与太郎文庫
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2000年10月10日(火) |
ポール先生、さようなら 〜 I was busy 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007 ◆ I was busy ── 幸福な家庭はみな一様に似通っているが、不幸な家庭はいずれも とりどりに不幸である。オブローンスキイの家庭は、ひどくごたついた。 ── トルストイ/ 原 久一郎・訳《アンナ・カレーニナ 19691030 新潮社》P005 この長編の唐突な警句は、別の訳では「オブローンスキイの家庭は、 まるでめちゃくちゃだった」ではじまります。私の家庭はともかくも、 あたらしい商売は、わずか数ヶ月で、すでに「めちゃくちゃだった」の です。あたかも真夏の《熱いトタン屋根の猫(*)》のように、のたう ちまわっていた私に、亀田弘行君から電話がかかってきました。 ポール・グリーシー先生の帰国歓迎会をかねた、ESS同窓会の案内 でした。もともと私はESSのOBではありませんが、同窓会名簿には 掲載されているらしいのです。そこで、なかば冗談のつもりで、X嬢も 出席するかどうかたずねてみると、謹厳なる防災学者は、いったん電話 を切って調査してくれました。 「彼女の出席は、予知できない」 「わかった。君の厚意を尊重して、出席しよう」 電話のあと、ぼくは父にいいました。 「父さん、ちかいうち父子で昼酒でも呑もや」 「おまえ、商売たいへんやのに、どないした?」 「ええんや、ひさしぶりに気ばらしや」 こうして、庭園料亭・楠荘に電話で予約しました。 (中学同窓生で地歴部《旅のしおり》の編集スタッフでもある笠原信夫 君が若主人をつとめています) 「えろう早い時間帯やな」 「父子、水いらずや。そのあとESSの同窓会に直行する」 「あいかわらずやな、君は。中学のときから忙がしそうやった」 その日、若主人が出迎えてくれました。 「おこしやす、お父さん。ボクは(今日の)阿波君がうらやましい。離 れを用意しましたよって、どうぞごゆっくり」 彼が手を打つと、三味線をかかえた仲居があらわれ、ときならぬ宴会 がはじまってしまいました。やむなく私も、はじめて父の前で唄います。 “♪ 雨は降る降る 人馬は煙る 馬上ゆたかに美少年” 西南の役の敗北をうたった漢詩調の民謡《田原坂》です。 「まだまだ、一人前やないな」 座敷あそびの大先輩が、放蕩息子にあたえた最後の授業でした。 料亭が用意してくれたハイヤーで老父をデパートに送りとどけたあと、 昼酒のせいで紅顔となった車上の美少年は、ESSの同窓会に駆けつけ ます。 (同志社高校ESS同窓会 19720813 京都大学学生会館) ──────────────────────────────── ── 明治一〇年二月十五日、西郷隆盛を擁して決起した鹿児島私学校 の生徒らいわゆる西郷軍は東西二方面から破竹の勢いで北上した/その 一部は三月二〇日北から迫る政府軍を田原坂に迎え撃った/折りからの 大雨をついて両軍は終日力戦したが、ついに西郷軍は大敗して退いた。 ── 《三六五日事典 今日はどんな日か 19681215 社会思想社》P83 ── Taylor,Elizabeth 主演《熱いトタン屋根の猫 195812‥ America》 ── 《屋根の上のバイオリン弾き 197112‥ America》 Fiddler on the Roof (つまらぬ人々のたとえ) ◆ Later 卒業後十四年ぶりに再会したポール先生は、同席する日本人の誰より も美しい日本語を話されていました。 また英語であいさつしなければなるまい、と覚悟をきめていたところ、 みんな日本語で近況報告などしています(なんだ、ほんとは皆も英語は 面倒だったんだ)、ぼくの番がやってきました。 「私は、ポール先生にはほとんど教わることがなかった。宿題もせず、 今日とおなじく遅刻の常習者だった。しかし諸君、いまや私は英語教室 のオーナーなのである」 どうもESSの連中は真面目すぎて、ジョークが通じない。たんなる 自慢話ととられたものか、隣席の猿橋庄太郎先生が 「きみの英語教室というのは、プライマリーかね?」 あいかわらず意地悪なセンセイです(私が“primary”という英単語を 知ってるかどうか、試してみたにちがいない)。 「まあ、そんなところです」 (なに、帰ってウチの先生に聞けばいい。そもそも、初歩的でない英語 教室など存在しない、経営的に成りたたないのである)ウチの先生こと 門脇邦夫君は、田村忠彦君の紹介で、二年前インタビュアーをしていた 私の協力者として、米・英・露・仏・独、それぞれに気難しいインテリ 紳士たちとの対談を、すべて通訳・手配してくれたのです(ついでに、 彼の経営する英語教室の分室をわたしの店内に設けたのです)。 なにしろ彼は、ロシア語のテキスト一冊で、シベリア鉄道を乗りつい でモスクワにたどりついた勇者です。 「絶望してはいけません。どんな断片的な記憶でも、イザという時には 役にたつものです」 語学の達人は、つねづね語っています(そうだ、絶望してはいけない)。 ── 《英対話 〜 門脇邦夫とその意見 〜 19710901 Awa Library Report》参照 みんなで、ポール先生を京都駅まで見送ることになり、私も高田先生 と話しながら同行しました。プラット・ホームで、ポール先生に話しか けられました(私に対して、はじめて完璧な日本語で)。 「君の英語教室で、わたしに出来ることがあれば言いなさい」 先生の美しい日本語の社交辞令に対して、私もありきたりの感謝のこ とばで応じました。うまいジョークも思いつかなかったのです。 ポール先生をのせた夜汽車が、線路のかなたへ消えたあと、高田先生 を誘って、行きつけの酒場に案内しました。 「センセイ、もしボクが英語に堪能だったら、インタビュアーでなく、 トランスレーターになってたでしょうよ」 「そやな、そらそや」 高田先生は、むかしとおなじように優しい。授業中に眠りこけたボク を起こすため、みんなに歌をうたわせたほどです。 ♪ “ Oh my darling, Oh my darling, Oh my darling, Clementain.” ──────────────────────────────── ── primary 1 本来の、根本の 2 最初の、原始的な 3 首位の、主 要な 4 初歩の、初等の ── 《新英和中辞典 196812‥ 三省堂》 ‥‥ pay-later 1985 ごろから普及しはじめた複合造語。支払延滞人 ないし多重債務者などを指す。語法上、すこし無理があるらしく、各種 新語辞典では、いまのところ掲載をためらっている。 ‥‥ 《愛しのクレメンタイン》誤=フォスター作詞作曲→《雪山讃歌》 「あのころ(授業中の)君は、まるで仏さんみたいな顔しとったね」 「その節は(居眠りばかりして)申しわけありませんでした」 「ところで、阿波くん。きみは顔がひろいらしいね」 「それほどでも、ありませんけど。何か?」 「実はね、明日から二三日のあいだ、家族旅行をするんやけど、どこか 車をタダで預かってくれる所はないやろか」 「なるほど、どこがいいかな」 私は一計を案じ、先生の車を銀行の駐車場に運びました。 すでに深夜にもかかわらず、守衛が、私にあいさつします。 「いらっしゃいませ」 「すまんが、この方の車を数日入れて置きたいんだが」 「どうぞ、あちらへ」 「ありがとう」 「きみ、たいしたもんやな。一流銀行の本店で、VIPかいな」 先生は、目を丸くしていました。ありようは、私はVIPどころか、 しばしば閉店後に駆けつける常連、つまり厄介な“pay-later”だった のです。この手紙もまた“later's letter”でしょうか。 ◆ Callback それから五十五日後の夜、数人の関係者をまえに、私は最後の決断を 下しました。 「やむを得ない、これまでや」このとき階下で、電話のベルが鳴ります。 「だれか代りに出て、私は留守や言うて、用件だけ聞いてくれんか」 私の代理人は、しばらくして戻ってきました。 「グリ何とかいう人やった。英語教室のことで、何か協力できることは ないか、いつでも連絡してくれ、言うてはった」 おもわず私は、天井を見あげてしまいました。 「ポール・グリーシー先生や、高校時代の英語の先生や。すると、あの ときの言葉は、社交辞令やなかったんや」 ポール先生、いまこそ私は、感謝と尊敬をこめて、お返事します。 先生の教え子のなかで、とくに横綱の称号までいただいた劣等生は、 商人としても失脚し、もはや英語教室もなくしました。私は、先生から ほとんど学ぶことがなかったと思っていたのですが、このときはじめて 人生に優しい感情が実在することを教わりました。 ミスター・オネスト、ポール先生、さようなら。 ◆ Post Script 失われた日々をたずねて“老いたるアキレス”は、いまもいそがしい のです。この手紙は、あまりに長すぎるので投函すべきか迷っています。 (もしお手もとに届いたとしても、ご返事にはおよびません) 失われざる敬意とともに your failuring student (199806‥ < 20001018) ──────────────────────────────── あなたの不肖の教え子より(誤=your failling student)の意。 (英語辞書で見つけた英文書簡の慣用句。わざと間違えて綴ったものか) ── その長い過去の時間は、それがもはや過ぎ去ったときに長かった のであろうか。それとも、なお現存したときに長かったのであろうか。 ── Augustinus,Aurelius/ 服部 英次郎・訳《告白(下)19761216 岩波文庫》P115 (20061120) http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007 ポール先生、さようなら 〜 続・教え子の消息 〜
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