与太郎文庫
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1971年07月01日(木)  弓弦十話 (その3)

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710701
 
 ■ ピアニスト

 共鳴現象を応用して、開放弦にヴィブラートを与えることも可能であ
る。
 開放弦をそのまま弾くと、その音だけ無表情になるし、それがもし最
低弦(チェロの場合はC)であれば、押えるわけにもいかず、どうして
もヴィブラートがほしい、という場合の方法である。それには隣の高い
方の弦(チェロの場合はG)上のCを押えて、ふるわせるだけでよい。
すると共鳴と非共鳴が、交互に生じるので、いちおうヴィブラートと同
じ効果が得られる。
 ヴァイオリンの例で、メンデルスゾーンの《協奏曲》に数十小節、延
々と最低弦をひっぱる部分がある。これをもしヴィブラートなしでやる
と、あの華麗なロマンティシズムが活きてこない。というより、独奏者
があんまり単調な操作をしていては、観衆、聴衆だってつまらない。無
心にヴィブラートに専念している姿が、いかにもロマンティックではな
いか。
 ノン・ヴィブラートを、意識的に用いた例では、ヨアヒムがベートー
ヴェンの《協奏曲》で、作曲者の指定<ドルチェ、甘く>を無視したと
いう伝説がある。
 第1楽章のカデンツァの直後、第2主題の部分であるが、もともと回
想に身を委ねる風情あるいは、過去の斗いに力つきたような、印象的な
再現である。
 これを、わざと無表情に、ある虚しさとともにノン・ヴィブラートで
奏するという、ヨアヒムの非凡な試みは、事実とすれば興味が深い。
 いったいに、古典音楽では、人声と弦楽器をのぞいて、とくに管楽器
にヴィブラートを認めない。たとえばトランペットとかクラリネット、
オーボエなど、感傷的なメロディーを吹く場所でも、ヴィブラートは原
則として認められていない。どういう理由によるものか。
 弦楽器群が、一斉にノン・ヴィブラートでやるとどうなるか。現代も
のには、そういう指定もあるにちがいないが、適当な例が思い出せない。
代りに、ひとつの例をあげるなら才能教育研究会が例年、デモストレー
ション的に催おす大演奏会では、数百人の豆ヴァイオリニストたちによ
る全斉奏がある。ヴィヴァルディの《イ短調コンチェルト》などが、世
にも奇妙な響きで伝わってくる。
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 メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》のカデンツァは、ほとんど
バッハ《無伴奏ヴァイオリン・パルティータ》から、とくにシャコンヌ
における奏法を取りいれている。
 ヒトは、赤ん坊のとき部屋の中のすべての反響が聞こえるという。長
じて、生活に必要のない残響を、だんだんカットしていく。
── 《たけしの万物創世記・最終回 20010320 19:00-20:00 TV》

 ■ 化石

 シューベルトの《アルペッジョーネ・ソナタ》は、チェロのための作
品ではない。
 ギターと同じ調弦(譜例4)で、チェロのように奏する、という発想
で作られ、名づけられた楽器のための、おそらく唯一の作品とされてい
る。
 思いつきそのものは、なかなか合理的で、当初は、無限の可能性を秘
めていた、と思われる。6本の弦があれば、かなり複雑なコード(アル
ペジオ)がこなせるし、4度調弦だから、運指法は有利になる。
 シューベルトは、この楽器の発明者に依頼され、折からカロリーネ伯
爵令嬢との恋の出合いの夏に、これを書いた。楽器そのものの有用性を、
つとめて誇示する要請があったはずなのに、完成されたものは、とらわ
れることのない奔放な、ロマンに満ちた、例によってうたう音楽だった。
 そんなわけで、あるいは他の事情もあったのか、せっかくの発明も評
判にならず、この楽器はすぐに姿を消した。
 今日では、この曲の音域をカバーできる捺弦楽器として、チェロのレ
パートリーになってしまった。ところが、ちょうど弦が1本足りないわ
りで、相当な難曲になってしまった。
 現代のチェロの演奏水準からいえば、他の途方もない、奔流のような
作品にくらべて、かならずしも、致命的なむずかしさではないが、楽想
のわりには、無理が多すぎる、ということがいえるだろう。
 この曲を、ヴァイオリン用に編曲した楽譜もあるが、どうせ1オクタ
ーブ上げるなら、ヴィオラの方が、はるかに妥当である。しかし、いず
れにせよ曲想にふさわしいかどうかが重要な問題となる。そして、曲想
の変化がどの範囲で、どの程度まで許されるか、という判断がむずかし
い。

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 譜例4 アルペッジョーネ & ギターの調弦         
 譜例5 シューベルト《アルペジオーネ・ソナタ》
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 5の譜例は、どちらを採ってもよい、という親切な指定であるが、こ
の種のルーズな処理は、いうまでもなく出版業者の通例なのであろう。
 同じシューベルトのものでも《アヴェ・マリア》のように、アンコー
ル・ピースとして自由な発想で編曲された小品もあるし、やはりウェル
ヘルミの編曲になるバッハの《G線上のアリア》などに至っては、曲想
の変化そのものに趣向をこらした例、というべきであろう。
 バッハ (1685〜1750) については、なぜこうも書くべきことが多いの
か。
 十年ほど前にきたアメリカ映画《真夏の夜のジャズ》で、バッハの
《無伴奏チェロ組曲第1番》が聴ける、とは誰が予想しただろう。この
予想外の演出をしたのは、プロデューサーであったか、当のチェリスト、
すなわちチコ・ハミルトン五重奏団のメンバーだったのか知るべくもな
い。
 すぐれた記録映画が成功する要因のひとつに、しゃれた横道とでもい
うか、一種の幕間部分で、はっとするようなシーンがかならずある。演
奏を終えたモダン・コンポのひとりジャズ史上にあらわれた最初のひと
りであろうチェリストが、楽屋でくわえたばこのまま、《無伴奏》を弾
きはじめる。
 無造作なアルペジオが、いかにも無造作にはじまり、やがて熱狂的な
リズムに発展していく過程は、焼け焦げるたばこと同様に、しかもいわ
ゆるクラシカルな演奏とはまったく異質の展開を遂げていく。
 《プレイ・バッハ》など、一連のジャズ・アレンジによるレコードは
いくつかあるが、どちらかといえば、実験的な動機が優先していて、こ
の場面のように、ジャズ奏者が正面きってバッハを弾く例は、まず珍ら
しい。
 トランペットのアル・ハートやベニー・グッドマンのように、ハイド
ンやモーツアルトの《協奏曲》をそれぞれ演じているが、この場合は多
分に商業的、あるいは試行錯誤からの脱出を目的としているようで、結
局はまゆつば的なのである。
 このチェリスト、名は何というのか調べるまでもないが、《組曲・動
物の謝肉祭》における無能なピアニストが、無味乾燥な《チェルニー》
をくりかえすのに比べて、チュリストはいかにも恵まれているようだ。
 バッハがチェロという楽器に、とくに肩入れをしたという根拠は、ど
こにもない。しかしチェリストにとって、バッハは入口であり究極であ
り、チェロにおけるすべての想像力の源を示した作曲家である。
 1717年、32才のバッハが書きはじめた《無伴奏》が、全曲を通じて演
奏されるようになったのは 180年ほどの空白ののち、であるらしい。つ
まり、1889年、13才のカザルスが、楽譜店の隅から見つけ出し、12年の
研鑚ののちようやく全曲を公開した、というわけである。カザルスの功
績にケチをつけるつもりはないが、その 180年間に、まったく埋もれて
いたのではない。省略した形では演奏されていたし、それなりの評価は、
少くともメンデルスゾーンあたりから、あったはずである。
 チェロにおける基本的な奏法をふまえて、無伴奏なる制約のもとに書
かれたために、やや地味で演奏効果が低いと思われ、調弦を変えた第5
番や、5弦チェロのための第6番などは、要するに面倒な作品であった
のだ。
 カザルスの功績をあげるならば、彼の慧眼であるよりも、なんといっ
ても演奏精神そのものというべきであろう。演奏家としての読みの深さ
と、それを具現する技術の練磨をこそたたえるべきである。
 ちょっと話はそれるが、この組曲を1オクターブ上げて、ヴィオラで
弾くことがあるらしい。一種の練習教材で、演奏会向きではないようだ
が、演奏者の耳もとで鳴るぶんには音楽そのものの本質的な性格は、十
分に伝わるのだろう。
 そもそもヴィオラという楽器のための作品はきわめて少ない。そこで
ヴィオラ奏者の中には、バッハの《無伴奏ヴァイオリン》を手がける人
もいるという。この場合は、調子が5度下の、移調となる上に、ダブル
・ストップ(重音奏法)など技術的にも無理が多くて結局は、教材にも
ならないそうである。
 さて、《第6番》のオリジナル楽器と目される5弦チェロは、ヴィオ
ラ・ポンポーザと称してバッハ考案ともいわれている。考案などといっ
ても、当時は、ヴィオリーノ・ピッコロ(短3度高い小型ヴァイオリン)
とか、ヴィオラ・ダ・モーレ(愛のヴィオラ!6弦)そしてヴィオラ・
ダ・ガンバ(バリトンともいう、現在のチェロにいちばん近い)、その
一種でヴィオロン・チェロ・ピッコロ(小型チェロ)等々、さまざまの
名称で、いわばまちまちに制作され、存在していた。
 糸巻きの頭にライオンの首がついていたり、胴の裏側に乳房が浮彫り
されたものとか、楽器というよりは、装飾品としての傾向がいちじるし
い。
 調弦にしても、演奏中にひょいと変えたりする方法も、立派にまかり
通っていたそうですべてが自由で、定まらない時代であった。
 それというのも、当時は大ホールで、大聴衆に聴かせる必要もなかっ
たし、とにかく音が出さえすればよかったのではないか。したがって、
ストラディヴァリウスなどの、イタリア製の華麗な響きと、豊富な音量
をもつ、近代的銘器が重んじられるようになったのはようやくベートー
ヴェン (1770〜1827) の頃からである。
 そのベートーヴェンの《ヴァイオリン協奏曲》から5年のちに初演さ
れたのが、パガニーニの《ニ長調コンチェルト》である。これは、もと
は変ホ長調で書かれており、独奏楽譜だけはニ長調だった。つまり、独
奏ヴァイオリンだけ、あらかじめ半音高く調弦しておく、という趣向で
ある。
 なかなか面白いとも思われるが、結局この種のアイデアは、あきられ
るのも早いせいかだんだん流行らなくなるとみえて、現在ではこの曲は、
オーケストラともどもニ長調で演奏されている。
 パガニーニの鬼才ぶりを描いた伝記映画に、演奏中プツンと弦が切れ、
やがて2本3本と切れて、最後は残る一本だけで、さる難曲を弾きおわ
る、というシーンがあったそうで、さすがに八百長めいていて、実際に
は不可能であろう。こういう場合、現代の習慣としては、いったんステ
ージから引っこんで、弦をとりかえるか、楽器ごと代えてしまう。
 化石化した伝説で思い出されるのは、セザール・トムソンというヴァ
イオリニストで、彼は、どんな難曲でも、常に平行8度の重音奏で弾く
ことができ、聴衆をよろこばせた、という。オクターブ・トムソンの異
名がありおおむねアンコール・ピースで、いくつか用意があった程度の
ことと思われる。
 是非の論議は別として、今日の演奏会ではこうした一切の演出はまっ
たくなくなって、即興性とともに、すべての意外性も姿を消したようで
ある。
 もっとも、ごく最近のふたつの例はある。
 岩城宏之氏の赤ん坊事件、演奏中に赤ン坊が泣き出したので、怒って
中止したとか、やりなおしたとか。もうひとつは小沢征爾氏の第九事件、
第1第2楽章を副指揮者に振らせておいて、第3第4楽章だけ自分で振
った、という。理由は風邪とかで、いずれもいずれやや下世話にすぎ
る感がなくもない。
 意外性にもいろいろあるわけだが、聴衆がいつも安心して聴いておれ
る反面、ここぞと身をのりだすこともない、というのもやはり一種の低
調にはちがいない。

 ■ 白鳥 / 終曲

 大正11年、サン=サーンスの没年、この年ロシアから日本に亡命して
きたエリノワ・パブロワという女性がいた。彼女はのちの日本バレー界
の貢献者となったが、その翌年には同じ苗字のアンナ・パブロワが、当
時最盛期のロシア・バレー団一座をひきいて来日したので、ちょっとや
やこしい一幕があったそうである。この件については、山田忠男著《風
流洞物語》洛味社刊にくわしい。
 いったい、どんな発想がもとになったのか時のディアギレフ一門の名
振付師、フォキンによる《瀕死の白鳥》が、いわば国際的にヒットした
頃である。
 そのプリマが、アンナであったのはいうまでもないが、どういうわけ
か浅草のコメディアンたちが、この着想に目をつけた。いわく《瀕死の
蚊》、いわく《瀕死の蝿》などである。最近亡くなったエノケンこと故
榎本健一に至っては、公開には及ばなかったが《瀕死のガマ》なる振付
けを、かねて考案していたそうである。さらに、どういうわけか、この
種の茶化したものでは、チャイコフスキーの《白鳥の湖》の音楽を用い
ることが多い。
 このあたりの因果関係とともに、サン=サーンスとチャイコフスキー
が同世代であるだけに、たとえばサン=サーンスが《白鳥の湖》を、い
つ知ったのか調べてみたい気もする。
 さしあたり、この稿はサン=サーンスに、つつしんで捧げるものであ
る。                   ( 1970・10・29 改稿)
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 ジプシー・ヴァイオリン奏者だった亡き妻を追悼して、無量塔 蔵六
氏が“胴の裏側に乳房を浮彫り”したエピソードは、はかま満雄・対談
《日曜喫茶室 1977ca NHK−FM》でも語られた。
《ヴァイオリン 1972 岩波新書》は絶版。
 無量塔氏については《私の十冊 197707ca 》その他に詳述。
 1974ca《続・弓弦十話》草稿に着手するも未完。


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