与太郎文庫
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2016年01月24日(日)  啓蒙専制君主 〜 enlightened despotism 〜


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 啓蒙専制君主 〜 enlightened despotism 〜
 
 Friedrich II., 17120124 Preußen 17860817 74 /
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 曜日周期表
 
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 1712 1808 1904 2016 金
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 ↑
 1786 1882 1978 2090 ●
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 シェーン 〜 遥かなる人々 〜
 
〔Friedrich II〕
 
 フリードリヒ2世(Friedrich II., 17120124 - 17860817)、
第3代プロイセン王。
 
 優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、
啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術
的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。
フランス文化を知り尽くすなど学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテー
ルと親密に交際し、全30巻にも及ぶ膨大な著作[1]を著し哲人王とも呼
ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王(Friedrich der Große)と尊称
されている。哲学者イマヌエル・カントはフリードリヒの統治を「フリー
ドリヒの世紀」と讃えた[2]。
 
 生涯
 少年時
 父との確執
 フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
と王妃ゾフィー・ドロテアの子として生まれた。父フリードリヒ・ヴィ
ルヘルム1世は兵隊王とあだ名される無骨者で芸術を解さなかったが、
母ゾフィー・ドロテアは後のイギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョー
ジ1世の娘で洗練された宮廷人だった。そのため教育方針も正反対の2人
は対立し、それは王子フリードリヒにも大きな影響を与えた。父王はフ
リードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に
近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術に親しむことを禁じた。
 
 その軍人嗜好を表す逸話として、太鼓の逸話がある。太鼓で遊ぶフリー
ドリヒの騒がしさに怒った姉ヴィルヘルミーネが「そんなうるさいもの
はやめて、お花で遊んだらどうなの」と言うとフリードリヒが「花なん
かで遊ぶより、太鼓を習ったほうが役に立つもん」と言ったのを聞いた
父王は、さっそく太鼓を持つ王子の肖像画を描かせたという。
 
 しかし本来のフリードリヒは、むしろ母親似で生来芸術家気質であり、
特に音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏
会を開くこともあった。父王はそのようなことを耳にすると怒り狂って、
杖でフリードリヒを打ちすえたという。暴力、食事を与えない、蔵書を
取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成
長していった。
 
 逃亡事件と結婚
 
 親友:カッテ
 フリードリヒはイギリス王女との縁談を機会に、ついに逃亡を図るこ
とになる。近衛騎兵のハンス・ヘルマン・フォン・カッテとカイトの2
人の少尉に手引きを頼み、1730年8月5日早朝に、南ドイツにある旅行先
の宿舎を抜け出したが、計画はすでに漏れており、王太子フリードリヒ
はロッホ大佐によってその日のうちに連れ戻された。
 
 この逃亡計画が父王に知られ、フリードリヒはキュストリン要塞に幽
閉された。このころ父王は国際的陰謀の渦中にあり、暗殺の恐怖に苛ま
れていたため、この逃亡計画も自分を陥れる罠だと考えてフリードリヒ
を処刑しようとまでしたという。手引きをしたカイト少尉はイギリスに
逃亡したが、カッテ少尉は捕らえられて、見せしめのためフリードリヒ
の目の前で処刑された。フリードリヒが「カッテ、私を許してくれ!」
と窓から叫ぶとカッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容と
して斬首の刑を受けたという。フリードリヒは窓からその光景を見るよ
う強制されたが、正視できぬまま失神した。カッテの遺書には「私は国
王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、
一刻も早く和解なさいますように」と書かれていた。
 
 ハプスブルク家の皇帝カール6世が調停に乗り出して、フリードリヒ
・ヴィルヘルム1世父子の確執の修復をして、フリードリヒは廃嫡を免
れた[3]。フリードリヒは数週間後、父王にむけて手紙を書き、恭順の
意を表したため、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフリードリヒを釈
放して、近くの王領地の管理に当たらせることにした。
 
 妃:エリーザベト・クリスティーネ
(画)アントワーヌ・ペーヌ
1733年6月12日には父の命令に従って、オーストリアの元帥であったブ
ラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・ア
ルブレヒト2世の娘エリーザベト・クリスティーネと結婚する。ハプス
ブルク家のマリア・テレジアとの婚約の検討もあったが、フリードリヒ
がカトリックに改宗する見込みがないために、取り止めになった[* 1]。
 
 当時17歳のエリーザベト・クリスティーネは容姿の美しい、また善良
で信仰心の篤い少女であった。彼女は夫に好かれようとして、様々な教
養を身につけるべく努力したが、フリードリヒの気を惹くことはなかっ
た。夫婦としての生活もなく、後に七年戦争が終結した時、数年ぶりに
会った彼女に対してフリードリヒが言ったのは「マダムは少しお太りに
なったようだ」の一言だけだったといわれる。そのため2人の間には子
供がなく、フリードリヒ2世の後を継いだのは王弟アウグスト・ヴィル
ヘルムと妃の妹ルイーゼ・アマーリエの子、つまり王と王妃の双方にとっ
て甥にあたるフリードリヒ・ヴィルヘルムだった。しかし、それでも彼
女は夫を尊敬し続け、フリードリヒとの文通は続いていたという。
 
 赴任先のルピーン近郊に造営したラインスベルク宮でフリードリヒは、
気の進まない結婚の代償として得た自由を楽しんだ。父王の意に沿って
軍務をこなすかたわら、趣味のあう友人たちを集めて余暇にはげむ優雅
な時間を過ごし、また著作も試みている。多くの書簡集のほか、フリー
ドリヒの最初の著書として『反マキャヴェリ論』が知られている。反マ
キャヴェリ論はマキャヴェッリの提示した権謀術数を肯定するルネサン
ス的な君主像に異を唱え、君主こそ道徳においても国民の模範たるべし
と主張する啓蒙主義的な道徳主義の書であった。この本は後に、文通相
手だったヴォルテールの手を経てオランダで匿名で出版され、数か国語
に翻訳されている。しかし、即位後フリードリヒ2世がオーストリア継
承戦争で見せた野心は、この本の主旨と正反対のものであり、ヴォルテー
ルにも非難されることになる。
 
 即位後
 啓蒙主義的改革
 
 1740年代、甲冑をまとったフリードリヒ
 1740年5月31日フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は崩御し、フリードリ
ヒはフリードリヒ2世として即位した。即位後ただちにフリードリヒ2世
は啓蒙主義的な改革を活発に始め、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗
教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などが実行された。フランス
語とドイツ語の2種類の新聞が発刊され、先王フリードリヒ・ヴィルヘ
ルム1世のもとで廃止同然になっていたアカデミーも復興し、オイラー
をはじめ著名な学者たちをベルリンに集めたため、ベルリンには自由な
空気が満ち「北方のアテネ」と称されるようになった。
 
 自由を実現する一方、フリードリヒ2世は父から受け継いだ8万の常備
軍を、周囲の予想に反してさらに増員し、戦争に備えていた。ただし、
父の作った巨人連隊は廃止された。
 
 オーストリア継承戦争 (1740年-1748年)
 ハプスブルク家の相続問題については「マリア・テレジア」を、オー
ストリア継承戦争全体については「オーストリア継承戦争」を、シュレー
ジエン侵攻の理由については「シュレージエン戦争」を参照
 第一次シュレージエン戦争 (1740年-1742年)
 戦役の詳細については「第一次シュレージエン戦争」を参照
 1740年10月20日、神聖ローマ皇帝カール6世が急逝した。国事詔書に
よってハプスブルク家領は娘のマリア・テレジアが相続した。フリード
リヒ2世はこれを承認する見返りにボヘミア王冠領(ハプスブルク帝国
の構成国)のシュレージエン(現在のポーランド南西部からチェコ北東
部)の割譲を求めたが、マリア・テレジアは拒否した。フリードリヒ2
世は1740年12月16日、宣戦布告することなしにシュレージエンに侵攻し
た(第一次シュレージエン戦争の開始)。先帝カール6世の遺した国事
詔書を反故にしての進軍だった。シュレージエン急襲は成功し、プロイ
セン軍はわずか戦死22人の損害で占領に成功した[4]。これ以降、かつ
ての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとフリー
ドリヒ2世は生涯の宿敵となった。翌1741年4月10日モルヴィッツの戦い
でプロイセンは圧勝を収め、プロイセンの台頭を各国に印象付けること
に成功する。5月にバイエルン・フランス・スペインがニンフェンブル
ク条約でオーストリアを包囲する同盟をむすんだ[5]。フランスはプロ
イセンとザクセンとも同盟した。ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグ
スト3世はボヘミアの継承を主張して侵攻したが撤退し、オーストリア
と同盟した。一方、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはフランス
とむすび上オーストリアとボヘミアへ侵攻し、1741年12月ボヘミア王と
して戴冠し、翌1742年には弟のケルン大司教クレメンス・アウグスト・
フォン・バイエルンによって神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠され
た。しかしハンガリーと組んだマリア・テレジアの反撃によってバイエ
ルンを奪われた。
 
 フリードリヒ2世は1742年5月17日コトゥジッツの戦いでハプスブルク
帝国に勝利し、1742年7月のベルリン条約でシュレージエンの割譲を認
めさせた[6]。
 
 フリードリヒは、士官の膝枕で仮眠をとったり、負傷した兵卒の傷の
手当てに自らのハンカチを差し出すなど、階級の上下を問わず将兵との
交流を好み、絶大な人気を得ていた。
 
 第二次シュレージエン戦争 (1744年-1745年)
 戦役の詳細については「第二次シュレージエン戦争」を参照
 1744年、イギリスと組んだマリア・テレジアの反撃に対して、フリー
ドリヒ2世はカール7世のバイエルンと組んでベーメン(ボヘミア)に侵
攻したが、敗れた(第二次シュレージエン戦争)[6]。しかし1745年6月
4日のホーエンフリートベルクの戦いでプロイセンは大勝利を収め、さ
らに1745年12月15日のケッセルスドルフの戦いでもザクセン軍に勝利し
た。12月25日のドレスデンの和議でプロイセンは、マリア・テレジアの
夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位を承認する代わりにプロイセンに
よるシュレージエン領有権を承認させ、ザクセンからの賠償金100万ター
ラーも得た[6]。
 
 戦間期
 サンスーシ宮殿
 
 サンスーシ宮殿音楽演奏室。
「サンスーシ宮殿」を参照
戦後の日々、フリードリヒ2世はプロイセンの復興に全力を尽くした。
細かい点まで自分で確かめなくては気の済まない王のチェックに官僚た
ちは恐々としたが、産業の振興、フランスからやって来たユグノー(カ
ルヴァン派)の移民などの受け入れなどによってプロイセンは再び力を
付けていった。しかし、激務のためフリードリヒ2世の体は蝕まれ、リ
ウマチ、歯、胃痛、痔、発熱、痛風などで絶えず痛みと戦わなければな
らなかった。そんな王の心を慰めたのが、1745年から1747年にかけて完
成したクノーベルス男爵の手になるサンスーシ宮殿だった。王自らも設
計にたずさわったこの宮殿は、ロココの粋を尽くし、室内は「フリード
リヒ式ロココ」(Friderizianisches Rokoko)様式による瀟洒なものだっ
たが、部屋数わずか10あまりの平屋建ての小さな建築である。ここで王
は政務のかたわら、ヴォルテールなどごく少数の気が置けない友人たち
と音楽や社交を楽しみ、くつろいだ時間を過ごした。
 
 七年戦争 (1754年-1763年)
 詳細は「七年戦争」を参照
 平和な日々は長くは続かず、1755年後半、オーストリアの「女帝」マ
リア・テレジアはロシア女帝エリザヴェータ・フランス王ルイ15世の愛
妾ポンパドゥール夫人と組んでシュレージエンの奪回を企てていた。
 
 1756年1月16日、フリードリヒ2世は母方の伯父のイギリス王兼ハノー
ファー選帝侯ジョージ2世とウェストミンスター協約を締結したが、5月
1日に外交革命としてフランスとオーストリアがヴェルサイユ条約を締
結、8月29日、フリードリヒ2世は先制防衛策をとることに決め、ザクセ
ン選帝侯領に侵攻して七年戦争(第三次シュレージエン戦争)が始まる。
 墺仏露の3国に加えてスウェーデン、ザクセンなどドイツの諸侯も加
えると、敵国の人口は8,000万にもなり、人口400万のプロイセンにとっ
て絶望的かと思われる戦いだった。フリードリヒ2世は、序盤のロスバッ
ハやロイテンにおいて、巧みな戦術で自軍より倍以上の敵軍を破ったも
のの、孤立同然のプロイセンの兵力は消耗し続けた。1757年6月18日に
コリンの戦いで大敗した後は守勢に転じた。コリンの戦いでは劣勢の自
軍を鼓舞するため、第3連隊の旗を手に「犬どもが、ずっと生きていた
いのか?」という言葉を放ったとされている[* 2]。
 
 1759年8月12日のクーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵
弾にさらされて上着を打ち抜かれ、乗馬は2頭まで撃ち倒されて敗走し
ている。この時の大臣宛の手紙には「これを書いている間にも味方はど
んどん逃げている。私はもうプロイセン軍の主人ではない。全ては失わ
れた。祖国の没落を見ずに私は死んでいくだろう。永久に。アデュー」
と書かれている。フリードリヒ2世はその後、残存兵力をまとめてどう
にか態勢を立て直すが、苦しい戦いは続き、1760年10月にはとうとうオー
ストリア軽騎兵がベルリンに迫るまでになる。
 
 イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ2世は自殺を覚悟
したが、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死すると、甥
で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、奇
跡的にロシアとの講和が成立した。ただ、ピョートル3世はこの講和に
加え、皇后である妻・エカチェリーナ(後のロシア大帝エカチェリーナ
2世)を排したり、ロシア正教会を弾圧したため、激怒したエカチェリー
ナと彼女を支持する近衛部隊によって半年後にクーデターを起こされて
失脚。その近衛部隊兵に暗殺されることになる。
 
 さらに西ポンメルンで苦戦を強いられていたスウェーデンも、フリー
ドリヒ2世の妹であるスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカの仲裁に
より、同年5月に講和する。疲れ果てていた列強はこれを機に兵を収め、
孤立したオーストリアに勝利を収めたフリードリヒ2世は1763年2月10日、
フベルトゥスブルクで和議を結び、プロイセンのシュレージエン領有は
確定する。
 
 フリードリヒ2世はこれ以降、大きな戦争を起こすことはなかったが、
1772年の第1回ポーランド分割で西プロイセンを獲得して、飛び地状態
だったブランデンブルクと東プロイセンを地続きとし、1778年から1779
年まで続いたバイエルン継承戦争ではオーストリアと再び交戦してその
強大化を阻止した。なお、西プロイセン獲得に伴い、王号をプロイセン
における王(König in Preußen)からプロイセン国王(König von Preu
ßen)に変えている。外交面では特にオーストリアの復興を強く警戒し、
ザクセン選帝侯やバイロイトなどと君侯同盟を結成して対抗した。
 
 さらに、フランスやロシアとの関係改善に努めて、再び七年戦争の孤
立に陥らないよう細心の注意をもって臨み、アメリカ独立戦争に際して
はロシアが提唱した武装中立同盟に参加し、イギリスの対米海上封鎖に
対抗した。
 
 フリードリヒ2世は女性を蔑視する発言をたびたび公の場でしており、
フランスのポンパドゥール夫人やロシアのエリザヴェータ皇帝が七年戦
争においてマリア・テレジアに味方したのは、彼女たちがフリードリヒ
を個人的に嫌っていたからだと言われている。
 
 晩年
 アントン・グラフ(Anton Graff)による1781年の肖像画。ヒトラーが
官邸に掛けていた絵画でもある。
 平和を手に入れた後のフリードリヒ2世は再びサンスーシに戻り、忙
中に小閑を楽しむ穏やかな生活にかえった。王の余生は、忙しい政務の
中で時間を作っては文通やフルート演奏・著述を楽しむ日々で、このこ
ろ『七年戦争史』(もとは『我が時代の歴史』とも)を著している。ま
た1780年の『ドイツ文学論』でドイツ文学と統一ドイツ語について論じ
た。晩年にはベルリン市民から親しみを込めて「老フリッツ」との愛称
で呼ばれていた。
 しかし、晩年のフリードリヒ2世は次第に孤独で人間嫌いになり、人
を遠ざけるようになっていった。姉のヴィルヘルミーネ王女やダルジャ
ンス侯爵など親しい人々は既に世を去り、愛犬のポツダム・グレイハウ
ンドたちだけが心の慰めだった。もともと優れない健康もさらに悪化し、
心臓の発作や水腫、呼吸困難に悩まされ、一日の大部分を肘掛け椅子で
過ごした。「もう牧草地に放り出してもらうより他あるまい」と自嘲し
つつ、最後の願いとして愛犬たちのそばに埋めてほしいと頼んだという。
 
 フリードリヒ2世は1786年8月17日、サンスーシ宮殿で老衰により崩御
した。遺体は遺言に相違して、ポツダム衛戍教会に葬られた。その後、
第二次世界大戦中に遺体は各地を転々とさせられるなどの運命をたどっ
たが、ドイツ再統一後の1991年、サンスーシ宮殿の庭先の芝生に墓が移
され、現在は生前の希望通り犬たちと共に眠っている。
 
 音楽
 
 サンスーシ宮殿でフルートを演奏するフリードリヒ2世 アドルフ・
フォン・メンツェル画
フリードリヒ2世の宮廷には当時の第一級の音楽家が集い、フルート奏
者で作曲家のクヴァンツ、1732年から大王に仕えたヴァイオリンの名手
で作曲家グラウン、同じくヴァイオリンの名手で作曲家フランツ・ベン
ダらがいた。また、大バッハの次男C・P・E・バッハが1740年から1767
年までチェンバロ奏者として仕え、父の大バッハをフリードリヒ2世に
紹介している。
 
 ドイツ・フルートと呼ばれる横型フルートは表現力に富むため、フリー
ドリヒ2世が好んだという。1735年(23歳)から1756年(44歳)にかけ
て、自分の楽しみのためのフルート曲を作曲している。彼の作曲数は多
く、フルート・ソナタだけをとっても実に121曲に及ぶ。その作品とし
て『フルートのための通奏低音付きソナタ』『フルート協奏曲』などが
いまに伝わっており、比較的演奏機会のある曲に『フルート・ソナタ第
111番ニ長調』がある[* 3]。
 
 1747年(35歳)、62歳の大バッハがポツダムを訪問した際、フリード
リヒ2世がバッハの即興演奏のために与えたといわれるテーマを基に、
バッハの『音楽の捧げもの』が誕生したと伝えられる。
 
 七年戦争中にプロイセン陸軍が行軍中や戦闘中に演奏していた『ホー
エンフリートベルク行進曲』はフリードリヒが作曲したと言われている
が、それに歌詞が付けられたのは後年のことである。
 
 YMDay(20230414)last up dated.


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