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JIROの独断的日記
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2003年12月02日(火) 「ある音楽家の教養の程度は、彼のモーツァルトに対する関係で分かる」(カール・フレッシュ=バイオリン演奏の技法)

時事・社会というジャンルを選んだので、致し方ないが、最近は、あまりにもイラク戦争に関わる日記が多くて、神経がギスギスして疲れてきた。昨年の今頃は、小柴名誉教授と田中耕一さんのノーベル賞受賞式まであと1週間、という嬉しい時期だった。また、好きな音楽や文学のことも書いていた。

また、事件が起こらないうちに書いてしまおう。

12月5日はモーツァルトの命日である。僅か35年の生涯、それも、あまり幸せとはいえない生涯であったが、この人が書いた音楽は200年経っても全く色あせずに光り輝いている。

表題に書いた言葉はカールフレッシュという、昔のバイオリンの名人兼教師が書いた本、「バイオリン演奏の技法」、要するにバイオリン演奏上の全てについて書かれた本の一節である。以下が全文である。

「ある音楽家の教養の程度は彼のモーツァルトに対する関係で分かる。相当の年にならねばモーツァルトを理解することができない、というのは、よく知られた事実である。若い人たちは、モーツァルトを単純、単調、冗漫だと思う。人生という嵐によって純化された人だけが、単純さの中の崇高さと、霊感の直接性を理解するのである。」

これを読むとなんだか、モーツァルトってのは、シチメンドクサイんだな、と思ってしまうだろうが、そんなことは無い。若い人が聞いても十分に楽しめる。それに、私は、すべての人がモーツァルトを聴くべきだ、などとは考えていない。人にはそれぞれ好みがある。私はどんなに、他人が良いと評価してもヘビメタをうるさいとしか感じないそして、完全に私の想像でしかないが、音楽の好みというようなことも、実は遺伝子で相当部分決まっているのだと思う。

だから、無理に聴いていただく必要はさらさらない。この文章は私の個人的な覚書である。

日記で過去に何度か、「私は神の存在を信じない」と書いたので、矛盾もいいところであるが、モーツァルトを聴いていると、これは、もしかすると、ひょっとして、神様が作ったんかいな?というぐらい、背筋がぞくぞくっとなるほど美しい音の響きに出会う。何しろ、この人には駄作が無い!奇跡としかいいようがない。

映画「アマデウス」の中でモーツァルトと同時代に生きて、常にモーツァルトに嫉妬していたサリエリという作曲家が、あるとき、モーツァルトの部屋で、書きかけのいくつもの作品(楽譜)を読み、あまりの完璧さに愕然とする。そして、叫ぶ。「これは、あいつ(モーツァルト)が作った音楽ではない、あの男の姿を借りて、神が作りたもうたのだ!」

不思議なのは、それほど感動的な音楽ならば、さぞや奇妙な音の組み合わせなのかというと、そうではなくて、ごくごく自然なドレミファソラシドやドミソドをちょっと変えているだけ。カールフレッシュ大先生が「若い人はモーツァルトを単純、単調だと思う」というのはそのことを言っているのだ。モーツァルトの作品群は、偉大な芸術は奇をてらうことではないのだ、ということを何よりも雄弁に物語っている。

ピアノソナタでも、シンフォニーでも一見譜面を見ると簡単そうに見える。事実、純粋に楽器を弾く「テクニック」という点に的を絞れば、後世の作曲家たち、リストやラフマニノフやバルトークの方がずっと難しい。

しかし、なんというか、モーツァルトには、どうも西洋音楽の「美のエッセンス」というか、一番肝心な要素が詰まっているようだ。だから、簡単だけど難しい。プロのオーケストラがバイオリン奏者を新しく採用するために、オーディションを行うとき、課題曲には、モーツァルトのバイオリン協奏曲の3番、4番、5番、のいずれかを弾く事という指定が必ず含まれている。100%例外なしである。

モーツァルトをちゃんと弾けない、ということは、西洋音楽の一番肝心のところが分かっていないということになってしまうのだろう。

私はプロのオーケストラでバイオリンを弾いている方数人の日記を愛読(ENPITUではない)しているのだが、皆さん、示し合わせたかのように、「モーツァルト中心のプログラムの時は本当に疲れる。神経の磨り減り方が尋常ではない」、と書いている。お互い関係のない人たちなのですよ。別の日のコンサートの記録なのですよ。でも、みんな、同じことを書いている。

やはり、モーツァルトだけは、全人類史上、別格。唯一の本当の天才。特別な人なのだと思われてならない。


2002年12月02日(月) 未成年でも殺人犯は厳罰に処すべきである。

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