与太郎文庫
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1955年07月11日(月)  読後の感想を語る会 〜 芥川 竜之介 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550711
 
〜 芥川 竜之介・作《杜子春/カッパ/くもの糸》 〜
 


 語る人 司会 松浦 和郎
 
(発言順)先生 高島 春江
        古荘 雅巳
        小屋 浩子(図書室) 
        
    卒業生 内村 公義
        河原 満夫
        阿波 雅敏
 
      3C 清水 隆史
      3A 和田 和代史
      3A 松田 忠興
      3B 今村 昌義
      3B 北村 富三郎
      3C 竹内 康
      3C 今井田 豊
      3D 和沢 滋義
      2A 井上 健次
      2B 加藤 英男
      2D 山本 邦彦
 
  速記者 3D 北川 禎三
      3E 宮武 恒夫
      2C 山崎 辰己
      2E 長尾 順之

 
 ◆ 仙人になりたい!
 
司会 ではさっそくですが「杜子春」についての感想をどしどし話し合
   って下さい。
清水 僕は別にひどくうたれたということはない。杜子春と普通の人間
   とは違うと思う。普通の人なら最後に、仙人になりたいと云わな
   いで、又金持にして欲しいと云うと思います。
高島 その事をとり上げて話し合っては……。
竹内 文にも出て来る様に、二度も金持になったのでぜいたくにあきた
   のだと思います。
内村 清水君がいわれました様に、二回も金持になってこんどは仙人に
   なりたくなるのは、人間はある一つの事に満足しないで、その上
   の物を求める、自分を金持にした仙人になりたいと思ったのです。
   これは杜子春の欲望であり、一般の人間の持っている欲望でもあ
   ると思います。
高島 もう一つ上の欲望を求めたのですね。
清水 彼の父母が生きていたら、仙人になりたいという気はおこさなか
   ったと思うのです。杜子春が仙人になりたくなったのは人間が薄
   情であったからで、これは芥川の心の表われで、心から社会を批
   判している。
和田 金持になってもすぐぜいたくをするのは杜子春がしっかりしてい
   ないからです。杜子春に不足していたものを、杜子春が最後に悟
   っています。
 
 ◆ 「お母さん」と云ったこと
 
高島 作者は幸福の要素をどこにおいているかが問題ですね。仙人にな
   るということも一つの要素ですね。
和田 人間はやはり人間らしい生活をすることが一番幸福ではないでし
   ょうか。仙人になることでもなく。
司会 では作品の中心になる所について、先ず中心はどこにあると思わ
   れますか。
加藤 それは「お母さん」と呼ぶ所と思う。
和田 僕は最後に杜子春が「何になっても人間らしい生活をする」とい
   う所であると思います。
北村 僕もそう思います。
和沢 僕は中心が二つあると思います。その一つは母の愛情、もう一つ
   は幸福の要素と人間の生活。
今井田 僕は地獄の所と最後のところ。
竹内 杜子春が幸福を求めて仙人になろうとしたがなれず、最後に人間
   らしい正直な生活をするのが大切だと感じる所。
司会 他に何か中心問題について。
竹内 人間らしい生活ということは、正直な生活であるが、前の方を読
   んでも何も杜子春が不正直であったとは書いてないが……。
阿波 人間らしさは、正直の他に愛情がある。愛情にはいろいろな意味
   がある。
竹内 僕もそう思う。父母の言で仙人になろうと思う気持を改め人間ら
   しい生活をしようとするようになった。
高島 話を聞いていると母の愛情によって杜子春の心の目がさめた。杜
   子春のエゴイズム(たとえば金持になっての支配、仙人による権
   力を求める)が、「お母さん」と呼ぶクライマックスで、愛情に
   よって目醒めたのですね。
清水 人間はどたん場に来れば本当のことを云ってしまう。「お母さん」
   と云いいたければ、どうおさえてもおさえ切れない。
阿波 結局純粋になる事だと思います。
 
 ◆ 結末についての批判
 
阿波 私は杜子春が人間らしい性質にかえってからの文章(特に結末)
   に物足りないものを感じますが。
和田 「禁じられた遊び」ででも何か中途で終った様な感じでしたが、
   この物語もこの後の杜子春の生活については、作者は読者に考え
   させようとしているのではないでしょうか。
今村 あともっと続けると、この物語の中心がぼけるので後は読者の考
   えにまかせてあると思います。
高島 だから後はなくてもいいというわけね。しかも短編であるからそ
   れて目的を達したという所ね。
阿波 僕がもしこの本を書いたら最後の「桃の花のさく家を杜子春に与
   えた」という所ははぶきます。この事が意味することは人間ばな
   れのした生活をする事だと思う。それよりも杜子春をもう一度人
   間の世界にほりこんで人間の生活をさせる方がよい。それで最後
   はいらない。
竹内 僕も今の阿波君の意見に賛成です。杜子春は最後には精神的に幸
   福ではあるが、はたしてそれだけで安楽な生活ができるかどうか
   疑問だと思います。「人間らしい正直な生活をする」という所で
   切るほうが、最後をつけるよりも力強い感じがしますね。
高島 もう一度人間の世界にほりこむのね。
竹内 杜子春を再び人間の社会にもどすということは歴史の流れの中に
   もどすことだと思いますが、人間は生まれながらに歴史に属して
   いるのですから、もう一度社会にもどすことは必要なことと思う
   が、このままだと何だか空想的で現実性が乏しいと思います。
松田 人間らしさという事の一つに、愛情ということがありますが、杜
   子春がもう一度人間社会にもどって愛を広めるという結論にもっ
   ていけばよかったと思いますが……。
内村 杜子春は精神的には安楽だが、だからと云って生活そのものが安
   楽なものとは限らない。もし精神的に幸福な事が安楽な生活とい
   うことに通じるなら、この物語は物足りないと思う。再び社会に
   出て苦労をしていくところに良い所があるのではないのですか…
   …。
 
 ◆ 人間の姿は?
 
高島 愛情を持った人間の姿が人間本来の姿か、それとも薄情で利己的
   なものが本来の姿でしょうか。
北村 愛によって生きていくのが人間本来の姿で、欲望が多い人間は普
   通の人間と思う。
和沢 人間は何かの動機(きっかけ)がある迄は欲望の多いものである
   が、やはり本当の姿は「お母さん」といった心だと思います。
今村 僕も人間の本当の姿は生まれた時から持っている良心を生かした
   人間、これが人間本来の姿だと思いますが。
高島 仙人が『「お母さん」といわなかったら杜子春を殺した』と云っ
   たのは何を覗わしていますか。
和田 作者の云いたいことは利己的な考えを持っていた杜子春が、母の
   言葉で本当の人間の姿にかえるということを、強調したかったの
   ではないかと思いました。
加藤 杜子春が「お母さん」という場面は、杜子春が愛情と物質のどち
   らかをきめた場面だと思いました。
今井田 最後の方の文章は「お母さん」と呼ぶ場面を強調するために持
   ってきてある。
 
 ◆ 他の作品について
 
司会 では芥川の他の作品とか特長について。
竹内 「かっぱ」等代表作品の一つですが、杜子春とは全然違った味の
   ある作品です。
阿波 「芋がゆ」「くもの糸」等非常に興味深く読めます。
河原 杜子春も受けとり方がいくらもあって非常にむつかしい。
和田 芥川の作品一つ一つは、非常に深く社会を観察していると思う。
竹内 彼自身は自分が持っているのは神経だけだといっているが、そう
   いう所が芥川の特長となってあらわれている。
内村 芥川の初期−中期の作品にはエゴイズムをあつかったものが多い。
   羅生門・鼻・杜子春がそうである。羅生門の、生きていくために
   は人をも殺すという考え方は、現代の人にも通じると思う。
北村 芥川は社会を文章で表現している。社会の良い点も悪い点も知り
   つくしている。
高島 芥川の多くの作品が出ましたが、読書会に、自分がまだ読まない
   作品が出て、それらに興味を感じ、それを機会にその作品を読ま
   れるならば、読書会の目的は十分はたされることになります。
司会 ではこの辺でおわりたいと思います。どうもありがとうございま
   した。
 
── 《図書室便り・第七号 19550711 同志社中学校図書委員会》
 
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 仙人願望 〜 四十一年後の対話 〜
 
「僕も今の阿波君の意見に賛成です」この日はじめて口を利いた後輩の
中学生・竹内君が、東京栄転以来二十五年ぶりにNHK京都放送局長と
なって故郷に舞いもどったことを知って、電話をかけた。
「お元気ですか? 今、どうされてますか」
「ボクはね、いまや仙人になってしまった」
「でも、カスミを食ってるわけではないでしょう?」
「みんな信用しないらしいが、食ってみるとこれが中々のものなんだ」
「相変わらずだなぁ」         ( Let'199606.. 参照 )


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