与太郎文庫
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2005年04月24日(日) |
コンクラーヴェ議長から教皇へ |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050424 >> Pope Benedict XVI 教皇ベネディクト16世 以下「Pope Benedict XVI - Wikipedia, the free encyclopedia」の 翻訳。 教皇ベネディクト16世(Benedict XVI)、ラテン語の正式名称はベネ ディクトゥス16世(Benedictus XVI)、ヨーゼフ・アロイス・ラツィン ガー(Joseph Alois Ratzinger、ラテン名はヨセフス・ラツィンガー= Iosephus Ratzinger)(1927年4月16日生まれ)は、2005年4月19日、 ローマカトリック教会のローマ教皇に選ばれた。ローマ司教、バチカン 市国統治者、ローマ・カトリック教会(教皇庁をともにする東方典礼 (東方カトリック教会)を含む)の長である。2005年4月24日、教皇就任 ミサで正式に教皇として就任する。 78歳で選出されたのはここ275年で最高齢である。また、ハドリアヌス 6世(1522〜1523)以来初のドイツ人教皇である。ハドリアヌス6世はド イツ人でもありオランダ人でもあった。というのは現在のオランダ地域 に住んでいたが、当時はドイツの州の集合体であったからだ。ベネディ クト16世は史上8人目のドイツ人教皇となる。ベネディクト名の一代前 の教皇ベネディクト15世は1914年から1922年までローマ教皇をつとめ、 世界大戦のあいだに就任していた。 1981年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって教理省長官(Congregation for the Doctrine of the Faith)に任命され、1993年にヴェレトリ・ セグニ枢機卿となり、2002年に枢機卿会長に選ばれ、オスティアの名義 司教となった。教皇に選ばれるまでに、バチカンで最も影響力を持つ故 教皇ヨハネパウロ2世の側近となっていた。ヨハネ・パウロ2世の葬儀 と、自分の選ばれた2005年コンクラーヴェの議長をつとめた。この教皇 空位期間において、カトリック教会最高位にあった。ベネディクトを伝 統主義者と見る者もいるが、単なる正統派だと見る者もいる。しかし、 ベネディクトがカトリック教義の確固とした擁護者であるという点につ いてはほとんどすべての批評家が同意するところである。同性愛、ゲイ の結婚、妊娠中絶に批判的であり、カトリック教会のみが唯一救済でき ると語ったことがあり、他のすべてのキリスト教教会や礼拝コミュニテ ィーでは不充分であると述べた。枢機卿時代に『真実と寛容』という書 籍を書いた。これは寛容ということばが真実を歪める口実として使われ ていることを非難する書物である。ベネディクトは第2回バチカン公会 議にも司祭として参加し、ノストラエターテ(Nostra Aetate)すなわち 他の宗教を尊重し、信教の自由の権利を認める宣言など、この公会議を 擁護し続けた。この公会議において自由主義者と見なされた。教理省長 官としてベネディクトは、他の宗教のあいだでカトリック教会の占める 位置について、「ドミヌス・イエスス」文書において、全キリスト教会 の対話を適切な方法として述べた。 目次 前歴 コムニオとその後の経歴 教皇選挙 論争 文献 作品 前歴 ラツィンガーはバイエルン州Marktl am Innに警察官の息子として生 まれた。1937年、ラツィンガーの父親は退職し、トラウンシュタイン (Traunstein)町に住んだ。ラツィンガーが14歳になった1941年、1938 年の法律で定められたとおりヒトラー・ユーゲントに入隊した。「ナシ ョナル・カトリック・リポーター」の通信員で伝記作家のジョン・アレ ンによれば、ラツィンガーはいかなる集会への出席も拒んだ不熱心な隊 員であった。1943年、16歳のとき、ラツィンガーと同級生は対空砲隊に 徴兵され、ミュンヘン郊外のBMW工場の守備を命じられた。この工場は 航空機のエンジンを生産しており、ダッハウ強制収容所の収容者を働か せていた。ラツィンガーは基本的な歩兵訓練のために送られ、オースト リア・ハンガリー国境に配属され、対戦車防御の準備のために働いた。 バイエルンに送還後、1945年5月に脱走し、トラウシュタインに戻った。 トラウンシュタインに戻った直後、連合国軍捕虜キャンプに6週間拘 留された。6月には本国に送還され、兄弟(ゲオルグ)とともにカトリ ック神学校に入った。1951年6月29日、二人はミュンヘンのファウルハ ーバー枢機卿によって僧職を授けられた。論文(1953)は聖アウグステ ィヌスについてであり、第2論文は聖ボナヴェントゥラについてであっ た。1957年に神学博士号を得、1958年にフライジング大学教授となった。 ラツィンガーは1959年から1963年までボン大学教授をつとめ、それか らミュンスター大学に移った。1966年、チュービンゲン大学の教義神学 部長となった。ここでハンス・キュングの同僚であった。しかし、チュ ービンゲンの自由主義的な気風と1960年代の学生運動のマルクス主義傾 倒のなかで、彼は伝統主義的な見解を確立した。ラツィンガーは第2バ チカン公会議においては自由主義的な神学顧問であったが、1968年以後、 学生運動の非宗教主義(世俗主義)に対抗するようになってからは保守 的になった。1969年にバイエルンに戻り、レーゲンスブルク大学に移っ た。 第2バチカン公会議(1962〜1965)にラツィンガーは、ドイツのケル ンのヨーゼフ・フリンクス枢機卿のための専門官(教義的専門家の長) として参加した。 コムニオとその後の経歴 1972年、ラツィンガーは、ハンス・ウルス・フォン・バルタザール (Hans Urs von Balthasar)、アンリ・ド・リュバック(Henri de Lubac)らとともに神学雑誌コムニオ(Communio、http://www.commuio-icr.com/) を創刊した。現在17種類の版(ドイツ語、英語、スペイン語その他多数) で発行されているコムニオは、カトリック考察における最も重要な雑誌 の一つとなっている。 1977年3月、ラツィンガーはミュンヘンとフライジングの大司教に任 命され、その6月の枢機卿会議で教皇パウロ6世によって枢機卿に任命 された。2005年のコンクラーヴェでは、パウロ6世によって任命された 中で残っているわずか14人の枢機卿の一人であって、その中でも80歳未 満である3人のうちの一人であり、このためにコンクラーヴェに参加す る資格を有したのである。 1981年11月25日、教皇ヨハネ・パウロ2世はラツィンガーを教理省長 官に任命した。1982年初頭にミュンヘン大司教管区を辞職し、1993年 にはヴェレトリ・セグニ枢機卿となり、1998年に枢機卿会副会長、2002 年に会長に選ばれた。教理省では、ラツィンガーは産児制限や異宗教間 対話については伝統的な見解をとってきた。教理庁長官として、ラツィ ンガーは1986年、司教に対して、同性愛を「本質的な道徳的悪に向かう 定めの性癖」で「客観的な障害」であると定義づける書簡を書いた。 教皇選挙 2005年1月2日、タイム誌は匿名のバチカン関係者の言葉として、ヨハ ネ・パウロ2世が亡くなるか教皇を続けられないほどの重病になった場 合の後継者としてのトップランナーはラツィンガーであると掲載した。 ヨハネ・パウロ2世の死に際して「ファイナンシャルタイムズ」はラツ ィンガーが教皇になるオッズを7-1(8倍)という本命にしたが、教会の 進歩派のライバルにも近い数字を与えていた。 ピアース・ポール・リードは2005年3月5日、スペクテイター紙にこう 書いた。 正統カトリックの教えを果敢にも振興していることで、全世界の枢機 卿たちからの敬意を集めていることはほぼ間違いない。明らかに神聖で あり、高い知性を有し、はっきりと何が問題かを見抜く。まさに、この 発展する世界のなかで多くのヨーロッパの司教たちの性癖が砂に頭を隠 さねばならないようなものになってしまっているというカトリックの堕 落を非難する人たちにとっても、それに対抗する教皇がまさに求められ ているのである。ラツィンガーはもはや若くない――78歳だ。しかし、 アンジェロ・ロンカリがヨハネ23世として教皇になったのも同じ年であ る。ヨハネ23世は第2バチカン公会議を召集して教会を反転させ、おそ らく現代で最も愛された教皇であった。タイム誌通信員ジェフ・イスラ エリーがバチカン内部関係者から先月聞いたとおり、「ラツィンガー・ ソリューションは確かに実行される」。 (アンジェロ・ロンカリは76歳であって78歳ではない) しかし、ラツィンガーの教皇選出は決して確実なものではなかったこ とを指摘することも重要だ。コンクラーヴェでは次期教皇候補枢機卿が 選ばれないことも多い。選挙で勝つのが確定とされた人が選ばれないこ ともよくある。ことわざに「教皇たらんとしてコンクラーヴェに参加し た者が枢機卿として帰ってくる」という。 ベネディクトは何度も、バイエルンの村に隠居して本を書くことに専 念したいと述べてきたが、最近になって、「神が与えたもうたいかなる 義務をも受け入れる」準備ができたと友人に述べていた。ヨハネ・パウ ロ2世の死後、2005年4月2日にラツィンガーは教理省長官の仕事をやめ た。今や教皇となり、誰が教理省長官の後任に当たるかを決めるのは彼 次第である。 ベネディクトはドイツ語、イタリア語の、英語、教会のラテン語など 10カ国語を話す。フランス語も流暢であって、1992年からフランスの倫 理及び政治科学アカデミー(Academie des sciences morales et politiques)の準メンバーである。また、ピアノも熟達していて、 モーツァルトとベートーベンを好む。 史上8人目のドイツ人教皇であるが、現在のドイツ領の範囲出身者と しては3人目(クレメント2世とヴィクトル2世)。最後のドイツ人 (現オランダ領)の教皇ハドリアヌス6世は1522年に選出され、1523年 に逝去した。クレメント7世が1730年に78歳で選出されたのと同年齢の ラツィンガーは、最高齢で教皇に選ばれた枢機卿である。 2005年4月、タイム誌によって世界で最も影響力を持つ100人の一人と して認知された。2005年4月19日、ヨハネ・パウロ2世の後継者を選ぶ 会議の2日目で選出された。 教皇選出後、初めて聖ペテロ聖堂のバルコニーに現われたとき、以下 の言葉で紹介された。 Annuntio vobis gaudium magnum; habemus Papam: Eminentissimum ac Reverendissimum Dominum, Dominum Josephum Sanctae Romanae Ecclesiae Cardinalem Ratzinger qui sibi nomen imposuit Benedictum XVI 翻訳すると「大きな喜びを発表します。教皇がいらっしゃいます! 最も卓越した牧師の君主、ヨセフ卿、聖ローマ教会の枢機卿ラツィンガ ーは、ベネディクト16聖を名乗られます」 バルコニーにおいて、伝統的な「Urbi et Orbi(都および世界に(教 皇の大勅書の呼びかけのことば))」の祝福の言葉の前に群衆に与えた 言葉はこのようなものであった。 親愛なる兄弟姉妹、偉大な教皇ヨハネ・パウロ2世の後継として、枢 機卿たちは主のぶどう園の中の素朴で身分が低い労働者である私を選出 しました。主は不十分な道具であっても、どのように働き、行動すべき かご存じであるという事実によって、私は慰められます。そして特に、 みなさんの祈りに私自身をゆだねます。主の復活への喜び、主の絶えざ る救いへの確信をもって、私たちは進んでいくことでしょう。主は私た ちを救い、聖母マリアは私たちのそばにいることでしょう。ありがとう。 サンピエトロ大聖堂でのコンクラーヴェ前のミサで、「相対主義の独 裁が強まっている。それは何ものをも決定的なものとして認識せず、最 高の価値として自分自身のエゴと自分自身の欲望を置くものである」と 宣言した。もっと「穏健」な選択を望むカトリック教徒にとって、ラツ ィンガー枢機卿の選出は大きな驚きであった。それは、教皇ベネディク トがヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿時代に有していた見解、すなわち救 済にとってのイエスとカトリック教会の必要性についての見解、他の宗 教についての見解、同性愛や妊娠中絶といった社会問題についての見解 によるものである。それ以外の人たちにとっては、ラツィンガー枢機卿 は「伝統的カトリック」をもって統治し続ける典型的な人物と映ってい る。 論争 教皇になるまで、ラツィンガーは合衆国政治に関わる姿勢で知られて いた。2004年大統領選中、妊娠中絶や安楽死を支援している候補者を支 持するならば「悪に協力する」ことになる、という見解を表明した。[1] (http://wireservice.wired.com/wired/story.asp?section=Breaking&storyId=1021705&tw=wn_wire_story) 合衆国の司祭による性的虐待の問題については、その虐待を小さく見 積っているとみなされた。2002年、カトリック・ニュースサービスに 「司祭の1パーセント以下がこの行為を犯している」と述べている。[2] (http://ncronline.org/NCR_Online/archives/011003/011003j.htm) 他の論争を呼ぶ発言としては、1987年、ユダヤ人の歴史と聖書はキリ ストにおいてのみ完成されるというものがある――これは「神学的反ユ ダヤ主義」として非難された。他の宗教的なグループは、2000年の文書 「カトリック教会のみに永遠の救済がある」は失礼だと考えている。[3] (http://www.theaustralian.news.com.au/common/story_page/0,5744,15003155%255E39835,00.html) 同性愛の権利を提唱する人たちは、1986年の司教への書簡「同性愛者 への牧師によるケア」を批判する。ここで同性愛者は「本質的な道徳的 悪に向かう定めの性癖である。それゆえ、これは客観的な障害として見 なされなければならない」と記されている。それ以前、1985年9月30日 の書簡で、ラツィンガーはシアトル大司教レイモンド・フントハウゼン に対して、女性・同性愛者・教義問題についての自由主義的な見解を叱 責している。「大司教の管区は、同性愛活動という本質的な悪について 教権の教えを明確に受け入れないいかなるグループからの支援もすべて 打ち切るべきである」と。そして大司教レイモンド・フントハウゼンは 一時的に権限を外された。[4] (http://seattlepi.nwsource.com/local/aplocal_story.asp?category=6420&slug=WA+Pope+Wash) 文献 Allen, John L.: Cardinal Ratzinger: the Vatican's enforcer of the faith. ? New York: Continuum, 2000 Wagner, Karl: Kardinal Ratzinger: der Erzbischof in Munchen und Freising in Wort und Bild. ? Munchen : Pfeiffer, 1977 著述 Unterwegs zu Jesus Christus, Augsburg 2003. Glaube - Wahrheit - Toleranz. Das Christentum und die Weltreligionen, 2. Aufl., Freiburg i. Brsg. 2003. Gott ist uns nah. Eucharistie: Mitte des Lebens. Hrsg. von Horn, Stephan Otto/ Pfnur, Vinzenz, Augsburg 2001. Gott und die Welt. Glauben und Leben in unserer Welt. Ein Gesprach mit Peter Seewald, Koln 2000. Der Geist der Liturgie. Eine Einfuhrung, 4. Aufl., Freiburg i. Brsg. 2000. Vom Wiederauffinden der Mitte. Texte aus vier Jahrzehnten, Freiburg i. Brsg. 1997. Salz der Erde. Christentum und katholische Kirche an der Jahrtausendwende. Ein Gesprach mit Peter Seewald, Wilhelm Heyne Verlag, Munchen, 1996, ISBN 3-453-14845-2 Wahrheit, Werte, Macht. Prufsteine der pluralistischen Gesellschaft, Freiburg/ Basel/ Wien 1993. Zur Gemeinschaft gerufen. Kirche heute verstehen, Freiburg/ Basel/ Wien 1991. Auf Christus schauen. Einubung in Glaube, Hoffnung, Liebe, Freiburg/ Basel/ Wien 1989. Abbruch und Aufbruch. Die Antwort des Glaubens auf die Krise der Werte, Munchen 1988. Kirche, Okumene und Politik. Neue Versuche zur Ekklesiologie [Robert Spaemann zum 60. Geburtstag zugeeignet], Einsiedeln 1987. Politik und Erlosung. Zum Verhaltnis von Glaube, Rationalitat und Irrationalem in der sogenannten Theologie der Befreiung (= Rheinisch-Westfalische Akademie der Wissenschaften: G (Geisteswissenschaften), Bd. 279), Opladen 1986. Theologische Prinzipienlehre. Bausteine zur Fundamentaltheologie (= Wewelbuch, Bd. 80), Munchen 1982. Das Fest des Glaubens. Versuche zur Theologie des Gottesdienstes, 2. Aufl., Einsiedeln 1981. Eschatologie, Tod und ewiges Leben, Leipzig 1981. Glaube, Erneuerung, Hoffnung. Theologisches Nachdenken uber die heutige Situation der Kirche. Hrsg. von Kraning, Willi, Leipzig 1981. Umkehr zur Mitte. Meditationen eines Theologen, Leipzig 1981. Zum Begriff des Sakramentes (= Eichstatter Hochschulreden, Bd. 79), Munchen 1979. Die Tochter Zion. Betrachtungen uber den Marienglaube der Kirche, Einsiedeln 1977. Der Gott Jesu Christi. Betrachtungen uber den Dreieinigen Gott, Munchen 1976. Das neue Volk Gottes. Entwurfe zur Ekklesiologie (Topos- Taschenbucher, Bd. 1) Dusseldorf 1972. Die Einheit der Nationen. Eine Vision der Kirchenvater, Salzburg u.a. 1971. Das Problem der Dogmengeschichte in der Sicht der katholischen Theologie (= Arbeitsgemeinschaft fur Forschungen des Landes Nordrhein-Westfalen: Geisteswissenschaften, Bd. 139), Koln u.a. 1966. Die letzte Sitzungsperiode des Konzils (= Konzil, Bd. 4), Koln 1966. Ereignisse und Probleme der dritten Konzilsperiode (= Konzil, Bd. 3), Koln 1965. Die erste Sitzungsperiode des Zweiten Vatikanischen Konzils. Ein Ruckblick (= Konzil, Bd. 1), Koln 1963. Das Konzil auf dem Weg. Ruckblick auf die 2. Sitzungsperiode des 2. Vatikanischen Konzils (= Konzil, Bd. 2), Koln 1963. Die christliche Bruderlichkeit, Munchen 1960. Die Geschichtstheologie des heiligen Bonaventura (habilisasjonsavhandling), Munchen u.a. 1959. Volk und Haus und Gottes in Augustins Lehre von der Kirche (diss. 1951), Munchen 1954. Dogma und Verkundigung Einfuhrung in das Christentum (2000) (翻訳ここまで) http://kotonoha.main.jp/2005/04/20benedictus.html << ◆ピアース・ポール・リード《生存者》の著者
作成日: 2005年6月16日(木) 23時29分
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