与太郎文庫
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1971年05月01日(土)  弓弦十話 (その2)

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710501
 
 ■ 森の奥のカッコー / 大きな鳥篭

 弓でこする弦楽器は、近代以降ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コ
ントラバスの4種にしぼられてきた。コントラバスだけが4度調弦で、
他はいずれも5度調弦である。

    ヴァイオリン
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 譜例1  ヴァイオリン属の調弦

 ヴァイオリンとヴィオラの場合、第1ポジション(親指の位置が、い
ちばん先端にある状態)で、人差指から順に1度づつ押えていくと、小
指の位置で5度、つまり次の開放弦と同じ音程をとらえることが可能で
ある。
 同じ5度調弦でも、チェロでは、弦の長さが倍ほどになり、指と指の
ひろがりを、はるかに要求され、この場合には1度たりなくなる。
 コントラバスでは、さらに1度たりないので、やむなく4度調弦とな
っている。
 単純に運指法だけの都合でいえば、チェロを4度に、コントラバスを
3度に調弦した方良いはずである。手首を返さずに、しかも太く強く張
った弦を、しっかり押えるには、小指だけでは弱いので、薬指さらには
中指まで動員することになる。
 ヴァイオリンやヴィオラのように、軽々と華やかなパッセージを速く
奏することは、及びもつかないことにちがいない。ところが、近代のチ
ェロ奏法に、その可能性を求めようとしたのが、カザルス (1876〜)で
あった。

 ……ジプシーの演奏法には驚くべきものがある。彼らの《プリマス》
 を聞くと、技術的にみて、いったい彼らもわれわれと同じ人間なのだ
 ろうかと自問せざるをえない。私が聞いた《プリマス》のなかで、ト
 リアンスキーというセロひきがいたが、左手の指を広げる私と同じ指
 使いを、彼は音楽的直観からひとりで考えついてやっているのをみて、
 ほんとうに驚いてしまった。技術的にいってこのジプシー、トリアン
 スキーに比肩し得るどんなセリストをも知らないし、彼の鳴らすセロ
 の音も、音色といい、張りといい、これまたすばらしいものだった。
 彼はひとりで四つのセロをいっしょにひいているような印象を与えた。
 彼の指使いは第一ポジションですら、ヴァイオリンと同じようにひい
 ていたが、彼の指のひらく範囲はそれほど広かったのだ。
 ……コレドール著・佐藤良雄 訳《カザルスとの対話》白水社・刊から

 ヴァイオリン属の調弦が、近代楽器としてほぼ固定するまでに、少く
とも百年はかかっている。そのあとでも、チェロに関するかぎり、もっ
と容易に弾けないか、という不満は続いていた。コントラバスの場合は、
あまりに大きすぎるために、4度に甘んじて沈黙しいたが、チェロの場
合、数々の名曲、バッハの無伴奏はじめ、ほとんどの作曲家から、さま
ざまの挑戦を受けることになった。
 ブラームスも羨望した、と伝えられるドボルザークの《協奏曲ロ短調》
をみても、独奏チェロの最初の叫びが、左手をせいいっぱいひろげてい
るのは、なんとはなく象徴的ではないか。
 
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 譜例2  ドボルザーク《チェロ協奏曲・ロ短調》

 話を戻さなくてはならない。コントラバスは沈黙させておこう。
 チェロが、5度調弦を強いられた、たったひとつの理由は、ヴァイオ
リン、ヴィオラに準ずる、というよりは、共鳴ないし残響の点において
でなかったか。
 共鳴音が、一定の静けさのなかで、いちばんよく響くのがチェロであ
る。共鳴は、概して低い方からの影響が強く、たとえばコントラバスの
G弦と、チェロのG弦は同じ音程であり、どちらかが強く弾くと、他方
は何もしなくても共鳴する。
 こうしたこだまのような現象は、とくに無伴奏の場合に、4本の弦の
なかで、しばしば生じることになる。ある音高を弾いた場合に単音のつ
もりが、もしどれかの開放弦と同じ音程あるいは8度音程であれば、そ
の瞬間、二本の弦が鳴っているわけである。
 もうひとつの場合は、オーケストラないし弦楽奏における例である。
 チェロとコントラバスは、永い間、8度平行で、ともかせぎしてきた。
両者を、それぞれの働きに独立させた最初の作曲家を、かりにベートー
ヴェンだとすれば、その《運命シンフォニー》に、顕著な例をみること
ができる。
 第2楽章、80小節に、両者のCがフォルテで居のこる部分がそれであ
る。

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 譜例3  ベートーヴェン《交響曲・運命》

 ()内のCは、今日では5弦あるいは可変調弦式のコントラバスによ
って出し得る、最低音で、もちろん開放弦である。ベートーヴェンの時
代でも、用いられていたであろうしこの部分に限っては、とくにそれを
要求したにちがいない。
 このあたりになると、可聴音域の限界に近いせいもあって、レコード
でも実演でも、楽譜から想像されるほど、鉛のごとき重々しさは聴かれ
ない。ましてベートーヴェンは耳が悪かったし、彼にあっては、他の多
くの部分と同様に、想像力だけで書いたものと察しられる。
 しかし、これを弾いているチェリスト、コントラバス奏者は、いやで
もその意図を感じないわけにはいかない。かりに20本の弓で、弾いた場
合、4の指(小指)を離さなければ40本の弦が鳴るわけである。そして、
おそらく誰も離さないはずである。
 おおげさにいえば、あるいは耳の秀れた人なら、ヴィオラのC(やは
り開放弦)も鳴っているのが聴こえるかもしれない。


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