2003年02月05日(水)
自宅にはテレビがない。
正確に言えばテレビチューナの機能する単体のテレビジョンがない。パソコン用のモニタは無駄にころがっている。
10年ほど前に購入したテレビをそのまま使いつづけていたがパソコンが増えて置き場所がなくなってしまい処分してしまった。捨てたわけではなくて使ってもらえるところへ送ったのである。
手持ち無沙汰でなにも音源がないのも退屈だったのでこれまた10年ほど前の液晶小型テレビを出していたがとうとう液晶が映らなくなってしまった。自宅の最も古いパソコンにはテレビチューナーが付いているから、どうしても見たければテレビ番組を見ることはできるのだがその古い一体型Macのモニタが劣化することを考えると無理してテレビを見ようとは思えない。
つまり感情的な順位としてテレビが最下位に位置している。ときどきテレビの音声だけをラジカセから聞くことはあっても、特定の番組を見たいということがなくなってきている。たまたま付けっぱなしにしていたから見る、だけになってしまった。
コロンビア号の事故も、第一報を目にしたのはインターネットからだった。ほぼリアルタイムでニュースサイトのトップに並ぶ記事を見ていた。
しかし、なにか現実感に乏しいのである。時事刻々、トップニュースは書きかえられ、事態の変化を告げてはいる。通信不能状態から事故が確定的となり、残骸が飛散していると伝える文字列を「見」ながら、何かが決定的に現実的ではないことに気がついた。
それは人間の「声」だ。アナウンサーや報道官、または目撃者の、現実に直面している人間の声が欠けている。ネット上の文字列は、他の情報と同等に非現実的で、そこでなにかが起きていることへの感情が「聴」こえない。
新聞や雑誌の記事は紙面構成や見だし文字の形から緊迫感を感じる余地があったのだ。しかし美しく整えられたウエッブサイトの表示は情報が備える感情を排除してしまうのかもしれない。むしろ受けて側の感受性の問題で、微妙な文字列の隙間に埋めこまれている「それ」は前ウエッブ世代には感じ取れないものなのかもしれない。しかし、見る刺激だけの世界には限界があるのではないかと思う。
私がテレビから受けていたものが視覚情報の洪水ではなく、聴覚情報の洪水だったのだとすればそれは質的に頓着されていなかったがゆえに有用だった。ラジオと比較して音源が純化されておらず雑音も含めて垂れ流されるがゆえのリアリティを得ていたのだろう。
もう見ることはないテレビ。けれど聴くには足りないインターネット。些細な欠けを埋める新たな機械を部屋の中に運び込むとしたら私の座る余地はない。
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