与太郎文庫
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2001年11月23日(金) |
門庭再訪 〜 本宮 啓 先生との対話 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20011123 ミスター・同中 〜 一万三千人の一人 〜 異郷にあっても、京都出身者や同志社の卒業生に出会うことはある。 「学校はどちらですか?」「同志社です」 しかし、これだけで心を許すわけにはいかない。地方から同志社大学 にあつまる人口は多すぎて、同志社高校だけの卒業生は少なすぎる。 「モトミヤ先生を知ってますか?」 「知ってる」と答えた者だけが同志社中学出身の、純正「同志社Man」 であり、讃美歌やキャンプ・ソング、さらに聖書の一節をおぼえている はずである。 (十六年前に唯一人、キャノン販売の岡山営業所・原田君に出会った) すべての新入生は、先生の、いくぶんめずらしい苗字はともかくも、 ハムレット役者のような風貌と髪型、ハーメルンの笛吹き男さながらに ヴァイオリンを弾く姿に、鮮烈な印象を抱いたのである。 すべての卒業生は本宮先生を忘れることはないが、いまも先生に記憶 される生徒は、選ばれたことを誇りとすべきである。 在職四十余年、教え子の総数一万三千人。 幸運な教え子のひとりが、四十五年ぶりに先生の門を叩く。 「門を叩きなさい。そうすれば開かれる」 ── 《マタイ伝 7-13》 口語訳《新約聖書》をはじめて朗読されたのも、本宮先生だった。 中学生新聞のアンケートで、本宮先生の好物は「酒のみの好むような、 酒の肴のようなもの」ということだった(旧い友人は、この種の記憶を 摩訶不思議だというが、ほかにどんな記憶がまさっているのだろうか)。 そのころ、内藤季雄先生に教わった《徒然草》に「来客は迷惑だが、 物くるる者はよし」というくだりがある。決して試験問題に出ることの ない一節だが、当時の与太郎がいちばん気に入った部分でもある。 与太郎自身は、もらった経験にとぼしいせいか、礼を言うのが苦手で、 そもそも受けとるべき立場にないので、ともすれば値ぶみしてしまう。 世の先生は、すべからく受けとる立場にあり、教え子は、在学中には つつしむとしても、卒業後に贈るべきである(しかし、数十年も無音で、 いまごろ思いついて贈るのも、礼にかなっているわけではないが)。 ありふれた菓子折や、しおたれた特産物のごときは趣向がない。考え すぎて手の込んだものも興をそぐ。いささか意外で、しゃれた手土産は ないものか。欲をいうなら、数日たてば忘れられてしまうものがよい。 たどりついたアイデアは、初対面であろうはずの奥様に、花束を差し あげることだった。はたして喜んでいただけるか。 門扉につながれて大きな犬が寝そべっている。すでに門番をリタイヤ したとみえて、見知らぬ訪問者にも関心を示さない。昔なかった乗用車、 池に十数匹の鯉が泳いでいるほか、建物の風情はあのころと変らない。 (ここでもし、ハローウィーンの仮装みたいに、詰襟の学生服であらわ れたら、先生ご夫妻はビックリされるだろうな) ──────────────────────────────── ── ハーメルンの市民は/子供たちの失踪の日を起点にして年月を数 えていたという。/市参事会堂には次のような文字が刻まれている。 キリスト生誕後の一二八四年に/ハーメルンの町から連れ去られた それは当市生まれの一三〇人の子供たち/笛吹き男に導かれ、 コッペンで消え失せた (グリム《ドイツ伝説集》より) ── 阿部 謹也《ハーメルンの笛吹き男 19881201 ちくま文庫》P020-021 弓ひく少国民 〜 知らなかった話 〜 ── 先生は、いつごろヴァイオリンを手にされたんですか? 本宮 一中に入ったころでね。 ── 当時の優等生は、一中(京都第一中等学校、当時5年制、のちの 洛北高校)から、三高(第三高等学校)を経て、京大(京都帝国大学) にすすむのがエリート・コースだったんでしょう。同志社中学の卒業生 ではなかったんですね。 本宮 そうやね。ぼくが一中に合格したために、かわりに江崎玲於奈が 落っこちたなんていわれたことがあるよ。 (江崎氏は、同志社中学に入ってノーベル賞をとったので、このときに 本宮先生が一中を落っこちていれば、ひょっとしてノーベル賞は、本宮 先生の手に落ちたかもしれないのである。このジョークは、一中同期生 だれもが共有できないところに要注意) ── お父さまも、ヴァイオリンを弾かれたんですか? 本宮 父(弥兵衛)は、もともと音楽には縁がなかった。同志社神学部 で宗教心理学を教えるかたわら、水泳部の初代部長だった。 (客間の写真額のひとつに、25メートル・プール建立の顕彰碑がある。 1925(長男=啓、誕生)年に同響(同志社大学交響楽団)が結成された ので、たのまれて初代部長に就任されたらしい。 当時の借家は、戦後の法改正で、借家人が買取ることになったものの、 本宮教授は手許不如意である。これを知った水泳部のOBたちが一大事 とばかり、みんなが金を出し合った。体育会系ならではの美談である。 また、戦後しばしば上京されたのは、あるいは教育基本法改正のため の会議だったか? (「幻の有賀勅語」P000参照) ── お父さまは宮城県ご出身とすると、お母さまが京都の方ですか? 本宮 いや、母も東北の岩手出身でね。 ── 先生が中学のころ、すでに軍国主義たけなわですから、尺八なら ともかく、ヴァイオリンなど非国民でしょう。ご近所の手前もあるし、 ご両親は反対されなかったんですか。 本宮 いいや、誰も反対せなんだよ。 ── そうとう進歩的なご家庭ですね、ぼくの両親など、戦後10年も たっているのに、西洋音楽を理解できなかったというのに。 本宮 ヴァイオリンなんかやってると、ヒマそうに見えるらしくてね。 サッカー部が創設されて、メンバー足らんからいうて引っぱりこまれ、 やっているうちに面白くなった。ある年、ボート部のメンバーが負傷し たので、代りに(ピンチヒッターとして)三ヵ月後の優勝戦に出場して くれという。とても無理やから断わると、連日連夜誘いに来て、最後に ムリヤリ合宿に連れていかれた。これにはまいったなぁ。基本ができて いないのに猛練習させられて、さすがにヘバッた。しかし、このときの 経験が、海軍で大いに役立った。 ──────────────────────────────── ── 江崎 玲於奈 えさき・れおな 1925(大正14)3.12 (大阪) 茨城県科学技術振興財団理事長。ノーベル物理学賞受賞者。文化勲章受 賞者。日本学士院会員、物理学。東大理 〒305-0032 つくば市竹園2- 20-3 つくば 国際会議場、茨城県科学技術振興財団(0298-61-1200) ── 《分野別人名録 20010301 読売新聞社》P384 本宮 啓・編《京一中サッカー部創部六十年誌 1999》 本宮 啓・編《同響70年誌 1995》 〜 貞方 敏郎・編《同響50年誌 1975》 本宮 啓・編《同志社中高管弦楽史 200・》執筆中 「pinch hitter」は、日本特有の野球用語。漕ぎ手=rower ; I stood in for him as a member of rower. 海行かば 〜 最初の授業 〜 ── 一中を出て、同志社大学に進まれた。そして学徒動員ですね。 本宮 母は法学部に行かせたかったらしいが、結局いちばん苦手だった 英文科に入ってね。もっぱら同響でヴァイオリンを弾いていた。やはり オーケストラは楽しくてしょうがない。そんななかで、海軍に入った。 ── 終戦の日は、どこにおられたんですか。 本宮 呉の軍港にいた。八月六日朝、朝礼で訓示していたら、とつぜん ピカーッと光るものを感じた。何だろうと思っていると、十数秒のちに ドドーンという(いままで聞いたこともない)大音響なんだ。いそいで 防空壕に向かっていると、監視兵が絶叫している。みると巨大なキノコ 雲が盛り上がっていて、そのあとから大爆風が襲ってきた。光速と音速、 そして爆震の順に伝わってきたらしい。想像もしないことがつぎつぎに 起こったので、みんなポカンとして思考停止してしまった。 ── 爆心から、どれくらい離れていたんですか。 本宮 約30キロ東南でね。さっそく救援に向かうことになって、翌朝 汽車で広島に到着した。市内の入口あたりで、とんでもない事態である ことがわかった。焼死体の中で泣き叫ぶ生存者に「助けてくれ」といわ れても、どうにもならない人数なんだ。そのまま街中に進んでいくと、 もっとひどい光景がつづいている。現地兵もおなじ状況だった。 ── 救援隊の二次被爆もたいへんだったそうですね。 本宮 ぼくは、三ヵ月あまり下痢と腹痛ですんだが、仲間の多くは被爆 手帳を申請して後遺症に苦しんだらしい。もちろん亡くなった者もいる。 ── 人類史上だれも見たことのない地獄絵を直視されたんですね。 本宮 たとえば、むこうに和服の娘さんが歩いている。きれいな人やな と思ってながめていたら、ふとこちらをふりむいた。それまで左半面し か見えなかった顔の、右半面が見えた。その半分が生々しいケロイド状 で、ひとつの顔が二つに塗りわけられたようになっている。被爆の直後 だから、それはひどいものだった。 ── ぼくは、先生の自己紹介をかねた最初の授業をおぼえています。 「先生は長島愛生園にも慰問に行った。でもこの通りピンピンしてる」 当時まだ、ライ患者収容所と称されていた施設のことは、中学生でも 知っていましたが、このとき先生は、宗教的な訓話をされたのではない。 しかし、現実を直視して、たじろがない態度が重要なのだと感じました。 本宮 うーん、あれは同響の演奏旅行やったかな。 (三年間にわたって、もっとも多く先生に接していた中学生は、先生の 怒った顔を見たことがない。いかなる時もクールだった先生の原体験を、 いまはじめて聴いた) ── 先生は、いつでも面白そうに話を聞いてくれる。聞きおわると、 かならず一言コメントしてくれる。しかし注意しないと皮肉たっぷりの 揶揄的表現を聞きのがす。 ── 《Day was Day 20001231 Awa Library》P048《サンピツ 〜 同中三筆 〜》 ──────────────────────────────── 被爆地での二次被害については、父子猫(江戸家 猫八の訃報)参照。 チクルス 〜 超絶!課外授業 〜 ── 最初の授業で、もうひとつ印象的だったのは、戦争から帰ると、 まっさきに押入れからヴァイオリンを取り出して、弾いてみたら、キコ キコ音が出たという。 本宮 これでまたオーケストラができる。大学は卒業してしまったが、 なんとか同響を再建したい。とりあえず、同志社本部にアキがあったの で勤めることになり、しばらく《同志社タイムズ》を編集していた。 ── ぼくらは、大学の新聞部出身かと思ってましたが。するとまだ、 先生ではなかったんですね。 本宮 そう、香里で同志社中学と高校を開校することになって、本部の 松永先生が校長となり、中学の宗教活動と音楽指導の西邨辰三郎先生も 出向されるので、後ガマに誰か居ないかと見わたすと、ぴったりの男が 居たわけで、いそいで文部省に教員の資格申請書を出すと、すぐに免状 をくれた。 ── ここならもっと、オーケストラができる。 本宮 1948年、同響を再建して、ジュニア・シンフォニーも発足させた。 生徒会もこのころ自治会憲章をつくった。 ── ぼくが入学したのは1952年度だから、メンバーが一巡したころ でしたね。三年生の大西紹夫(ツグオ、と読む)君などが《クシコスの 郵便馬車》を弾いている。はじめて弦楽合奏をまぢかに聴いて、とても 魅力的だと思ったが、まさか自分にできるとは想像できなかった。 本宮 はじめのうちは、すでにヴァイオリンを習った子供ばかり集めて やっていたが、三年ごとにメンバーが卒業していくので、うまくなった ころには居なくなる。また、最初から初心者に教えても、すこし弾ける ようになると卒業する。これではつまらないから、初心者が三年かかる ところを半年くらいに短縮して、速成の手ほどきをやってみた。これが 意外にも効果があって、一年そこそこで立派に弾ける生徒もあらわれた。 ── ぼくらの高校シンフォニエッタなど、それはヒドイもんでした。 高校に入ってから始めた者ばかりで、楽譜のよみかた、数え方もロクに できないのが集まっていたんです。それはもうヘタクソ以前の水準です。 しかし、誰になんといわれようが、みんな楽しくてしょうがなかった。 本宮 1973年ごろ、とくに熱心な生徒が出てきたが、そのころは高校の シンフォニエッタが休眠状態になっていたので、これを蘇生させ、中高 あわせた管弦楽団として演奏活動を継続したい、といいはじめた。当時、 高校の器楽部長が「こういうことは、高校が中心となるべきだ」などと 言うので、高校生が反撥して「そんなら高校器楽部に籍をおいたまま、 中学に出かけて活動する」と言ったらしい。それで器楽部長も折れて、 翌1974年に管楽器を一括購入して「同志社中高管弦楽団」が発足した。 それから毎年ベートーヴェン・チクルス「交響曲(全九曲)連続演奏」 に取りくんで、最後の「第九」では全同志社中高の合唱団が参加して、 盛大な演奏会になった。さらに翌1984年にはマーラー《第一交響曲》を 上げることができた。 ──────────────────────────────── ── Zyklus (ツィクルス) ギリシャ語で「環」を意味する言葉であ り,連続演奏ということ。ある作曲家の多数の作品を,何回かの音楽会 曲目として計画的に演奏してゆく形式,あるいはある演奏家・演奏団体 が特定の目的をもって開催する連続演奏会など。 ── http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~mikuni/hp/Muyou/Keyword.html ── tickle(s) くすぐる、むずむずさせる。 ── 店村 眞積 たなむら・まずみ 1948(昭和23)8.31 (京都) ビオラ奏者、読売日本交響楽団ソリスト、桐朋学園講師、桐朋学園大中 退、フィレンツェ・ケルビーニ音楽院 〒215-0001 川崎市麻生区細山 5-8-4(044-955-3669) ── 《分野別人名録 20010301 読売新聞社》P426 1956年秋、高校二年生の与太郎も、ようやくチェロを抱えて、バッハ 《管弦楽組曲ロ短調》に加わることができた。練習は、中学のチャペル だけでなく、先生の自宅客間でも行われた。増田 忍・明 の姉弟を中心 に、同響からフルート独奏の伊藤氏、チェロの高田逸夫氏も参加した。 翌1957年、高校シンフォニエッタ結成にあたって、あてにした中学生 は、ほとんど他の高校に進んでしまうのである。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550105 同志社中学校新聞部新年会(小山邸)↓本宮 啓 先生卆寿祝賀会 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20140320 (20150701) ← Pho'1954ca Photo by Awa → 1978年04月22日(土) 同志社ジュニアシンフォニー定期演奏会
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