与太郎文庫
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1971年11月26日(金) |
あまちゅあ・かっぽれ |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711126 あまちゅあ・かっぽれ 阿波 雅敏(K1) すでに十数年も前の、とりとめのない話ばかりである。 高校生だった私は、さるアマチュアのオーケストラの演奏会にチェロ 奏者としてエキストラ出演した。この楽器にとりくんで、まだ一年ちょ っと経った段階であったが、奏者の員数をそろえるために、アマチュア の場合よくあることで、当人の技量など二の次である。そうはいっても、 はじめて譜面を見て、満足に弾けるわけもなく、出演というより出場の ほうが正しい。「未完成」と、ショパン「ピアノ協奏曲」あたりまでは、 本番にのぞんでもだいたい格好をつけたつもりである。 最後の、ベートーヴェン「第八交響曲」になると、さすがに手に負え なくなった。とくに終楽章の湧きたつようなテンポにおよんでは、つい に楽譜を見うしなってしまった。つまり、どのあたりを弾いているのか 判らなくなった。こういう場合、なんとなくそれらしい音型を、平然と 弾きつづける態度が肝要(?)である。もしも途方にくれて、ひと休み している奏者がいては、指揮者だってやりにくかろう。員数のひとりと して、せめてその責任だけは果さねばなるまい。 やがて、そのうちに追いつくだろう、という私の楽観は、どんどん進 むにつれ、この分だと最後まで判らずじまいになる不安になりかわった。 私は第三プルトの外側、つまり第五奏者として坐っていたが、わずかの 小休止に、意を決して隣の第六奏者にたずねてみた。彼はページをめく る仕事を課せられているわけで、おおむねちゃんと弾いているはずだっ た。 「いま、どのへんでしょうか」 一瞬のあいま、私がささやくと、彼は即座に答えていった。 「実は、ぼくも判らんのです」 あろうことか、彼はそのまま、やっぱり弾きつづけているのである。 しかたなく私も、彼とおなじように弾きつづけ、いつの間にか全曲は果 てた。 ひどい話なので、こうした経験のない人には信じられないかもしれな い。オーケストラの弦楽器に関するかぎり、弓の方向をそろえることが 先決で、個々の出す音など、アマチュアの場合、概してでたらめである ことが多い。いつもこんな具合でないにしても、当時、技術水準の底辺 はそんなところだった。 アンコールは、歌劇の間奏曲らしかった。というのは、私に与えられ た楽譜はボロボロになっていて、タイトルの部分は破れてしまっていた のである。 演奏会のあと、チェロの首席奏者が帰り仕度をしながら、わめいてい た。「第八」の第二楽章で彼は、困難にしてはなばなしいアルペジオの 独奏部分を、延々やりとげたはずであった。 「途中でおかしくなってね、わけが判らんようになった。しょうがない から、ずっとドミソドミソ、レファラレファラばっかり弾いてやった。 ははは」 すでに時効でもあり、罪のないエピソードをもうひとつ。 ハイドンの「軍隊交響曲」は、私の指揮する高校オーケストラのデビ ュー曲だった。当日、リハーサルの舞台に上った私は、駆りあつめられ たエキストラの参加で、ふだんの三倍にふくれあがったメンバーを前に して、すっかり面くらっていた。第二楽章でオーボエの受けつぎが、な かなかうまくいかない。それというのも、信じられないような安値でつ い最近買ったばかりの廃物寸前の楽器だからでもある。奏者にしても、 みんな逃げ腰だったのを無理におしつけた事情があって、あまり文句も いえない。 わずか一小節のことだが、指揮者として万全を期するため、私はヴァ イオリン奏者を呼んで、ひそかに懇願した。 「オーボエは、ひょっとすると本番では音が出なくなるかもしれない。 そのとき、いちはやく君が代りをつとめるわけだ。なるべく似たような 音色で弾く」 「?」 「いいか、たのんだぜ」 それでも不安にかられていた私は、念のためフルートの第二奏者にも 声をかけておいた。 「オーボエもヴァイオリンも出ない場合は、君がやってくれ。この部分 でつまずくと、困ったことになる」 「しかし」と、フルート吹きは、かねてよりの疑問を私にただした。 「この曲は、もともとフルート一本しか書かれていないんでしょう。す ると第二フルートのぼくが吹いてるのは、何ですか」 「ハイドンの時代は人手不足だったんだ。遠慮せずに、しっかり吹いて くれ」 さて、本番を迎えた。 オーボエの、例の個処になると、私は目をつむってしまった。なむさ ん、オーボエはもとより、ヴァイオリンも第二フルートも、ついに鳴ら なかった。しかるに意外なことは、私自身に起っていた。たちまちにし て私の唇から、とにかくメロディが流れ出たのである。 演奏会のあと、みんなは狐につままれたような表情で話しあっていた。 「あそこで、たしか何か鳴っていたようだ。いったい誰がどうしたんだ ろう」 まさかのハプニングで、あのとき誰も気づかなかったものとみえる。 みんな、よほど緊張していたらしい。そこへ、最前列で聴いていたとい う人があらわれて、叫んだものだ。 「おどろいたなぁ、ハイドンの交響曲で、くちぶえが入るなんて」 「誰だ、くちぶえなんか吹いた奴は」といって私は、いそいで姿をくら ませた。 私たちのオーケストラは、三年目の夏に、琵琶湖一周大演奏旅行をく わだてた。みんな大胆になっていて、公民館とか、大工場の集会場で、 五回ほど演奏会を開くことになった。 すでに私は高校を卒業していたが、この機会に最後の指揮をすること になっていた。例によって楽器の組みかえに苦労は絶えず、たとえば、 「アルルの女」とか、「エグモント序曲」など、原曲にはほど遠い奇妙 なサウンドになるのはやむを得なかった。 そのなかで、私が気に入っていたのは、なんとモーツァルトの「アレ ルヤ」をクラリネットに吹かせる趣向のものである。当時のメンバーで S君という随一の奏者を活躍させるために、私が探しあてたこの曲は、 ご存知ソプラノ独唱と管弦楽のためのモテットに他ならない。S君のた めには、本来ならかの「協奏曲」を吹かせてやりたかったが、オーケス トラにとって荷が重すぎた。そこで、なにしろトロンボーン、クラリネ ット、フルートそれぞれ二本を無理に加えた大編成オーケストラをバッ クに、ときどきとんでもないサウンドにおびえながら、浮かぬ顔のS君 が、これを独奏するわけである。主として、アンコールに用いて、私は 得意がっていた。 メンソレータムで知られる近江兄弟社の、教育会館が、最初の会場だ った。昼間のリハーサルから宿泊にいたるまで、同社の社員とおぼしき 青年が、何かと世話してくださったそうである。私はすべてマネージャ ーに任せて、いわばお山の大将だったので、あいさつはしたはずの、そ れ以上に話した記憶はない。 本番が無事おわってから、くだんの青年はS君のクラリネットを賞し て、いった。 「ウィーンのかおりがしました」 ウィーンであったか、ミラノであったか定かではない。 実はこのくだりは、十数年のち、ごく最近はじめて当時のメンバーの ひとりから聞いたものである。 さらに、おどろいたことに誰あらん、その青年とは若き日の小林道夫 氏だったのである。知らなかったとはいえ、私はたいへんな人の前で、 でたらめな編曲と指揮を披露したわけで、いまさらに身のちぢむ思いが する。 (前々号に寄せた、拙稿「いそがしい指」では、てっきり初対面のつも りで、すまして話しかけているのが、われながらおかしい。おそらく、 十数年前の珍妙なオーケストラのことなど、氏の記憶にはないであろう けれども)。 ちなみに、当時のメンバーは個々としてみれば、なかなか優秀で、S 君はじめ数人は大学の軽音楽部のスターとなり、弦楽器でも、のちに結 婚するまで京響の定期に参加していた女性ふたり、アマチュアの室内楽 を今日まで続けているグループなど、多士済々である。あのころ、第二 ヴァイオリンの末席で、ちっとも目だたなかったW君にいたっては、目 下さっそうとファゴットをたずさえてパリ音楽院に留学中だそうである。 おそらく、指揮者だった私が、実はいちばん才能のない、下手くそで はなかったか。 (19711126) ── 《関西モーツァルト協会々報・第三号 197112・・ 》 ──────────────────────────────── ── 二十二日に近江兄弟社へいった。なかなか親切で我々も少なから ず希望を与えられた形である。其地には関心のある人が多く、ほゞ成功 のようだ。一切は会社と村田師にまかせきっている。つまり無料の奉仕 であるか、有料の演奏会とするかであるが、いづれにせよ工場内の寮に 宿めてくれ、体育館を会場に整備してくれるようだ。彦根には兄弟社か ら其地のYMAC理事に紹介状をくれよう。近江八幡ではそこの同志社 人会も後援してくれるから心強い。順序逆になるが村田幸男氏は岩倉で 4年間教えて居られた人で、話のわかる同志社人である。この人と上野 出身の小林という学園の音楽教師(ピアニストでもある)が良く理解し てくれている。/モーツアルトのアレルヤをも一度やったらどうか。 ── 吉田 肇(Let'19590622) 上の書簡は、ひとりで演奏旅行の事前交渉にあたっていた“ゴリ”の 面目躍如たるもの。上野(東京芸大)出身の、近江学園のピアニストに 出会って、たちどころに《アレルヤ》を思いつくなど、なみなみならぬ 外交的センスがうかがわれる(この中間報告では、独奏者やメンバーの 人間関係についても配慮している)。 チェロの首席奏者は、同志社交響楽団OB・高田逸夫氏。田中さとる (京都放送アナウンサー)氏の司会で、円山音楽堂における合同演奏会。 マスカーニ《カヴァレリア・ルスチカーナ》間奏曲は、カトリックの 祈祷文《Ave Maria》を歌詞にして、ソプラノ独唱されることもある。 フルートの第二奏者は(実は)前年から器楽部顧問となった森田昭典 (物理)教諭。このあと中国人の陳 正雄君が加わり、第四奏者となる。 最前列で聴いていた人とは高橋勘(数学)校長、さすがに耳ざとい。 S君は佐伯和男、W君は若林通夫(この夏はじめて出会った新入生)。 若林君の先輩にあたる新開一朗君は、高校オーケストラでは唯一ピカ ピカの新品ホルンを吹いていた。“S41年卒”は、大学卒業年度であり、 プルミエ・プル(プル)は一等賞、首席卒業と訳すこともある。 馬場久雄君から送られた《同響七十年誌》のコピーには、セカンド・ マスターだった堀江公麿君の文章《卒業後31年を経て》もみえる。 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19950301 ワカバヤシ・ミチオ 〜 カンヌより同響の皆様へ 〜 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ↓=Non-display><↑=Non-display ──────────────────────────────── (20001226-20090820)
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