与太郎文庫
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2003年05月15日(木) |
五・一五事件 〜 19320515 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030515 五・一五事件 弁護記録 70年ぶり発見 ── 一九三二年に青年将校らが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件で、 海軍関係者を裁いた翌年の軍事法廷の弁論記録の一部が十四日、裁判か ら七十年ぶりに見つかった。 弁護側は新聞の論調や市民から寄せられた嘆願を引用して「政党財閥 特権階級は出処進退ことごとく私利私欲」「天に代わりて誅伐(ちゅう ばつ)することがどこが悪いか」とテロを称賛、大正デモクラシーから 軍国主義への世論の転換を示す資料となりそうだ。 文書は万年筆の手書きで原稿用紙約百三十枚をとじており、民間愛好 家がインターネット上のオークションで入手した。 冒頭に「五・一五事件海軍側弁論要旨」とあり、文中で筆者は「林逸 郎」と自称。裁判は公開で、当時の報道や出版物によると一九三三年九 月十五、十六日に林逸郎弁護士(元日弁連会長、故人)が将校側に立っ て弁論をしており、記事と文書の内容がほぼ一致している。 弁論は政財界の腐敗を指摘。世論がクーデター計画に同情しているこ とを強調し「国民の総意であるということを(略)無視致しますことは 忠孝一本の国民道徳への挑戦」と訴えている。 検察側は首謀者に死刑を求刑したが、同年十一月の判決は最高でも禁 固十五年に軽減された。 戦前の日本政治に詳しい玉井清慶応大教授は「これだけ詳しい弁論の 記録は公刊されていないと思う。五・一五事件の裁判は思想を主張する ショーのようになり、報道は被告を英雄にした。その後の言論に与えた 影響は大きい。冷静な報道と厳しい処罰があれば(歴史は)別の展開に なっただろう」と話している。 ── 《中日新聞 中日新聞 inしずおか 北陸中日新聞 2002 》 ── www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20030515/ mng_____sya_____006.shtml
大江 匡衡 文章博士 0952‥‥ □□ 10120806 60 /天暦 6.〜寛弘 9.0716 (おおえのまさひら)“大江用水”赤染 衛門の夫 大江 匡房 文章道 1041‥‥ □□ 11111207 71 /長久 2.〜天永 2.1105 (おおえのまさふさ)/故実〜《江家次第》 ──────────────────────────────── 犬養 毅 首相29 18550604 岡山 東京 19320515 78 /安政 2.0420〜19320516 大江 匡 →永井 荷風 18790121 東京 19‥‥‥ ? /匡衝&匡房(月日不詳) 永井 荷風(籍=壮吉) 18791203 東京 19590430 79 /明治12(己卯) 藤井 丙午“丙午の男” 19060223 岐阜 19801214 74 /参議院議員/自民党 浜 勇治 元海軍大尉 19060120 長野 19450316 39 /広匡の父19320515事件 浜 広匡 勇治の長男 19311013 長野 /パソコン英語塾長
── 濱は六年十月十三日生まれた長男に大江 匡房・廣元の名からと って「廣匡(ひろまさ)」と命名した。大江家は民生を重んずる、権藤 のいう「制度学」を家学としていた。匡房は八幡太郎義家の兵法と民政 の師であり、廣元は寄り頼朝によって鎌倉幕府政所別当に招かれ、貴族 政治を改革し、土地支配を地頭制の下に置いて民力を豊かならしめたの である。 ── 濱 廣匡&五味 幸男・共編《五・一五事件の謎 19961130 鳥影社》P125 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19060714 作成日: 2006/01/09
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