Sports Enthusiast_1

2003年07月31日(木) 理想のストッパー

昨夜、テレビチャンネルをザッピングしていたら、読売vs中日の9回裏が放映されていた。中日のマウンドは大塚だ。大塚は私が最も好きなストッパーの一人。まず、フォームがよい。軸足への体重のかけ方、ボールを投げ落ろす角度、そして肘の角度など、もし私が投手だったらこのように投げたいものだ、とさえ思うくらいだ。しかも、フォークに頼らないところがいい。大塚の球種はストレートとスライダー。ストレートは平均140〜144キロ、スライダーで130キロ台後半だろう。カットボール、チェンジアップはおそらく投げていない。少なくとも、きのうの登板では投げていないと見た。
テレビ解説のE氏は大塚のボールは「重い」ですね、と評していたが、「重い」という表現が意味するところは、体重がボールに乗っていて威力があり、バットに当たっても飛ばないことなのだろう。回転が関係するとも言っていたが、素人の私にはボールの回転が「重さ」とどのような関係にあるのか理解できない。フォームとボールの回転の因果関係が理解できないのだ。おそらく、フォームだけでなく、ボールの握り方、投げ込む(ボールを離す)タイミングなども影響するのだろう。そればかりではない。ボールの回転が少ないとどのような球筋になり、バットに当たったとき、どのような作用を及ぼすのかもわからない。だがとにかく、大塚の投じるボールが打者にとって、やっかいなものであることだけは確かだ。
大塚が近鉄から中日にトレードされたニュースを開幕近くに聞いたとき、中日は優勝争いをするに違いないと、このコラムに書いた。ところが、その後、セリーグでの大塚の活躍は見られなかった。その理由はわからない。山田監督の投手起用に問題があるという見方もあるが、情報不足である。
とにかく、私は大塚にもっと活躍してもらいたい。大リーグでも通用するだろうし、セリーグでももっと活躍できる。ストッパー不在の読売など、大塚を獲得したらいいと思うくらいだ。フォークに頼らずボールの威力で勝負する大塚のような投手をみれば、フォークで逃げまくる読売投手陣も目が覚めるのではないか。



2003年07月28日(月) 小笠原はだめだ。

2週間以上日本を留守にして戻ってみれば、Jリーグでは1位だった市原が3位に転落していた。このコラムであんなに市原を誉めたのに、選手が優勝を意識して固くなったか。
さて、昨日は鹿島vsセレッソ大阪を観戦。この試合、スコアは鹿島の0−1と僅差での敗北だが、C大阪が鹿島を圧倒していた。
それにしても不思議なのは、鹿島というチーム。鹿島は、FW柳沢がセリエAに移籍したものの、ブラジル人選手を含めJリーグでは最も豊富な戦力をもっているところの1つだ。この試合は前期ホーム最終戦。しかも、負ければ優勝の望みがなくなる重要な一戦で、かつて鹿島を引っ張った、FW長谷川の引退試合。となれば、選手のモチベーションが低いはずがない。世界のどこのリーグのどのチームだって、前半から相手にガンガンプレッシャーをかけて圧倒しようとするのが普通だ。絶対に負けてはいけない試合の1つに前半から行かないチームなどない。ところが、鹿島の選手からは、気迫のきの字も感じられないのだ。
とくに、私が非難し続けている選手の一人・小笠原がひどい。彼は才能を持った選手だとは思うのだが、気迫を前面に出さないし、個人プレーに走りすぎる傾向が強い。自分の出すスルーパスに、自己陶酔してしまうタイプか。前にも書いたが、前代表監督のトルシエが彼を代表に呼びながら、合宿からすぐ帰したことは有名な話。その理由はおそらく、トルシエが小笠原の自己中心的プレーを嫌ったからだろう。新聞報道によると、鹿島はチームに内紛があり、監督のト二ーニョ・セレーゾと選手達とはうまくいっていないらしい。外部の人間にことの真実はわからないが、小笠原がその原因の1つではないかと思えてしまう。
この試合、小笠原はC大阪のジョアン、アクセウに守られて、自由にプレーできない。元ブラジル代表の守りに手も足も出ないありさま。こうなると、まったくやる気をなくしてしまうのが小笠原の悪いところ。何度も書くように、世界レベルの守りは甘くはない。
優秀な選手とは、どんなに守られても、たとえ100回つぶされても、1回のチャンスを生み出し、勝利への道を開くことができる者を言う。勝つためには、トライし続けることが必要なのだ。小笠原にはそのことがわかっていない、いや、そんなことは一流のサッカー選手がわかっていないはずはないのだが、試合でパフォーマンスできない。
具体的に言えば、こういうことだ。強いプレッシャーの中、攻撃の中心選手(小笠原)がトライし続ければ相手守備陣が集中し、まわりの選手にスペースができやすくなるし、相手マークが薄くなることもある。そうなれば、まわりの選手に得点チャンスが生まれ可能性が高まる。
サッカーで言う個人の創造性というのは、自分のやりたいことをやることではない。局面局面においては個人の力が必要だが、有利な局面を切り開くのは、個人が役割を全うする献身の結果なのだ。チャンスが生まれる可能性は、個人の力量よりも、各人が規律を守ることの積み重ねから生ずるほうが高い。それが、サッカーというスポーツの原点だ。
Jリーグの中では比較的ホームの意識が強いといわれている鹿島が、ホームでこんなぶざまな試合を見せるようでは、リーグ全体にいい影響を与えない。このチームの中心選手の一人である小笠原には、とくに猛省を促したい。



2003年07月11日(金) オシム

現在のJリーグチーム中、注目すべき監督を挙げるとしたら、オシム(市原)とベルデニック(名古屋)だろう。オシム(62歳)はボスニアヘルツェゴビナ、ベルデニック(52歳)はスロベニアと、サッカー大国だった旧ユーゴスラビア出身だ。キャリアはオシムの方が上で、ベルデニックはオシムに教わったことがあるといわれている。ベルデニックは知将と呼ばれ、戦術家としての評価が高い。
一方のオシムは猛練習で知られ肉体派のように思われ勝ちだが、彼の残したコメントをインターネットで読むと、オシムがとても知性に富んだ人であることがわかる(ような気がする)。オシムはサッカー大国出身者だけあって、日本のサッカーに対して冷淡である。日本サッカーの基盤が脆弱であり、選手たちが発展途上にあることを心得ている。だから、勝つためには、猛練習とチーム戦術の徹底が必要だという、きわめて基本的なところを出発点にチームづくりを行っている。日本人選手の数人が欧州へ行ったくらいで、ホームのW杯でベスト16に入ったくらいで、調子に乗るなということを日本サッカー界に警告し続けているのである。
オシムが市原の選手に発したコメントにこんなのがあった。「サッカーは一人ではできない、君たちの人生がそうであるように・・・」。サッカーの監督にはこうした見識が必要だと思う。少なくとも、私はこうした洒落たコメントを残す監督の方が好きだ。いま現在、日本代表は「個人か規律か」という不毛な二項対立に陥ってしまった。その原因は、勉強不足の日本のスポーツマスコミが、代表監督のジーコの諫言に惑わされた結果である。そのことは何度も書いた。
前監督のトルシエは、その存在が日本人の共同幻想に反するものだった。彼は異物だった。あのちょんまげの通訳とのセットは、日本人の調和の精神をかき混ぜ、日本人の気持ちにいらだちを起こさせた。それはあまりにも、日本人のやり方に反したのだ。だから、W杯ベスト16を評価しない動きの方が多数を占めた。
ジーコはトルシエに比べればはるかに大人であり、日本人の調和の精神にマッチした存在のようにみえる。そのコメントは、日本人の心を逆なでしたトルシエの存在を癒す効果があった。けれども、サッカーに勝つためのものではない。「サッカーは一人ではできない」、この当たり前のところからの再出発、自分たちがうまくなるためには猛練習が必要だ、という基本からの再出発。日本のサッカー選手が、代表を含めて、自分たちはまだまだなんだ、という自覚をもたなければ、こんどのW杯のアジア予選を突破できない。
日本代表には、オシムのように冷淡だが勝つための指導を惜しまない監督を必要としている。世界には、こうした有名ではないが優秀な指導者がいるのである。ジーコだ、ベンゲルだ、というブランド志向を捨てなければ、日本サッカー(日本代表)は堕落する。いや、協会幹部から、すでに、堕落が始まっているのではないか。



2003年07月07日(月) 花屋敷から東京ディズニーランドへ

というのは、キックボクシングの強豪・武田公三がK1に初出場したときの言葉だ。地味でテレビ放送もない日本のキックボクサーが、芸能人を中心に人気があるK1のリングに登場するということは、それなりに勇気がいることだったのだろう。テレビ放送、満員のアリーナ、光や音楽を使った会場演出、リングサイドにはたくさんの芸能人。K1の舞台はまさにTDLのような華やかさをもっている。
初出場の武田はそのとき、決勝まで進んだが、結局魔裟斗に破れた。
そして、そのリベンジ戦ともいうべきK1世界王者決定戦(7.5)に臨んだものの、初戦にラドウイックにKOで敗れ去った。魔裟斗は決勝で現チャンピオン・クラウスをKOでくだし、世界王者になった。
武田の敗因は何だったのか。さっそく格闘技経験者の何人かに聞いてみた。3分3ラウンド制、肘が使えないことなどのK1ルールにキックボクサーがなれていないといった、レギュレーション上の理由を挙げた者もいたが、ほぼ、全員の一致した見解は年齢であった。このトーナメントに参加した選手の年齢はみな20代前半。30代は武田ただ一人だった。ムエタイ代表としてタイ人選手もKO負けをしているから、肘が使えず、3分3ラウンド制というルールは、K1常連選手に比べれば確かに不慣れなのかもしれない。ムエタイは1ラウンド5分と長い。しかし、前回武田はこの不利なレギュレーションで決勝まで進んでいるから、敗因はコンディション調整の失敗か年齢ということになる。コンディションについては外部の人間にはわからない。たとえそうであったとしても、プロの格闘家がそれを理由に挙げることはない。年齢ということになれば、やはり、瞬間の反応の鈍化なのだろうか。自分の意識では避けているはずの相手のパンチが当たってしまう。あるいは、相手のパンチが見えない。そのどちらかになる。スロービデオで見た限りでは、武田は相手のパンチを避けていなかったので、返しが見えなかったことになる。
さて、このK1の試合の中でKO勝ちはすべてパンチ。判定の有効打もパンチであった。むろん、相手の動きを止めるローキックは見られたが、パンチ優勢である。これはK1のルールが肘を禁止し、かつ、クビ相撲からの攻撃を1回しか認めないためだ。ハイキックはよほど実力差がない限り決まらないとなれば、K1の格闘技としての魅力は薄くなった。とくにスピードのあるミドルクラスになると、ボクシングと選ぶところがない。ならば。K1よりレベルの高い国際式ボクシングの方がおもしろい。
応援していた武田が負けたから言うわけではないが、ミドルクラスになれば、K1は中途半端な格闘技である。ディズニーランドには違いないが、ジム特有の汗くささが伝わってこない。



2003年07月04日(金) ボカに栄光

コパリベルタドーレスファイナル2ndレグ。ホームのサントスがボカジュニオルズに1−3で完敗した。通算スコアはボカの5−1。ボカの勢いはすごい。スピード、チーム戦術、個人戦術、フィジカルと、全ての面でサントスを上回った。
この試合、スコアからみればボカの圧勝だが、分岐点はまちがいなく、前半7分にあった。サントスのCKを長身(188センチ)のDFアレックスがほぼフリーで頭で合わせ、先制点と思われた。GKは一歩も動けなかったのだが、ボカのDFが強烈なヘッディングシュートを足でけり出したのだ。いや、無心で出した足にボールの方が当たってくれた、といった方が正解かもしれない。勝利の女神はボカにあった。サントスに先制点が入っていたならば、ホーム8万人の後押しも手伝って、サントスの逆転勝利があったかもしれない。
その後の展開はボカの一方的な展開だった。テベス〜ベタグリアの芸術的なワンツーでボカが先制点をあげると、サントスが1点をかえしたものの、焦るサントス、若さが出た。オフサイドトラップのかけそこないから無人になったゴールに、デルガドにけり込まれ、致命的な2点目を奪われた。その後のサントスはバランスを崩し、ボカの優位は揺るがなかった(ロスタイムにPKでボカが3点目)。
負けたサントスというチームは若い。そして、何度も書いたように、FWのオリベイラ、ロビーニョ、トップ下のジエゴ、そして、長身のDF・アレックス、アンドレルイスの2タワー・・・、と楽しみな選手が多い。彼らは18〜24歳の若手であり、おそらく、W杯ドイツ大会にはセレソンの一員として出場するだろう。この魅力的なチームをつくったのは、日本でもおなじみの元ブラジル代表監督のエメルソン・レオン氏。彼はブラジル代表監督としては実績を残せなかったけれど、サントスというクラブチームで、自分の理想とするチームをつくりあげた。センターバックの2タワーは、守備を重視するレオン監督の趣味だろう。代表監督(指導者)として、いまの日本代表が必要とする人材の一人である。
さて、一方の優勝したボカであるが、なによりも勢いを感じた。勝負を決めたのは、デルガドの存在だと思う。軍事にたとえるならば、デルガドという射程距離が長く破壊力の強いミサイルが、ペナルティーエリア内でのみ威力を発揮するサントスの小型ミサイル(ロビーニョ)を上回ったといったところか。そればかりではない。もう一人のFWテベスのポストプレーがすごい。彼は背の低い、ちょうど日本代表の大久保のような体型だが、後方からのロングボールを受ける位置、相手DFにつぶされない強さ、ボールを受けてから回転して前に向かうスピード・切れ味は、超一流である。彼が基点となっているから、後方からのボカの攻撃が組み立て可能になる。大久保も見習ってほしい。
アルゼンチンのサッカーはとにかく、速く厳しく激しいものがある。高いモチベーションでコンディションが上がってきた時点で試合をすると、どんな相手でも粉砕してしまうようなすごみがある。このパワーは、やはり、リーグで激戦を経験しているところからくるのだろう。
ボカは、トヨタカップ(クラブチーム世界一決定戦)で日本に来るのだが、クラブチーム世界一決定戦の東京開催ほど馬鹿げたイベントはない。テレビでいいから、ホームアンドアウエー方式で見たいものだ。ボカのホームはボンボネーラ。ここの応援も恐そうだ。



2003年07月03日(木) 閉幕

プロ野球セリーグが終了したようだ。優勝は阪神。わたしの予想はヤクルト優勝だったから外れた。ただ、阪神が優勝とは言わないまでも、最も戦力をアップさせた球団であることはこのコラムの予想で述べた。優勝候補に挙げなかった理由は、この球団の監督が嫌いだからだった。
優勝の主因はFAによる伊良部、金本の獲得、若手の成長、2年目の片岡の活躍などが挙げられるのだろうが、ほかの球団がおかしかったことが最大の理由だろう。多くの評論家が優勝候補にした読売は主力に故障者が続出。自滅してしまった。昨年の優勝に貢献したストッパー河原の不調、ストッパー二番手として巨費を投じて獲得したペトラザの故障、そして、最大の誤算は主砲松井の抜けた穴が埋められなかったことだろう。その松井は大リーグで大活躍している。
もっともこの球団、才能ある選手が多いにもかかわらず、その戦力を有効活用していない。たとえば、今年仁志の代わりにセカンドを守っている鈴木。読売のなかで私がもっとも好きな選手なのだが、このようなタイプの選手が、たとえば、ヤンキースのソリヤーノのような一番バッターに育っていればと思ってしまう。二番はもちろん、ヤンキースのジータをイメージさせる天才・二岡。三番以下は高橋、ペタジーニ、斉藤、清水、阿部、元木らが続く。強力打線である。もちろん、清原は入らない。彼は走れない、守れないの典型。スピードを最大の美学とする私の野球観から外れる。大リーグの巨漢ホームラン打者の一人、ボンズが先日、盗塁の記録を書き換えた。パワーヒッターでも走れなければ、一流の野球選手とは言えない。
一方の投手陣だが、先発は5人、なか5日でだれにするか。さらに、中継ぎ、抑えの整理も必要。おそらく桑田、工藤、入来等の先発投手を他球団に放出する必要が出てくるだろう。併せて、真田、岡島、条辺、前田らのリリーフ陣の整理も課題。今シーズンは読売投手陣、とくに先発陣の、世代交代期だったようだ。



2003年07月01日(火) コンフェデ杯とは・・・

試合中の選手の死。私の知る限り、もっとも異常なサッカー国際大会が終わった。優勝チームはホームのフランス。でも、このフランス代表チームには、ジダンをはじめとするレギュラークラスはいない。欧州は各国リーグ戦が終了したばかり(スペインは開催中)、南米はコパリベルタドーレス開催中、異常に暑い気候、過密スケジュールなどの悪条件が重なった。だれもが開催の意義を疑い、監督は代表選手の選出に苦慮し、選ばれた選手達は調整に苦しんだ。そんな状況の中、日本代表だけが唯一の例外で、Jリーグ中断というわけのわからぬリーグ日程のおかげで、万全の体制でこの大会に臨めた。故障の小野(フェイエノールト)以外、海外組を含めて最上のメンバーである。かくも恵まれた日本代表であったが、予選リーグで敗退した。
さて、優勝したフランスは、報道によると、代表選手のほぼ全員を実戦で使い切り、新しい戦力のテストに成功したという。これはトルコ(3位)も同様らしい。フランスはホーム優勝という結果を出しながら、新戦力のテストを果たすという、理想の展開となった。
日本代表はどうだろうか。新しい試みはあった。まず三都主の左サイドバックへのコンバートが最大だろう。台頭した新戦力として、坪井(DF)、山田(右サイドバック)、もっとも注目を集めた大久保(FW)らを挙げることができる。それなりに、実験をしたものの、フランスのように結果につながらなかったというわけだ。
ところで、この期間中、私は、Jスカイのリベルタドーレス予選の映像を見ていたのだが、気になったのは、日本選手の甘さについてであった。南米の選手はまず、リーグで厳しい戦いを経験し、さらにその国の選手権、そして、この大会に臨んでいる。厳しさ・激しさは、上に行けば行くほど強まることは言うまでもない。
ホームの応援はホームの選手のモチベーションを高める。強いモチベーションの相手とアウエーで戦うことによって、強さ・激しさを体験する。さらに選手権の経験を積むことによって、大きく成長していく。世界のサッカーとは、厳しさのメカニズムに支配され、それが優秀な選手を作り上げていくものなのだな、としみじみと感じてしまった。たとえば、話題のブラジルのロビーニョ、ジエゴの二人の若手選手の表情はあどけない。まだ、少年のようだ。だが、やがてその顔は1、2年もしないうちに、40代の大人のように変わってゆくに違いない。アルゼンチンのボカの選手達の表情は、まるで傭兵のようだ。彼らの年齢は平均で25〜6歳らしいが、人生の苦悩を背負い込んだように老けている。一般にアジア系人種は童顔だが、それだけではないように思う。
南米では日本とまったく異なるサッカーが行われている。何度も書いたことだが、その差は、厳しさの度合いである。かの地で生きることの厳しさが、サッカーに反映しているようにも思える。
日本と南米のサッカーの土壌の違いを見ていると、外見的に、つなぐサッカーが南米的だとか、内面的に、個人の創造性を生かすのが南米的だとかという言葉が空しい。中味のない「南米的」という表現を、いまの日本代表に使わないでほしい。
ホームであればあたたかいわけではない。自軍の怠慢プレー、ミスに対しては、敵に浴びせられる激しいブーイングと同じ圧力の非難となって返ってくる。勝てなかった監督への責任追及も同じである。W杯でオウンゴールした選手が射殺されたのは、コロンビアでの事件であった。むろん、そうしたことの善し悪しはあるだろう。でも、南米(世界)のサッカー界は、「結果が全て」という極めて理不尽な論理で動いていることだけは確かなのである。Jリーグのように、負けても拍手を送るサポーターなど、世界ではまれである。日本のサッカーを巡る環境は、グローバルスタンダードからは遠く、きわめて異質な土壌を形成しているのである。
こうした背景を無視して、サッカーのスタイルや技術だけを取りだしてみても、同じものにはならない。日本代表には、日本人にフィットした組織や規律や戦術、戦略の基礎的な習得が欠かせない。南米の選手が本能的にもっている相手に立ち向かうパトスを日本選手は欠いているのだから。
なお繰り返せば、日本のサッカー選手は、チャンスがあれば、できるだけ海外に行ってほしい。そこで世界標準を経験することがレベルアップの近道だ。あと、10年もすれば、日本のサッカー界にも厳しさのメカニズムが働くようになっているだろう。とにかく、それまでは・・・


 < 過去  INDEX  未来 >


tram