JIROの独断的日記 DiaryINDEX|past|will
◆「原爆投下は不要だった」と終戦翌年、大統領に提出された報告書に書かれている。 米国は、原爆投下を「戦争の早期終結に寄与した」といって、正当化しようとするが、それは、違う。 「あらゆる可能性を考えに入れても(原爆投下、ソ連参戦、本土上陸作戦がなかったとしても)1945年11月1日までに−中略−(日本は)無条件降伏していただろう」 というものだった。 また、アメリカのピューリッツァー賞を受賞したジャーナリスト、ラッセル・ベーカーは、 新たな歴史編纂の歴史家の結論は、原爆投下は不要で あった。1945年当時のアメリカ人は、誰もが原爆が奇跡の終結をもたらしたと思った。歴史家たちは彼らが「騙されていた」とする。トルーマンは一つは力を誇示したいため(ルーズベルトと代ったばかりで無名)、もう一つはソ連に対日参戦は認めるが、その功績は与えるつもりはなく、原爆の威力をスターリンに示すため。戦争早期終結のためではなく、世界の権力闘争を開始するため。日本の降伏には他の方法で対処できた。 と主張する。 更に、歴史家のカイ・バード氏もやはり長年に亘り、広島長崎への原爆投下は不要だったと言い続けている。 そして、アメリカの歴史学者の一般的傾向として、 「仮に広島への原爆投下が早期戦争終結に必要だった、という前提に立っても、2回目の長崎への原爆投下はどう考えても正当化できない」 という見解を表明する者が増えているという。 ◆アメリカこそ、テロリストの「先駆者」だ。 「テロリズム」の国際的な定義は定められていない。 ◆8月6日、9日の原爆犠牲者追悼式、15日の戦没者追悼式のときだけ急に殊勝なことを言ってもダメだ。 と、書くと僭越だが、敢えて書かせていただく。 ◆「平和」を願うのであれば、日頃から関心を。 一昨日、自民党総裁選各候補者について書いた。 「自国が武力による攻撃を全く受けていなくても、同盟国が第3国から武力攻撃を受けた場合には、これを自国への攻撃と同等のものと見なし、武力をもって反撃することができる権利」 である。 私が「集団的自衛権を認めるべきではない」と書いたときにやってくる反論(?)はそれを分からずに、 「自分の国を守って何が悪い?」という。 私はそんなことはいっていない。昨年8月21日に書いたが、繰り返すと、 自国が攻められたら武力で応酬するのは、個人における「正当防衛」のようなもので、これを日本国憲法が禁止しているとは考えられない。 何故なら、憲法は前文においてなによりもまず、国民の「平和的生存権」は守られなければならない、と述べているからだ。 勘違いしている人達は、私の想像だが、この場合、在日米軍が日本の防衛に力を貸してくれるはずで、 アメリカと一緒に「集団」で「自衛」するから、これを「集団的自衛権」というのだ、と思いこんでいるのではないか? もう一度書くが、自国が攻撃されているのだから、日本はあくまでも個別的自衛権を行使しているのであり、アメリカが集団的自衛権を行使しているのである。 アメリカが集団的自衛権を行使するのは、彼の国の憲法が禁止していないからである。 「それでは、アメリカが攻撃されたときに助けなければ悪いじゃないか。」というのはあまりにも稚拙な発想である。 第2次大戦が終わった後も、アメリカは必ずどこかで戦争をしている。 日本が集団的自衛権を持つと言うことは、必ずアメリカの戦争に巻き込まれるということである。どこまでエスカレートするか分かったものではない。 集団的自衛権を認めていない現在ですら、イラク戦争後、アーミテージ前・国務副長官が来日して「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と一喝したら、 日本政府はアワを食ってイラク復興支援特別措置法定め、自衛隊イラク派遣を決定した。 それでも武力行使を認めていないから、海外で発砲せずに済んだが、サマワの自衛官は何度となく危ない目に遭った。 一旦、集団的自衛権を認めたら、自国が攻撃されたときと同じなのだから、海外で武力を行使せざるを得なくなる。 一度この禁を破ったら、絶対に限りなくエスカレートしてゆくだろう。後戻りはできない。日本は戦争をする国になるのである。 だから、私は「日本が集団的自衛権を持つべきだ」と主張する人は一体何を考えているのか、と思う。 前の戦争からたった60年で、また「戦争をする国」に逆戻りするとしたら、これほどバカな国は無い。 そして、そういう国にするかどうかは主権者たる国民が決めるのである。
2005年08月01日(月) 郵政民営化は要するに政争の具だから、国民にピンと来ないのだ。
JIRO
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