与太郎文庫
DiaryINDEX|past|will
2003年01月14日(火) |
Happy Birth-Day ! |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030114 谷本 岩夫 様
お誕生日おめでとうございます。 一月十四日生れの233人(旧暦・異説は8人)の抜刷を同封します。 同志社校祖・新島襄は、天保十四年一月十四日(18430212-18900123) ですが、この日付では記念礼拝などの行事は記憶がありません。 しかし新暦の二月十二日に、茂 義太郎牧師(のちに同志社高校々長) が中学のチャペルで説教された記憶があります(19530212)。キリスト 教(教派によるちがいはあるでしょうが)では、誕生日より昇天記念日 を尊重するらしく、命日の一月二十三日には、早朝から若王子山頂での 墓前礼拝などの行事がありました。 最近わかったことですが、新島襄の一周忌(一年後の命日)に生れた のが同志社中学教頭・ホザナコーラスの中堀愛作(18910123-19810106) 先生だったので、ご両親はひそかに転生(生まれ変わり)であれかしと 期待されたかもしれません。この“転生”については、ベンジャミン・ フランクリン(17060117-17900417,90/Julius 17060106-17900406)が 伯父・トマス(1598-17020106,103)の五周忌(四年後の命日)に生れ たことを記しています。 ── 「もしも伯父さんが四年後の同じ日に亡くなったのなら、人はそ れこそ生まれ変わりだと思うでしょう。」 ── 松本 慎一&西川 正身・訳《フランクリン自伝 19570107 岩波文庫》
わたしの回想になりますが、高校オーケストラの草創期のメンバーで、 つぎの三人は誕生日がほぼ同じです。 阿波 雅敏(19390120)、吉田 肇(19400123)、馬場 久雄(19410120) この三人は、いくぶん家が近いこともあって、卒業後も緊密な友情が つづいたのですが、二十二年の空白(19720101-19940917)を経て再会 しています(不滅の友情を確認した一夜でした)。 吉田君の誕生日は、新島襄の四十九周忌(五十年後の命日)にあたる ので、同志社に在籍するかぎり、あんまり祝ってもらえない(?)ので 同志社大学への推薦を拒否、トロンボーンで身をたてるべく京都芸大を 受験、すぐに断念して、大阪市立大学を卒業したというわけです。彼の 一日も早い引退(西山ドライブウェイ社長)を待っているのですが……。 (なんだか、まとまらない話ばかりですが、ご健康を祝して) (Let20030112)
■Mail'20030114 (火) 17:07 お礼
阿波雅敏君
わたしと同日生まれの面々の詳細なリストを頂きありがとう。誕生日 の今日、わたしは風邪であまり調子は良くありません。家内が年末から 微熱が続き、検査も必要ということで1月9日に入院し、わたしの生活 リズムも変わって疲れも出ているような気がします。 わたしの職名は次が正しいです。 京都女子大学名誉教授/同志社高校理科教諭〜「74歳のキャッシュ」 ── http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/index.html
ではまた。化学部のポン会は17人寺町三条の三嶋亭に集まりました。 早々 谷本岩夫 ■Mail'2003/01/15 (水) はるかなる読者より to:yokoo@rb3.so-net.ne.jp(遠藤瓔子)18:44 < 20:11 落第生は二度眠る 〜 寒月の右手 〜 国語の授業中に眠りこけていた与太郎を、誰かがゆり起した。 座席配置は左に佐々木敏男、右に遠藤瓔子、前方には中国人の林英子。 やや変則的だが、出席番号は男女別のアルファベット順による。 岡谷清子先生は、中国語に堪能で、ときには林君に原語で発音させる こともあったが、この日は楽器にくわしい与太郎が指名された。 寺田寅彦の随筆に「ヴァイオリンの演奏は、右手の弓がもっとも重要 である」とあるのは本当か、と質問されたのである。 後方の誰かに起こされた与太郎は、なにしろ教科書を持っていない。 左隣の佐々木君は教科書に頭をのせて眠っているので、右隣の遠藤君の 教科書を奪いとって(目を通すフリをしながら)出まかせに答える。 「まさしく、そのとおりであります!」 大声で答えると、先生は満足し、与太郎はふたたび眠りについた。 夢のなかで考えるに、漱石一門の高弟にして、高名なる物理学者の説 であるから正しいはずだ、と予見をもって、たしかめたにちがいない。 だが“寒月先生”のヴァイオリン演奏など、猫の“吾輩”も耳をふさぐ ほどのもので、とても参考にすべき水準ではない。 右手の運弓がモノをいうのは、左手の運指が完成されて以後である。 (19990630-20021020 改稿) ── 《一件落着》http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20021018 ── 《ポンちゃん》http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20030114 ── http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/component/care.html
*(与太郎あての返信は、下記のWeb上で公開されることがあります) ── http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000 ■Mail'2003/01/15 (水) Re: はるかなる読者より 阿波様 本名は何とおっしゃる? 高校で同窓でしたか? ぼんくらボン故某佐々木と同級だったかどうかは覚えてません。林さ んとは今でも時々会います。みどり会という女子だけの同窓会で。 >(全文引用、略)< 遠藤瓔子 yokoo@rb3.so-net.ne.jp 「きものであそぼ」 http://www.geocities.jp/endohkun_22/menu.html ■Mail'2003/01/16 (木) 10:45 追伸:遠藤瓔子さんの「タンゴ、口には出せず」も面白く読んだ。 谷本岩夫 ■2003/01/17 (金) 女手(1) 遠藤くんにメールを出したら、「覚えてません」と返事が来た。 (そそっかしいのも、コケットリーの条件ではあるが) 獅子堂静雄(生物)先生の担任で、同志社高校二年D組の同級生とし て一年間にわたって彼女の左隣に(一時的にせよ)座っていたのである。 思いだしてくれない相手に、あれこれ説明するのはバカバカしいが、 そんなに存在感がなかったか、と思うとシャクであり、それならそれで、 与太郎の回想は(とりとめもなく)つづく。 そもそも“寒月の右手”は、知人の音楽評論家あての書簡として書き はじめたもので、高校時代の回想が目的ではなかった。しかるに左手に 佐々木敏男、右手に遠藤瓔子と書いたあたりから脱線してしまった。 当初の構想では、岡谷先生が(女だてらに)弓道の達人だったから、 「右手と左手は、どちらが重要か」と確認された、という推測である。 ここで与太郎が、ヴァイオリンの弓について、気のきいたひとことを 答えていたら、先生も弓道に対比して持論を述べ、余談ながらも授業が もりあがったにちがいない。 与太郎が寝ぼけて「まったくそのとおり」と素気なく答えたために、 先生も興をそがれてしまったのであろう、という反省でもある。 岡谷先生が、いつも顔をしかめて不機嫌にみえたのは、悪ガキどもの 愚かさに我慢できなかったらしい。誰かが教科書の一節を朗読すると、 「アンタは漫画ばっかり読んでるさかい、テニオハがええかげんやネ」 とバッサリ。ズバリ的を射る厳しさは、男の先生たちもかなわない。 さいわいにして与太郎は、入学当初から岡谷先生に一目おかれていて、 模範答案はもとより、文芸部の発禁事件の当事者であること、課題作文 《愚作自叙伝》を通じて(与太郎が)なぜ音楽に魅せられたか、という 告白を、ただひとり知るうる立場にあった。 二年生の秋は、文化祭の運営について(顧問対役員として)具申する 機会もあった。先生が許せなかったのは“不調和”である。そのころに 書かれた文章(出典不明)で、夢の中で出会った人々が下品に笑いあっ ているのを見て「なんと不調和な人たちだ」というくだりがある。 ■2003/01/17 (金) 女手(2) 三十二年前、ベラミでの同窓会(19710115)に前後して、同級生だった 岡林睦くんに電話すると、 「女子ばかりの私設同窓会があって、いつも岡谷先生を招いています」 とのことだった。与太郎は出席できないが、もういちど先生に会いたい というと、電話番号を教えてくれた。当時の与太郎は、俗物そのままに “酒とバラの日々”だったが、岡谷先生と文学談義をすれば、失われた 少年時代にもどれるかもしれないと考えた。この対話が実現していれば、 もちろん“寒月の右手”の話題からはじめるつもりだった。 遠藤くんの自伝によると、晩年の先生は痴呆症だったそうである。 同志社中学三年C組の担任は、児玉操(英語)先生だった。九州大学 英文科卒業の才媛で(くわしい事情はわからないが、女手ひとつで一人 娘を育てながら)英語教育への情熱は、コロコロと太った全身にあふれ ていた。 たとえば、都々逸「♪思いだすよじゃ惚れよが浅い」の一句を英語で 翻訳するむずかしさを説明された。とくに「惚れる」に相当する英語が 見あたらないという。中学生としては、なんと反応すべきか? 正しくは「♪夢に見るよじゃ惚れよが薄い、真に惚れたら眠られぬ」。 中学三年のとき隣のクラスだった遠藤くんは、座談会に出席している。 ひとことしか発言していないが、事実上の編集者が与太郎だった。 → 《図書室便り・第五号 19550316 同志社中学校図書委員会》 これを再録した《虚々日々 20001231 阿波文庫》では“瓔”がなくて、 “●=王+嬰”を当てている。 インターネットを検索していて、どこかで見おぼえのある漢字に目が とまった。ようやく“瓔”の漢字コードが追加登録されていたのである。 「呉音=よう、漢音=えい。一種の玉、髪飾り」 検索を拡大して“遠藤瓔子”のフルネームを発見した。 与太郎は“Eiko”と読んでいたが、命名は“Yo^ko”らしい。さらに 本人のメール・アドレスでは“yokoo”と表記している。 もし彼女が、洋子とか陽子のように平凡な名前であったら、あるいは 結婚して離婚せず、つまり“安部瓔子”のままで小説を書いていたら、 ついに気づかなかったであろう。
|