与太郎文庫
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1957年02月24日(日) |
ハハシス 〜 升田王将の二・二四事件 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570224 ── 四月二十八日に連盟に電話を入れたが、連休前の土曜日で、理事 はだれもいないという。三十日の夜、理事で副会長である高柳敏夫君に 電話して、 「あす午前十一時、用事があって連盟に行くから、あなたも出てきても らいたい」と伝えた。 用件についてはなにもいわなかったので、まさか引退とは高柳君は思 ってもみなかったらしい。ところが翌五月一日の朝刊で、朝日新聞が 「升田、きょう引退を表明」とスッパ抜いたもんだから、朝からたいへ んな騒ぎとなった。約束の十一時に行ってみると、各紙の記者やカメラ マンがつめかけ、連盟はハチの巣を突っついたようでした(略)。 お祝いごとでもあるまいし、記者会見なんて大ゲサなことは考えても いなかったんですが、なりゆきで仕方がなかった。高柳君から発表した あと、記者の人たちに質問を浴びせられた。その中で、はっきり印象に 残ったやりとりが二つあります。 「長い棋士生活の中で、なにが一番思い出に残るか」という質問。これ はもう一も二もありはしません。私は即座に答えました。 「名人に香車を引いて勝ったこと。少年時代の夢を実現させたんですか ら」 途方もない夢なんです。名人といえば一世に隔絶した実力者で、対等 に戦って勝つのすら、容易なわざではない。それを香車を一枚落として、 ハンディをつけて勝とうという。常識のある大人がこんなこといったら、 大声で笑ってバカにされるか、気の早いやつは救急車を呼びますよ。病 院に入って頭を冷やせ、いうてね。だが私はこの途方もない夢を抱いて 家出をし、ついに夢を現実にした。いままでだれにもやれなかった、そ して今後も、まず絶対にだれにもやれないだろうことを、この手でやっ てのけた。 (略) 「升田、王将位を獲得/名人を香落ちに指し込む」 昭和二十七年二月十三日、毎日新聞の朝刊は、四段抜きでこう報じた。 第六局は、これから一週間後。その対局場となったのが、神奈川県鶴 巻温泉の旅館・陣屋なんです(略)。 対局通知がきて、第六局は昭和二十七年二月十八、九日、神奈川県鶴 巻温泉の陣屋と決まった。手合いは「香落ち」とはっきり書かれておる。 木村さんを指し込みはしたものの、本当に香落ち番を指すのかどうか、 私は半信半疑でおったんだが。 感無量でした。 「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」 母の物差しの裏にこう書き残し、無断で広島の山奥をとび出して二十 年。大阪に出て将棋指しとなり、将棋界の仕組みがわかってからは、 「名人に香車を引く」なんてことは、あり得ない、成し得ないことだと 知った。その、子供心に描いた無鉄砲な夢が、いま現実のものとして目 の前にある。 大いに得意だったけれど、素直に喜べない気持ちもあった。名人の権 威を傷つけることが、どうしても私にはひっかかった。 この第六局、指さずにすませられるなら、それにこしたことはない。 (略) これだけ叩きのめされながら、すぐ立ち直ってくるんだから、やはり 大山君はタダ者じゃありません(略)。 ── 三十二年の将棋界は、名人が大山君、王将が私、九段が塚田さん と、三つのタイトルを三人が分け合う形でスタートした。塚田さんは四 期続けて九段位を保持しており、三強鼎立の時代といっていい。そして まず九段戦で、塚田さんと私が決勝に進出、七番勝負を争うことになっ た。 第一局は、二月二十四日に東京で行われたんですが、もの覚えの悪い 私が、はっきり対局日を覚えとるのは、この日、母が死んだからなんで す。「ハハシス」の電報は、将棋が終ってから渡された。 対局中、中盤のむずかしい場面で妙に気分がふらつき、おかしな手を 指して負けてしまった。あとで聞くと、ちょうどその時刻に電報が届い たという。この日が遠くないと覚悟しとったものの、いざ現実に知らさ れると、ショックは大きかった。 みんな、口々になぐさめてくれた。その中で塚田さんは、 「ねえ升田君、人が死ぬってのは、仕方ないよ」といった。 無愛想で、口下手な塚田さんとすれば精いっぱいのなぐさめの言葉だ ったんでしょう。塚田さんにとって、私は一番の親友だったから、悪意 のあろうはずもない。だが最愛の母の死に打ちひしがれとる私は、一瞬、 キッとなった。「仕方がない」とはなにごとか、と思った。個人的に親 しいため、これまで塚田さんとの対局では、いくぶん闘志に欠けるうら みがあったんだが、この一言を聞いて、絶対に負かしてやると決心した。 ── 升田 幸三《名人に香車を引いた男 19850420 朝日文庫》P000
関根 金次郎 将棋名人13 18680423 千葉 19460312 77 /慶応 4.0401“近代将棋の父”実力名人 阪田 三吉 将棋名人* 18700701 大阪 19460723 76 /明治 3.0603/急死/籍=坂田 /19130406〜0407 香落戦 vs 関根 金二郎「銀が泣いている」 /1955‥‥ 日本将棋連盟から名人・王将を追贈 http://www.city.sakai.osaka.jp/fureai/henomatsu/nenpu.html ♀阪田 コユウ 三吉の妻 1881‥‥ 大阪 19271119 47 /三男三女の母/1913鉄道自殺未遂 /“小春”は劇中名。臨終で「お父ちゃんは将棋が命や。ど んなことがあってもアホな将棋は指しなはんなや」と云った。 升田 栄一 幸三の父 18‥‥‥ 広島 19‥‥‥ ? / 升田 カツノ 幸三の母 18‥‥‥ 広島 19570224 ? /栄一の妻 升田 静夫 幸三の長兄 19‥‥‥ 広島 19‥‥‥ ? / 升田 守夫 幸三の次兄 19‥‥‥ 広島 19‥‥‥ ? / 升田 定 幸三の末兄 19‥‥‥ 広島 19‥‥‥ ? / 塚田 正夫 将棋名人 19140802 東京 19771230 63 /日本将棋連盟会長/名誉十段 升田 幸三 将棋名人** 19180321 広島 19910405 73 /193202‥家出/初の三冠=名人王将九段 大山 康晴 将棋名人15 19230313 岡山 19920726 69 /日本将棋連盟会長
── 北条 誠・原作《王将 19‥‥‥ 》坂田 三吉の妻の臨終。 ── 伊藤 大輔・監督《王将 19481018 大映京都》坂東 妻三郎&滝沢 修 ── 伊藤 大輔・監督《王将一代 19551002 新東宝》 ── 伊藤 大輔・監督《王将 19621123 東映東京》三国 連太郎 ── 佐藤 純弥・監督《続・王将 19631201 東映東京》 ── 古沢 憲吾・監督《西の王将 東の王将 19640828 東宝》 ── 杉江 敏男・監督《続・西の王将 東の王将 19650620 東宝》 ── 堀川 弘通・監督《王将 19730519 東宝映画》 奇士列伝 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070215 九段の妻 〜 働かない男 〜 盤寿を迎えた棋士一覧 http://d.hatena.ne.jp/adlib/20050320 三寿 〜 満で傘寿・数えて盤寿・書けば半寿 〜 (20080225)
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