与太郎文庫
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http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910427 朴実 「なぜ、『君が代』をやるのかということに対しては、学 習指導要領、それから文部省の強い指導、教育委員会から の指導があるので、校長としてやらざるを得ないという話 でした」 原告ら代理人「何回ぐらい会われたんでしょうか」 朴実 「そうですね、三回か四回会いました」 原告ら代理人「校長として、自らの権限でやらないとかいうことはでき ないということですか」 朴実 「はい。それで京都市教育委員会は、教育委員会が決める んじゃなしに、現場の校長がやるやらないは決めるんです よと、こう言ってますと、校長に言った時に、校長は市教 委はそういうけれども、そんなもん、言葉だけで、実際向 こうが指導してやらざるを得ないと、そんな校長一人でそ んなやらないとか、そんな勝手に決められるものじゃない と言いました」 原告ら代理人「という説明ですか」 朴実 「はい」 原告ら代理人「小学校のほうの光成先生はどうでしたか」 朴実 「光成先生は、卒業式前だから、最終的には皆さんの意見 を聞いて決めるけれども、やらざるを得ないだろうなとい う表現でした。特に光成校長のほうが、先ほど言ったよう な京都市教育委員会の管轄のもとにある学校である以上、 一校長が勝手に判断して、幾ら保護者の反対が強くても、 そんなんできないと、やっぱりやらざるを得ないと、そん なふうに言いました」 原告ら代理人「そういう話に終始したわけですか」 朴実 「いや、それで、私は外国人教育というものを京都市教育 委員会も進めていますし、八一年に、一応、試験として出 てますので、それに基づいて外国人教育を進めていること と、『君が代』とは相容れないじゃないかという論理で聞 いていきました」 原告ら代理人「それに対しては…」 朴実 「その話はその話として、朴さんの気持ちはよくわかるけ れども、一校長としてはどうすることもできないんやと、 学習指導要領に書かれていて、他府県ではもっともっとや られてるのに、京都はできなかったほうがおかしいんやと いうものだけでした。それで私は在日朝鮮人が今本名を名 乗る子供が非常に少ないんです。そんな問題とか、校内の 差別問題、社会の差別問題、なんでこんな問題であるかと いう話と関連していいましたけれども、結局、校長先生ら は、自分たちの学校教育の中で在日朝鮮人に対する教育は 取組みが不足してるということに結局はなっていた。それ で『君が代』が進められることと矛盾しているということ は薄々わかっていても、それをどうすることもできないと いう感じでした」 原告ら代理人「そうすると、それぞれの校長先生は、一校長がどうする こともできないという説明に終始されたということですか」 朴実 「はい。特にこの思いをはっきりしましたのは、私は子供 の学校だけじゃなしに、地域のいろんな学校も回って、そ れぞれの校長と話ました。向島二の丸小学校の確か杉村と いう校長先生が当時おられたんですけど、その方は八六年 の申出の時には、自分は個人的には『君が代』については 反対していると、そして自分は『君が代』はやらないと言 っておられたのに、次の年、八七年に二の丸小学校はやる と言われた時に、どうして先生は、去年、自分も反対して るからやらないと言ってお 〜/〜
朴実 「校長室の前の廊下での立話で、時間もあまりなくて、そ れで校長先生も、一切もう、自分の気持ちは出せないよう に立場上なってるので言えないと、そのことだけ言われま した」 原告ら代理人「それは、自分はやりたくないけれども、学校行政として はやらざるを得ないという意味ですか」 朴実 「学校行政が混乱すると言われました」 原告ら代理人「向島中学では卒業式、あなたは出席されたんですか」 朴実 「はい」 原告ら代理人「当日はどんなふうでした」 朴実 「当日は朝から『君が代』をめぐって異様な雰囲気でした。 と言いますのは、私たちだけじゃなしに、近所の人たちも たくさん反対のビラを配ったり、マイクで呼びかけたりし ていました」 原告ら代理人「それは校門の風景ですね」 朴実 「はい。そして校舎の中に私も入って行った時も、子供た ちが、おっちゃん、ぼく、『君が代』反対やでと言う子が たくさんいました。で、『君が代』が鳴ったらぼくらは 出て行くでと、子供たちが言ってました。それを聞いて、 私は校長にもう一度言ったんですけど。騒然とした、そう いう感じでした」 原告ら代理人「あなたの陳述書を読みますと、当日、校門附近に警察官 も来ていたということで、そのとおりですか」 朴実 「はい」 原告ら代理人「制服の警官でしょうか」 朴実 「はい。私服と思われる人もいましたけれども、それは確 認できていません。けれども、毎年普通の乗用車で私服の 刑事らしき者が来ていて、一回私が確認したことがありま す。伏見署の者だと言いました」 原告ら代理人「で、式場で実際テープは流されたんでしょうか」 朴実 「式が朝の一〇時に始まったんですけれども、その一〇時 ぎりぎりまで、私は会場で校長先生にやらないでほしいと いうことを、それで朝鮮人がどれだけ『君が代』によって 苦しめられたのかということを大きな声で叫んでいました。 その時に、もう、時間が来たのでということで、なんかそ のまま式に入っていったような感じになってしまいました」 原告ら代理人「テープが流れたのは、気がつきましたか」 朴実 「いや、気が付きませんでした。最初、今何されてるのか なと思って、前のほうに走って行ったら、かすかに『君が 代』のメロデイーが流れていました」 原告ら代理人「それは何で流しましたか。マイクを通じてでしょうか」 朴実 「いや、マイクじゃない、ちょっとわからないです。小さ い音でした。後ろの保護者席からはなかなか聞きとれませ んでした」 原告ら代理人「ポータブルのカセットテープレコーダーがありますね、 それを使ったんでしょうか」 朴実 「そんな感じでした」 原告ら代理人「ほとんど聞取れないような音でしたか」 朴実 「はい」 原告ら代理人「誰が機械を操作したのかわかりますか」 朴実 「ちょっとわからないです」 原告ら代理人「で、出席者ですが、どのようにしてましたか」 朴実 「まず、先生方はほとんど、校長、教頭を除いて皆座って いました。保護者席でも多くの人が座っていました」 原告ら代理人「生徒さんは」 朴実 「生徒は最初から起立させれた状態でした」 原告ら代理人「あなたはテープが鳴ってるということに気が付いて、ど うしたんでしょうか」 朴実 「大きな声で会場全体に『君が代』の強制に反対しますと 言って退席しました」 原告ら代理人「同じように、退席した人はいましたか」 朴実 「うちの子供が一緒に後ろから付いて退席しました」 原告ら代理人「他には」 朴実 「他には退席した者はいませんでした」 原告ら代理人「向島南小学校のほうですが、この時は予めのプログラム に『君が代』のことは触れてなかったんですね」 朴実 「はい。前の日に、即ち三月二三日が小学校の卒業式なん ですが、二二日の夜に、日曜日だったか、祭日だったか、 学校が休みの日でしたけど、夜八時ぐらいに校長先生が来 てほしいと言われて行って、プログラム見たら、その時に は書いてなかったです」 原告ら代理人「式の当日、配られたプログラムには、突如として、国歌 斉唱…」 朴実 「国歌演奏ということが二番目に」 原告ら代理人「ということが現れたわけですか」 朴実 「はい」 原告ら代理人「ということは、予め生徒の皆さんにも、教師の皆さんに も、それから保護者の皆さんにも知らせてなかったという ことですね」 朴実 「はい」 原告ら代理人「今さっき、小学校の先生が前の日に電話してきたと言い ましたね」 朴実 「はい」 原告ら代理人「その趣旨はどういうことだったんですか」 朴実 「『君が代』をどうしてもやらないといけないけれどもだ めですか、という言い方で言ってこられました」 裁判長 「あなたが『君が代』のことで、特に最後に裁判所に訴え たいというか、話したいことがありましたら言ってほしい んですが」 朴実 「…まあ、先ほども言いましたように、私たち朝鮮民族に とって、私たち民族の不幸は、天皇の名によって行なわれ た民族抹殺政策、皇民化政策、それによるものと思います。 そして、戦後、私たちの民族が解放されて以降の、戦前の その状況を引きずって、差別が今もなお根強く残っていま す。その清算も未だにきちっとされていません。そして私 たち在日朝鮮人の子供の八割以上が日本の学校に在籍して います。このような歴史と現実の中で、私たちにとって 『君が代』というのはとても受け入れられないものです。? 『君が代』が好きでそれを受け入れる人もいるでしょうけ れども、それをやられると、私、あるいは私の子供たちの ように、非常に傷つく者がいるということ、そういう中で、 そういうものを一律に押し付けたり、強制はしてほしくな い、特にそれは非常に子供たちに深い傷として残っている ので、そのことは教育委員会の人たちも知ってほしいと思 います」 原告ら代理人「あなたのお子さんの卒業式、何回かあったんですが、結 果として学校行事で『君が代』が強制されたわけですね」 朴実 「はい」 原告ら代理人「それがあなたやお子さんに、どんような問題を残しまし たか」 朴実 「陳述書にも書きましたように、八七年に『君が代』が流 された時に、子供たちと私は、泣いてそこから退席しまし た。それから戻ってきた時も、子供たちは肩を震わせて泣 いていました。そして、それはずっと子供の心に深い傷と して残っています。次の年、娘は作文にもそのことを書き ました。あんな惨めな思いをするのはもう嫌であると。そ して友達と一緒に地域の中学に行くはずだったのが、突然、 韓国中学にいきたいと娘は言いました。私はできることな ら、地域の学校で、日本の子供たちと一緒に、朴さん、朴 さんと呼ばれて、一緒に行ってほしかったんですけれども、 子供は、もう、あんな惨めな思いをするのは嫌だと言いま した」 原告ら代理人「あなたの目から見られて、教育現場にどのような問題を 残したとお考えですか」 朴実 「あの問題が起こってから、まず、学校の先生、学校の職 員室に入った時の雰囲気ががらりと変わりました。私はよ く外国人教育の問題で、各学校で先生の研修会で話をする 時があります。そうすると、絶対『日の丸・君が代』のこ とに触れないでほしいと言われます。先生方で時々質問さ れる方がありますけれども、その時、周りの雰囲気が水を 打ったように静かになります。なんか触れてはならないも のに触れたような、先生が自由に発言できないそんな雰囲 気でした。それから地域の保護者の中でも反対する人が多 い。そうすると、反対する人と賛成する人たちの間に非常 に溝ができて、町内会にしても、保護者会にしても、PT Aにしても、そういうところで非常に溝ができました。子 供たちが何よりも一緒に卒業式に行きたい、出たいという 願いが、クラスの子供たちの間でも、引き離される結果と なりました」
原告ら代理人(甲第八三号証を示す) 「この陳述書はご覧になりましたね」 朴実 「はい」 原告ら代理人「それを読まれて感想と併せて何かおっしゃりたいことが あれば、おしゃってください」 朴実 「これを書いてる伊昌烈(ユン・チャンヨル)氏は、私よ り少し年下ですけれども、彼は韓国籍、私は日本国籍とい う違いはありますけれども、彼が小さい時から受けてきた 民族差別、そういう思いは非常に共通したものがあります。 そして、今なお、彼が指紋不押捺で逮捕され、そして裁判 までなったことに対して、私が帰化をして、そういうこと がなくなったということに対して、非常に胸の痛みを感じ ます。そして、この最後に、『真の国際化に向けて』と書 かれていますけれども、これは今年の一九九一年の一月一 〇日、海部首相が韓日の法的協定再協議を終えて、日本に 帰って来た時のメッセージで私もよく覚えています。この 中に海部首相はメッセージで、私たち在日朝鮮人を『共に 生きる者として今後大切にしていきたい』ということを言 っています。そして具体的には教育の問題で世界的な視野 に立って、今後の日本社会の建設を進めて行くにあたって は、『国内におられるこれらの方々と同じ社会に生活する 人間として共に考え、共に生きることができるようにしな ければならない』と言い、そして『民族教育とか、民族文 化、そういうもの、あるいは韓日、日韓の歴史の教育の大 切さを進めていかなければならない』という、そういうこ とをうたわれてることに、非常に感銘を受けました」 原告ら代理人「それと『君が代』の問題はどう関係しますか」 朴実 「『君が代』を強制していく、進めていくことと、日韓の 覚書、海部首相の声明、それから日韓の両外相の声明とは、 絶対に相容れないと。共に生きていくならば、私たちに嫌 なもの、歴史的な屈辱をどうしてこんなにして押し付けて 行くのか、私は腹が立って腹が立ってたまりません」
*被告側 反対尋問 (被告代理人は香山仙太郎弁護士)
被告ら代理人「あなたにお子さんが三人おられるということですね」 朴実 「はい」 被告ら代理人「子供さんとは、よく『君が代』の話をなさいますか」 朴実 「この学校で『君が代』が強制されてから、話をしました」 被告ら代理人「そうしますと、あなたの『君が代』に対するお考えを、 子供さんにもお話なさるわけですね」 朴実 「はい」
られたのにやるんですかと聞いたら、もう、やらないと学 校行政ができないと言われました」 原告ら代理人「それはどういう意味ですか」
──────────────────────────────── 「君が代」訴訟 朴実さん 法廷証言記録(京都地裁1991.4.25) ──『資料「君が代」訴訟』には収録できなかった記録です── 京都弁護士会会長に田畑氏 Kyoto Shimbun 2002.01.23 News ホーム > ニュース目次 京都弁護士会(会員338人)は23日、2002年度の会長に田畑 佑晃弁護士(61)を決めた。副会長には脇田喜智夫(50)、高山宏之(47)、 藤田正樹(45)、白浜徹朗(41)の各弁護士が決まった。任期はいずれも4 月1日から1年間。 京都市中京区の京都弁護士会館で会見した田畑弁護士は「自由で風通 しがよく、市民に開かれた弁護士会として運営していきたい」と語った。 また、今年秋に、弁護士がいない宮津市に近畿で初めて公設法律事務所 を設置することなどを話した。 田畑佑晃氏(たばた・ゆうこう)1975年に弁護士登録。京都弁護 士会副会長、同会法律相談センター運営委員会委員長などを歴任し、現 在は常議員会議長。同志社大卒。京都市出身。
──────────────────────────────── 同志社マンドリンクラブ詳年譜 [1937. 1.16] 依田君送別会 卒業者(依田 茂)送別会 京都「千也」1937.1.16 [提供:山崎喜三郎 S6卒] 後列左より:中努吉雄、五島道信、畑中重雄、不明、植木英治、 銭谷順次、山崎喜三郎、山口信雄、店員、浜田薫 中列左より:中村千悦、店員、大井茂、加藤重徳、飯田 前列左より:西田直道、熊谷忠四郎、依田茂、田畑忍先生(一人 おいて)金崎種三 ── http://www.smd-kai.gr.jp/nenpu/n1936-37.html
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