与太郎文庫
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1971年02月17日(水) |
いそがしい指 〜 小林道夫リサイタルのあとで 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19710217 いそがしい、という口実が、なぜ説得力に欠けるのか。 おおくの現代人が、ほとんど多忙を強いられており、不急の<音楽> に耳をかたむける時間は、そのかぎりにおいて、まったく惜しい。しか るに、多忙な一流の演奏家は、当然ながら、それ自体をやってのけなけ ればならない。 前後のことは、わからぬまでも、ある期間の、ひとりの演奏家のいそ がしさを、紹介してみよう。 十字屋楽器店の出している小冊子<アルペジオ>は、かつて創刊から 一ヵ年、私が制作を担当したものである。五月第二号から翌年の三月ま で、毎月の音楽番組を予告していたのを、御記憶の方があるかもしれな い。予告といっても、当時できあがるのが慢性的におくれていたので、 まったく実用価値はなかったが、私自身のおもわくや反省はここでは、 さしおく。 放送のための演奏、を中心にした、この企画で、たちまち私はひとり の演奏家に注目せざるを得なかった。 五月に五回、六月に九回というぐあいで、十一ヵ月間に二十八回以上 の出演者が、小林道夫氏であった。ピアノ、チェンバロ、オルガンの三 種にわたり、独奏、伴奏、指揮、さらに解説者として活躍され、さなか の秋は鳥井音楽賞受賞におよんで、一般公演における成果もじゅうぶん 立証されたわけである。 ことを放送にかぎれば、平均して月三回の録音、あるいは録画という ものが、いかに周到かつ繁雑な手順でおこなわれていたか、想像以上の ものであったろう。 鳥井音楽賞受賞のしばらくのち、小林氏から、はがきをいただいた。 十字屋楽器店から、毎号<アルペジオ>を送っていたらしく、このほ ど転居につき下記宛によろしく、といった内容の、手ずからのペン字で あった。偶然私のほうも、転居したばかりで、最初の、はじめての方か らの大切な書簡となった。 一月二十七日、私が受付のおてつだいなどするうちに開演となり、ア ンコールだけ聴かせてもらった。 閉演後、楽屋にいくと、浄守志郎氏が花束をもっておられたので、私 は旅行トランクをさげて出ることにした。田中義雄氏の運転する車を待 つあいだ、先のはがきの件をいうと、「いえ、あいかわらず、旧住所の ほうへ、参っております」とのことだった。私が十字屋さんによく念を おさなかったためらしく、すっかり恐縮してしまった。 四人で、なべをつつきながら、私は、はじめてみる小林氏の手に、ふ と率直な質問をしてしまった。 「先生の手は、ピアニストとしては、たいへん小さいですね。ハンディ はありませんか」 「ありますね、やはり。芸大にすすむ時にずいぶん迷ったんです。結局、 とどかない曲が、かなりあるんです」 「すると、こまりますね」 「こまります。だから、いそがしいんです。すぐに離して、つぎの音に いく」 「モーツァルトの手も小さかった」 「それは、わかりません。でも譜面の範囲は、それほどひろくありませ んね」 「シューベルトの手は、わかりませんか」 「かれは、おそらく頭で譜面を書いていますね。自分の曲を、悪魔に弾 かせろ、といったくらいですから」 「伴奏譜も、そうですか」 「しばしばね。だから、わたしは悪魔にならなくてはいけない」 「ラフマニノフは、おやりにならない」 「名前だけで、ぞっとします」 箸をもつ氏の手は、けっしていそがしくはない。四人のなかでいちば んゆっくりとしていた。 阿波 雅敏(K1)(19710217) ── 《関西モーツァルト協会々報・第一号 19710415》 ◆ 関西モーツァルト協会は、昭和四十六年十二月五日(モーツァルトの 命日に当る)に設立、翌年一月二十七日(誕生日)に第一回コンサート を開催した。発起人会の世話人代表、浄守志郎氏は東京美術学校出身の 白生地商(音楽評論家を自称、娘婿は十字屋の社員)とかで、よくわか らない人だった。田中義雄は、同志社中学から高校を通じての後輩また は同期生で、十字屋楽器店の次期社長でもある。三者三様のおもわくが あり、面倒ないきさつがあったものの、運営面では大成功のうちに設立 された。 (Day'19881009) 十一月下旬、河原町四条通りの路上で、山田忠男教授(当時、京都府 教育委員長)に出会う。その背後に、浄守志郎氏があらわれた。
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