与太郎文庫
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http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030122 革島 香 ピアノ・リサイタル 〜 演奏会評 〜 出谷 啓
これは「京の俊英演奏家シリーズ」の第19回に当り、革島は京都の生 まれで、桐朋学園からパリのエコール・ノルマル音楽院に留学、2001年 の9月に帰国して以来、関西を中心に演奏活動を続けている。今回のプ ログラムは、ハイドンのソナタ第20番ハ短調、武満徹の「雨の樹素描」、 フォーレの主題と変奏、それにラヴェルの「鏡」というもの。
演奏はフォーレが、最も充実していたように思う。音色の変化に神経 を使い、各変奏を丁寧に描き分け、しかも楽器を十分に鳴らし、最も安 定した演奏になっていた。彼女の場合はメカニックの面がそう強くない のか、全体にサウンドが軽く、音の中心が高音域に集中する傾向がある が、このフォーレでは弾き込みが十分だったせいか、平均した音域でそ れぞれの音が鳴りきっていたと感じられた。 反対に最も魅力薄だったのが武満で、これは曲が短過ぎるせいもあっ ただろうが、表現そのものが表面的で、彼女の軽いタッチと音色感がマ イナスに働いた例だろう。決して不愉快な音を出さず、音色のコントロ ールにもいろいろ工夫をしているのが分かるのだが、いささか消化不良 のまま終わってしまったようだ。 ハイドンはペダルを節約した清潔な表現で、古典派のクラフィーアサ 九品にはふさわしいアプローチだったといえる。音楽の表現が丹念過ぎ て、冗長感がなかったとはいえないが、これだけ端整にハイドンを弾き 上げれば、合格点を献上して差し支えないだろうと思う。
ラヴェルは例の高音域に音が集中するスタイルだったが、ハイドンの ようなケアレス・ミスもなく、洗練された小じんまりした趣味の良さを 窺わせていた。とにかく革島の場合は、軽めではあるが音色の美しさと、 控えめな表現にその美質があり、さらに感性とセンスに磨きがかかった とき、優れたピアニストに成長するだろう。 (1月12日・京都府民ホール・アルティ) ── http://homepage3.nifty.com/detani/new_page_1.htm
このホームページは、あっというまに削除されるので、気づいたらす ぐにコピーしておかねばならない。おまけに、筆者に質問することもで きない。(実はメール番号を教えてくれたのだが、非公開らしいので、 たいした用でもないのは迷惑だと察して、ここで書くことにした。) (20030122)
from:kei detani [********@symphony.plala.or.jp] Mail'平成19/01/18 (木) 1:27→正しくは平成15/0118 (土) 1:27 Sub:返信の件
郵便確かに拝受しました。なお小生の生年月日は、1940年の6月14 日です。また電子メールのアドレスは、次のとおりです。 ********@symphony.plala.or.jp
Mail'2003/0118 (土)
簡潔な返信をありがとう。 貴君のパソコンは、あやまって平成19年(2007)に設定されており、 曜日がずれている。(以下略) 阿波 雅敏
革島医院の外観写真 ── http://www.tcn.zaq.ne.jp/sakitaka/kentiku/kawasimaiin.html
■2003/01/22 (水) 深窓の父娘
京都うまれの革島家の令嬢がピアノ、ときけば、後輩の革島良子の娘 かと思ってしまう。 革島医院の前を、ヴァイオリン・ケースを下げた少年が通りかかる。 少年が見上げると、二階の窓からピアノの音が聞こえてくる。 ♪ドビュッシー《雨の庭》……。 少女の練習が終わると灯りが消えて、少年も、とぼとぼ帰途につく。 以上は、半分は真実であり、半分は与太郎の想像による。 少年の名は(いまのところ)明かせないが、すぐ近くの十字屋楽器店 でレッスンを受けた帰途である。 (十字屋は三条寺町、革島医院は麩屋町六角) 数年後に、少女は、与太郎の指揮する同志社高校シンフォニエッタの 琵琶湖一周演奏旅行にゲスト・ピアニストとして参加している。さきの 少年が参加していたかどうかも(いまのところ)明かさない。 このときの楽器紹介で、彼女が一節弾いたのが《雨の庭》である。 同志社中学高校から女子大学音楽学部に進んで、そのまま教職につく。 同志社女子中学高校の音楽教諭となったらしい。
NHKプロデューサーの阿満利麿(現=明治学院大学国際学部教授) 氏と河原町を歩きながら、つぎの教育番組の司会者は、どんなタイプの 女性が望ましいか、というような雑談をしていた。このとき、女子大生 だった彼女に出会ったのである。 「阿満さん、さっきの話ですが、いま通りすぎた娘は、どうですか?」 「きみに会釈していった女性かい?」 「そうです、高校時代の後輩で、ピアノが弾けるし、歌もうたえます」 「いいじゃないか。きみの知りあいなら、話してみてくれないか」 その夜すぐに電話すると、彼女はしばらく考えてから、こう答えた。 「わたし、いまとてもピアノを大切にしてるんです。将来も、ピアノの お仕事ができるかどうかわかりませんが、できるだけ頑張ってみたいん です。こんどのお仕事をお受けするには、ピアノの時間を減らすことに なるかもしれないのが心配です。あとになって(そのお仕事をしてみた かったと)後悔するかもしれませんが、いまの気持ちは、ピアノに決め ておきたいのです」 「そうか、わかったよ。がんばりなさい」 せっかくの話だったが、彼女も心をこめて答えてくれたのだ。 そのまま伝えると、阿満さんも残念そうだった。 「きみが推薦するだけあって、しっかりしてるね」
与太郎は、あるいは彼女が思いなおすかもしれないと考えて、阿満氏 が有能で、京都放送局きっての紳士であることを手紙で書きおくったが、 返事はなかった。 何年かたって、与太郎は「ロンパー・ルーム」という子供番組をみて、 うつみ・みどり(現=うつみ・宮土理)というタレントの存在を知る。 やれやれ、深窓の令嬢はテレビなんか出なくてよかった。 うっかり人気が出たりして、変なオジサン(愛川欣也)なんかと結婚 したりしなくてよかった。“ケロンパ&キンキン”夫婦はともかくも、 バラエティ番組などで、チャラチャラしゃべる姿は想像したくない。
与太郎のパソコンでは、彼女の消息は同志社女子中高音楽教諭になる あたりで途切れている。つまり、結婚したかどうかも分らない。すると 彼女が、革島香の母だとすれば、ムコどのでも迎えたのだろうか? 与太郎の同期生に、同姓の革島八重子嬢(三歳上の親戚か)がいて、 どちらも世代的には合うが、あまり似ていない。
いかに革島嬢が“深窓の令嬢”であるか、つぎのエピソードが語る。 かつて自家用車を持っていたのは医師である。大病院の院長クラスは 運転手つきの外車だったが、中小医院の院長が自分で運転しはじめたの は昭和三十年代の“マイカー・ブーム”第一世代である。 革島嬢の父、革島史良院長はその“はしり”でもあった。 世の中の動きにつれ、すすめられるままにフランスの小型車ルノーを 買った。もちろん免許取りたての、ホヤホヤである。 父上は、麩屋町六角の自宅を出発して、南に向い、四条通りに出た。 四十五年前とはいえ、いまもむかしも京都いちばんの交通量である。 当時は信号などなかったので、父上は慎重に左右を確認した。よし、 右からやってくるトラックが行きすぎたら、交差点を渡ろう。すると、 またしても左からタクシーがやってきた。よろしい、さらに慎重にやり 過ごして、ふたたび右を見ると市電が走ってくる。うーむ、これにも先 を譲って、左をみると三輪車がやってくる。右にはリヤカーも見える。 というような次第で、父上が慎重であるほどに、やがて日が暮れて、 「今日はアブナイから明日にしよう」と決断して、自宅に戻ったという。 あくまで伝説であるから、与太郎もすべて信じているわけではないが、 だれもが「さもあらん」と一様にうなづくのである。 (20030122)
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