与太郎文庫
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1970年03月05日(木)  プレイバック

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http://d.hatena.ne.jp/adlib/19700305
 
 プレイバック ── 《月刊アルペジオ 19680701-19690608 》
 
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 私たちはまた、巨匠のひとりを失なった。
昨年7月1日、京都における一コマから。
 
 志鳥 栄八郎《アンセルメの素顔》 
 
──「マエストロ、余計なことを聞くかもしれないが、いま睡眠時間は
どのくらいとっていますか」「八時間ですが、少ないときは六時間ぐら
い」「その間、昼寝はしないのですか」「昼寝なんて、したことがない」
── 詩仙堂を出て、クルマは銀閣寺に向かう。すると両側の家並みを
きょろきょろ見ていた彼は、「きたときの道とちがうところを走ってい
るが、こんどはどこへいくのですか」
「銀閣寺というところです」「ギンカクジ?やめよう、ホテルに帰ろう。
最初の予定にはいっていないではないですか……」「まあ、そういわず
に、もうすぐですから行きましょう、ほら、あの石垣が美しいでしょう」
すると彼は、「なるほど、なんと詩的な風景なんだろ」といって機嫌を
なおしてくれた。それは、まったく、だだっ子を病院にでも連れていく
ような調子であった。
── 帰りのくるまのなかで、彼は「きのうが結婚二十五周年だった。
いまのは二度目の妻でね、妻と娘の年が同じなんだよ、ワッハッハ……」
実に磊落な元帥である。ホテルに着くと、彼はさっそく真珠店にいって
真珠の指輪を買って奥さんにプレゼントした。その時によろこんだ奥さ
んが、元帥の頬に熱いキッスをした瞬間は、実に美しかった。
── 「これからのご予定は……」「来年からは、ときどき指揮台に立
てばよいから、気は楽です。自伝を書いたりエッセイを書いたり、まだ
五、六年は仕事をしますよ、書くことは好きですからね……」彼は、こ
れから本腰を入れて著述にとりかかるという。まったくゲーテのような
若い若い元帥である。
── (レコード芸術・1968・8月号)
 
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 こちらは気鋭の旗手、国際市場に通用する
パスポートの持主、その発言。
 
 岩城 宏之  外国で仕事をしているといろいろな国で実にたくさんの
作曲家の訪問を受けます。ハッキリいうと新作旧作の売込みですが、世
界的に名の通ったかなりの大家にも、あらゆるチャンスをとらえて自作
を演奏させたいという執念が見られ、辟易させられる反面、頭の下る思
いです。 − ところが日本では、私の知る限りでも、創作とは放送局の
委嘱に応える時だけのようですし、まして初演後については少々淡白す
ぎる気がします。こちらから全作曲家のところに押しかける意気込みで
すが、新人の方が遠慮なく自作を持って来て下されば大へんうれしく存
じます。
── (週刊新潮・1969・2月22日号・掲示板)
 
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 その世代意識と使命感、昨年11月1日《外山 雄三と語る会》の録音から
 
 京響の演奏水準があがった あがったといっては京響に失礼だといけ
ないから(笑)変ったからね 初めてできるようになった曲もあるし今
迄の京響の指揮者たちが偶然避けて通っておられて しかも所謂インタ
ーナショナルなスタンダードなオーケストラとしては当然やっておかな
きゃならない曲で 全く手をつけていないものもあったわけです
 これお聞きになるときっとびっくりされるようなものもあったんです
 モーツアルトの39番なんて僕が初めて演ったが“モーツアルト・オー
ケストラ”なんていってやがって何だって(笑)あのとき僕は思った 
スタンダードなオケのレパートリーで今迄手がけたことのない曲は僕が
意識的に 僕が居る間にできるだけ一度は演奏しておいて貰う 一度演
っておくと全然ちがいますからね その時うまくいかなくても 僕が演
らなくても誰かが引受けなきゃならない 僕たちの世代ってのは否でも
応でもそういうことを引受けなければならない そういう世代に属して
いると思う 京響と僕の関係だけでなくても だから僕はできるだけの
ことはしておこうという風に思ってる
── (於・十字屋ミュージック・サロン)
 
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 レコード・ラジオ・テレビの三代、そして
音楽を渡す人・聴く人・聴かせる人。
 
 クルト・リース《レコードの文化史》
 
 1929年の初め、レコード業界には楽観論がみなぎり、この楽観論は完
全に裏書きされたかにみえた。RCAはヴィクター・カンパニーをジョ
ンソンの売却先の銀行から買いとり、ジョンソンは、しばらくまえから
の懸念があたって、かれの生涯をかけた事業が不倶戴天の敵ラジオ事業
の手に渡っていくのを見た。
 あのように心をこめて築きあげたキャムデン工場が蓄音機にかわって
ラジオを製作するのを、ジョンソンは苦々しく、いや、憤激しながら見
ていなければならなかった。めったに口を開かなかったかれがここにい
たって「断じて売るべきではなかった…」と語るのであった。……たし
かに、ラジオの勢いをとめることはできなかった。アメリカで、1922年
に6000ドルだったラジオの売上げが、4年後の1926年には5億 600ドル
になり、1929年には8億4254800ドルにふえた。つまり、7年間に売上げ
が1400%増加したのである。
 しかし、このかんに、ラジオがレコードの(死)を意味しないという
こともわかった。人々はこれかあれかではなくて、これもあれも楽しみ
たいと望んだのである。
── Riess,Curt/佐藤 牧夫・訳《レコードの文化史 19690110 音楽之友社》P309,312
 
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 串田 孫一《音楽とのめぐりあい》
 
 たとえば、その数は多いか少いかわからないが、音楽に関して大変に
詳しい人である。その詳しさは、音楽の専門家、つまり演奏者ではなし
に、音楽研究家たちが、どんな質問をしても、即座にどんどんと答えら
れるのではないかと思うほどに、知識をたくさん持っている。こういう
知識を仕入れるのには本もたくさんあるし、番組をきちんと見て音楽の
放送をきいているだけで十分である。……
 若い人たちと言ってもさまざまの性格の人がいて、ほかの勉強をしな
がら、楽器を携えて、専門家に肉迫して行く人もいるし、自己流に、音
を出して、楽しんでいる人もいる。またレコードや、再生装置に詳しく、
その方にお金をそそぎ込んで熱中している人の数も多い……ところが、
もうひとつ別の音楽好きのことを忘れてはならない。この人たちは、レ
コードも持たず、特に再生装置をほしがることもない。FMを受信でき
る小型のラジオぐらいで、放送される音楽をたっぷりきいているが、あ
まりしゃべらないのでわからない。ところが意外にこういう人の中にそ
の受け取り方は素朴だと言われるかも知れないが、静かな感動をひそか
に喜びつつ、音楽をきいている人がある。
── (FM fan 1968・1・1 )
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 串田孫一氏の対談《音楽と人生》は、もともと与太郎の公開インタビ
ューとして企画されていた。そのことを主催者の田中義雄が小石忠男氏
との会食中に雑談のつもりで切りだしたところ、小石氏はてっきり自分
のための企画と思いこんで、内ポケットから手帳を取出してしまったの
で、同席者一同、顔を見合わせながら変更することになった。
 
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 団 伊玖麿・丹羽 正明《音楽家よ自信をもって》
 
丹羽 その“題名のない音楽会”じゃなくてテレビで“ポップス・コン
サート”をしているけど、どんなつもりで始めたのですか。
団 僕は大変オーケストラが好きでしてね。ところがテレビからだんだ
んクラシックのオーケストラ番組は減っていく。テレビを、僕は長い間
懐疑的に見ていたが、現実を見ると、やはり今は大きな影響力を持って
いる。これを見のがして、だんだんオーケストラの番組がなくなるのは
残念だ。そこで読売交響楽団とかたらって、なんとかして番組を持ちた
い。テレビでもいいものを残していきたいということで、ポップスとい
うのは僕はきらいだが、またやってるのはポップスとは思わないが、ま
あ親しめる曲も入れて演奏をよくして、オーケストラ番組を残そう──
残そうという消極的な態度でなく──これをもととして発展させたいと
思ったわけです……作曲の仕事と直接には関係ないようだが、演奏とい
う面で分野がどんどん広がることが、ひいては大衆ともっと近よった形
で存在していけるんではないか、生まれてくるんではないか、と思うも
んだから、大変一生懸命やっています(笑い)。そしてなるべくポピュ
ラーのものの中に日本人のまじめな作品、過去から受け継いできた遺産
もありますよね、滝廉太郎とか山田耕筰、信時 潔……それから現在の
作曲家では 小倉朗、高田三郎もいますし、自作も含めてくり返して耳
に親しいものにしていく。
── (FM fan 1968・1・1 )
 
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 楽譜、その発見、初演、そして探求。
 
 J.M.コレドール《カザルスとの対話》
 
 ある日──そのとき私は13才だったが──偶然に一軒の店でバッハの
《六つの無伴奏組曲》をみつけた……私はそのときまで、だれ からも
この曲の話を聞かなかったし──私も、私の先生も──それがあること
すら知らなかった……それから夢中になってこの組曲を勉強しはじめた
が……公衆の面前で演奏してもよいという気になるまでには、それから
12年も研究をつづけなければならなかったのだ。私より以前には、ヴァ
イオリニストもセリストも、この大家中の大家であるバッハの組曲やソ
ナタを完全な形でひいたものはなかった。演奏家たちは普通、サラバン
ドとかガヴォットとかアルマンドとか、その一部分しか演奏しなかった
のだ。私の考えは、この作品を少しも省略しないで演奏することだった。
すなわちプレリュードと五つの舞曲──それぞれその時代の舞踊の名を
もつすぐれた作品──その全部を、繰り返しもともに、各部の緊密な連
絡や、内的な統一をあらわすように演奏したい、ということだった。
── (佐藤良雄訳・白水社1967再刊)
 
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 H.ジョルダン=モランジュ《ラヴェルと私たち》
 
 私たちはすっかりまいってしまった! 二つの楽器はあんなに相異な
るものであるのに、ラヴェルはその二つの音色の間のどんな小さな裂け
目も許してはくれなかった。そこで…口論になった!──だけど、それ
ではあんまりむずかし すぎますわ、と私はやり返した。あなたはチェ
ロでフリュートを吹かせ、ヴァイオリンに太鼓をやらそうとおっしゃい
ますもの! こんなにむずかしいことを書くのはさぞ面白いでしょう!
 だけど、わずかばかりの名人にしか弾いてもらえませんわ!
──それはけっこうだね。と、かれは笑いながら答えた。それなら私は
素人にめちゃめちゃにされないですむことになるから!
 ……ラヴェルが《ソナタ》を完成するのにかかった4年のあいだ、そ
の献呈については私にひと言も話さなかった。私たちのあいだではその
初演のことしか問題にならなかった。
《二重奏》のときと同じく、かれが私にその初演をさせることにしてい
たのは、私は知っていた。しかし、私がその被献呈者であることを聞く
という喜びを知ったのは、まったくの偶然であって、ある友人がそれを
教えてくれたからであった。……その上かれは私に手書きの原稿まで贈
呈してくれた……人びとから崇拝されている芸術家が手ずから書いた譜
面をじっと見つめていると、まことに感慨深いものがある。あの筋ばっ
た手で引かれたアクセントは私たちにとってなくてはならぬものとなり、
スラーの美しい曲線はますます肉感的なものに思えた。
 私は、かれの手書きの原譜を見ながら演奏していると、いつもこの作
曲家の意図に、より忠実であるような印象を持つのであった。
── (安川加寿子・嘉乃海隆子・共訳 1968 音楽之友社)
 
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 吉田 雅夫《フルート公開レッスン》
 
 ふるい音楽では、作曲家が書かなかったけれども演奏家がやらなくて
はいけない5つの原則、テンポ・リズム・ダイナミック・スラーとスタッ
カート、そして装飾です。これらを決定することが演奏家の仕事です。
当時は作曲家がことこまやかに指示したとすれば、演奏家の権利を侵害
したことになるんです。
 たとえば8分音符の連続、これを昔はどう演ったか、均等の長さで吹
くことではなく、不均等が原則だったのです。均等に吹かせるためには
作曲家は音符の上に点を書かなければならなかった。それがいつの間に
かスタッカートに転化してしまった。だからふるい譜面をみるときには、
そのどちらを要求したのかを明確に見きわめなくてはならないんです。
 たとえば、スコットランド民謡“ゆうぞらはれて”という曲、元来は
スコッチ・スナップという特殊な地方的な色づけのあるリズムです。こ
ういうものが外国に正しく伝えられるか、日本ではそうはいかない。三
味線のリズムになってしまうんです。……ほら……(笑)
── (1969・6・8 /十字屋楽器店・主催)
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 吉田雅夫氏は《フルート公開レッスン》のあと、すぐに新幹線に乗る
ので、白昼のビヤガーデンで簡単な会食がもたれた。主催者の田中昌雄
社長に招かれて隣に坐った与太郎を、吉田氏は何か勘違いされたらしく、
レッスンの続き(バロック音楽の即興性)を語りつぐ。タクシーの窓か
ら首を出し、走り去るまで、その講義は終らなかったのである(別稿)。

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