与太郎文庫
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2003年12月19日(金) |
茂吉と茂の弟子 〜 稲舟の月 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20031219 >> 五島茂氏(ごとう・しげる=歌人)19日、心不全で死去。103歳。 告別式は24日午前11時、東京都荒川区町屋1の23の4町屋斎場。 自宅は台東区雷門1の14の7の904。喪主は二女、いづみさん。 短歌革新を唱えてプロレタリア短歌に影響を与え、斎藤茂吉とも論争 した。天皇陛下が14歳だった1948年から和歌の先生を務め、夫人 の故・美代子さんも皇后さまの先生だった。現代歌人協会初代理事長で、 95年には歌会始の召人を務めた。 ── 《おくやみ 20031219 22:11 YOMIURI ON-LINE》 << >> 昭和26年歌会始の御製・御歌・詠進歌 [宮内庁] 「選歌」に五島氏の歌があります。まさか偶然の同姓同名の歌人がい たとも思えないのでご本人と思われますが あらしだつ空に揺れゐる朝の枝冬きはまりて春ならむとす には、ほかの方の歌にはない力強さを感じました。それがプロレタリア なのでしょうか。そして44年後、記事中にあった1995年の歌会始で詠め る(→平成7年歌会始) 大み歌につかへまつりて年長しけふの大み歌仰ぎまつらく もはやどのあたりが短歌革命だったのかよくわかりません。 「心の花」百人一首 見る夢の夢の形をなさず覚めあかときはやく聞く鳥の声 ってこの明け方の風景は面白い。茫然とした歌だ。コレいいなあ。 http://d.hatena.ne.jp/mohri/ ── 《deadman 〜 今日死んだひと 〜 20031219 》 << >> [コメントを書く] # adlib 『 五島 茂 vs 斎藤茂吉の論争について(門外漢ゆえの空想ですが)。 晩年の茂吉が(故郷の実家に)昭和天皇を迎えて、和歌を講じた折に、 ちょっとエッチな解釈を奏上したところ、たちまち陛下も気づかれて、 「ほほぅ、さもあろうか」「御意にございます」と目配せされた様子が 北杜夫《茂吉重箱帳》に書かれています(岩波・図書に連載)。たぶん 陛下は、堅物の五島先生よりも、下世話に通じていた(年長の)茂吉に 親しみを抱かれたため、二人の師匠が対立したのかも知れませんね。』 <<
山田 美妙 作家 19680825 東京 19101024 43 稲舟事件/慶応4.0708生 ♀田沢 稲舟 作家 18741228 山形 鶴岡 18960910 23 自殺?〜《峯の残月》 斉藤 茂吉 歌人 18820514 山形 東京 19530225 70 〜《赤光/あらたま》 ♀五島 美代子 歌人 18980712 東京 19780415 79 石榑 茂の妻/皇后の師 五島 茂 歌人 19001205 東京 20031219 103 経済学/石榑 千亦の三男 昭和 天皇 第124代 19010429 東京 19890107 87 19261225即位 北 杜夫 作家 19270501 東京 〜《楡家の人々》斉藤 茂吉の次男 平成 天皇 第125代 19331223 東京 19890107即位 ♀平成 皇后 19341020 東京 19590410結婚←正田 美智子
山田 美妙との結婚に破れて自殺した女流作家・田沢 稲舟の筆名は、 古今集「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」 から採っている(1092読人しらず)。 茂吉は「稲=否にはあらず(嫌ではないが)この月ばかり」について、 女性の月のものを指しているようだが、はたしてどうか……と、陛下を 見あげると「ほほぅ、さもあろうか」と目配せされた様子が、たくみに (次男の手で)記されている。 誤って阿川弘之《暗夜行路重箱帖》と混同したが、1994年ごろ連載の 北 杜夫《茂吉あれこれ 198801..-199903.. 岩波書店=図書》であり、 ダンスホール「フロリダ」の事件なども、くわしく述べられている。 のちに四部作《青年茂吉/壮年茂吉/茂吉彷徨/茂吉晩年》となった。 (註=茂吉は5月14日に生れたが、戸籍上7月27日出生と届けられた) >> 五島茂氏死去 歌人、経済学者 五島 茂氏(ごとう・しげる=歌人、経済学者)19日午後3時28 分、心不全のため東京都港区の病院で死去、103歳。東京都出身。自 宅は東京都台東区雷門1の14の7の904。葬儀・告別式は24日午 前11時から東京都荒川区町屋1の23の4、町屋斎場で。葬儀委員長 は都築忠七・一橋大学名誉教授。喪主は二女いづみさん。 歌誌「立春」主宰。1956年、現代歌人協会を創設し、初代理事長。 長く皇族の指導を続けた。81年「遠き日の霧」などの歌集で現代短歌 大賞。 経済学者としても知られ、著書に「イギリス産業革命社会史研究」な どがある。 ── 《東京新聞 20031220 共同通信》 <<
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