ジョージ北峰の日記
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宗教、哲学、物理学、数学などのあらゆる分野で、世界の偉人たちが深い関心を寄せた言葉に「空」、「無」、「無限」がある。 何故だろう?
空(くう)とは何だろう。字義通りには「からっぽ」、数字で表せば「0、ゼロ」つまり「何もないこと」ということだろう。 しかし、「空」にはもっと奥の深い意味があるように思える。
般若心経にも「色即是空、空即是色」書かれている。 つまり、我々が目で見ている世界が「空」と言うのだ。 少し信じがたいが「空」は何もないという事ではないらしい。
「空」は仏教的世界観の本質を一言で表現する哲学的概念なのだ。
「空」と言う言葉の裏には、単に物質存在の有無を表すだけではなく、世界(宇宙)の起源に関わる、重要な意味が含まれているらしい。
現代の宇宙進化論では、世界の始めには物質は存在せず(空で)、ビッグ バンで多様な物質(素粒子)が一挙に出現したという。
つまり「空」とは現代科学においても、宇宙創生の元(もと)となる実 体ある概念なのだ。
しかし、科学がまだ発達していなかった時代、紀元前5世紀頃、既にこ のような概念が姿を現していることは驚嘆に値する。
仏教と言えば、世界を知る手段が「修行と悟り」に集約されるのだろう が、紀元前に、こんな簡単な方法「修行」を介して「空」の概念に到達出来 たのだろうか?
宇宙進化論の「世界の始源」と仏教でいう「空」とは同じ概念を共有し ているのだろうか?
「空」とよく似た言葉に「無」がある。 生死をかけた決闘、生命も失いかねない危険な局面に立った時「勝ち負けに こだわるな」「無の境地になれ」とか「無念無想になれ」とかよく言われ る。無の境地になれば自分の真の力が発揮できると言うのだ。
何故だろう? 無の境地になれば宇宙が自分に無限のエネルギーを与えてくれるということなのだろうか?
「無」という言葉も「空」に似ているが、 中国哲学、殊に道家の思想では、「無」とは人間の感覚を超えた実在で、宇宙の始原であり人間行為の規範的根源であるという。
聖人は無為、無知、自然の徳をもつという。つまり、聖人は元(もと)から、「無」の摂理を知り、人としての徳をもつというのだ。
「無」は現代科学の宇宙進化論でいう「宇宙の始源」と同義語ととらえ ても間違いなさそうだ。そして聖人こそ「無」を知る人と言うのだ。 勿論ここで使われている聖人は我々が思う「聖人」とは同じではないのだろ う。
いずれにしても東洋哲学では「空」も「無」もゼロを意味する単純な言 葉ではなく、宇宙のあり方、そのものをさす「概念」を持つらしいのだ。 私は「無」と「空」には何か違いがあるように思う。
それは、前者が人とはかかわりなく物理(客観的)世界のあり方を説明しているのに対し、後者は、人が「無」の世界を自分の力(修行)で知る形而上学的宇宙を指しているように思えるのだ。 前者が人間の考え方の有無に関わらず、宇宙存在の根源を表す言葉なのに対し、後者は修行を介して人間が知りうる観念的、根源的「無の世界」を表す言葉ではないかと思うのだ。
「空」も「無」も無限の宇宙とか無限のエネルギーなど「無限」との関係で語られることが多い。
「空」や「無」を考える上で、どうしても押さえておくべき言葉に「無 限」がある。
「無限」は昔から多くの哲学者、数学者、物理学者に興味を持たれた言 葉だ。 辞書によれば、単純に「無限」は、有限の逆、際限がないこととされてい る。
しかし「無限」という言葉には、時間的にも空間的にも、人間では計り 知れない大きな空間や、想像をはるかに超える巨大なエネルギーを感じさせ る「何か」がある。
「無限」について少し考えてみる。
例えば、某哲学者によると「世界」は時間的・空間的に「無限」だと言 う。 現代宇宙進化論によると宇宙は無限に拡張し続けていると言う。 「無限」という言葉には果てしなく大きな広がりが含まれているのだ。
無限に「果てしがない」という意味が含まれているなら、宇宙が無限に 拡張するという言葉には少し違和感を覚える。 宇宙が無限なら拡張する必要はないと思うからだ。 つまり、無限は拡張する必要がないから無限なのではないのか。 「宇宙が広がる」と言うと「無限の宇宙」にも何処かに線が引かれているような印象を受ける・・・・・・つまり有界な。
数学で、無限と言うと、集合論で有限集合と無限集合がある。 100までの自然数の総数(量)は、偶数や奇数の総数(量)はそれぞれ50で 自然数の1/2倍である。
しかしそれぞれを無限に迄拡張した無限集合を考えると自然数も奇数、 偶数もそれぞれの集合の大きさは同じだと言う。
なるほど自然数、奇数、偶数を独立した無限集合だと考えると、その理由は分かるが、ほんの少し疑問に思うのは自然数を「ある無限の範囲内」で考えると、その内部を構成する奇数と偶数は無限集合ではあるが、それらの集合は1/2とは言えないのか。
つまり偶数・奇数の集合は「自然数集合」内に含まれる部分集合で、それぞれが「自然数集合」内に含まれている限り、その大きさは1/2の無限集合である、と言えば、それは誤り・・・・・それは「無限」と言う言葉の何処かに「有界」を意識してしまっているのだろうか。
数学の無限小の問題を考えると、「変数xの値が限りなく0に近づくと き、yの値もまた0に近づく」と言う表現は正しくないらしい。例えば0.11 と0.10の間にはやはり無限の数字があるので0.11から連続的に0.10に到達し ようとすると無限の距離を歩かなければならない。
無限の距離を飛びこして次の数字に移ることは出来ない。 つまり「近づく」と言う言葉に、数学的な意味での「連続」を否定するニュ アンスが含まれているのだ。
無限には「連続的で巨大な広がり」といったイメージがあるが、数学の 「無限」には大きさ(サイズ)は必ずしも関係ないのだ。
時間にも連続的で無限というイメージがある。 時間は連続的に経過しているというが、「数学での連続」のように、aとb の時間の間に無限に経過する概念はないのだろうか。 もし無限連続の時間があれば、年を取らずに済むことになるかもしれな い。つまり1歳から2歳の間に無限に経過する時間があれば永遠に2歳になら ずに済むのではないか。
経験的に言えることは、年を取るということは、時間aと時間bの間には無限 に連続する時間はないのだろう。
つまり、数学の連続には無限小の概念があるが、同じ連続と言っても時間 の連続には無限小の概念はないのだ。 (しかし、厳密にはそれで正しいのだろうか?) 「無限」にもいろいろあるということなのか。
私が考える「無限」も「空」や「無」と同じで、その周辺は曖昧模糊、霧 の中を見ているようで、何かすっきりしない感が残る。
無限は「空」や「無」の概念に包含されるのか?それとも逆か? つまり「空」や「無」は「無限」を包含し「無限」は「空」や「無」を包含する、イコールの関係か?など・・・・・ あまり考えない方が良いのかもしれない。
人が「空」「無」「無限」に心を引き付けられるのは何故だろう。
武芸や芸術の達人達はそれぞれ立場が違っても「無」に至る厳しい修行があって、ある意味「悟り」の境地に達するのだろうか。
仏陀は想像を絶する修行を通して「悟り」を開いたと言われている。 仏陀にとって「悟り」とはどんな世界だったのだろう?それは「無」の境地 を知ることだったのだろうか?
「無」の境地に達した偉人達の偉業を見て、誰もが「無」の境地を知りたい と思うのも尤もなことだと思う。
しかし「空」や「無」を論理的知ることはどうも無理のようだ。
ここは、紀元前5世紀頃に立ち返って、(科学的な方法ではなく)修行 を介して不連続性に突然「悟り」を開く方が早いように思える(本当に早道 かどうかは分からないが)。
それにしても、今、私にとって何故「空」や「無」が問題なのか?
単に「無」や「空」の世界」が哲学的に謎めいた世界だからか?
否、それは・・・・・年を重ね、若い頃、抱いていた夢や希望が露のよ うに消え、今では、何が夢で何が希望か分からず混乱した儘(まま)、新し い道を探し・・・・・やっと見つけた究極の対象が「空」や「無」の世界 だった?・・・・・のか
本当は極楽浄土への(心の旅の)入口なのかもしれない。
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