http://d.hatena.ne.jp/adlib/20041216
長岡京室内アンサンブルの文字武氏から、郵便が届く。
演奏会の案内と、新聞のコピーだけで、一言も書かれていないのだが、
充分にこころづかいが感じられる。
同志社中学二年後輩の“マドンナ”森 昌子は、パリのユネスコ本部
で働いたそうだ。フランス人と結婚して、二人の娘をもうけた。
ヴァイオリニストの妹・悠子が、姉の娘にヴァイオリンを教えた。
混血のヴァイオリニスト、安紀・ソリエールは、長岡京室内アンサン
ブルのメンバーでもあり、京都でもリサイタルを開いている。
(日仏二世代の姉妹が、きもの姿であらわれたら、壮観だろうなぁ)
こういう事情を、まったく知らずに、文字くんに再会したのである。
かれこれ二十年ぶりに(竹内くんへのメール)演奏会にも出かけた。
久々に弦楽合奏を聴いて、処女童話《ハーメルン》を書きあげた。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040229
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20040404
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19540725
彼女は「中学当時、ユネスコが話題になっていたのかな」と回想して
いるが、彼女が入学する2年前(1952)、すなわち与太郎が中学一年の
とき(社会科の授業で)本宮 啓先生の質問をおぼえている。(注0)
「ユネスコって何をする団体か、知ってるかな?」
与太郎は知らなかったので黙っていると、“タヌキ”こと木下聖治が
手を挙げた。そして(例によって)長々しい説明をはじめた。
「世界中の貧しい子供たちに食糧を送ったり……」
苦笑しながら聞きおえた先生は「世にも奇妙な団体やな」と評された。
たぶん、タヌキは、ユネスコとユニセフを混同していたのだろう。
>>
第1に、ユネスコとユニセフのちがい。それはEで説明するとわかり
やすいのです。ユネスコのEは教育、ユニセフのEは緊急です。教育は
ご承知のように、長期の根本的な課題であり、複雑で多面的な仕事です。
一方ユニセフの緊急支援は、文字どおり短期の生命や健康にかかわる課
題です。ともに国連の組織として、また日本国内ではNGOとして協力
と分担で仕事をして行きたいと思います。第2に自分の経験と合わせて、
ユネスコの鮭の理論を紹介します。若い時期にユネスコに触れ、その後
仕事などのいろいろな社会生活を経験して、年をとってからまたユネス
コ活動に参加する人もいます。ユネスコは息の長い運動であり、50年
まえに作られたユネスコ憲章は今も新鮮である。若い諸君はぜひ多くの
社会経験をして、その中でユネスコへの理解を深めて欲しいと思います。
日本ユネスコ協会連盟 岡田 茂 事務局長
http://www.youthlab.tuu.jp/topics_a/semi01_02.htm
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1946.... 国際連合総会(第1回)国際連合国際児童緊急基金ユニセフ
“United Nations International Children's Emergency Fund”発足。
戦争で被害を受けた子どもたちのために仕事をはじめる。
1949.... ユニセフから日本への援助がはじまる
1953.... 国際連合児童基金“United Nations Children's Fund”改称。
1955.... 日本ユニセフ協会ができる。
1959.... 国際連合で「児童の権利宣言」が採択される
────────────────────────────────
19461104 ユネスコ(UNESCO)設立
“United Nations Educational,Scientific and Cultural Organization”
19510621 ユネスコ総会(第6回)日・独加盟承認
0702 加盟
195206..「ユネスコ活動に関する法律」公布
08.. 国内委員会設置
195612.. 日本が国際連合に加盟
>>
ユネスコでの経験 伝えたい
インターナショナル・コンサルタント 昌子・ソリエール
パリ在住。先日、出張先のタイ・バンコクから実家のある京都へ一時
帰国した。ユネスコのパリ本部での三十余年のキャリアを買われ、来年
二月にインドで開かれる文化産業の世界シンポジウムを支援している。
その打ち合わせだった。
同志社中学、高校から国際基督教大、米国コロンビア大を経てユネスコ
へ。採用をめぐる紆余曲折はさらりと終えた。要は自分が何をしたか。
それを話したい。そんな思いが伝わってきた。
ミャンマー、モーリタニア、カリブ海諸国など、ユネスコで四十件以
上の教育プロジェクトにかかわった。「アフガニスタンはですね…」。
真っ直ぐな視線。よどみなく話していく。内戦が続いていた一九九一年、
前任者からアフガンのプロジェクトを引き継いだ。
「識字率を上げたいと思いました。ユネスコの過去の例では、プロジ
ェクトの数年間は数字は上がりますが、元へ戻ってしまう。失敗から学
ばなければなりません」。学校を建てたり、先生を送り込むのではない、
別の方法を考えた。
ラジオを思いつく。「生活の知恵や病気、仕事の話も盛り込んで面白
いドラマをやる。同時にドラマに関する本もつくるんです」。当初、
ユネスコは、このアイデアを「ラジオの数が足りない」と突っぱねた。
「ドラマが面白ければ、人々はラジオを探し、その時間になれば必ず
集まる」と反論。子どものころ、銭湯のラジオにドラマを聞く人だかり
ができていたことを思い出したから。(注1)
同時期、アフガンで、伝統のじゅうたんづくりを産業にするプロジェ
クトも進めていた。だが、肝心の十五〜十六世紀の模様が残っていない。
当時の絵画に描かれた小さなじゅうたんを拡大して、復元につなげた。
プロジェクトは基本的に一人で担当するが、もちろん全部をやれるわ
けはない。問題に直面すると頭を回転させ、記憶を呼び起こす。「これ
は、だれに聞けばいいだろう。人の顔を思い浮かべるんです。それには、
どれだけ人を知っているか。国際会議は知り合うチャンスですね」。
当時を思い出して、今もワクワクしている。
アフガンのプロジェクトの様子を手に取るように話すが、現地へ足を
踏み入れたことはない。安全上、派遣が許されなかった。仮に派遣がか
なっても、長期間は滞在しなかっただろう。それは「長い時間、家を離
れたくなかったから」。フランス人の夫と二人の娘がいる家庭を大切に
してきた。
今、アフガンでラジオ番組は続き、伝統の模様を復元したじゅうたん
が織られている。統計となって効果が分かるのは、まだ先だろう。「本
がほしいという声が、アフガンから上がっているんです。彼らにモチベ
ーションをつくることができた。私にとっては、このプロジェクトの到
達点ですね」
うまくいかなかったプロジェクトもある。イラクでチョーク工場をつ
くろうとしたが、つまづいた。二〇〇一年にユネスコを退職したが、
「どこかで何かやりたい若者たちの相談相手になりたいの」。成功も
失敗も、ユネスコで学んだ方法論を伝えたいと願う。
なぜ、ユネスコへ? 「中学時代の作文に、『将来はユネスコで働き
たい』と書いているんです。当時、ユネスコが話題になっていたのかな。
その意識がずっと頭から離れなかったんですね」(注0)
(文化報道部 松本 邦子)
(写真上)「ユネスコの仕事を通じて、世の中のほんの一部でも変えら
れたかな、と思っています」
(写真下)母校の同志社中(京都市上京区)で、すれ違った後輩たちに、
ほほえみかける。
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アウトサイト ガリ勉でなく ロマンチスト
「高校生の時から、きれいで優しくて、そのままステキに年齢を重ね
てこられた」。同志社高校からの親友・平山百合子さんは、そう話す。
高校では一緒にESSで英会話を勉強していた。そのころから、国際的
な仕事をしようという思いが、お互いに暗黙のうちにあったと思います。
平山さんも東京で外国人ビジネスマンの妻たちに、日本文化の講座を続
けてきた。「成績は抜群。でもガリ勉でなく、ロマンチストでね」。
ウィーン少年合唱団が京都で公演した際には、「おっかけ」もしたとい
う。
三歳違いの妹、バイオリニストの森 悠子さんは「尊敬しています」。
開口一番に言った。「子どものころから、何をやっても太刀打ちできな
い。勉強なんか、かなうわけない。だから、私はバイオリンの道へ行っ
たんです」と本音と冗談が混じる。日本を飛び出して活躍してきた点は、
姉との共通項だ。「姉は地球上の土地を一つと考えている人。視野が広
く、引き出しが多い。姉の存在をたくさんの人に知ってほしい」
インサイド ─────────────────────────
若い人たちへ:コンピューターの前にばかり座っていないで、人に会
って。情報は人が動くことで伝わる。インターネットから出る情報も真
実とは限らないでしょ。自分でもう一度確かめ、問いかけて。
忘れ得ぬ言葉:「人間は目的であって手段ではない」。哲学者カント
の言葉。高校時代、倫理の先生から教わりました。この言葉は私の仕事
のベースになっています。
ユネスコの今:人間の営み全体を見て、支援するのが本来の役目。今
はユネスコ自体が政治的になっているのが残念。
日本への思い:ユネスコに就職して国際公務員になったとき、「国籍
は捨てろ」と言われました。それからの私は無国籍のような部分もあり
ます。ですから、とくに日本だけを見て、という意識はないんですね。
── 《にちよう文化/京都・異才人 20041212 京都新聞》
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(注1)
「子どものころ、銭湯のラジオにドラマを聞く人だかりができていた」
これは彼女の記憶ちがいで《君の名は》が始まると銭湯がカラッポに
なったのである。この件は下記「高島春江先生講義録」に詳述している。
── あるとき「皆さんは《君の名は》などという低俗なラジオドラマ
を聴いてはいけません」とたしなめられた。「あんな、安っぽい陳腐な
筋書は、文学とは無縁のものです」誰かが「そうかなぁ」とつぶやくと、
先生はキッとなって「そもそも、あんなに類型的な、あれほどきびしい
お姑さんなど、現実には存在しないのです」と断言した。授業のあとで
悪ガキどもは「センセイも、やっぱり聴いとるんやないか」とささやき
あった。(略)19530915 映画《君の名は》《終着駅》同日封切。
── 《虚々日々 20001224 阿波文庫》P024-027
森 昭 昌子&悠子の父 190..... 高槻 /日大教授〜《教育人間学 1968 黎明書房》
♀森 昌子 (ユネスコ) 1941.... 大阪 France /悠子の姉/ソリエール・安紀の母
♀森 悠子 Violin 19440916 大阪 /昌子の妹/長岡京室内アンサンブル音楽監督
♀ソリエール・安紀 Violin 197..... パリ /昌子の娘
────────────────────────────────
若林 通夫 Bassoon 1943.... 京都 France /国立カンヌ管弦楽団
Enescu,Georges Violin 18810819 Rumania 19550503-0504 73
与太郎は、かつてヴァイオリンやチェロをいじったことがあるので、
すぐれた演奏にめぐりあうと(理屈ぬきで)敬服してしまう。
(三題噺としてオチをつける予定が、うまくまとまらない)
数年前、NHK《世紀の名演奏》の古い実況録画で、オイストラフの
《クロイツェル》と、チャイコフスキーの《協奏曲》の断片を聴いて、
あらためて感動した。わが生涯を通じて、彼こそは頂上の人だった。
一度も聴いたことはないが、想像上の巨匠は、イザイエとエネスコが
頂上ではなかろうか。ユネスコやユニセフとは関係はないが、とりわけ
エネスコこそは空前絶後の天才にちがいない。
>>
1950年1月21日、彼の最後のコンサートがニューヨークで 行われた。
この日彼はヴァイオリニストとしてバッハの2つのヴァイオリンのため
のコンチェルトをメニューインとデュオ演奏し、また自作のヴァイオリ
ン・ソナタ第3番をメニューインのパートナーとしてピアノで演奏した
ばかりでなく、自作のルーマニア狂詩曲の指揮も行った。このコンサー
トの後、彼は引退し、第二の故郷パリで世を去った。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~yuko_vn/Enescu.html
吉見 由子《My favorite Violinists》
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