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2005年11月20日(日) |
「<東武運転士>解雇処分を正式決定」←妥当である。 |
◆記事:<東武運転士>解雇処分を正式決定
東武鉄道の30代の運転士が長男(3)を運転室に入れたまま約4分間乗務した問題で同社は15日、運転士を懲戒解雇処分にすると正式に決定した。
「解雇は厳し過ぎる」と電話やメール約2000件が寄せられていたが、「鉄道事業者にあってはならず、重大な服務規律違反にあたる」として当初の処分方針を貫いた。(毎日新聞) - 11月16日3時3分更新
◆コメント:東武鉄道は正しい。
大衆は感情で行動する(意見を述べる、苦情メールを送るのも無論「行動」だ)ということは、先の衆議院選挙でいやというほど、思い知らされたが、今回も、あきれた。
レールの上を走るから、そんなに堅いことをいわなくても良いではないか、と言う人は、もう福知山線の事故を忘れたのであろうか?
あの時の事故の原因はいまだに解明されていないが、人々は、あのとき、「JR西日本の運航管理体制に問題がある」というマスコミの勝手な憶測しか根拠のない断定を利用した。
そして、マスコミによる扇動に乗って、事故の被害者の遺族はもとより、
関係のない一般人までが、事故と直接的には無関係のJR西日本職員に暴力を振るうという野蛮な光景が繰り広げられた。
それが今回はどうだ?
「運転士が公私を混同し、自分の息子が泣いたから運転室に入れる」という重大な服務規律違反を犯したのに、「可哀想だから」大目に見ろ、という。
何を言っている。
◆JR西日本の厳罰主義と混同するな。
話がそれるが、全然関係のない、「問題のすり替え」をしているブログがあった。
「福知山線事故の後、JRの『厳罰主義体質』が問題視されていたことをもう忘れたのか」
というのである。 違う。全然問題が違う。
勘違いの一つ目。
そもそも、福知山線の事故原因はいまだに特定されていない。
したがって、「厳罰主義と事故の因果関係」を断定するべきではない。これが一つ目の誤り。
勘違いの二点目。
JR西日本における厳罰主義とは、「ダイヤを守るため」の厳罰主義である。
つまり、人命よりも、会社の収益、もうけ、を重視しすぎること」が問題だといわれているのだ。しかもそれが正しい主張か否か、断定できぬ。
いずれにしても、今回の「厳罰」は全く正反対の理由に基づいている。
東武鉄道の措置は、「運転士が、人命を守るための最低限の安全運転義務を守らなかった」事実に対して下される「厳罰」である。
混同してはいけない。
◆結果論で論じるべきではない。
気の毒だ? そういうのを「結果論」という。 たまたま事故が起らなかっただけだ。
鉄道の運転士は常に前をまっすぐに見ていなければならないのである。
自分の子どもだろうが、カミさんだろうが、集中力の妨げになる人なり、物体なりを運転室に入れてはならないのだ。鉄則だ。
突然、軌道(レール)上に障害物が入る可能性は常に存在する。
目の前ならどうしようもないが、遙か前方でクルマが踏み切りで立ち往生しているのを見つけることができれば、大惨事を免れる事が出来る。
ところが、自分の子供に気を取られ、もしも、ほんの数秒発見が遅れただけで、大惨事が起きる可能性が高くなる。
事故が起きてからでは遅い。
事故が起きる可能性をあらかじめ、可能な限り排除するために、鉄道会社は厳密な服務規程を運転士に課している。
それは、言うまでもなく、大勢の乗客の人命に直結する問題だからである。
この運転士は、それを認識していながら、自らの意思で規程に違反した。頭にピストルを突きつけられていたわけではない。
自分の列車は順調に運行していても、先行する列車にトラブルが起きて、突如駅と駅の間で停止信号に変るかも知れない。
それを「見逃す可能性を生じさせる人や物」が電車の運転席に存在してはならないのだ。
たかが子供じゃないか、というのは間違っている。
子どものいない人は分からないだろうが、3歳児ぐらいになると、びっくりするほど強い力を出すことがある。
運転席に入った本件運転士の子どもがはしゃいで、運転中の父親の腕にぶらさがったり、飛びついたりする危険がある。
加速装置にしても、制動装置にしても急激な操作は厳禁だ。
ましてや、運転士の意思とは無関係に、そのような動作をすることになったら、何が起きるか分からない。急制動により、乗客が転倒するかも知れぬ。
◆はっきり言うが、母親が一番悪い。
この運転士は、仕事が終わったら家族と合流して買い物だか、食事に行く予定だったという。偶然に乗り合わせたのではない。
運転士本人も使命感が足りない。軽率のそしりは免れない。
しかしながら同時に、運転士の妻、子どもの母親が最も重大な、ミスを犯したと責められても、仕方がない。
この妻は、「夫の仕事は多数の人命を預かる、誇り高い仕事だ」という意識がなく、「電車の運転士」という職業を、軽視していたとしか思えない。
多分、妻は、運転士の服務規程のイロハのイも知らなかったのだろう。
妻は、自分の行為が夫の職業の尊厳を貶めるものだという認識すらなかったのだ。それが悲劇だった。
3歳児の母親は、そもそも、はじめから運転席に近づくべきではなかった。
そして、子どもが泣き出した時点で、運転している夫の注意を削がないために、全力を尽くすべきだった。
首に縄を付けても、ひっぱたいても、こどもを運転席から遠ざけるべきだった。
規則を知っている知らないという問題ではない。
鉄道運転士の妻になるからには、それぐらいのことは常識で考えて、分からなければならない。
どうも、近頃の若い奴は幼稚だね。こんなことは、中学生でもわかりそうなものだ。
◆一回、「大目に見」たら、次に同様の事態が起きても、クビに出来なくなる。
今回、問題を起こした運転士を見逃したら、次から似たようなことをする者が出る可能性が高くなる。
「少しぐらい、子どもにカッコいい自分の運転士姿を見せてやりたい」という社員が出現する可能性が大いにある。
何せ、「クビにならない」のだから。
今回、東武鉄道に「苦情」を寄せた人たちは、今後、「ちょっとぐらいなら、お父さんの運転席を見てもいいよ」という運転士が続出しても、抗議しないのでしょうね?
「抗議しない。その結果事故が起きても、自分が了承した不利益だ。」
と念書を書き、署名捺印の上、東武鉄道に提出のうえ、それでも今回の事に抗議する、というのならば、筋が通る。
そんな人がいるわけがない。事故が起きれば、ギャーギャー文句を言うに決まっている。
だから、今回のことは、その場の感傷で安易に論ずる問題ではないのだ。
◆クビを切る人間の辛さも考えろ。
東武鉄道は、2000件にも及ぶ、「苦情」にも関わらず、規則は曲げられないといって、運転士を懲戒解雇とした。
これは、誤解を恐れずに言えば、「立派」である。
世間はクビを切られる運転士の事ばかりに着目するが、全国から抗議が寄せられていたにもかかわらず、
「運転士としてあってはならぬこと」という固い信念を曲げず、服務規程をそのまま適用した東武鉄道側だって、苦しいのだ。
直属上司は勿論、人事部や、経営陣も悩みに悩んだに決まっている。きっと何日も眠れなかったと思う。
不況から脱していない、今の日本で、会社を「懲戒免職」になった者の再就職が如何に厳しいかということぐらい、サラリーマンなら誰でも骨の髄から承知している。
3歳児を抱えた運転士が職を失い、これからどうなるかを考えて、多分、最終的に解雇を通知した担当者は何日も、悪夢に苦しんだに違いない。
これからも苦しむだろう。
誰も、今回問題となった若い運転士に個人的な恨みはない。 クビを切ったからといって自分の得になることは何もない。
普通の人間は、他人から恨まれるようなことを平気で断行するような図々しい神経を持っていない。
ただただ、公共交通機関としての判断である。
「泣いて馬謖を斬る(規律を保つためには、愛する者をも止むを得ず処分する)」とは正にこのことだ。
私は、東武鉄道に対して、同情を禁じ得ない。
◆「とかくに人の世は住みにくい。」
冗談ではなく、私は、この騒動を知って、漱石の「草枕」の冒頭が真っ先に頭に浮かんだ。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
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