与太郎文庫
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1992年10月25日(日)  十月X日の春秋反歌

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19921025
 
 仏教の彼岸思想は、春分待望・秋分願望に由来する。太陽が昼夜を等
分する現象は古代の謎であったが、その周期を論じることは中世ヨーロ
ッパで封じられた。いまも人々は「日は昇り、また沈む」という。
 
 国立天文台の通達 (官報19920201) では来年の春分が「三月二十一日」
ではなく、「三月二十日・土曜日」である旨、とくに注意している。す
でに印刷された手帳などのカレンダーに誤った例があり、これでは翌二
十二日が振替休日となってしまう。
 春分から秋分にいたる日数は百八十七日だが、秋分から翌年の春分ま
で百七十八日(または百七十九日)、夏よりも冬の日数が九日すくなく、
一日を二十四時間に限定すれば、一秒の差でも日付は前後する。
 ニカエアのヒッパルコス (-189ca~-24)が発見した春分点は、仏教の
「彼岸願望」から中国の「二十四節気」に発展した。
 最古の春分暦とみられる《マケドニア暦190322J0320G》は、ギリシャ
の都市国家に乱立した多彩な置閏法とともに、ローマ暦に併合され、い
までは復元困難である。
 かつて、古代エジプト暦に便乗していた《ペルシア暦 -5580103G》も、
ササン朝の置閏法[1L/120]が、アラブ人の侵略(633)で廃絶し、無閏暦
[0L/0]にもどる。
 閏がなければ、四年に一日づつ移動して一四六一暦年かけて季節を一
巡する。年初が春分に達するころ( 9960321G)、イスラム教に改宗した
トルコの一族が南下して、大セルジューク朝を築く。西欧にさきがけて
文芸黄金期が開花するのである。
 ペルシアの「ダ・ヴィンチ」と評されるウマル・ハイヤーム(1048 ?
~1123/1124)と七人の学者は、旧来の日付に接続して、つねに春分には
じまる新暦を開発する。
 その《ジャーラリー暦10790315J0321G》は変則的な置閏法[8L/33] が
敬遠されて、公式には採用されなかった。
 現行の《イラン暦19250321》では最新の置閏法[31L/128] により、九
日の日数差を前半六カ月に配分し、つねに第七月も秋分ではじまる。
《インド暦19570322》も春分翌日を年初として、これに追随する。
 春分前後に移動する「過越祭」は、旧約《出エジプト記》の民族独立
を記念して、ユダヤ暦ニサン月(当時アビブ月)十四日夕刻から二十一
日まで一週間におよぶ。
 春分以後の「満月直後の金曜日」に処刑されたキリストが、日曜日に
よみがえった奇蹟を「復活祭」とする。日付があいまいなのは、のちに
方便となる。
 それぞれの祝祭が、同じ日に重複しないために、ユダヤ暦の曜日をユ
リウス暦にも適用して、おのおの曜日を弁別する。
 こうして、ユダヤ暦では第七月ニサン月十五日が「月・水・金」にあ
たらないよう第二・三月の日数を調整したために、平年(353/354/355)
閏年(383/384/385) つごう六種類の年日数を生じた。これによって、
「過越祭」から百六十三日が新年となる。
「ミラノ勅令313 」でキリストを公認したコンスタンチヌスⅠ世(274ca
~3370522J)は第一回「公会議325 」をニカエアに召集、「三月二十一日」
を春分(3250321J0322G)とする「降誕祭」以降の祝日を制定した。
 ハンセン病に悩んでいたとも伝えられる皇帝の「臨終改宗」では、第
三十三代教皇シルヴェステルⅠ世 (在位 314~3351231J)が洗礼を授け、
両皇の優位が逆転する。
 ユリウス暦の置閏法[1L/4]では、数年も観測すれば判明するように、
おなじ日付に春分は巡ってこない。昼夜等分の周期は、千二百八十年の
ちには十日も先んじる。
 教皇に《暦の改革》を奏上した驚異博士ベーコン( Roger,1214ca~1294
0611J)には沙汰もなく、百八十三代教皇シクトゥスⅣ世(Francesco,1414
0721J ~ 14840812J )に招かれたドイツの天文学者レギオモンタヌス
( Muller,14360606J~14760706J)は暗殺、巷間ささやかれる疑惑から観測
をはじめたコペルニクス(14730214/0219~15430524J) の《天球の回転に
ついて1543》は、久しく禁書目録の白眉となった (1822解除) 。
 第百九十七代ローマ教皇グレゴリオⅩⅢ世(15020101/0607J,0110/0617G
~15850410G)は決断を迫られていた。英国教会の離反と宗教改革の波に
ドイツやスイスを奪われ、いまこそローマの威信を示す時だった。
 春分を「三月二十一日」に復帰するため登場した《グレゴリオ暦1582
1005J1015G》の置閏法[97L/400] も、結局は春分移動をとらえていない。
宗教改革の敵味方ともに「地動説」を認めていないのである。
 頼みの御用学者リリウス( L.Ghiraldi,?~1576 )も急死し、クラヴィゥス
(1537~16120206) の《改革ローマ暦の説明1603》公刊を待たず、いかに
も唐突な「Xデー」となった (布告15820224J0326G教書) 。六十八行詩
《太陽賛歌1225》で知られる聖フランチェスコ(1181/1182~12261003J)の
聖日「十月四日」木曜の翌日を、一挙に新暦の「十月十五日」金曜日に接
続した。この失われた十日間に、第一級大祝日はないが、第二級大祝日が
三日消えている。
 いまわしい宗教改革記念日 (15171031J)こそ抹殺すべきところ、万聖節
(08351101J)前日のため免がれた(現在は第一日曜)。
 捕囚となる屈辱に憤死した第百七十四代教皇ボニファティウス (1235~
13031011J)破門皇帝ルードウィヒ (1287~13471011J)仇敵ツゥイングリ
(14840101~15311011J)の命日も中断している。
 ポーランド出身の、第二百六十四代教皇ヨハネス・パウロⅡ世(1920
0518 ~) は、同郷コペルニクスの「地動説」を立証したガリレイ(1564
0215J~16420108G)の生地を訪問(19890923)、公式に名誉を回復した。
 この日の「歴史的秋分」につづいては、英国教会との和解(19891002)、
NASAの木星探査機「ガリレイ」発射(19891018)、ソビエト連邦最高会
議長ゴルバチョフ会談(19891201)では、初の共産圏「宗教法案」など、よ
うやく地球が動いた。                 (19920623)
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 シクトゥスⅣ世=百八十三代?→212-213代←《ローマ教皇一覧》
 十月X日は、とくに日付を特定しないが、ここではロシア革命の旧暦。


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