与太郎文庫
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2003年03月20日(木)  教え子たちの消息

 
https://tx696ditjpdl.blog.fc2.com/blog-entry-1409.html
 教え子たちの消息
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030320(強制非公開)
 
〔0〕 本宮 啓 様
 
 お誕生日おめでとうございます。
 いつも自分のことばかり書いてしまうので、きょうは先生の教え子の
消息をおしらせします。
 
 遠藤 瓔子(同志社中学1954年度卒)くんは、スチュワーデスを経て、
女流作家となり、連載中の自伝には、本宮先生の名も登場しています。
 
…… 昭和27年 6月・(略)社会、先生がハンサムなので隣の女の子は
一重の瞼を二重にしようとこすり過ぎて腫らしてしまった。家庭科、木
綿地のパンツを縫っている女子生徒の前で、眼鏡をかけた女の先生は、
満州から引き揚げてきたときの苦労話を延々と繰り出し、涙でしめくく
った後こう付け足した。
「音楽の本宮先生、ベートーベンに似ていて素敵ですね」
── 遠藤 瓔子《タンゴ、口には出せず 20001201-20011201 Gui》
http://www.geocities.jp/endohkun_22/profile/gui.html
 
 わたしの《虚々日々・サンピツ P48》で「さぞ女生徒たちに騒がれる
かというと、さにあらず」などと書いたのは、いかにも鈍感でしたね。
なぜか彼女も“音楽の先生”と誤っています。
 
 同響でヴァイオリンを弾いていた堀江 公麿(同志社中学1956年度卒)
くんが、私のホームページで「ワカバヤシ・ミチオ」の名を発見して、
なつかしいメールをくれました。新米の銀行員だったころに訪れたのち、
二十五年前から逗子に移住して、いまや抽象画家となっていたのです。
 彼と同期で、シンフォニエッタではクラリネットを吹いていたことも
ある田村 忠彦くんは、キャセイ航空を勇退して、得意の英語ジョークを
ちりばめた本を出版しています。
 これを機会に、「きみの本を読んだよ」と伝えることにしましょう。
 彼は、先生のご近所(下鴨中川原町29)で育ちました。
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4944069480
 田村 忠彦《エアライニーズ 20000301 オフィス・アドマール》他
 
 わたしのホームページは、先生の訪問記はじめ、さまざまの思い出を
書きとめています。いまのところ読者数は十人ほどですが、もうすこし
まとまったら印刷して、《虚々日々》の続編としてお届けする予定です。
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
── 《与太郎文庫》
 いつもご健康を祈っています。
 your failing student            阿波 雅敏
 
〔1〕 from 本宮 啓 Let'20030320-0322
 
 春三月、いつもなら長閑で陽気な昨今ですが、今日は朝からイラク攻
撃開始のニュースの連続で気の重い感じですね。今日で小生七十九才に
なりました。素敵なプレゼント感謝感激です。有難う。医者から特発生
心室頻拍、前立腺癌と診断され、そろそろ覚悟を決めようかとも思いま
したが、初期のため、高価なアガリスクの御陰で今のところ元気にして
います。二十六日にジュニアシンホニー第二十五回定期演奏会で、これ
を記念して出す小冊子に「同志社中、高校生の管弦楽運動の歩み(略史)」
と題して極めて簡単な粗筋だけ書きました。出来たら一部お送りするつ
もりです。君ももう年ですから、お体を大切に健康に御留意下さい。
 生きている内には是非またお逢いしましょう。先ずはお礼まで。
 
〔2〕 上野 務 様 〜 ヌバタマ先生へ 〜
 
 お元気でいらっしゃいますか。
 小生は同志社高校を1959年春に卒業、四年間も在籍したのに、残念な
がら、一度も先生の授業を受けることができませんでした。
 しかし、いつか先生におたずねしたい疑問があり、思いきってメール
をだすことにしました。お返事いただければ幸いです。
 
(下記の同窓会HPで先生のアドレスを発見しました。19990721付)
http://www.mediawars.ne.jp/~miyako38/index.html
 
 高校卒業にあたって、小生は無謀にも東京芸術大学美術学部図案科を
受験しています。歴史上類をみないといわれた33倍もの難関でしたが、
学科試験さえ通れば、実技には自信がある、と考えていました。
 その学科試験のうち、なんたる幸運か、国語の設問に「千鳥しば鳴く」
が出題されたのであります。
 
 古文法に、あまたの黒きものにかかる枕詞が存在することを、同志社
高校出身者ならば、知らぬ者は居ないのです。
 ふつう「ぬばたま」とは何か、あるいは「枕詞はどれか」を問われる
ところ、あろうことか「しば鳴くとは、いかに鳴いたのか」という設問
だったのです。
 小生が合格しなかったのは、この問題だけが原因ではありませんが、
帰郷して、当時の文芸部顧問・下村福先生にたずねると、
「はげしく、つよく鳴いた」と教わりました。
 のちに広辞苑その他に目を通すと「しばらくの間、ひとしきり鳴いた」
と解釈されています。
(下村・早稲田説に対する、新村・帝大説なのでしょうか)
 下村先生はじめ、並河純先生、あるいは岡谷清子先生も亡くなられた
いま、ぜひとも“本家ぬばたま先生”に教えていただきたいのです。
 
 小生はもとより現代人は、千鳥などみたこともなく、ましてその声を
聞くこともありませんが、あの千鳥は、どのように鳴いたのでしょうか。
 このことについて、すでに小生のホームページにも書いています。
── 《与太郎文庫》2002年11月22日(金) ぬばたま
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20021122
 
 谷本岩夫先生には、しばしばメールを頂戴しています。
 両先生の授業を受けることはできませんでしたが、教え子のひとりと
して、ご健勝を祈っています。
                        阿波 雅敏
(Mail'20021222-20030320)ueno-tsutomu@cam.hi-ho.ne.jp
 
〔3〕 ぬばたま 21日 夕刻 
 
 メイル嬉しく拝見致しました。楽しいHPも拝読致しました。
 
 お尋ねの千鳥の鳴きかたの件ですが、恥ずかしながら私はそこまで気
を配って考えたことがありません。早速手もとの万葉の諸注や万葉動物
関係の書にあたってみましたが、それについて触れてあるものはありま
せんでした。申しわけないことですが、何ともお返事のしようがありま
せん。今後何か気がついたり、見つかったりしましたら、お知らせしま
しょう。
 
 貴兄は同窓会名簿によると、昭和33年度卒ですね。その前後の学年は
担任したりなどして接触はあったのですが、その年度だけは偶然ながら
一度も教室で接しませんでした。我ながらちょっと不思議な感じもしま
す。
 
 小生実はいささか体調を崩し、昨日退院したばかりで、まだ少ししん
どくてこれ以上の作業はできません。今日はこれで失礼致します。お許
し下さい。取り急ぎお返事申し上げた次第です。    上野 務
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BE%E5%CC%EE+%CC%B3
 上野 務 国語教諭 1924022. 京都 20140517 90 /同志社高校“ぬばたま”20140221 傘寿
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A4%CC%A4%D0%A4%BF%A4%DE
 
〔4〕
 
♪ ぬばたまの訃報ちらはり教へ子ら思ひおもひに誰そしばなく。
(ぬばたま先生の訃報を、鳥井 雅子さんからのメールで知る)
 授業は受けなかったが、教え子が「散らばって」いるさまを狂歌に。
https://q.hatena.ne.jp/1479219918#a1260232(No.4 20161116 22:38:56)
 
〔5〕 山崎 直胤 〜 ウィーン万博関連資料閲覧 〜
 
 ここでは、国立国会図書館が所蔵するウィーン万博関連の資料を閲覧
することができます。
 今回は博覧会事務局が明治6年12月に執筆した「墺国博覧会筆記」
(2巻組・国立国会図書館請求記号:YDM42152)の第1巻と、博覧会事務
官としてウィーン万博へ出張した近藤真琴がウィーンへの行程を記した
「澳行日記」(国立国会図書館請求記号:YDM300187)の2冊を、ページ
イメージとテキストで閲覧できるようにしました。
 
【明治6年3月20日】
 
 廿日正午北緯四十二度四十二分、東経十六度二十八分にあり。昨日よ
り風もなければトツプセイル、ツライセイルなど前中二檣にかけ、蒸気
の力も強くしにければ航力いとはやく、一日の航程三百里になりけり。
もはやトリエストまで二百十一里となれば人々旅の調度を取かたづけな
どして悦びあへり。此日も東岸近くのりゆきければ、オーストリヤ領の
ダルマシヤといへる郡に属する地方島々もあらはに見え、午後には左舷
の方にも大なる島を見る。こはリッサーといへる島にて、慶應二年オー
ストリヤの軍艦十四艘にてイタリヤの四十四艘と戦ひ、遂にうち勝ちし
ところなりとワザロ氏語れり。フアーズの船長ウヲールクル氏は、我政
府より其船をやとはせられ書記官をはじめとして随行諸官員より諸職工
まで六十九名の人をあづかり、七百余トンの荷をつみて亜細亜の東の日
本より、はる/\の海上いささかの難もなくここまできにければ、よに
もうれしげにたはむれごとなどいひ、めづらしき酒などおのれらにうち
のませなどする。船長たるものの航海中の心つかひはこれにておしはか
られたり。心なき下ざまのものは何かにつけて船長をそしるめれど、そ
はひがごととこそ覚ゆれ。さればその永々の心配りをねぎらひ、海軍大
輔勝安芳卿のふるとしよませたまへる「星のあや月のあゆみをはかりつ
つこの船をさや夜もやすくねじ」といへる歌を思ひ出にければ、通弁官
の長なりける山崎直胤といへる人して其こころを口訳しきかしめけり。
されば船長も其己れを知れるをよろこび、あまたたびウイウイといひけ
り。
 ウイは英語のイエース、独逸、和蘭のヤアにて邦語のハイに同じ。
── 近藤 真琴《澳行日記・一名法船録 18730220》誤=2月20日
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 三重県&188703‥山梨県知事。生没年月日未詳。
── 阿波 雅敏《伊甲遍路 19870223 阿波文庫》→18891213 賞状
── ピコー/山崎 直胤・訳《仏国民法註釈 1876》
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/vienna/section3/nikki/page30.html
 
(初稿不詳)(20201002)
 


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