2005年07月01日(金) : 論争されているらしい

 と、こっそり参戦(?)してみたりして。尻馬に乗る、とも言う。
 題して、「小説に資料は必要か否か」。
 
 簡単に結論から言うと、必要でしょ、そりゃ。
 偉そうな文献資料じゃなくったって、自分の体験とか人の話とか、面白かった本や漫画や映画やゲーム、そういったものが下敷きになって、物語は生まれてくるでしょう。それも一種の資料じゃないですか?
 人は、無から有は生み出せません。よっぽどの天才なら、全く新しいものを生み出せるかもしれませんが、天才なんて滅多に出てくるものではありませんからね。だからこそ価値があるんですが。
 やや脱線。

 でもまー、一般的なゲーム感覚のライトファンタジーとかなら、より重要なのは「想像力」でしょうね。魅力的なキャラクターが、どう話を作っていくのか。これが『指輪』みたいな話を作ろうとするのなら、想像力だけではやはりリアリティに欠けてくるので、資料が必要になるわけです。資料というか、まあ、勉強というか。
 で、リアリティを持たせようとすると、やはり想像力にプラスアルファが必要になるわけです。だからまあ、自分としては『華京』では資料をずらずらと列記していますが、『Shadow Saga』では資料らしき資料を使ってないので、書いてません。本当は、もう少し舞台に北欧っぽい雰囲気を出せないか、とは思ってるんですが……。
 つまり、『華京』には宋代風の舞台、という前提があるわけです。とすると、出来るだけ宋っぽい雰囲気を出したい。そうじゃなかったら、わざわざ中国の宋代風、という舞台を選んだ意味がありません。だから、資料を調べるのです。
 確かに、物語的に不必要な薀蓄が延々と語られるのは鬱陶しいことですが、資料無しのために、物語的に必要であろう骨格そのものがぐらぐらしてしまうとなると、それはこう、何と言いますか。なーんか、はっきりとはしないが、もやもやした気持ちの悪さ、みたいなものがある、と。

 リアリティだけが物語の面白さを決めるわけではありませんが。リアリティは、物語をより面白くするスパイスの一種、ではあるでしょう。リアリティを突き詰めていくなら、義経は五条の大橋で弁慶と出会えませんし(あの時代、五条大橋は存在しません)、三国志で関羽は青竜偃月刀、張飛は蛇矛を振るえません(これらの武器は、製鉄技術が発達した唐代以降に出現するものです)。
 こういう、物語的に「絵になる」部分というのは、往々にして創作に拠るものが多いのですね。
 まあ、資料を調べることで、物語がより面白くなるのなら、一手間かけてもいいんじゃないですかね。









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