与太郎文庫
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2004年03月22日(月) |
抜刷解題 〜 まとまらないことなど 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040322 この小冊子は、パソコンのために書かれた日記形式の《与太郎文庫》 から、最近の(任意の)部分を抜き刷りしたものである。 長岡京室内アンサンブルの文字 武・高芝 義和両君との晩餐、演奏会 場での小石忠男氏との再会など、いずれ“故旧・十字屋余話”につづく。 一連のテーマは“遠来の人々”である。与太郎にとっての客人、客人 としての与太郎を身辺雑記風に配した。巻頭に象徴的な“ハーメルン” をかかげたのは、与太郎自身もまた、遠来の旅人であることをしめす。 ── きみの招きがあれば、いつでも赴く用意がある、あるいはきみが 訪ねてくれば、いつでも迎える用意がある。 ── 《畏友 〜 河原 満夫君への未投函書簡 〜》草稿より 1963年ごろ、与太郎が大学ノートに書いた自伝初稿を、はじめて見せ たのは河原満夫と楠原大八の両君だけだった。 河原は、このとき想像以上の辛抱強さで、最後まで黙読してくれた。 「きっちりした文章で、君の云わんとするところが、よく伝わってくる。 幼い又従妹・公子の死体を見つめたことが、重要な記憶になるだろう」 彼の指摘は(即席ながら)みごとな卓見だった。 それから三十数年のちに《虚々日々 20001231 阿波文庫》を完成した 与太郎は、吉田肇に(ある感慨をこめて)電話で伝えた。 「この作品は、自伝資料として最初だが、印刷物としては最後のものだ」 ゴリは(むかしとちがって)慎重に「そうか」と答えたが、それほど 重々しく受けとめたとは思えない。 与太郎は、十才のころから数えて五十年におよぶ編集技術が、過去の ものになったことを惜しんでいたのである。 そのあと《虚々日々》の続編をかねて追記・補註をまとめる必要から、 非公開の《去々日々 20011231 阿波文庫》を手もとで編集していたが、 このころからネット情報が激増しはじめた。ついぞ知るすべのなかった ジャンルまで、奔流のようにあふれはじめたのである。 あまりに大部になって、とどまることがない。 日々の流れの中で考えるに、いまさら分っても、自分ひとりが知って いるわけではなく、その気になれば誰もが知りうる情報である。 読みのこした大著も、ほとんど手をのばせば届くのだから、かならず 読むほどのこともなさそうである。 それより、せっかく生きてきたのだから、自分で考えたことや迷った こと、面白いと感じたことなど、他人が書いていないことだけでも記し ておきたい、と初心にもどることにした。 読むべきか書くべきか、という命題は、実は経験ずみだった。 九才のころ、子供むけのスティーヴンソン《宝島》を読みはじめると 同時に、与太郎はもう一編の自作《宝島物語》を書きはじめたのである。 こんなに面白そうな小説は、自分が書けばもっと面白いものになると 考えたが、はたして処女作は数ページで暗礁に乗りあげ、いまも未完の ままであり、原作そのものまで興味を失ってしまった。 たぶん、いま読みかえせば感慨ひとしおだろうが、これまでのところ 機会がなかった。 「誰もが人生という題名の長編を書いている。シェーファー万年筆」 この傑作CMコピー(1977年ころ?)のように、書くべきことは多い。 ホームページを《虚々日々》に先んじて開設したのは、おなじ内容の ものを順次公開する予定だったが、このころから(過去の)編集技術が、 ほとんど役にたたないことが判明しはじめたのである。 与太郎が目ざしたものは、一冊を手にとって、パラパラと頁をめくり ながら、全体の構成が把握できるような編集技術である。 (そのページ数は、原則として16の倍数であることが望ましい) 一般に誤解されているのは、写真やイラストを多くして、文字の割合 を少なくすれば、理解しやすいというものである。 いったいどんな作品を指しているのか思いあたらないが、それに近い 実例は、あんがい凡百の教科書かもしれない。 こういう俗説をとなえるのは(与太郎の経験によると)広告代理店の 社員や役人に多く、がんらい読者を代表する立場にない人たちである。 もともとインターネットのホームページは「ページの概念がない」と いわれるように、その印刷設定には制約と限界がある。そもそも印刷を 想定していない、というべきであろう。 このことについて、印刷技術が写真技術によって劇的な進歩をとげた ことに重要な拠点もあるが、これを継承しない最新文明こそが通信言語 だったのである。 (たとえば 、>><< などの特殊記号によって表示する) それでも与太郎は、過去の技術を捨てきれなかった。いつか結合する ときが来る、と考えつづけた。それまでの間、過去の技術に依存しない 言語で書きはじめることにした。 通信言語に印刷設定を施して保存するためには、それなりの文書形態 とルールが必要だが、いまのところ目ぼしい成果が見あたらない。
はじめ《去々日々》のタイトルで公開したところ、当時の通信言語は 「々」の処理にとまどって、うまく検索できなかったりした。 これらの諸事情は、いまなお説明困難である。通信言語と検索技術が あいまって、インターネットを支えているとしか云いようがない。 つぎに《余太郎日記》に改めようとしたが、意外なことに「余太郎」 が初期設定されていないので、誰もが一発変換できないことが分った。 せっかくならパソコン初心者にも検索しやすいタイトルにすべきだと 考えた(インターネットでは、このような発想が優先する)。 そこで《与太郎日記》と改題したが、同じタイトルが先に登録されて いて紛らわしいため《与太郎文庫》に変更した。これはこれで与太郎に 関する《我楽多文庫》という意図に通じるので、いままで手作業で入力 した文献の引用にあたって、面目をほどしたような気がする。
パソコンを持っている老人の多くは、むかし応接間にピアノを飾って いたように、ほとんどフタを開かないままらしい。 現状をみると、60才以上の老人で、日々パソコンに向うのは、予想 以上に少ないのである。 (谷本先生のように、パソコンを常時接続している老人は例外である)
与太郎の知るかぎり、友人全体を思いうかべても、メール・アドレス 保有率は約10%だが、それで返事がくるのは半数以下だから、ほとんど 使っていないのが実態であろう。 これでは、よほどのことがない限り、インターネットから情報を得る ことは困難である。
これらの友人や恩師には、印刷しないと読んでもらえない。 かつまた、若い世代に読ませるには、両方を満足させるようなルール が工夫されるべきである。
さきの《虚々日々》は、通信言語を予想しない最後の印刷物だったが、 この抜刷《去々日々》は、通信言語から戻した、最初の印刷物である。 ネット上の読者には、与太郎の意図した印刷イメージが伝わっていな いので、つぎのようなメッセージを検討中である。 「メールでお申し込みください。Excel Prints を、無料で郵送します」
古い人たちは、古い文書形式のまま書きつづけているし、若い世代は 勝手気ままに打ちこんでいる。 六本木や原宿の雑踏を思いうかべるがよい。ある者は携帯電話と話し ながら、ある者は大声で、ある者は叫びながら踊っている。 このような人ごみを嫌う者は、だまって立去るがよい。しかし何事か 発言したければ、群集のなかに紛れるしかすべがない。
むかし新聞の号外は、事件発生から20分でバラ撒かれたというが、 いま地震が発生しても、テレビといえども生放送中でなければ、即座に 伝えることはむずかしい。 かつて「朝おきて、テレビの前で新聞をひろげながら茶を飲んでいた」 総理大臣が、最初に阪神大震災を知ったのは、新聞でなくテレビだった。 史上空前の同時多発テロを、はじめて新聞で知った者はいない。
だが近未来においては、常時接続されたパソコンが、家電全体を支配 するので、緊急のニュースや双方向通信も、一元化されるはずである。 かくて「朝おきて、テレビの前で新聞をひろげながら茶を飲む」姿が 絶滅するはずである。 すでにして与太郎は、二年前に新聞を断わってしまった。 なにが不自由といって「テレビの前で新聞をひろげながら茶を飲む」 という生活文化が失われたことは、まことに淋しいかぎりである。 しかし、パソコン・ライフ実践者が「テレビの前で新聞をひろげ」た としても、そこに書かれた情報は、ほとんど前夜のネット・ニュースで 閲覧ずみなのだ。 凶悪事件が起ると「2ちゃんねる」掲示板では、リアルタイム情報が 横行する。真偽のほどは分らないが、未成年容疑者の顔写真や、自宅の 地図なども、たちまち公開され、あっという間に削除されてしまう。 タレントの入籍も裁判の判決も。おまけにテレビ番組表は、二週間後 まで検索できる。 こんな時代でも、衆議院議員の長女(私人)が離婚したというだけの 記事を、本人の意志や裁判所の裁定に反して強行発売した出版社がある。 その周辺で「言論の自由」をとなえる文化人やジャーナリストもいる。 おかげで発売と同時に77万部も売りあげてしまった。 この収益は、いずれ原告のものになるはずだが、文春の編集者たちは、 もともと自分たちが受けとるつもりだったのだ。 かつて酒鬼薔薇事件で、少年の写真を掲載したフォーカスの編集者は、 これで夏のボーナスをはじき出したのである。彼らが「言論の自由」を 信奉するのなら、近年どんな功績があったかを示すべきだ。 むかしフランスに“パンフレット作家”と呼ばれる連中がいたという。 スタンダールなどが、自費出版で小部数の小冊子で、とりあえず意見 を述べたらしい。 最近の芥川賞や直木賞は、十年先まで受賞予定者が決っているので、 ときどき(今回のように)未成年者を混入しないと、どんどん高齢化が すすむという。 近年の受賞作は、題名をきいただけで、とても読む気がしない。
いまある与太郎の自伝資料は、かなり電子化されているが、十数年前 から、紙に書かれたり印刷された資料は、電子化されたものだけが後世 に伝わる資格がある、と考えはじめた。 これを世間話のように話すと、かならず誰かが反論する。 「いや、聖書や古文書のように書物の形態は不滅であり、永久に残る」 結論を云えば、このような不朽の書物は、印刷されなかったとしても、 《古事記》は正倉院で保存され、《死海写本》が海底洞窟から発見され たのである。これらは、誰もが読めることを前提にしていない。 岩波文庫に翻訳されて、全国の図書館に収められることなど、当初の 執筆者たちは予想もしなかったのだ。 いまも《コーラン》などは、アラビア語で朗唱することが基本であり、 これを各国語に翻訳して印刷することを(公式に)認めていない。 まして《新約聖書》のように「タダで配ったり」、安ホテルのベッド サイド・テーブルに《仏典》とともに常備するようなことは論外である。 「彼らは、ペルシャ・ルネサンスを復興したけれども、産業革命を経験 しなかったんだ」 (悪友再会 20010920 舶来居酒屋いそむら) 「なるほど、彼らは適応できなかったんだね」 さしもの秀才も、この分野には不案内らしい。 イスラム原理主義者が手にする武器は、彼ら自身の文化が創りだした ものではない。 わが皇室のテレビ番組には、なぜかバロック音楽が流されているが、 まったくもって不自然である。皇室の人々が、これらの西欧音楽を学び つつあることには異存はないが、和歌のような独自の文化的指導者では なかったのだ。 もし、イギリス王室で歌会始のような儀式をはじめたら、笑いものに なるだろう。あるいは、王子の結婚式や即位式で、バックに《春の海》 が流れたらブーイングものだ。 (Let'20040320-0322) Awa,Masatoshi《写生する少年 19520401 素描・第一号》
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