎日を送っているような有様なのです。

こう書くと、何やら僕が
いわゆる「優しい人物」と誤解する人も
いるかと思いますが、
実際は、繰り返しますが、
ほとんどが独り善がりで、
相手のためにも自分の為にもならない
ものになっているのです。

それに、考えると、どこかに、
多分に打算もあって、
何とかしてあげたいと思う一方で、
「情けは人の為ならず」などと
思っているふしもあって、
我ながら、本当にやりきれない男です。

他人という存在は
不可解で、怖い者であると同時に、
また、自分を救うことが出来るのは
他人なんだ。というような
他力本願・・・といってはなんだけれど
そう言う考えも、どこか僕にはあるのです。

僕の悩みはほとんどが対人関係の
悩みであることから、僕がこう考えるのも
それほど変なことでもないようにも
思われるのですが・・・。

「NOと言えない日本人」
という言葉もよく耳にしますが、
この「はっきりNOと言えない」ことが
僕の対人関係に関する大きな苦痛の一つなのです。
はっきりNOと言ってしまうと、
もう二度と、その人とは良い人間関係が
作り得なくなるんじゃないかという、
恐怖が僕の場合、人並みはずれて大きいのです。

その恐怖から、僕は
人の頼みをなかなか断ることが出来なく、
また例の「情けは人のためならず」の
思いも重なって、やりたくないことを
我慢してやってしまうのです。
そんなわけですから、
僕の(他人から見た場合の)「優しさ」は
とても、「やってやった」的な
記憶を僕の中に強く残して、
恩着せがましく、
執念深いといっても言い過ぎでもないような
気もするほどになるのです。

「情けは人のためならず」と思って
かける情けは、どうも
自分のためには決してならないようです。


2002年11月27日(水)



 誤解の説明

説明して分かってもらうと言うのは、
なんともやりきれない、甲斐のない努力のような気もする。

言葉、つまり声で伝えてもそんなもので、
ましてや文章なんて・・・。
一つの想いの説明を
しようと試みると、ああこれは誤解だ、
この言葉は説明しないと・・・、ああ、あれも書いておかないと
伝わらない。などと、この日記の一日分の容量じゃ
とても足りないくらいになってしまう。

この日記にも一度「memories」と言う題で、
自分の人生を振り返ろうという試みを行ったのだけど、
一回目だけで、二回目以降は書いていない。
それは、確かに自分の気無精な性格が
禍していると言うこともあるのだけれど、
それよりも、書いていて、これはきりがないと言う
想いにかられたからです。書こうと思えば
書けるのだけれど、どうしても伝わらないものがある。
不可解な点があるものにしかならないような気がしたのです。
回想の説明しなければならない。説明に使った言葉の説明。
きりがない。

その人の理解にピッタリ来るような言葉が
僕に分かったら良いのだけれど・・・。

何か、何か短い言葉で
上手く言えたら良いのだけれど、
といつも考えています。
そして考えついたのが、

「腹を空かせている人の前で、
平気でご飯を食べられるようになりたい」

もちろん、比喩です。


上の言葉も、この日記に今まで
書いてきた文章も、僕の悩みや辛さの一部です。
一つ一つ、全部が繋がっているのは確かなんですけど・・・。


2002年11月26日(火)



 大前提

僕がこの日記を書き始めた理由は、
自分が日頃感じていることや、不安、不満
疑問、焦燥などをどこかに表現したかったからです。

普段、ここに書いているようなことを
思ったり、考えたりしても、
人の目障りになるのではないかと言う
不安から友人などに話すことはとても出来ない自分ですが、
それでも誰かに見てもらいたいと言う思いが
あるのです。

だから、ここに書いていることは、
あくまでその時の自分、つまり
パソコンに向かって、キーボ−ドを打っている時の
自分が思っていることをただ書いているだけで、
なんら全体として論理的なものではありませんし、
矛盾も、重複もたっぷりと含まれていると思います。

それゆえ、当然ながら
「みんなは間違っている。僕の思っていることが正当なんだ。真実なんだ。」
などと、少しも思ったこともありませんし、
そんなこと言えるだけの内容でもありません。
また、僕がそんなこと言えるような人間だったら
ネットで日記を書き始めるようなことも無かったでしょう。

そう言うことですから、この日記の文章は、
(ネット日記とは全部、最初からそう言うものなのですが)
「共感」の対象になっても、「議論」の対象にはなり得ません。
「嫌悪」の対象にはなっても、「批判」の対象にはなり得ません。

なぜ、こんな当たり前のことをわざわざ
今になって言うのかというと、
最近の自分の文章は、世間とか社会とか主義とか大衆とか
というものの方向へいくらか傾いており、また
「〜べき」「〜だ」などと言う断定的な言い方をしている
ところが多くなってきているからです。



2002年11月25日(月)



 エピゴーネン

中身が空っぽだからでしょうか。
僕はすぐに人の考え方に影響されます。
と言っても誰彼かまわずではなくて、
なんかしら自分の心情や世界観や
願望にピッタリ来るところがある人にです。

常にそう言う人がいるような
人生でしたから、考えてみると、
自分のオリジナルな考え方はあるのだろうかと
疑問に思うときがあります。

あれは中也か、あれは賢治、あれは鴎外、
これは太宰だし、これは?ああ、安吾か・・・。
そんな感じです・・・。

それでへこむ時もあるけれど、
エピゴーネンにもエピゴーネンの誇りのような
ものも自然と芽生えるもので・・・。

人には
「好きでなったんじゃないやい。
彼らが好きだから、なっちゃったんだ。」とか言ってみる。


2002年11月24日(日)



 大馬鹿

「誰に対しても、良い人に
なろうとしてるから馬鹿を見るんだろうが」
「そこら辺は割り切ってしまうんだよ」

友人は、はっきり僕にそう言いました。

ああ、なるほど・・・

ああ、つまらないな・・・
世の中はつまらない。

僕は馬鹿だ。大馬鹿だ。
お金を欲しがらないから、馬鹿だ。
他人のことで悩んでいるから、馬鹿だ。
人の顔色を見ているから、馬鹿だ。
人の喜ぶことを
してあげたいと思っているから、馬鹿だ。
言い返さないから、馬鹿だ。
人を嫌いきれないから、馬鹿だ。
見せかけばかりだから、大馬鹿だ。

2002年11月23日(土)



 

ずっと他人の目ばかり気にしている。
第三者の目が気になって、何もできないでいる。

何か、思った通りに、やってみようとすると
誰かしらが、したり顔で分かりきった忠告をしてくる。
でも僕は、議論は好まない。何も言えない・・・。
何を言ったって、
お互いに白々しい思いだけが残るだけだもの・・・。

でも申し訳ないけれど、僕だって、あなたの
言っていることの矛盾、嘘、ごまかし、ポーズ
いくらでも挙げてみせることができます。
あなたの目の前にズラッと並べて、
いかがっと迫ることだって出来るんだ。
お互い様じゃないか・・・

分かってる。どうすれば良いか、分かってる。
もっと自己中心的になれば良いんでしょう?
分かっています。
中途半端にわがままだからいけないんでしょう?

こうやって書いていても、
全部、ポーズに思えてくる・・・。

本当に、本当にそれが些細なことだと分かっていても
人から侮りを受けると、何もかもイヤになる。

何だよ、みんな見せかけのくせして、
人の見せかけ暴いて、喜んでる。

「やめておこう」
なんて悠長なこと言ってたら、
損ばっかりするじゃないか。

2002年11月22日(金)



 愛情、優しさ

「本当に愛しているのだから、
黙っているというのは、大変な頑固な独りよがりだ。(中略)
黙っていられるのは、結局、愛情が薄いからだ。エゴイズムだ。
どこかに打算があるのだ。後々の責任に、怯えているのだ。
そんなものが愛情と言えるか。
照れくさくて言えないと言うのは、
つまりは自分を大事にしているからだ。
怒濤へ飛び込むのが、怖いのだ。本当に愛しているならば、
無意識に愛の言葉も出るものだ。」

太宰治『新ハムレット』


この点について、
愛情も優しさも変わりません。

僕には、とても耳が痛い言葉です。

2002年11月21日(木)



 性質

その人の純粋な性質を美しく思い、
それに憧れ、だからいつも隣にいるのだけれど、
また、その純粋な性質のために、その人が憎く、
純粋なままであることが許せない。
なんとか自分のように汚れさせようと言う、
不思議な関係を見ました。


ケチな根性

2002年11月20日(水)



 憂う 

自分は、人間みんな根底は優しいものだと
思っている所があるのだけれど、
案外、そうでもないのかと
思うときが多くて分からなくなります。

そんなこと言わなくても良いのに
って思うときがたくさんある。

別にそんなこと良いじゃないって思うときがある。

「そりゃ心配ですよ」っと言うと
「優しいんだね」って言われる。

え?みんなもそうでしょ?


2002年11月19日(火)



 新ハムレット−4−

Dさん、Kさん、Mさんと俺ともう一人
俺の友達の男とで、お酒を飲みに行きました。

Dさんにお酒を飲ませるのはどうだろうかと言う
疑問もあり、自分なりに色々と調べたり、
本を読んだりして見たのですが、
諸説があるみたいで一概には言えないようでした。
自分が言い出したことでもなく、
完全に行く気の三人に「やめた方が良いよ」と言うのも
気が引けたので、行くことにしました。

Dさんはもともとぼんやりとした感じの人で、
以前からお酒を飲んでもちっとも変わらないんですが、
今回も特に普段と違うこともありませんでした。

でも卒論関係で怒られたりして
相当ストレスが溜まっているようでした。

Kさんの精神病への抵抗感は
思ったより強いみたいです。
と言うのも、本人は言いませんが、僕の見たところ
多分自分に精神的に不安定なところがあって、
それを自分は我慢してやっているのに、お前は・・・。
みたいなところがあるのだと思います。
そう言う話が垣間見えたときに、
「それじゃあただの八つ当たりだよ」っと僕が言ったら
「そうだよ。八つ当たりだよ」と言っていました。

複雑な問題なので、それ以上、Kさんに
どうこうは言いませんでしたけど、
「自分のことと、人のことは分けて考えなきゃだめだよ」
とだけ付け加えておきました。

僕の本音を言わせてもらえれば、
そう言う八つ当たりは、最もイヤらしい部類の八つ当たり
だと僕は思っているのですが・・・。

しかし、Kさんも大きなストレスや苦悩を
抱えているのも、また事実だと言うことも分かっています。
だから言えませんでした。

その飲み会の後日、
再びDさんにあいました。
僕は一応、Dさんのその話、つまり分裂病が疑われる
症状についての話を一切知らないと言うことになっていたのですが、
その日に「私は幻聴が聞こえるから・・・。」と言うような
話を僕にしてくれました。
「幻聴」と言う言葉を自分で使いはじめたのは
良い兆候と思って良いのかな・・・っと思いました。


2002年11月18日(月)



 知らぬ

僕の祖母は、僕の顔を知らない。
僕だけでは無い。孫全員の顔、
父の顔、姉の婿の顔、全部知らない。

麻酔の医療ミスで
48歳の時、全身麻痺となり
視力も失い、寝たきりになったのだ。

祖母は今年で77歳。
食事、排泄、寝返り、起きあがることすら
自分ではできない。そんな生活を
三十年近くもしてきたのだ。

僕が小学生の頃に、
祖母は、僕の家で一緒に住むようになった。
まだガキだった僕は、正直この祖母が
あまり好きではなかった。
煩わしかったのである。
起こしてあげるのは、専ら僕の役目だったが、
起こしても、しばらくすると
すぐ横になって、また起きるときに
「ひろちゃん。ひろちゃん」と呼ぶので、
面倒でイヤだった。それ以外でも
何か用事のあるときは
「ひろちゃん!ひろちゃん!」とうるさかった。

一緒にいる時は何かと煩わしく感じていたの
だけれど、離れて住むようになって、
僕の大学合格や、弟の高校合格、
姉の結婚などで涙を流して喜ぶ祖母を
見ているうちに、たまらなく申し訳なく、
愛おしく思うようになった。

何もできないのだ。
それこそ「生きている意味」に
直面して三十年間生きてきたのだ。
それなのに、顔も知らない孫の心配をして、
家族の心配ばかりをして、笑ったり、喜んだり
泣いたりしているのだ。

祖母は僕がこっちに戻る時、
いつも必ず、「また来てね」となぜか言う。
実家なのだから
また来るのは当たり前なのに・・・。

毎年、3度は必ず帰る。


2002年11月17日(日)



 新ハムレット−3−

−1−で書いたDさんに、
その話が発覚してから、今日初めて会った。

どんな風だろうかと言う心配・不安が
あったのだけれど、以前と違った風には
全く見えなかった。

彼女の姿、笑顔を見ていると、
嬉しいような悲しいような、
思わず涙が出そうになりました。
こう言うのを連鎖鬱と言うのでしょうか・・・。
どうも今回のことと、
今までの「心の病」の友人達のことを
思うと、たまらなく悲しくなってきて、いけません。

「お前の身勝手な感傷だ!」
っと人は、言うかも知れない。
それは、そうなのかもしれません。
でも、そう言われてしまうと、僕は
人間の哀れみや優しさや思いやりと言うものの
実体が、全部わからなくなります。

人間、一度関わりを持ってしまったら、
決して放っておくことは出来ないもの。
そうでしょう?

どうせ僕には、
やりたいことも、目指すものも、欲しい物も
何もないんだ。
これからの人生に、これと言った目的は無いんだ。
だったら、みんなの為に使いたい。
と言うようなことを大まじめで思うときがあります。
「いい気なものだ!ポーズだ!何様だ!」
と言われます。
悪いことらしいです。僕にはわかりません。

わからない。
生活の不安、淋しさ、疎外の恐怖。
僕にはこれが人生の最大の困難に思えるのだけれど、
それらみんな、僕らみんなで、僕と、僕の友達みんなで
助け合っていけば、なくなるんじゃないか。
みんな出来ないと思ってる。どうして出来ない?
わからない。



2002年11月16日(土)



 新ハムレット−2−

「可哀相なのは、あなただよ。
いや、あなただけでは無く、叔父さんも、
母も、みんな可哀相だ。
生きている人間みんなが可哀相だ。
精一杯に堪えて、生きているのに、
楽しく笑える一夜さえ無いじゃないか。」

太宰治『新ハムレット』


近ごろ自分も、
そう感じることが多い。
みんな可哀相だ。

最近もまた一つ可哀相に思うことがあった。
みんな真面目で、気弱で、ビクビクしながら、
それでも精一杯生きているのに、
何にも、良いことがないじゃないか・・・。

僕にはわからなくなってきました。
果たしてこの世の中に、
「余裕」なんてものを持って、
生きている人が、本当にいるのでしょうか?

平気で、生きているように見えるけれども、
内心はみんな、辛くて、苦しくて、
それでも弱いところを、見せるのが怖いから、
必死の努力で明るく朗らかに生きているように
装っているんじゃないか・・・。
だとしたら可哀相だ。人間みんなが可哀相だ。
たまらないくらい可哀相だ。


2002年11月15日(金)



 新ハムレット−1−

大学に入ってからの友人に
4人「心の病」の人がいます。全員女性です。
決して、そう言う人を選んで、仲良くなったわけではありません。
仲良くなってみたら、そうだった。
あるいはその人の友人がそうだった。
みたいな感じです。
知り合う前にそうだと言うことを、
知っていたことは一度もありません。
摂食障害、鬱病、人格障害、リストカッター等
様々です。自分のやっている勉強が勉強ですから、
そう言う人が集まるのでしょう。

最近5人になりました。
その人も女性(Dさん)です。
Dさんは専攻が一緒のこともあって、
二年のはじめから知り合いでした。
なんとなくぼんやりした感じの人でしたが、
容姿・外見にすこし取っつきにくい雰囲気を持っていて、
当初はあんまり気さくに話し掛けられませんでした。
年齢は一緒なんですが、学年はあちらが上って言うのもありましたが・・・。

最初の一年間は、顔見知りに毛が生えた程度の仲でしたが、
今年のはじめに、一度飲み会で話をして、顔見知りから知人程度になりました。
その後もたびたび、みんなで一緒にお酒を飲んだりしていました。
学校で会うことがあったら、少し話をしたりしていたんですが、
今年の夏くらいから、俺と会うと「何か噂聞いてませんか?」と
毎回、毎回聞いてくるようになりました。
俺は特に気にもかけずに「いや、別に何も聞いてないっすよ」と
応えていたんですが・・・。

しかし、あまりに何度も
聞いてくるものだから、何かあるのかと思って、
彼女の友人(Sくん)に聞いたところ、
彼女は友人・知人全員に、そう聞いて回っているらしく、
Sくんも聞かれたらしいのです。Sくんは訊く理由を尋ねたところ、
彼女いわく
「私の家には盗聴器が仕掛けられている。
スピーカーも仕掛けられていて、私の悪口を言っている。」
と応えたそうです。

精神・心理系の知識が皆無のSくんは
「それは気味が悪いね。業者に調査してもらった方がいいんじゃない?」
と言ったそうです。
少なからず知識のある僕は、盗聴器はともかく、
「スピーカー・声・悪口」と言うのには「まさか」っと
心配になり、さらに彼女と仲の良いKさんに
聞きにいきました。

Kさんも心配だったようで、
詳しく話をしてくれました。それによると
「夏くらいから、自分の悪口を言う人の声が
どこででも聞こえる。」
「話をしていても、心ここに在らずの状態で、
人の話を聞いていない。」
「ぼんやりしていたかと思うと、
突然泣きべそをかきはじめることがある。」
「家に引きこもっていることが多くなった。」
「精神的なものでは無いと頑固に言い張る。」
こんな感じでした。

それで、その時にはもう、Kさんともう一人の友人Mさんで
大学のカウンセラーの所に
連れていくことになっていると言うことでした。

Kさんは親友Dさんの突然の変化と
その尋常じゃない言動・行動に、
相当、当惑している様子でした。しかも
Kさんはもともと精神病に対する抵抗感もあるようで、
「あまり関わりたくない」と言う気持ちと
「しかし大切な人」と言う気持ちで葛藤していたようです。

カウンセラーの所へ行った後、
Kさんが俺の所に来て、行って来たから話を
聞いて欲しいと言うことでした。
俺が聞いて良いものかどうか迷いましたが、
やはり俺もDさんが心配でしたし、Kさんの方の
精神状況もあるので聞くことにしました。

それによるとDさんの話は更に誇大になり
「私の悪口を言う数人の人が互いに会話する声が聞こえる」
「ある組織があって、私のことを調べてみんなに私のことを教えている。
そのせいで、道を歩く見知らぬ人が私を馬鹿にしている。」
「その声と会話が出来る」
などなどでした。
結局、その、大学のカウンセラーの所に通って、
頃合いを見計らって、病院に行かせることになったようです。

Kさんも辛いようでした。
彼女は泣くまいとしていたようですが、
俺と話していた途中、泣いてしまいました。
それでなくとも、四年生のこの時期はみんな大変なのです。
ましてや大学に入った時からの親友が・・・。

2002年11月14日(木)



 

心の、想いの、考えの一部・一面


決して、嘘じゃない


嘘だって言うなら証明して見せてよ!


もし、これが嘘なら、みんな嘘つきだ。

2002年11月13日(水)



 虚像の連続 −ポーズの結晶−

当たり前に思っていたことが、
だんだんと違ってくる、そんな日々。

どうして僕ら、
助け合って生きていくことが出来ないのかな・・。

怠け者。
僕は怠け者でしょう。
怠け者が、怠ける言い訳に
色々、なんだかんだと宣って、
鹿爪らしくしてみたり、
嘆いてみたりしているのでしょう。
ああ、そうだ。僕はきっと、ただそうなんだ。

つまらない男です。本当にくだらない男。

ああ、まただ。また気取ってやがる。
自分で、自分のことを馬鹿にして、
それで、どうにか紛れようと思ってやがる。

真実は、真実の通りにごまかさずに見据えなきゃ
いけない。

気取るなら、気取りゃいいんだ。
お前は、わかってるんでしょう?

おい!これはなんだ?日記じゃないでしょう?
まさか文学?小説?研究発表かな?答案か?
いや、弁護でしょ?自己弁護。

盗人の三分の理。怠け者の言い訳。
意志薄弱な人間の最後に残った屁のつっぱり。哀れだね。

そんなに同情して欲しいの?
自分は?可哀相?人を馬鹿にするなよ。
結局ポーズだろ?君の場合は。見え透いてるんだよ。
いやらしい。

主義?思想?人生観?
君のは結局、全部人の借り物じゃないか!
文章・文体は太宰ですか?考えは?これも太宰ですか?
あなたの持ち物はどれですか?

「頑張りたくない」
そう言っちゃえよ。潔くさ。
そんなところなんでしょう?

恋をした?君が?
いい加減にしなさい。
君のは同情でしょ?しかも
自分の損得を計算にいれたものだ。
同情でもないね。たちが悪いよ。
ましてや「恋」だなんて、ふざけちゃいけない。

死ぬとか、自殺とか言いながら、
あと何年生きるつもりですか?
割合あなた、長生きするかもしれませんね。

ああ、とにかく、
見え透いたポーズだけはやめてくんねぇかな?
一人で、黙って、ウジウジしててくれれば、
誰もお前のことなんか、知ったことじゃないよ。

世の中、そんな道化とポーズで渡っていけると思ったら
大間違いだぞ。茶化して、怠けて、
それで生きていけるなら、みんなそうやってる。

世の中の人はみんな、余裕と自信をもって
生きているように見えるけど、本当はお前以上に、
いや、お前なんか比べものにならないくらい、
せっぱつまって、くるしまぎれで、なんとか
生きてるんだ!精一杯、一日一日を生きているんだ!
毎日、それこそ九死に一生を得た思いで、生きてるんだ。
お前なんか、苦しんでいる内に入るものか!



2002年11月12日(火)



 現実、それから・・・

心底、僕はロマンチストだと
言うことが分かってきた。

時々、テレビの企画で、
見ず知らずの人の家に突然
行って、「今日泊めて下さい。」
と言うようなものがある。電○少年など
でよくあるような気がする。
僕は、あれを見ると腹が立つ。
イヤになる。
僕が腹が立つのは「泊めて下さい」と
頼む方ではなくて、時々いるのだが、
「あなた、そんな突然来て、泊めて下さいなんて、
そんな甘いことが世の中通ると思ってるんですか?」
と言うような、説教をはじめる人にである。
ケチくさい話である。イヤになるくらい、
生活の悪臭のする、言葉である。

何も、三食付けて、風呂に入れて、
フカフカの布団に寝かせて下さいと
頼んでいるわけじゃない。
一晩、寝床だけでも良いから、泊めて下さい。
ただ、それだけ。
それが、そんなにいけないことか?
叱責されるほど強欲なことなのか?

叱責されるべきは、あなたのケチ臭さだ。
ほんの少しも、損をしまいと思っているあなたの根性だ。
一体、あなたはどれほどの損害を被るというのか?
ましてや説教なんて、
気取って八つ当たりしているだけじゃないか。

と言うようなことを思って、
怒りとむかつきに、身悶えしている自分です。

所詮、親のお金で生活している自分です。
生活の、本当の苦しさなんか、分かっていないのでしょう。
でも、生活とは、あんなにも醜くて、
イヤらしくて、興ざめなことだと思うと
イヤになります。みんな、人の為に何かをすることが
そんなにイヤなのか・・・。
僕は気取った、ロマンチストなのでしょう・・・。

本然のロマンチスト。

きっと、おぼっちゃんなんでしょうね。僕は。

2002年11月11日(月)



 名演?

僕の演技、
僕は他人を騙すことなんか、
ほとんど出来ていないと、
自分では思っていた節があった。

「S美が、あんなひろおさんは
始めて見たって、言ってましたよ。」
後輩の女の子からそう言われて、
僕は、なんのことか分からなかった。
そりゃ酔っぱらってはいたけれど、
そんな乱暴狼藉を働いたわけでもなく、
また、妙なことを口走ったわけでもなく・・・。

そう言われてから、しばらくして、
やっと分かった。つまり、あの時、
僕は「素」の自分だったのだ。
つまり、ここに書いているような
人物「ひろお」・・・。

頭、抱えてウジウジ悩んでいる姿。
それが彼女らの目には「意外」として
映っていたようなのだ。
そして、それが僕には普通だったから、
なんのことか分からなかった・・・。

分からないものです。
人が自分のことをどういう風に見ているのか・・・。
「バレてる」って思うときもあれば、
「なんだ・・・案外分かってないじゃん」
と言う時もある。



2002年11月10日(日)



 動機 

僕には、特に欲しい物がありませんでした。
なりたいものもありませんでした。
美味しいものが食べたいとも、
良い服が着たいとも、
上等の靴を履きたいとも、
どこかへ遊びに行きたいとも、
思うことはありませんでした。

僕の動機はいつも
「人に侮られたくない」と言う思いだけでした。

「人に迷惑をかけたくない」もここからです。

プライドが高いのでしょう。
でも、僕は本当に
それほど望んでいないのです。

人並みでなければ
人並みに扱ってもらえない。
そうでしょう?


「おめえ、なにしに生きでるば?」

「くたばった方あ、いいんだに。」



2002年11月03日(日)



 嘘つき 

時々この日記を、
読み返します。嘘くさいです。
いや、嘘かもしれません。

文章を書いていると、
少しずつ、ずれていきます。

ほんの少しも、嘘を書いてるつもりなんか
ないのに、書き終わってみると、
どこかイヤなところがあります。
書けば書くほど、嘘っぽくなります。

2002年11月02日(土)



 生活・エゴ 

「自分の個性みたいなものを、本当は、
こっそり愛しているのだけれども、
愛していきたいと思うのだけれど、
それをはっきり自分のものとして
体現するのは、おっかないのだ。
人々がよいと思う娘になろうといつも思う。
たくさんの人達が集まったとき、
どんなに自分は卑屈になることだろう。
口に出したくもないことを、
気持と全然はなれたことを、
嘘ついてペチャペチャやっている。
その方が得だ、得だと思うからなのだ。
イヤなことだと思う。早く道徳が一変するときが
来ればよいと思う。そうすると、
こんな卑屈さも、また自分のためでなく、
人の思惑のために毎日をポタポタ生活することも
なくなるだろう。」

太宰治『女生徒』より


大学の先生も、
ただの一生活人だと言うことが分かって、
心から、大学がイヤになった。
学生が、自分の思うとおりの
方向、意見に向かわないと、
ムキになって、
意地になって潰そうとするのだから・・・。
わかろうとしないのだから・・・。
学生に、学問の自由なんかあるのでしょうか?
確かに、一人で勉強する時間は充分あります。
でも、主張することは出来ない。
卒論も、発表も先生の思惑に添わなければ、
通してもらえないのですから・・・。

一体、僕らの四年間はなんなんでしょう?
どんなに求めて、好きで、勉強しても
先生の「気に入らない」
その気分一つで、全部パァなんです。

先生も、ただのエゴイスト。
僕らの想い、四年間よりも、
自分の好き嫌いの方がずっと大事・・・。

自コースの、社会人入試で入ってきた
40歳の同級生に
「自分の好きなことを
勉強にしたら、いけないんですかねぇ?」
と思わず、気弱く聞いたら・・・
「そんな訳があるか!
自分の好きなことこそを
勉強しなきゃいけないんだ!」
と言いました。
しかし、その後すぐ
「大学なんて、イヤだね。イヤだイヤだ」
とも言いました。
やはり、あの人も感じているようです。

ああ、本当に、本当に、道徳が一変する時が
早く来たらいいのに・・・。

そうしたら、自分のためでなく、
人の思惑のために
こんな風に毎日をポタポタ生活することも
無くなるだろうに・・・。


2002年11月01日(金)
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