与太郎文庫
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http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030427 ■西日のあたる部屋
── 桜の頃、秋の爽やかな日にお葬式が出るということはめったにな い。私の感覚では、お葬式というのは、夏のとてつもなく暑い日か、首 も凍えそうな冬の日に多い。 ── 老人はできるだけ、西陽の当たる部屋を造って貰ったほうがいい。 朝は大ていの年寄りにとって、それほど気分的に淋しくも辛くもない はずである。何かが始まろうとしている気配というものは、老年の気分 とは逆なものだからである。しかし夕方は悲しい。神経的に欝状態のあ る老人は、ことに夕方にその症状が激しく出てくる。西陽は夏暑いとか 言って嫌うが、暑さを呪っているほうが、陽のささない部屋に、一段と 早く訪れた藍色の夕暮れの中に、することもなく呆然と坐っているより は、ずっと人間的である。 ── 曽野 綾子《戒老録 19721110-19950320 祥伝社》P148/151
書けば売れた、才色兼備のおしどり作家も、すでに七十歳を超える。 カトリック洗礼名=マリア・エリザベト、三浦朱門の妻。《太郎物語》 の太郎の母、太一の祖母。 この人の全盛期の小説には、なぜか次の二つの持論が挿入されていた。 「本棚は、かならず造りつけにする」「中華料理の野菜は、つねに高温 のフライパンで炒める(そうすると青色のまま変色しない)」 葬式が「夏の暑い日と冬の凍える日に多い」という説には統計的根拠 がなく、俗信の「丙午の年に生れた女は、夫を食いころす」とおなじく 迷妄的発想にすぎない。晩年の川端康成のように、もともと頭のよい人 が、ふいに非論理的な言動に走ることがある。 三十数年前、与太郎は自伝草稿《西日のあたる部屋》を書いている。 中学生のころにおきた父の不倫事件を、意を決して書きはじめたのだが、 その父も亡くなって三十年、いまなお未完の習作(二十枚)である。 西日のあたる部屋とは、中学時代の与太郎の勉強室であり、反対側の 朝日のあたる部屋は、女中部屋にあてられた(高校以後、入れかわる)。 ──────────────────────────────── 曽野 綾子 19310917 東京 19951211日本財団(旧日本船舶振興会)会長 三浦 朱門 19260112 東京 19850401-19860901文化庁長官。 ■西陽の当たる部屋
── 就任の翌日(19951212)初めての会見で就任の理由を問われた。 曽野は「不正にまみれた富で友達をつくりなさい」と、聖書の言葉を引 用、記者たちを面食らわせた。 「かけ事のお金が不正という意味ではない。たとえ金の出所や動機が 不純であっても、その金をいかに良いことに使えるか、それが大切なん だ、と聖書も言っているんです」。 ── 《見詰め続ける「聖と俗」 1999 共同通信「当世希人列伝」》 ── http://ch-k.kyodo.co.jp/17kyodo/backnumber/backnumber2001/job/job09.html ── ペルー前大統領 作家の曽野綾子氏宅に滞在 学校建設で面識 作家で日本財団会長の曽野綾子氏は二十七日、都内の同財団本部で記 者会見し、日本で一時所在不明となったフジモリ・ペルー前大統領が東 京都大田区内の曽野氏宅に滞在していることを明らかにした。 曽野氏によると、フジモリ氏は大統領職の辞表提出後の二十二日午後、 都内のホテルから曽野氏宅に移動。二十五日は神奈川県内の曽野氏の別 荘で一泊、二十六日夜に都内の曽野氏宅に戻ったという。 曽野氏は、同財団がペルーで小学校建設を支援したことなどからフジ モリ氏と面識を得たと説明。二十一日、フジモリ氏の義弟、アリトミ駐 日大使(当時)を通じて滞在先提供を申し出たという。曽野氏は「フジ モリ氏は(ペルー国会で罷免され)すでに大統領でなくなったため、生 活の場を提供した」とし、“一民間人”となった同氏を個人的に受け入 れたと強調した。 フジモリ氏を巡っては、ペルー国内で裏金疑惑などが浮上、今後ペル ーから身柄の引き渡しを要請される可能性も指摘されているが、曽野氏 は「そうした問題に立ち入りたくない」とだけ述べた。フジモリ氏の今 後の予定は把握していないという。 フジモリ氏は現在、六畳ほどの部屋で一人で起居。荷物は小さなスー ツケース二、三個だけで、背広しか服がなく、曽野氏の夫で作家の三浦 朱門氏の古いセーターを借りているという。 ── 2000年10大ニュース<海外> 2000/11/28 東京朝刊 社会面 02段
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