短いのはお好き?
DiaryINDEX|past|will
2004年04月27日(火) |
☆映画ニッキ 浮草/小津安二郎 |
この一作後に名作の誉れ高い「秋刀魚の味」が来るらしいのだが、過激な変態ぶりは蔭を潜めているし、れいのローアングルも目立った使い方をしていない。
しかし、ファーストカットが、変態極まりないことに皆さんお気付きだろうか。下手奥に美しい白い灯台、上手手前に空の一升瓶である。
これには、度肝を抜かれた。大切なファーストカットにこんな異様な取り合わせをもってくるなど凡人にはとうてい考えもつかない。
では、このカットはなんだろうか。完全に灯台と一升瓶を対比させているのはわかるのだが…。そして、そういった対比が本編には縦横にちりばめられている。
たとえば、雨のふりそぼるなか向こう側とこちら側の軒先で向かいあって中村鴈次郎演ずる親方と京マチコが、罵り合うシーンだが、ふたりとも顔の表情を変え、いかにも怒っているという安易な芝居はしないのである。とにかく二人の眼の芝居が凄い。眼に力があるからこそ可能なのだろうけれど、それこそ命のやりとりをしているかのようなど迫力で魂が迫ってくるのであり、まるで無声映画のような濃密な映画の時間が堆積されてゆく。
ここにおいて、親方が怒りがおさまらず、軒先を行ったり来りする演出がなされるが、これは憤懣やるかたないという怒りの凄さを現わすと同時に、京マチ子の静に対して動を対比させる演出となっている。照明も京の顔のアップをハイライトで表現して親方と対比させ、最後の桑名に向かう車内もひとつのカット内に収まってはいないが、皆眠りこけているのに対して、親方たち二人は、盛り上がっているというわけで、ここもまた見事な対照をなしている。
そして、そのもうひとつ前のシーンにも対比が見られるが、ここでの対比は感情の対比とでもいうべきもので、いっかな溶けない氷柱のような親方のかたくなな感情に対して、なんとか氷解しようとする、そういった対比も見られるが、それはともかく、親方がこの映画の始めにも出てきた駅の待合室に入ってくるときから、凝縮された映画の至福の刻が始まるのだ。
親方は京マチ子に気付くが、知らんぷりする。で、親方はたばこに火を点けようと火を捜すのだけれど、なかなかみつからない。京はマッチを擦って煙草に近付けるのだが、親方は横を向いてしまう。更に諦めずにマッチを擦って火を近付ける。ついに親方も根負けして仕方なく煙草に火を点ける。このふたりの台詞なしのやりとりがたまらない。
親方も大人であるし、そうまでやられたのでは折れるしかない。しかし、未だ無言のままであり、どこまでも厳しい眼差しのままである。
自分のことを責められるならともかく、恋の鞘あてとして、大切なきよしを一番遠ざけておきたかった芸人の小娘とくっつくように仕向けられたのだから、腹立たしさはなかなか収まるものではない。
しかし、京はまだまだ諦めはしない。「親方は、どこへ行きなはるの?」と繰り返して聞く。そしてついに、「桑名の…」と親方から言葉が洩れ、もうそうなったら京の勝ちである。
親方も丸裸同然でまた一から出直しなのだから不安がないわけはない。頼って行く桑名の旦那を京は知っているというし、二人の方が何かと都合がいいだろう。そのくらいのことは老獪な親方は瞬時に洞察する。
京はすぐに桑名行きの切符を買いに走る。その後ろ姿にすかさず親方が声を掛けるのだが、それがまた素晴らしいのである。
「おい、おまえそこの荷物わすれんようにな」
その言葉に京も嬉しそうに振り返って頷く。
むろんこの台詞が素晴らしいのではない。親方が待合室に入って来た時から、嬉嬉として京が切符を買うまでの、この澱みない一連の流れが素晴らしく、過不足なく全てが配置され映画的な時間が経過し、収まるべきところに収まるという、まさに映画の至福そのものの影像がここにある。
そして、ワンクッションおいて時間の経過を現わしてから、再び素晴らしい影像が我々の前に立ち現れる。
親方のこのたぬき親父ぶりはどうだろう。頭に手拭いをやって、弁当だろうか、それを肴に実に旨そうに一杯やっているのだ。しかし、親方はけっしてヤニさがってなどいない。目はどこまでも厳しく、その一点を見つめるまなざしは、もう次のことを考えていることがわかる。
ここで、親方がヘラヘラしてなどいたら、この映画は駄作以外のなにものでもなくなってしまう。親方の厳しいまなざしが再起するであろうことを予測させるとともに、本編をグッと引締めて高みに押し上げている。
またこのシーンでの京マチコへの演出も素晴らしい。ここに於いてもまた好対照のふたりを対比させていて、片や苦虫を潰したような難しい顔をして、もう片方は嬉しくて笑みが零れて仕方ないといった演出がなされており、京が手渡した綺麗な爪楊枝を親方は一旦髪にやって綺麗にし直すような仕種をするのだが、そこですかさず京が少し怒った表情をかいま見せるのだけれど、その表情の変化がまた素晴らしく監督のこまやかな演出に応えられ得る役者の力量にも目をみはらされるのだ。
杉村春子の抑えに抑えた燻し銀のような演技もまた、たまらない魅力がある。昔の役者さんは本当にすごかったんだなあと感心するばかりだが、その杉村春子が待つ我が家に10何年ぶりかに帰ってきた親方の、心から寛いでいる様子は一生家庭を持つことのなかった小津だからこそ描けるのであって、それが彼の理想の家庭像であるのだろうけれど、その家庭を見つめる視線には憧れだけでなく、愛憎半ばする想いがあるような気がしてならない。
|