ジョージ北峰の日記
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2013年09月29日(日) 青いダイヤ

  忘れもしない1970年11月25日、朝のセミナーの終了後、私は早目の昼食をとろうと街に出かけた。
  えっ! 重大事件が突発したのか、人々が浮足立っている、そしてあたりに異様な雰囲気が漂よっていた。
 「学生のデモ隊と警察の衝突でもあったのか?---」

  当時、大学教育、研究の体制改革叫ぶ学生運動が盛り上がっていたが、T大のY講堂が陥落、全国規模に広がっていた学生運動は終焉を迎えようとしていた。
  それでもなお大学の構造改革や社会改革を叫ぶ学生と警察隊の衝突が以前ほど大規模ではないにしても、大学周辺で頻発していた。
 
 食堂に入ってみると、「驚きだ!M.Y.が仲間を引き連れて自衛隊の総監室を占拠している」と白髪交じりの店のマスターがやや興奮した口調で話かけてきた。 誰もが呆気にとられたようにテレビの方を見入っている。

 画面では軍服を模した派手な制服を着て、日の丸の鉢巻きを締め、緊張した面持ちのMYが絶叫調で演説をしていた。
  彼は武装して自衛隊本部を占拠、「軍事クーデターをやろう!志ある者は自分と供に起ちあがれ」と集まってきた自衛隊員に呼びかけていた。
 「まさか!―――何で今!」
 「無謀だ---失敗したら、どうするつもりだ!警察に逮捕されるつもりなのか」私は二の句がつげなかった。

  1年前の浅間山荘事件が一瞬頭をよぎった。
しかし私には彼が警察に逮捕される姿を想像できなかっ た。「彼は死ぬ気だろうか」
  一瞬“不吉な予感”がした。
  「まさか、パフォーマンスだろう」と---誰かが冷笑するような口調で言った。M.Y.は暫く演説をしていたが、誰も彼に賛同しないとわかると、少し無念そうな表情を浮べバルコニ-から姿を消した。
  結果は、ご承知の通り、総監室で彼は彼が主催するTの会の隊員一人と割腹・斬首による壮絶な死を遂げた。

 それまで私は彼の考え方(思想)には少なからず抵抗を感じていた。
が、しかし彼の天才的作家としての才能、ボディビルや剣道で鍛えた彫刻のような肉体、男として究極の美を追求する強い意志に“あこがれ”にも似た畏敬の念を抱いていた。

  その後、私は「何で、今死ななければいけないのだ」心の中で何度も叫び続けていた。
  MYの決起の檄文が公表されたが、しかし当時の社会状況から考えて彼の決起に賛同して誰かが武装蜂起をするとは考えらず、彼の決起はとてつもなく時代錯誤のように見えた。

 しかし彼は少し前から作家活動よりも日本人が物質的豊かさを求め、血道をあげて突っ走る姿に、絶えず警鐘をならしていた。

  彼は日本の物質主義偏重の文明が近い将来、日本の優れた精神分化を破綻させてしまうと、強い危機感を色々な場や著作で語っていた。
彼の言う“日本人の伝統的精神の破綻”とは、西欧から輸入された合理主義や唯物主義によって日本古来の伝統的武士道精神が汚され破綻されることだったように思う。
  しかし今振り返ってみれば、彼には “物質に対する精神優位の思想”が根底にあったのではないか?
肉体(物)は何時かは消滅する、しかし精神が作り上げた思想、信念は人の生死を越えて、人類が存在する限り、永遠に存在し続ける---と。
そんな信念を、彼は自らの肉体を惜しげもなく破壊することで示そうとしたのではないかと私は考えている。彼の作り上げた思想や信念は、彼の肉体が滅びても永遠に日本人の心の中に生き続ける---と信じて。

  ただ彼の死については彼の作家としての限界論を囁く人もあった。

  しかしその後、世界的には人類の夢、ユートピアと考えられた共産主義の崩壊(失敗)、スペースシャトルの宇宙事業からの撤退、深刻な大気汚染の進行、経済の実態からはかけ離れた金融市場の拡大、国境の実質上消失、しかし一方で進む価値観の共有化と単純化、それに伴う民族間の矛盾と紛争の激化、貧富の差の拡大など、進歩と称せられる行き先不明の歴史展開。

  日本でも、一時は世界の進行方向に乗っかって、竜巻のように吹き荒れた経済の発展とバブル経済の到来、しかし人々が訳が分らぬ好景気に浮かれている間に着々と進んでいた景気の後退とバブルの崩壊。  
  その後は、政治はバブルの再来(経済成長)を夢見て、人々の築いてきた膨大な貯金を盛んに食いつぶしてはいるが、景気回復のはっきりとし道筋はいまだに見えない。
  不思議なことは、世界中で経済成長が叫ばれ一攫千金の夢を追う人間が増加する一方で所得格差の増大、無気力人間の増加----社会は複雑な展開を示しているように見えるが、人々の勤労意欲の低下、モラル意識の著しい劣化などなど、文明が進めば進む程、人々の閉塞感と不安感が1方向的に増大しつつあるように見える。

   何故だろう?
   現代社会の進む方向を決定しているシステムの歯車がどこか狂ってしまったのではないだろうか。
 
  今、人々の宗教への回帰が進んでいるように見える。
  一部の宗教では原理主義運動が活発になりつつある。
  経済成長を望まない人はいないだろうが、現代の経済の進行方向に戸惑いを感じている人も少なくはない。
  社会の進む方向についていけない(ついていくことに抵抗を感じている)人々が、さらに暴徒化する時が来るかもしれない。

  しかし、現代は昔のような資本家と労働者といった対峙すべき相手がはっきりしない。支配する方もされる方も、その地位は必ずしも安定ではない。人を支配しているのは人ではなく、今やコンピューターなのだ。 

  人はコンピューターのはじき出す計算結果に従っている方がカリスマ経済人や政治家に従っているよりうんと合理的で安全な結果が得られると知り始めた。
  経済も、戦争も、スポーツさえ人間よりもコンピューターに従っている方が成功する確率が高くなっている。
  しかし厄介なことはコンピューターの陰に存在する人間の姿がはっきりしないことだ。 人々が戦うべき相手が見えないのだ。
 
  コンピューターの出現による技術革新と、新しい経済成長の渦の中に人々の意識は飲み込まれ、M.Y.の決起の意義は風化されてしまったかのように見える。
  しかし今生起している社会運動は、単なる宗教戦争や階級闘争ではなく、まさに第二のルネッサンス、(人間性の回復を求める)人々の叫びかもしれない。

  唯物主義の行きつく先はコンピューターによる世界観の単純化と無味乾燥な機械社会の肥大化----と同時に無気力人間の拡大再生産とモラル低下に伴う人間社会の崩壊かも知れない。

   M.Y.は40年以上も前にそのことに気づいていたのかも知れない。


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